第2話 冷酷な公爵と、一通の手紙
ローゼンタール伯爵家の馬車に揺られながら、私は公爵邸への道を進んでいた。
先日、王子との婚約が正式に破棄され、私の立場は「元・王太子妃候補」から、ただの伯爵令嬢に転落した。
――いや、もはや「元令嬢」と言ってもいい。父は私を遠ざけ、母も世間体を気にして私に会おうとしない。
そんな中、届いたのがあの一通の手紙だった。
「クレイグ・シュトラウス公爵……どうして、私に会いたいなどと?」
冷酷無比、非社交的で有名な人物だ。
私などに用があるなど、到底考えられない。
だが、「急ぎ来られたし」と書かれている以上、理由はどうあれ無視はできなかった。
やがて、馬車が重厚な黒い鉄門の前に到着した。
見上げると、まるで城のように荘厳な造りの邸宅。
石造りの壁と鋭い屋根、窓には防犯の鉄格子――まるで軍要塞のような気配すら感じさせる。
「ローゼンタール家のアリシア様ですね。公爵閣下が応接室でお待ちです」
無表情な執事に案内され、私は広々とした石造りの廊下を歩く。
温かさや華やかさとは程遠く、それが却ってこの屋敷の主の性格を物語っていた。
「失礼いたします」
そう声をかけてドアを開けた瞬間、そこにいた男に思わず息を呑んだ。
銀灰色の髪に、氷のような淡い青の瞳。
きっちりと軍服のように整えられた黒の服に身を包み、まるで彫刻のような整った顔立ち。
――クレイグ・シュトラウス公爵。
「座れ」
冷たく、低い声が部屋に響く。
従うように私は椅子に腰を下ろし、静かに彼の言葉を待った。
「お前が、あの夜会で婚約破棄された令嬢だな」
その言い方に、私は少しだけ眉をひそめた。
「そうです。ですが、その件と公爵様が私を呼ばれたことに、何の関係があるのでしょうか?」
クレイグ公爵は一瞬だけ口元を歪め、まるで笑ったかのような気配を見せた。だが、それは一瞬の幻にすぎなかった。
「――求婚に来た」
「……はい?」
「正式に言おう。アリシア・ローゼンタール嬢、私の妻になれ。契約でも構わん。私には貴族の立場が必要だ。お前には保護が。利害は一致しているはずだ」
あまりにも唐突な申し出に、私は完全に言葉を失った。
「ちょ、ちょっとお待ちください! なぜ、私が――いえ、どうして公爵様がそんな……!」
「興味がある。お前の冷静さにな」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「王子に冤罪で断罪されながらも、激情に流されず、言葉で一矢を報いた令嬢など初めて見た。愚かな感情に支配されず、己の立場を貫いた。……貴族に最も必要なのはそれだ」
「…………」
「私は便利な女を探していた。愛などいらん。情もいらん。ただ、共に在れるだけの合理的な相手を」
公爵の声は静かで、それでいて一切の冗談も嘘もなかった。
「もちろん、形式上の結婚だ。公に妻として振る舞ってくれればそれでいい。自由も保障する」
私は、ぎゅっとドレスの裾を握りしめた。
婚約破棄された私に、再び伸ばされた手。
それは愛ではなく、契約だった。
けれど、その冷たさが――逆に、私の心に触れたのだ。
「……その申し出、考える時間をいただけますか?」
クレイグ公爵は一瞬だけ目を細めた。
「三日やる。それ以上は待たん」
私は深く頷いた。
まさか、婚約破棄の直後に、冷酷公爵からプロポーズされるとは――誰が想像しただろうか。
だが、これは始まりにすぎなかった。
やがてこの“契約”が、本物の運命へと変わるとは、まだ誰も知らない。