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家族  作者: 眞基子
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(十三)から(二十四)

(十三)


 脇田が突然、瞭の探偵事務所を訪ねてきたのは赤木が死んで二週間位過ぎたころだった。

 「この探偵事務所の事は、石田さんから聞いていました。愛実とは大学時代の先輩だったとの事でしたね。あれから暫くして石田さんは亡くなりましたが」

 瞭はスホーツドリンクを出しながら脇田を見た。がっちりした体躯は六十六歳の今も体力を維持しているように見え、元警察官の雰囲気を纏っている。

 「勝手に調べて済みませんでした。愛実の骨が出てきた時、その骨を持ち出せるのは警察関係者じゃないかと。それで石田さんと一緒に臨場した脇田さんの事を聞いたんです」

 「流石に元警察官の観察眼ですね。すると、私が愛実の父親だということも調べたんでしょうね」

 「はい。最初に愛実の事を調べ出したのは、出版社にいる友達が海外で夢を追い掛ける女達っていう特集を組むことになり、大学の時何度か飲んだ愛実が留学したらしいと聞いたんです。そして、調べたら実際には留学してなく、行方不明になっていると分かったんです。まさか十年前に自殺しているとは思ってもいなかったんですが」

 脇田はふっと肩を落して言った。

 「私は愛実の自殺の現場に臨場して、名字からまさかと思い調べました。文が妊娠している事も、自殺していることも初めて知りました。愛実の遺骨を持って帰り、自分と愛実のDNA鑑定をしました。あの頃、私はヤクの取引所とされたバーに潜入捜査官として入りました。その時ホステスの文に出会い愛した。しかし、私には妻子がいた。でも、家も警察を捨てても文と暮らしたかったんです。別れは文から告げられ、姿も消えた。文がシングルマザーで愛実を育てているとは、愛実の自殺の後調べて知った。私は文の自殺も疑っているが、あまりに時が立ち過ぎぎた」

 脇田は下に視線を落しながら言った。瞭は脇田の様子を見て聞いた。

「このことは奥様におっしゃったのですか?」

「いや、妻は五年前に癌で亡くなりました。妻子と別れても文と暮らしたかったのは嘘ではありませんでした。ただ、最期まで妻に寄り添うことができたのは良かったと思っております」

 「骨を地中に埋めた意図は何だったんですか?あの後赤木氏は亡くなりましたが、あれは自殺を殺害と覆すことにはならないと思います。警察は赤木氏が亡くなったことで殺害でも自殺でもなく、玉虫色で決着を付けました。私は赤木氏の死因の方が気になっています。ひょっとしたら殺害されたのではないかと」

 脇田は慌てたような顔付きで言った。

 「ちょっと待って下さい。私が愛実の事で赤木氏を殺害したとでも思っていますか?」

 「いえ、私は赤木氏が自殺か殺害されたのかは不明だと考えています。脇田さんも毒殺は実に曖昧で自殺か殺害かの判定は難しいと思いませんか?」

 「確かに。自殺にしろ殺害にしろ理由と証拠が証明出来なければ、警察は玉虫色で決着を付けるしか出来ません。事件は次々と起こり、この件に執着している訳にはいきませんから。私は警察を退職後、愛実の事を調べました。文が捨てられていた滋賀の養護施設で暮らしていた事も。そこを出てからハッキリとは分かりませんでした。ただ、赤木の愛人となり、あのマンションで暮らしていた事は分かりました。文が消えた後、私は探すこともせず仕事に没頭していました。もし、文や愛実の事を探し出していたら、あんな形で愛実が死ぬ事は無かったのではと」

 脇田は少し悔しそうに俯いた。年長者で警察官の先輩に言う事ではないが、瞭は静かに言った。

 「私は短い警察官の中で色々な事件を体験し、加害者や被害者の人生を丸裸に出来るとは思えない。その人の人生の時間、そして心中を解き明かす事は無理だと思います。今、私は警察官ではありませんから事件に関して何の干渉も受けずに動くことが出来ます。私にも心の奥底にある事件の解明が私を警察官へと導いた原点です。お互い制約ない自由の中で無理しない範囲で生きる事だと思います。脇田さんには、お子さんがいらっしゃる、ひょっとすると、お孫さんも。まずは、今生きている家族の事を大切にしつつ動く事は大事だと思います。すいません、大先輩に余計な事を言いました。家族がいない私なので」

 脇田は暫く考え込んでいたが、静かに頭を下げて帰って行った。


(十四)


 その夜、瞭は久し振りに渡野のバーに行った。閉店間際で客は誰もいなかった。渡野は閉店の看板を掲げてから瞭の前にジントニックを置いた。瞭は何も言わず黙って一口飲んだ。

 「後藤の件、後輩の刑事に調べるように言ったよ。田所夫妻の殺害に後藤が絡んでいるのは確かだが、巨額の金が動いている事で黒幕を洗い出すのは難しいし。ましてや殺害現場が海外となれは、個人では調べようがないしね。紛争地帯の中東では、闇に乗じて殺害するのは容易なことだと思いますよ」

 「その件で警視庁捜査一課が歌舞伎町で調べ回っているらしいとの話を聞きました。ただ、歌舞伎町ですからね。難しい捜査らしいですよ。下手に関わって自分に火の粉が掛からないかと思っている人も結構いますからね。私は後藤が何かしら保険を掛けていたのではないかと思っていますよ。いざ捕まった時の保険を。後藤はチョロとして歌舞伎町辺りの細やかな揉め事に入り込んで小銭を強請るくらいの小者です。捕まっても殆ど不起訴で済んでいたんです。こずるいチョロが、騙された時の為に手を打っていたとしても不思議ではないと思いますよ。いくら巨額の金額が渡されても二人を殺害するということは、捕まれば死刑確定が濃厚ですからね。殺人教唆で強引に頼まれて仕方なくとなれば罪の減刑も可能性があります。その時の保険。中東は本人が望んだことか、あるいは連れていかれたのか。ひょっとすると後藤を入国させて、すぐに殺害したのかもしれません。遺体を紛争国に放り込めば、戦争に巻き込まれたと思われたのかもしれません。早くに後藤の身元が判明したのは、警察に指紋が登録されていたからでしょう。少し考えればヤバい仕事だと思うのですがね。後藤は偽造パスポートを持っていたんですから、そこらへんが緩い、金で何とかなる国で優雅な生活を送るつもりだっかも知れません」

 瞭はもう一口ジントニックを飲んで考え込んだ。

 「もし、後藤が保険を掛けたとすればどんなことだろう。金を貰った大物Xには絶対ばれない保険。本人は海外に逃げるつもりだったから、国内に隠して置ける保険。信頼出来る誰かに頼んでおくとか」 

 「そうですね。難しいですよ。間違ってもホステスには頼みませんね、口が軽そうですから。以前、瞭さんから臣さんが紙切れを喫茶店の紙幣に挟まれていた話を聞きましたよね。あれは第三者が訳も分からず保管していたんでしたよね。そういう要領で第三者に預けていたとは」

 「ええ、あの紙切れは確かに僕の手元で持っています。でも、あれは偶々喫茶店の亭主が保管してくれていましたけど、どう見ても小さく汚れた紙切れでしたから、捨てられていたとしても不思議ではありませんでした」

 瞭は、そう言いながら同じような方法があるかも知れないと考えていた。後藤と関係のない第三者に渡していた何か。渡野も考え込んでいるようで、お互い黙っていた。静かな時間を破るように、渡野が声を上げた。

 「保険。それこそ保険はどうでしょう?」

 「保険と言っても後藤は死んでいるんですよ。後藤の死亡保険の受取人ってことですか?受取人が後藤殺害に関して大物Xを訴えるとか。後藤殺害は海外ですから。大物Xには関係ないでしょう?」

 「密かに死亡保険を大物Xに掛けるんですよ、自分を受取人として」

 瞭は、余りにも予想外の事に一瞬言葉を詰まらせた。

 「しかし、受取人が亡くなったらどうなるんでしょう。それより遺書はどうでしょう。自分が死んだ後で開封して貰うとか。それには、大物Xに指示されて田所夫妻を殺害した。プラス、それを証明する物も同封する。後藤自身、ヤバい仕事だと感じていたけれど、億単位の現金に目が眩んだ。もし自分が死んだら大物Xも道連れにするとか」

 「そうですよね。後藤は巨額の金を積まれて田所夫妻を殺害した、二度と日本に戻ることは考えていなかったはずです。むしろ、自分の身が危険だと思っていた。確かに自分の身に何かあったら、一緒に心中する事になると脅しを掛けていた。それこそが自分の命に掛ける保険」

 瞭と渡野は暫く後藤が掛けた保険について考えていたが、これといった事も思い浮かばず、お互い冷静になって考えようということになり、瞭は渡野の店を出た。


(十五)


 翌日から瞭は事務所いても、渡野が言った後藤の保険について頭から離れなかった。仁が一度だけ渡野に言った闇のフィクサーが、瞭の中で大物Xという人物になっていた。だが、具体的に名前が割れたわけではない。茫洋とした世界に不透明でいて存在感がある人物。すべての事柄に於いて権力を及ぼす人物。それこそ政界にも警察内部にも。大物Xを闇から引き摺り下ろさなければ。その時、瞭は一番大事な事が抜けていたと思い至った。そう、大物Xが億単位の報償金を出してでも田所夫妻を消さなくてはならない理由。たかが美波は戈木党のパート事務員。大物Xとの接点があったとは思えない。何かあったとすれば、大物Xと赤木の間の秘密に意図せず美波が触れてしまったのか。もし、そうならば田所夫妻を殺害してでも隠したい事。瞭はこの事を、すぐにでも渡野に聞いて欲しかった。渡野は昼過ぎの時間でも、ワンコールで電話に出てくれた。

 「私も迂闊でした。二人を殺害した後藤についての足跡に神経がいってしまい、肝心な殺害の動機を飛ばしてしまいました。動機が分からなくては。殺害の動機を解明することで後藤の保険も具体的になるかも知れませんね。億単位の金を出しても隠したい理由。そして後藤が、その秘密に気付いたとしたら保険の内容も自ずとハッキリすると思います。不思議なのは火消のやっちゃんと呼ばれていた後藤に億単位の仕事を任せる理由です」

 渡野は電話越しに溜息を付いた。瞭も一瞬言葉に詰まったが話出した。

 「例えば、依頼主は当然お金を渡した後、殺害することは織り込み済み。だがヤクザに依頼すれば殺害は簡単に処理するだろうが、その後組からの恐喝は永遠に続くかもしれない。その点、後藤みたいにチョロチョロしていた者が消えても周りは無関心だろう。万が一、後藤が二人の殺害現場に物証を残しても、被疑者死亡で送検されるだろうし」

 「と、いう事は後藤が自分が消される事も想定して保険を掛けたと。いくら何でも、そんな危ない橋を渡ってまで引き受けるでしょう?」

 「後は、後藤を丸裸にするしかありません。自分の命より大切な人。もし、そういう人がいたならば、保険はその人の近くにある可能性があります。私は暫く後藤について調べてみます」

 瞭は渡野との電話を切ると、耕史に電話した。

 「よう、久し振りだな。何だ俺に会いたくなったとか」

 「勿論だ。今晩忙しいか?」

 「まあ、赤木の一件で何となく中途半端になったからね。今俺は待機かな、下らない事件には関わらないんだよ、別格記者だからな」

 「成程、つまり干されているってことか。じぁ、いつものように寿司とツマミを持って来てくれ。飲み物は用意するからな」

 「飲み物が余っているって事は、相変わらず暇なんだな」

 瞭は耕史との電話の後で、久し振りに「止り木」へ昼食を食べに行った。店は相変わらず閑散としていた。これで店がやっていけるのか少々心配になった。

 「いらっしゃいませ」

 鏑木はいつものように柔和な顔で出迎えてくれた。瞭はカウンターの所に腰を下ろした。

 「いつものミックスサンドとコーヒーのブラックを。なかなか野暮用でゆっくり出来なくてね。この前来たのは、祖父が残したメモを貰った時でしたね。今でも意味が分かりませんがね」

 鏑木はカウンターにミックスサンドとコーヒーを置くと当時を思い出そう首を捻った。

 「そうですねぇ、私も気にしていませんでしたから。もっと大切にしまって置けば良かったんですけどね」

 「そんなことはありませんよ、どう見ても紙屑としか思えませんし、大切に保管して頂いただけでも有難たかったですよ。意味は兎も角、亡くなった祖父に触れたような気持ちでしたから」

 鏑木は少し思いに耽るように言葉をつぐんだ。

 「ふっと思い出したんですが。いや大した事じゃありません。あの時万札を何枚か頂いたんですけど一番上の万札を見て息子だって呟いたんです。その時は何も思わず、そう呟いた事も忘れていました」

 瞭自身も意味が分からなかったが、祖父は万札に何らかの意図を感じて息子と言ったのか。その息子は無念に殺された息子の事か、別の意味を考えていたのか。今、意味が分からなくても、どこかで結びつく可能性があると瞭は考えた。

 

(十六)


 その夜、瞭は耕史に脇田が訪ねてきて愛実の過去について判明した事を話した。そして、脇田が赤木の死に関与した事実にないと。田所夫妻殺害の犯人と見なされる後藤安治が中東の紛争地で殺害された件で、後藤が億単位の現金で田所夫妻の殺害を受けたと思われ、瞭は後輩の野口に殺害を依頼した人物を探すように言った。耕史は暫く考えていた。

 「と、いうことは後藤が田所夫妻殺害の犯人と決定づけられたのか。何か証拠でも出たとか」

 「いや、あくまでも傍証だが、例え田所夫妻の殺害現場から物証が出て、それが後藤と結びついても被疑者死亡で送検されるだろうな。でも後藤が億単位の現金で田所夫妻の殺害を受けたとしたら、当然ヤバい仕事だと思うはずだ。自分に何かあったときの保険を掛けるのではないだろうか?」

 耕史には祖父のエス渡野の事は秘密にしているので、あくまでも自分の考えとして言った。

 「そうだな、どう考えてもチンピラにもなれなかった後藤に田所夫妻の殺害を頼むのは、捨て駒以外の何ものでもない。それだけに依頼した人物に辿り着くのは至難の業だな」

 「ただ、ヤバい仕事を受けるのには、それなりの理由があると思う。自分の命と引き換えにしてもいいくらいの。それを解明するには後藤安治を徹底的に調べる。そして、最終的に金を出した人間に辿り着き、殺人教唆で白日の元に晒し逮捕する」

 瞭は個人的な思いも加味している。耕史も瞭の殺害された父親に対する気持ちは十分分かっている。

 「そうだな。後藤安治の産まれてからの過去を遡って調べるよ」

 瞭は頷いた。

 「俺は何故、田所夫妻がターゲットになったか。殺害の動機を探ってみる。そこには赤木が関わっているような気がする。本人が死んでいるので難しい部分もあるが、パートの主婦が大それた事に引きづり込まれた可能性もある。後、後藤安治の過去の犯罪に関与した人物。殆ど不起訴になった微罪だが、その中に接点があるかも知れない。これは志桜里に頼もう、誰にも知られず慎重にと付け加えて。調書をチエックするだけだから安全だと思うけど。警察が関与していなければな」

 「何だ、お前警察内部も疑っているのか?」

 瞭は仁から最期に言われた「気を付けろ。誰も信じるんじゃない」という言葉には警察も政界も含まれていると思っている。

 「ああ、警察官の仕事は疑う事から始めるからな。俺も警察官だった頃は、まず疑い、それから本人を丸裸にする。最終的には事件発生時のアリバイの確認をする。探偵も相談の内容の信憑性をチェックする事からだから同じかもな。田所夫妻がというより、美波が戈木事務所で何らかの事案を無意識に知ってしまったか。その場合、出所は赤木だと思うが殺人にまで行き付くには、単に事務所内の事では無い気がする。幾ら極小政党の事務所でも他の者達も働いている。ひょっとすると、田所和彦が一番最初に俺の事務所に来た時、美波の浮気調査を依頼しようとした。でも考え直すと言ってから来なくなった。和彦が疑っていた美波の浮気が本当で相手が赤木だったら、美波がヤバい事を知ってしまった可能性はある。その時、以前志桜里が夜遅く黒い高級車からふらふらしながら降りた女性に声を掛け、名刺を渡した女性が殺害された美波だと言った。その高級車に乗っていたのが果たして赤木か大物Xか。そもそも美波の浮気相手は赤木ではなく大物Xだったら殺される程の秘密を知るかも知れない」

 瞭は、自分で言いながら確信に近づいてと感じたが、今は机上の空論でしかない。

 その夜、耕史は珍しく泊まらずに帰って行った。

 次の日、瞭は志桜里に後藤安治の前科に付いて調べて欲しいと頼んだ、内密にの一言を付けて。それこそ警察内部に関係者がいた場合、志桜里が目を付けられるかも知れない。戈木党は党首が死亡して党が解散していた。瞭は、以前戈木党で働いていた人物を探し出し話を聞いた。戈木党の立ち上げに関わった古賀慎平六十一歳。過去に他の党で事務長をやった経験を買われ、赤木に頼まれて結党に参加した人だ。昼過ぎ古賀とは新宿のシティホテルKのロビーで待ち合わせた。人目のある場所の方が却って目立ちにくい。それでも話の内容が込み入った場合を考えて、瞭は部屋を借り、室内に入ると改めて自己紹介をし、名刺を渡した。古賀は名刺を眺めてから挨拶をした。

 「私は無職になりましたので名刺がありません。椎名さんは探偵さんなんですね」

 古賀は少し苦笑しながら言った。

 「まさか、赤木さんが亡くなるなんて思いも知れませんでしたから」

 「赤木さんの死に関して前兆みたいな感じはありませんでしたか?言葉の端々にそれらしきことがあったとか」

 瞭は赤木が何かしらの予兆を感じていたのではないかと、自殺にしろ殺されるかにしろ。古賀は下を向いて考えてから言った。

 「私は赤木さんに頼まれて戈木党の立ち上げを手伝いました。ただ、最初から赤木さんが本気で党を立ち上げたいのか疑問もありました。政党を立ち上げる事は簡単ではありません。一番大事な戈木党が訴えるべき政策の論点がハッキリしないことです。上物の事務所や人員についても金は出すけど後は頼むみたいな。当分の間、選挙が行われないこともありましたが、本来なら立候補予定者を絞り込み、更に候補者を決定したら、地元にいるそれなりの人物に応援を頼む等の根回は大切ですし、時間もかかります。でも、赤木さんは選挙まで時間があるので、じっくり考えようと言うばかりでした。その内、私自身も給料が貰えるならと熱意が冷めてしまいました」

 瞭も内心、戈木党は何かの隠れ蓑だったのでは考えていた。大金を叩いて迄何のための隠れ蓑。瞭は一番聞きたかった事を訪ねた。

 「事務員に田所美波がいましたよね?」

 「ええ」

 古賀は辛そうに頷いた。

 「田所さんは入った時から一生懸命仕事をしていました。朝一番に来て、事務所の掃除までして下さいました」

 「事務員は田所美波さん以外に何人いらしたんですか?」

 「一人です。事務所の立ち上げが二年前。先程言いましたが候補者擁立の話も無く、これといった事務仕事が本格化していなかったのです。それでも私は議員の不祥事など急に選挙が公示された時の事を考え、先程申し上げた地元の有力者に顔繋ぎで動いていました。事務所を空にするわけにもいかず、田所さんには電話番みたいな仕事を頼んでいました。それでも明るく、家で一人でいるよりいいわって笑顔で言っていました。たまに、銀行マンのご主人が残業で遅くなる時、一緒に夕食を共にすることもありました」

 「結構頻繫にですか?」

 「嫌だなぁ、田所さんと変な関係を疑っているんですか?娘と同じ歳なんで、つい親心です。私は妻と娘一家と住んでいますし、妻が事務所に昼飯を差し入れてくれた時、田所さんは妻と何度も会っていますし。妻も田所さんが殺害されたと聞いた時、ショックで寝込んでしまいましたよ」

 瞭は考え込んだ。案外、女同士の方が悩みなんかも相談しやすい。

 「お願いですが、奥様とお会いすることはできますか?実は私は元刑事で、探偵事務所に田所さんのご主人が相談にいらした事があり、私もご夫妻の殺害はショックであり、犯人を曝き出したいと思っています。どんな些細な情報でもあればと」

 古賀は少し考える様子を示した。

 「そうですか。椎名さんは元刑事さんですか。妻が何か知ってるか分かりませんが、意気投合してランチなんか行ってました。手掛かりになるような事があるか分かりませんが、妻は喜んで協力すると思います。椎名さんから妻の携帯に電話があると伝えておきます」

 そう言うと、古賀は妻みどりの携帯番号を瞭に伝えた。

 「奥様に確認しなくて私に携帯番号を伝えてよろしいんですか?」

 「私は妻に何でも話しています。勿論、選挙に関しては妻といえ話せない事もありますが、個人的な事は話しています。勿論、今日椎名さんと、お会いする事も知ってます。私が信頼する人は妻も信頼すると信じています」

 瞭は頷いた。瞭の中に一瞬、志桜里の顔が浮かんだ。


(十七)


 瞭は古賀と話し終えて、いよいよ本丸に近づいてきた予感がした。戈木党はダミー政党だと確信した。ダミー政党を作る意味。例えダミー政党でも、政党として堂々と政界に入り込める、その目的は他の政党の動向を探ること。そして、その情報を大物Xにリークすること。大物Xと例えばR政党が一体化していれば、日本の政治家達を動かせる力を得る。それはそのまま日本が外国に及ぼす力が水面下で行われる。大物Xの名前を割り出さなければならない。それには?瞭はベッドに身を投げ出して考えた。まずは、一つのピース。先程聞いた古賀さんの奥さん。美波と仲が良ければ、悩みなども聞いているかも知れない。瞭は早速古賀から聞いた奥さんのみどりの携帯に電話した。コール一回で電話に出た。

 「椎名と申します。古賀みどりさんの携帯で間違いないですか?」

 みどりは、快活な声で答えた。

 「はい、古賀みどりです。夫から話は聞いております」

 「申し訳ないのですが美波さんの事について、お話を伺いたいのですが、ご都合はいつがよろしいですか?」 

 「今日、主人と新宿のシティホテルKで話していましたよね。私もこれからホテルに伺います。余り知られたくないとの事でしたので、お部屋に伺います。部屋番号は主人から聞いております。主人も一緒にと言いましたが、個人的な話になるかもしれないから、私一人で行くようにと。主人とは後で、銀座でリッチな夕食を食べようと決めてます。今、出先なので一旦帰ってから三時間後でよろしいですか?」

 瞭は三時間後に来るみどりに対して少し緊張していた。古賀さんが了承していても、部屋で二人きりではと考え志桜里に電話した。三時間あれば、志桜里も仕事が終わり新宿のホテルまで来られるだろう。

 「今、話せるか?」

 「ええ、今日は代休だし。例の後藤の件、調べたから後で連絡しようと思ってたの」

 「それは丁度いい。これからシティホテルKの五〇七号室に来てくれ」

 「ホテル?」

 「ああ、ツインだけど、ダブルがいいか?」

 瞭は簡単に古賀夫婦の話をした。

 「なるほどね。誰かに聞かれたらまずいわよね」

 「でも、今日は部屋を取ってるから泊まれるぞ」

 志桜里は何も言わずに電話を切った。瞭は内心少しだけ期待していた。でも、今は大物Xに対峙する事に集中しなくてはならない。一時間で志桜里は部屋に来た。まずは、みどりさんから話を聞く事を優先する。まだ、二時間近くあるが部屋を空ける訳にはいかない。

 「そうだ、古賀さんと昼に会う約束をしていたから、昼飯を食いそこなった。志桜里は?」

 「私はしっかり食べて来たわよ」

 「そうか、じぁルームサービスでも頼むか。志桜里は何かいるか?」

 瞭はメニューを志桜里に渡した。

 「そうね、まだ時間があるからモンブランと珈琲を」

 瞭が部屋の電話で注文を終えると、耕史から瞭の携帯にメールきた。瞭は返信を返すと志桜里に言った。

 「明日の夜、事務所に行くと連絡してきた。今、志桜里とホテルにいるけど、三人で寝るのはキツイからなって返信しといたよ」

 いつもの志桜里なら怒鳴りそうだけど、ゆっくり笑って言った。

 「そうね。瞭君一人なら、ゆったり眠れるんじゃない」

 瞭は急に志桜里をベッドに押し倒した。志桜里は一瞬驚いたように目を見開いた。瞭はすぐに起き上がり、志桜里の手を掴んで起き上がらせた。

 「なあ、志桜里は警察官だから落ち着いているけど、もし美波さんが急に襲われたらどうだろう。相手から逃げられるかな」

 志桜里は息を整えてから言った。

 「もう、驚かさないでよ」

 「俺だったら抱かれたいと思ったか?」

 「私が今思っているのは、瞭君を婦女暴行罪で訴えようかと。で、何を考えているの」

 「以前、志桜里が美波さんが黒い高級車から降りて、ふらついて歩いていたと言っただろう。その時、それこそ暴行された後だったら。夫に言って訴えるか、それとも男に復讐するか。これから会う古賀さんの奥さん、みどりさんとは仲が良かったらしいから、美波さんの性格も少し分かるかも知れない」

 それからルームサービスが来て、瞭はハンバーグセットに集中して食べ始めた。一方、志桜里は、さっき瞭にベッドへ押し倒された時の感覚が自分の中で不快じゃなかった事に戸惑っていた。

 みどりは暫くして来た。折角来てもらったのだから珈琲でも頼もうと思ったが、笑いながらすぐに却下された。

 「多分この後、豪華な食事が待っているはずだから」

 瞭は真剣な表情で会話を進めた。

 「古賀さんに、お聞きしたんですが美波さんとは仲が良かったとか。何か相談を受けた事がありますか?例えば愚痴とか」

 みどりの顔が一瞬曇った。

 「最初の頃は、それこそ暇過ぎて、お給料を貰っていいのかって。私は暇でお金が貰えるんだからいいじゃない。何だったら昼寝でもしてたらって笑っていたんですが、ある日、もう会えないって電話を掛けてきたんです。私は驚いて何かあったのって聞いたら、あの男を絶対に許さないって。私がハッとして赤木?って言ったら禾。そう言った途端電話が切れました。それから慌てて電話を掛け直したけど繋がりませんでした。夫に言いましたけど、それから事務所にも来なくなったと言ってました」

 瞭は興奮していた。今まで大物Xとしか言えなかったが、その正体が禾であることが証明されたかも知れない。美波が禾を絶対に許さないと言ったということは、復讐を考えていてもおかしくない。多分、禾にレイプされたのは、志桜里が話しかけた夜だろう。それから殺害されるまで二か月近く時間がある。その間、美波は禾に復讐を仕掛けていた可能性がある。それが、どんな形の復讐なのか、結局禾に見破られ殺害された。もし、夫の和彦に話して二人で復讐を企てたとすれば、和彦の殺害の理由もそこにある可能性もある。先ずは禾の人定だ。

 「あの夜、美波さんの様子は確かにおかしかったわ。私がもっと話を聞いてあげていれば、それこそ婦女暴行罪で検挙出来たかもしれない。禾の事は私が調べてみるわ。警察内部の方が調べやすいかも知れない」

 一緒に聞いていた志桜里は、やや悔しそうに言い出した。

 「落ち着けよ。確かに志桜里が美波さんに会った時、レイプされた後だったかもしれない。でも、本人が訴えた訳でもないし、証拠もない。強引に警察へ連れて行く訳にはいかないだろう。それに警察内部が安全だとは言い切れない。志桜里に後藤の調書を頼んだ時も内密にって言っただろう。いいか絶対、禾の事には手を出すな」

 瞭は仁が闇のフィクサーと言っていたのは、多分禾の事だと気付いていた思う。だが、仁は禾の闇の深さにも気付いた。仁が死ぬ間際、瞭に言った「気を付けろ。誰も信じるんじゃない」の中には、政治家そして警察なども関わっている事に感づいたのだろう。仁は公安だったゆえ、裏を知ったのかもしれない。仁は自分が尾行されている事も。瞭は思い出した。尾行されていた事を承知で喫茶店「止まり木」に寄り、小さなメモを挟んだ万札を渡し、息子と呟いた意味。あのメモの数字をハッキリさせないといけない、警察の科捜研以外の伝手で。


(十八)


 次の夜、耕史はお土産に宇都宮餃子を買ってきた。今日は志桜里が刺身や手作りサラダなどを用意していた。耕史は部屋に入るなり、志桜里の顔をまじまじと見た。

 「おお、いよいよ新妻らしくなってきたな」

 志桜里は耕史を睨み付けた。

 「耕史、それ以上言うと志桜里に逮捕されるぞ。そうだな、名誉毀損辺りで」

 瞭はテーブルにいつものビールやペットボトルの飲料水を並べた。

 「ビールを飲む前に後藤の全てを聞きたい。それに、こっちにも重大な情報がある」

 耕史は頷くとバックから大き目の手帳を広げた。

 「聞いたら驚くぞ。奴は歌舞伎町界隈で火消のやっちゃんと呼ばれ、チンピラにもなれなかった捨て駒だっただろう。それは後藤には自由に動き回る時間が必要だったから、敢えてヤクザから距離を置いて、へいこらと調子よく小銭を稼いでいたんだ。後藤は二歳の時、栃木の児童養護施設に置いていかれたんだ。中学まで、そこにいたんだが、手の付けられない悪ガキだった。だが、中学を卒業して施設を出る時、施設の女性事務員が秘密だけどと言って、陰で後藤に実は妹がいたと教えてくれた。その時、妹は生後間もない乳児で間もなく乳児院に預けられた。親が後藤の名前も言わなかったので施設で付けられたらしい。勿論、妹の名前も分からないし、どこの乳児院かも分からない。後藤は東京に出て乳児院について色々調べていたらしい。そして十年以上経って、ついに結婚して埼玉県に住んでいるのが分かり、お互いDNAでハッキリしたまでは良かったが、妹が拡張型心筋症で完治するには心臓移植しかない。後藤が田所夫婦の殺害を引き受けたのは、億単位の現金が欲しかったのではないか。勿論、妹は兄の殺人事件について知らないし、海外で殺害されている事も知らない。今、妹夫婦はアメリカで合致した心臓が出ることを期待して、アメリカに渡っている。無理だろうけど俺は出来れば田所夫婦の殺害事件に後藤が関係なければ思ってしまったよ」

 耕史は話し終えて疲れた表情を見せた。瞭も志桜里も押し黙った。どう考えても田所夫婦の殺害は後藤ではないかと。珍しく志桜里が口火を切った。

 「まだ、後藤が犯人だという証拠は出ていないよね。現時点で後藤は海外で殺された被害者だし」

 「でも、億単位の金が簡単に得られる訳ないだろう。やっと出会えた妹の命を救う為なら後藤は自分の命を捨てられるだろうな」

 瞭は後藤の人生を知り、チョロチョロ動き回っていたやっちゃんのイメージが引っくり返った気がした。

 「前に保険の事を考えたことがあるんだ」

 「保険って?」

 志桜里が瞭を見ながら聞いてきた。

 「後藤は自分が消される事も想定して保険を掛けたんじゃないかと。例えばヤバイと分かっている仕事だから、それを頼んできた者に関しての秘密。そして、それを第三者に預ける。後藤の妹の話を聞いて、自分が死んだ後、禾が妹に手出しをしないような保険」

 耕史は考えながら頷いた。

 「殺人の件は兎も角、俺も後藤なら絶対妹を守ると思う。今、妹夫婦はアメリカで合致した心臓が出ることを期待してアメリカに渡っている。俺、アメリカに行って妹夫婦と会ってくるよ。何か後藤の為にしてあげたくなったから。それこそ禾の秘密を妹夫婦が預かっているかどうか。これは、国際電話でも話せないからな」

 「俺も田所夫婦の殺害について詳しく調べてみるよ。美波をレイプした禾に二人で復讐をしたとしたら、どんな事だろう。二人が殺害されるまで二か月位はある。大物である禾に簡単に近づけないだろう、当然取り巻き連中もいるだろうし。美波は赤木なら連絡が取れるだろう。それこそ禾に美波を紹介し、意図的に二人だけにし、レイプさせたお膳立てをした。そうならば復讐の相手は禾だけでなく、まずは赤木も。赤木の死因は薬物摂取となっている。美波が巧妙に赤木の飲料、例えば大切にしているウイスキーのビンに薬物を仕込むことが出来たら田所夫婦が亡くなった後でも、赤木を殺害できる」

 瞭は腕を組んで考えた。

 「そうだ志桜里、後藤の過去の犯罪に関与した人物で怪しげな者はいなかったか?」

 志桜里は一応メモを広げた。

 「何しろ全部不起訴になった事件で、お互い飲んでいる時の小競り合いや金を盗んだとか、しかも千円位で揉めたり。相手も居酒屋で会ったサラリーマンが多く、相手も示談にしたがったらしい。一つ気になったのはバリっとした男で後藤が他の若い男と小銭で揉めそうになった時、仲裁に入り五万円を出して諫め立ち去った。勿論、この男の名前は調書に無いわ」

 そうか。ひょっとすると名無しの男は、後藤に目を付けた可能性もある、殺人犯の汚名をきせる捨て駒として。

 「俺は田所夫婦の殺害現場に何か残っていなかったか調べてみるよ」

 「私も五万円男について調べてみるわ。揉めそうになった若い男。それに、その場に監視カメラがあれば辿れるかも」

 志桜里は張り切って声を上げた。

 「いや、志桜里は動かない方がいい。警察官はお互いの目がある。志桜里が捜査をしたら、何事かと周りが監視する。志桜里は交通安全課で捜査一課じゃないからな」

 志桜里は憮然とした表情で瞭を見返した。

 「そうだな、志桜里は新妻として瞭のバックアップするのがいいだろう」

 志桜里は、今度は本気で耕史を睨んだ。

 耕史は笑い顔を引き詰めた。

 「まあ、新妻は兎も角、瞭も警察官じゃないから、例の後輩の野口だっけ、彼から得られる情報にも限度がある。志桜里が二か月前、美波に夜会って話しかけた事があると一課に情報提供し、何とか一課に協力出来るように交通安全課長を落す、何、瞭を落すより簡単だ。田所夫婦の殺害から何か月も経ち、後藤を犯人とする決定的証拠も無く、捜査一課の焦りもある。そこは志桜里のお手並み拝見といこう」

 瞭は納得しない顔付きだ。

 「これは、禾も絡む可能性も大だ。そんな危険な事に志桜里を関わらせない」

 むしろ、この瞭の言葉が志桜里の心に火を付けた。

 「瞭君、私は警察官よ。一般人に言われたくないわ」

 それから志桜里は早々に引き上げた。

 瞭は耕史を睨んだ。

 「何、志桜里を焚きつけてんだよ。これは、かなりヤバいかもしれないんだぞ」

 「三歳の時、親父を救えなかったのは仕方ない。しかし、今のお前は志桜里を守れるだろう。志桜里を守る事は禾に近づく事だし、父親の復讐にも繋がるかもしれない」

 「お前、志桜里を囮に使えと言うのか」

 耕史は瞭を睨んだ。

 「お前は、父親の死から一歩も前に進めないでいる。確かに志桜里は囮かもしれない。しかし、お前は自分が死んでも志桜里を守るだろう。お前は尾行が得意だし、捜査一課の捜査で培った技術だ。俺は明日一番でアメリカに飛んで後藤の妹に話を聞く。もう、事件をだらだら長引かせてる場合じゃない。後藤が命を掛けた事件を一気に片を付けるときだ」

 耕史も明日が早いからと早目に引き上げた。瞭はソファに座り、今夜の遣り取りを反芻した。確かに耕史の言う通り、常に父親の死から一歩も前に進めないでいる自分がいる。自分が警察官になった理由もそこにある。大物Xが禾という人間として姿が現したが、そこから一歩も進んでいない気がしている。まずは、禾を丸裸にしなければ。でも、志桜里を囮にするのは絶対に駄目だ。瞭はパソコンで禾の名前を検索してみたが出てこない。瞭は志桜里の携帯に電話すると、ワンコールで繋がった。

 「さっきの件だけど、俺は絶対に許さないからな。捜査一課に近づくのも駄目だ」

 「そんなこと瞭君が言う資格ないでしょう」

 瞭はソファに座りなおした。

 「いやある。この事件が解決したら志桜里と結婚する。いやとは言わせない」

 志桜里は黙った。

 「一つだけ、志桜里に内密に頼みたいことがある。例の禾の下の名と経歴を調べて欲しい。さっき、禾の名前でパソコンを検索したら出なかった。珍しい名前だから名字で出るかと思ったが駄目だった。ただ、禾は政治家やひょっと すると警察内部にも通じているかも知れないから、絶対に秘密厳守だ。いいか、俺の言うことを聞いてくれ。約束は守る、志桜里もな」

 志桜里は一言。

 「うん」

 (十九)


 耕史から瞭に国際電話が入ったのは三日後。

 「明日、朝一番で帰る。この前の話以上の事が分かった。電話代高いから、じぁ明日な」

 瞭は少しでも聞きたかったが、耕史の興奮した声は上ずっていた。その夜、志桜里から禾について分かったことがあると言ってきたので、明日朝一の羽田着で耕史がアメリカから帰国するので、朝に耕史の情報と照らし合わせて、これからの対策を話し合うことにした。耕史が瞭の事務所に来たのは午前十時。羽田から電話が入ったので志桜里にも十時に来るように言ったが、志桜里は九時半過ぎに来た。志桜里とは電話で話してから初めて会ったので、少し俯き加減で入って来た。瞭は当然のように志桜里を抱いてキスをした。

 耕史は羽田空港で買った弁当を三個持ってきた。

 「俺、腹が空いてな。お前の所にお茶あったっけ?」 

 志桜里が冷蔵庫からペットボトルのお茶を三本出した。耕史は、志桜里をチラッと見たが何も言わなかった。

 「それで」

 瞭は話を急かした。耕史は弁当を食べ始めた。

 「急かせるなよ。話は長いんだから」

耕史は食べ終わると、やおらソファに座りなおした、瞭がしたように。

 「まずは、後藤が田所夫婦を殺害した訳では無い可能性が出てきた、絶対ではないが。まずは後藤の妹、佐紀望美は結婚して埼玉県川越市に住んでいる。夫は佐紀健で和菓子屋に勤めている。この二人に接触するのが大変だったよ。後藤から誰とも関わるなと釘をさされていたらしい。俺が出版社に勤めているとの名刺が、かえって不審を抱かれた。俺は言うべきか迷ったが、望美は田所夫婦の事件や後藤の死亡を知らなかった。何でも、後藤が望美を見つけ出したのは一月の頃だったという。初めは信じられなかったが、それからDNA鑑定をして自分に兄がいることを知り、嬉しかったという。その時、兄はヤクザの傍で生きて来たので関わらないほういいと。でも、妹がいると聞かされてから十年以上探し回ったから、会えただけでも幸せだと言った。それでも望美は二人だけの兄妹だから、時々会いに来て欲しいと頼んだ。その頃、元々心臓が悪かった望美はペースメーカーの埋め込みを打診されていた。そして、後藤は望美が拡張型心筋症を発症していることを知った。後藤は暫く姿を現せなかったが、三月半ばに一億円の現金を持って現れた。この金は、悪い奴を脅して取った金だ。絶対、警察には訴えられない金だから大丈夫だ。これでアメリカに行って、合致した心臓が出ることを期待してアメリカで待ってろ。ただヤバイ事だから、絶対に俺から連絡するまで何もするなと言われたと言う。後藤が望美に金を渡したのは田所夫婦の殺害の前だ。殺害を実施していないのに金を出す奴はいない。後藤のいうヤバイは殺人ではなく、強請り取った金のことだろう。そして、望美は暫く躊躇した後、夫の健と顔を合わせて頷いた。後藤から封筒を渡され、絶対誰にも見せないように釘を刺されたていたと言う。今、兄が死んだと聞かされ、あなたなら信頼出来ると思う。兄を殺した犯人を必ず捕まえて欲しい。そう言って渡されたのは封筒に入った一枚の紙。これは、コピーで本当に後藤が書いた紙は、この先、大切に保管するように言ってきた。何かの数字とT。これは望美を守る剣になると聞かされたらしい」

 耕史は話続けると、お茶をゴクゴクと飲んだ。

瞭は考え込んだ。数字と聞いて思い浮かぶのは、 瞭が密かに隠している数字が書かれている小さな紙切れ。仁が(喫茶店止り木の店長)鏑木に託した紙。瞭も数字を解読しようと考えていた矢先だった。それと、もう一つ。仁が呟いた息子の言葉。

 「今まで分からなかったから言わなかったけど、待っててくれ」

 瞭は、そう言うとクロークに消え、上の階の寝室から小さな箱を持ってきた。そして、この紙切れが手に入った経緯を言った。耕史は薄汚れた紙切れを見て言った。

 「ウーン、この紙切れを鏑木さんに渡すというか託したのは四十歳位とすると、四、五十年位経っているんだよな。しかも、鏑木さんが捨ててもおかしくなかった。それに瞭のお祖父さんは、その間何も調べなかったのかな」

 「俺も不思議に思ったけど、お祖父さんは紙切れの持つ意味は知らなかったんじゃないかと。その時、尾行されていたみたいだから、とりあえず、この紙切れを万札の間に入れた。それから支払いの時、お祖父さんが息子って小声で呟いたって鏑木さんから、この前聞いた」

 耕史は望美から預かった紙に書かれた数字は三で始まって最後にT。瞭が出してきた紙切れも最初の数字は三に見える。

 「まずは、この数字が持つ意味だな。少なくても一億円の価値がある。そして、後藤がどこで手に入れたか。もし、この二つの数字が一致したら、これはかなり昔の件に関わっている可能性がある。瞭のお祖父さんは意味が分からなくても、警察官としての感が働き、尾行されていたなら、咄嗟に隠さなければいけないと思い、万札に隠した。ただ、数字の意味が分からなく、そのままになったのかもしれない。このメモの数字をハッキリさせるにはどうしたらいいかな」

 瞭も頷いた。

 「でも、お祖父さんが死の直前「気を付けろ。誰も信じるんじゃない」って言い残したんだ。それって政治家は勿論の事、警察も信じるんじゃないって事だと思った。公安は色々に所に入り込めるから、警察内部の情報も入ってくる可能性もある。ひょっとすると、お祖父さんは誰かを信用して裏切られたとか。だから、このメモを科捜研に持ち込むのは危険かも知れないと思ったんだ。でも、他にメモを解析してくれる所があるかどうか」 

 耕史は暫く考え込んで言った。

 「出版社の伝手で探せないことも無いと思うが、何しろ出版社はネタを取るのが商売だからな。秘密厳守がどうか」

 それまで黙っていた志桜里が言った。

 「それって、私が調べるわ」

 「今言っただろう。科捜研も情報が警察に駄々洩れになると」

 瞭は志桜里を心配そうに見た。

 「やあねぇ、私のエスの力を信じてよね。そのメモ私に預けてくれない。それから瞭君に頼まれていた禾の件。不思議なくらい情報が無いのよね、まるで覆い隠されているみたいに。

先ずは、


禾連司 七十七歳

禾滝子 二十三歳で病気にて死亡

禾建  四十九歳

 

 これといった仕事は無し。ただ、家は世田谷に三千坪の家がある。それ以外にも都内にかなりの土地があり、賃料で生活しているもよう。土地は蓮司の父親が戦後の焼野原で取得したらしいが、詳細は不明。一応、自宅に行ってみたけど、まるで要塞。高い塀に囲まれて中は見えず。近所の人も誰が住んでるかは知らなかったわ。たまに、駐車場から外車が出たり入ったりしたのを見たことがあるらしいけど。やっと、戸籍で家族の氏名が割れただけだったわ。奥さんが夭逝した病気についてもハッキリしないわ」

 「ここまで、隠すには政治家や警察、司法も関わっている可能性もある。暫くは様子を見ながら動こう。俺達にも火の粉が降りかかってくるかも知れないからな。志桜里、無理するなよ」

 志桜里は頷いて帰っていった。瞭と耕史は冷蔵庫からビールを出して、ゆっくり飲んだ。耕史は瞭の顔をまじまじ眺めた。

 「どうだ。俺の言った志穂里囮作戦が上手くいっただろう。お前は変なところ躊躇するからな」

 「何のことだ」

 「鉄は熱いうちに鍛えよだよ」

 耕史は黙って頷いた。瞭は、これ以上この話を続けると拙いとビールを煽った。その後、後藤が中東で殺された経緯について話し合い、結局耕史はいつものように上のベットで泊まった。

 

 (二十)


 次の日、瞭は後輩の野口に電話した。

 「その後、進展はあったか?」

 野口の声は暗かった。

 「俺の方で少し分かった事がある。まず、田所夫婦殺害の犯人を後藤から引き離せ。お前達は美波の遺体が発見された直後から、犯人は夫の和彦と決めつけ、初動捜査が遅れた。まずは初心に戻って、美波の殺害現場に残されていた物証をもう一度見直せ。そして、時間は経ってしまったが美波の遺体が発見された状況、特に第一発見者と一番最初に到着した警官、遺体は夜捨てられたと思うから、その当時の通行人と取ってあるか分からないけど、監視カメラの範囲を広げる。その夜、たまたま近くを通った車のレコーダーチェック。後藤も殺害されて中東に運ばれた可能性もある。それから一つ情報、以前、後藤が歌舞伎町の居酒屋で小銭で揉めていた時、若い男が五万円出して立ち去った事がある。その時、現場にいた人、出来れば居酒屋周辺の監視カメラが残っているとなおいい。その男を探し出せ。そいつが犯人で後藤に罪をなすりつけた可能性がある。それから最も重要な事だ。目だ。警察官でも常に視線をそらすな」

 野口は緊張した声で言った。

 「仲間を疑えと言うんですか?」

 「お前が刑事としての覚悟が試されるぞ」

 「分かりました」

 野口は、一言いうと電話を切った。

 それから、渡野に電話した。

 「早すぎました?」

 渡野は少し笑った。

 「もう、活動開始してますよ。久し振りですね。確か田所夫婦の殺害の原因を探る為、後藤を丸裸にするとの事でしたよね」

 「あれから大変な事が分かったんです。話が長いので、これから行ってもいいですか?」

 「勿論です。お待ちしています」

 瞭が昼頃、渡野の店に着くとドアには『本日休業』の看板がドアにぶら下がっていた。瞭が中に入るとピザの香ばしい臭いがした。

 「店を閉めなくてもいいですよ」

 「これが自由業の特権ですから。それに、じっくりと話を聞きたいからね」

 渡野は笑いながら言った。瞭は丁度焼けたピザと珈琲で昼食を取った。

 「いつも夜遅くに来るので、昼間は明るく、斬新な感じですね。ピザも美味しいし、昼間も営業したらどうですか?」

 「もう歳なのに私を殺す気ですか?」

 渡野は笑いながら気楽に言った。

 「後は、私と妻が食べていければいいんです。老後の用意もしてありますからね」

 瞭は飲んでいた珈琲で咽た。

 「今、妻とおっしゃいました?奥さんがいるなんて初めて伺いましたよ」

 「そうですかね。いつも夜にいらして、事件の話ばかりでしたから、言う機会がありませんでしたかね。まあ、私の事は追々に。チョロを丸裸にしましたか?」

 瞭は、あれから後藤の過去と妹の話そして一億円は田所夫婦の殺害の報酬ではなく、禾と判明した大物Xの秘密を盾に強請った金。しかも

田所夫婦の殺害には関与していない事がほぼ判明した。むしろ田所夫婦の殺害を後藤を身代わりにして殺害し、中東に遺棄したかもしれない。

 「と、いうことは後藤がクラブでホステスに大金を得たので外に行くと話したのは、妹の事で禾から目を逸らす為だったと。確かに今まで後藤に関する情報はありませんでしたね」

 瞭は、これが肝心だと言った。

 「以前、渡野さんに数字が書かれたメモの話をしましたよね。何十年も、お祖父さんがほっといたから、大した意味は無いと思っていました。しかし、後藤が強請ったのは紙に書かれた数字でした。つまり、その数字には一億円の価値があったのです。お祖父さんは分からずにいたのですが、あのメモの数字の最初は三でした。この件に政治家や警察、疑えば検察も関わっているかも知れません。今、安全な人に解析を頼んでいます。もし、一致したら数字は何十年前の過去と繋がってくると思います」

 瞭は、やや興奮した口振りで話した。

 渡野は冷静に聞いていた。

 「先ずは、その数字を確定することですね。仁さんは、ずっと直樹さんを殺害した犯人を追っていましたから」

 「進展がありましたら又来ます。全てが終わったら、渡野さんのラブストーリーを聞かせて下さいね」

 瞭は、そう言うと店を後にした。外は夜の帳に包まれていた。事務所に戻ると志桜里から携帯に電話が入った。志桜里に託したメモの数字が解読出来たという。

 「耕史に連絡するから事務所に来てくれ。くれぐれも慎重にな」 

 その夜、三人で事務所に集まった。寿司や弁当が多かったので、久し振りに宝屋から料理を取った。

 「まずは、冷める前に食べようか。話は冷めないからな」

 瞭が言うと、志桜里が頷いた。

 「そうね。でも食べた後で燃えるかも」

 耕史は瞭をチラッと見た。瞭は無視して食事に専念した。粗方、食事を食べ終えると、志桜里が爆弾を落した。

 「瞭君から渡されたメモの数字と後藤が残した数字が一致したわ。どういう事かしら」

 瞭は何となく予見していたので、やっぱりという思いがした。耕史は黙って暫く考えていたが、やおら話し出した。

 「と言うことは、この数字は瞭のお祖父さんも知っていたが、数字の持つ意味は知らなかったという事だな」

 「そういう事だ。お祖父さんは何となくこの数字がヤバイかも知れないと思っていたが、結局判読出来なかった。ただ、お祖父さんが数字を知ったのは何十年も前の事だ。そして、お祖父さんは、この紙をどこで入手したんだろう?それを後藤は何処で知ったんだろう。しかも、一億円の価値があることを」

 瞭は最近鏑木が思い出した息子の意味。

 「お祖父さんは、親父に隠密に何かを探らせていたらしい。だから、親父が殺されたのは自分のせいだと悔やみ、公安にいるときは勿論、定年で警視庁を辞めた後も、犯人を探していた節がある。「気を付けろ、信じるな」の言葉は、お祖父さんが親父に託した事が、信じた人から相手に洩れ、殺害された可能性を言っている。もしそうなら、この数字は二十九年前に親父を殺害した犯人に繋がる可能性もある」

 耕史は頷いた。

 「それだ」

 耕史は志桜里が探し出した禾の家族構成を今一度、じっくりと見返した。

 

 禾連司 七十七歳

 禾滝子 二十三歳で病気で死亡

 禾建  四十九歳

 

 「息子の禾建は二十九年前、二十歳だ。もし、瞭の親父さんを殺害したのが建だったら。数字の最後のTは建の事。その頃、蓮司は四十八歳。政界に潜り込んでいた時期かも知れない。若すぎても駄目、丁度油が乗り切っていた頃だ。そんな時、息子が警察官を殺害したとなれば、いくら政界でも手を引くだろう。慌てて瞭の親父さんを多摩川べりに遺棄し、捜査を攪乱した。それには、警察の手も借りたかもしれない。だから、お祖父さんは、瞭に気を付けろ、信じるなと言ったのも分かる」

 瞭も耕史の言葉に頷いた。

 「だが、この数字を証拠とするには弱いな。意味の解読と何故後藤が二十九年前のこれを持っていたか」

 耕史も自分で言いながら根拠が無いと思っていた。

 「そうだな。ただ、一つ考えられるのは、これが瞭の親父、直樹さんの殺害に関係しているとすれば、この数字が書かれた何か、例えば手帳を手に入れられたのは警察官の可能性があるな。素人は遺体を見ただけで固まってしまうだろうし、その手帳を直樹さんが殺される直前、犯人から奪ったとしたら、その手帳を隠せるのは最初に現場に駆け付けた警察官だけだ。その後、警察官が大勢駆け付けた時、隠す事は出来ないと思う」

 瞭も耕史のいう事が分かる。

 「と、言うことは警察官が手帳を見て誰が犯人か咄嗟に分かったって事だよな。そして、隠したという事は、犯人を庇うか強請るかしようと思った」

 黙って二人の話を聞いていた志桜里が頷いた。

 「事件発生の通報に最初に駆け付けるのは、大体所轄の警察官か機動隊員よね。調べるのは難しく無いんじゃないの」

 「それが駄目だったんだ。俺が警察官になって親父の事を調べようと思ったらとうに時効で、調書も処分されていた。今と違って紙だったからな」

 瞭は、あの頃の悔しさを思い出した。

 「何言ってるの。事件は調書だけに書かれている訳じゃないわ。人よ、人の記憶に刻まれているわよ。その時、二十二歳だった人は、今五十一歳よ。まだ、警察にいるじゃない」

 「確かにな。あの時、親父の事件を担当した刑事の何人かに話を聞いたが、殺害の原因も掴めず、多摩川河川敷までの足取りさえも分らなかったと言っていた。まるで神隠しにあったようだとも言ったった刑事もいた。でも、今なら分かる。あの時、親父はお祖父さんに頼まれて隠密行動をしていた。つまり、誰にも分からずに移動していたんだ。志桜里の言うような所轄にいた警察官や機動隊員を割り出すのは大変だぜ、何しろ二十九年前の事だからな。警察の人事課だって分かるかどうか」

 瞭は少し溜息を付いた。耕史は頷いて言い出した。

 「それなら別の方から責めたらどうだ」

 「別な方からって何だよ」

 「後藤だよ。何故、後藤がこの数字を知っているのか。どっちみち調べなくてはならないだろう。後藤は歌舞伎町でフラフラしながら人の厄介事を始末する火消のやっちゃんと呼ばれていたんだ。その中で誰かと出会い厄介事を頼まれた。それは、かなり難しい仕事だが殺人等の荒事ではない。もし、後藤が妹と出会い、病気の事を知った時期だったら、後藤は大金で引き受けたと思う」

 「そうなると厄介事を頼んだ人物を探さなくては駄目だということだよな、それも秘密裡に頼む要件だったとなると難しいな。普通に考えるとヤクザが絡んでいる可能性があるな。しかも裏社会の深部。この件については、俺が歌舞伎町あたりを探ってみるよ」

 瞭は歌舞伎町界隈に詳しい渡野の顔を思い浮かべた。

 志桜里が帰った後は、いつものように耕史と飲み明かした。

 

 (二十一)


 一週間後、新聞の一面やテレビのトップニュースを賑わす大事件が起きた。政治家の大人物と目される中沢恭司と事業家の禾蓮司が混乱最中の中東などを相手に武器に変更できる部品を秘密裡に送り、大金を稼いでいたという。この事を、かなり以前から内偵していた国際犯罪対策課と東京地検が揃って中沢と禾の逮捕状を取り収監した。瞭は朝から新聞やテレビに釘付けになった。耕史も朝一番に電話してきて、これから行くからと伝えてきた。あれから二日後、渡野の店に行き、厄介事を始末する火消に後藤が関与した事実はないかと聞いてみたが、表立って動いた形跡はないらしい。渡野も何となく探りを入れてみると言ったが、裏社会の深部は、ヤクザでも分からない部分があるらしい。渡野とそんな話をして間もなくの大事件だ。渡野からも、珍しく朝一番で電話をしてきた。

 「例の後藤の件は暫く様子を見ましょう。歌舞伎町界隈も神経質になってくるでしょうから、目立って動かない方がいいかも知れません」

 渡野との電話の後、一時間位して耕史が興奮した面持ちで事務所にやって来た。

 「おい、これで禾家の様子が分かってくるんじゃないか。ああ、それから大事な事を言い忘れてた。後藤の妹、佐紀望美に一致した心臓が出て、移植手術も終わり日本に戻ってくるそうだ。帰ったら家族の墓を買って、お兄さんの遺骨を収めるそうだ。それまで骨壺を宜しくと国際電話で言ってきた。」

 「良かったな、後藤も最後に家族。妹に出会えて」

 「そうだな。俺も何かと忙しくて中野の家に帰ってないな。今度、親父にウイスキーでも買って一緒に飲むかな。お前も早く家族を作れよ」

 瞭は志桜里の事を思い、早く事件を片付けなければと心に刻んだ。

 禾蓮司の逮捕が切っ掛けで、今まで隠されていた禾家の実態が徐々に明らかになった。

 その後、後輩の野口が興奮した口調で電話してきた。

 「先輩の言った通り、田所夫婦の殺害を一から見直した結果、物証が出て来ました。最初に夫の和彦が犯人だと特捜の中で一方向に動き出し、誰も他に目を向ける者はいなかったんです、勿論俺も。当時、美波の爪に極少量の血痕が採取されていたんですが、和彦を逮捕すれば分かると無視されていたんです。最も重要な物証なのに。この前、先輩が教えてくれた五万円を出した男が、今度の禾事件で浮かび上がってきました。禾家の秘書と言う事ですが、実態は用心棒みたいだったんです。男が五万円を出した居酒屋の店主の証言や周辺の防犯カメラでも確認が取れました。それで、引っ張ってきて血液検査の結果一致しました。名前は佐崎洋、六十歳。親分が逮捕されので覚悟したのか、田所夫婦と後藤の殺害を自供しました。ただ、禾蓮司から命令されて仕方なくと言っています。三人を殺害して今更、弁解の余地は無いと思いますが。ハッキリしましたら、先輩にご報告致します」

 瞭は、これで後藤の名誉が回復され、望美の為に良かったと思った。後藤が一億円を強請った事は無にしよう。

 「野口、これはお前の手柄だ。俺に報告する必要はないぞ。今は民間人だからな」

 「いえ、先輩の助言のおかげで、犯人逮捕に至ったんです。これからも宜しくお願いします」

 瞭は苦笑しながら、これからだぞっと言って電話を切った。瞭の中で後藤が残した数字の意味が心の奥底に澱のように沈んでいた。一億円を軽く出せるのは禾蓮司じゃないかと。でも、渡野の言うように暫く様子を見ているのがいいかも知れない。何といっても禾蓮司は逃げる事が出来ない檻の中なんだから。

 日本中に嵐を巻き起こした事件が明けた次の日、志穂里が事務所にやってきた。中沢と禾の事件より、後藤の無実そして望美が日本に帰って来て、家族の墓を建てる話に感動していた。

 「耕史さんから後藤さんの骨壺を頼まれたから、私が厳重に管理しているわ。ねぇ、この前、北海道にいる父から電話が来て、たまには顔を見せろって言われたの。瞭君の事件の終わりは、お父さんを殺害した犯人が判明した時よね」

 瞭は志桜里を抱きしめた。無性に家族が欲しかった、今すぐに。

 「志桜里、これから伊勢丹にある宝石店に行くぞ。大枚はたいて婚約指輪を買う。いや、結婚指輪だな」

 「ちょっと待って」

 志桜里は慌てて躊躇したが、瞭は強引に伊勢丹に連れて行った。帰りには志桜里の左の薬指に金の結婚指輪が光っていた。

 「ねぇ、瞭君。結婚してないのに結婚指輪?」

 「どっちが先でもいいじゃないか。もう、俺達家族だよな」

 「うん、そうだよね。一緒に家族の墓に入るんだよね」

 「志桜里、家族になったって俺は感動しているのに墓の話か?」

 「私ね、望美さんが日本に帰ったら家族の墓を作るって言うのを聞いてね。確かに後藤さんは亡くなっているけど、もし生きてて望美さんが家族の墓って言ったら、嬉し涙を流すと思うわ。後藤さんは、それほど家族を渇望してたんだから」

 志桜里は結婚指輪にそっと触れた。

 「よし、明日役所に行って婚姻届を貰ってこよう。承認は耕史だ。何事も早目早目だ。人間いつどうなるか分からないからな。俺も志桜里もヤバイ人間に関わる可能性は、一般人より多いから。でも、親父の事は諦めた訳じゃない」

 「そうよ。二人で犯人を追い詰めればいいのよ、一人より二人よ」 

 瞭は志桜里の気の強さは知っていたが、俺は尻に敷かれそうだと、ちょっと嬉しく思った。それから、瞭と志桜里が正式の夫婦になるのに時間は掛からなかった。何しろ、耕史が興奮し、二日後には吉野志桜里は椎名志桜里になった。むしろ、志桜里が警察の人事部に届を出すなり、警視庁の中で椎名瞭の名前が三年振りに、噂好きの人間達に恰好の話題を提供した。

 

 (二十二)


 瞭の元に午後、手紙が届いた。何の変哲もない茶色の封筒だが、かなり分厚い。差出人は無記名。消印は中央郵便局。


 椎名瞭様


 この事実を抱えて、この世を去る時間が迫ってきています。私は瞭さんの父上が殺害された現場へ最初に臨場した警察官です。その時、父上の右手に金のネックレスが握られていました。私は、それを見た瞬間犯人が分かったのです。そして咄嗟に、それをポケットに入れていたのです。それからあっという間に現場が警察官達で溢れ、それを出すのが怖くなっていました。私は、この瞬間警察官で無くなったと覚悟しました。その後、私の中で全てが崩れ、妻との関係もギクシャクし、離婚の話が現実的になってきた時、今まで子供が出来ない身体と言われていた妻が妊娠したのです。妻は歓喜し、私も複雑ながら喜んでいた気持ちを否定出来ません。警察を辞める決心をしていた私でしたが、この子を育て上げなくてはとの気持ちが上回ってしまいました。そして、定年を迎えた頃、私の罪が露わになりました。娘が私と妻の不仲を感じ取り、次第に歌舞伎町辺りを徘徊し行方不明になったのです。私は自分で娘を探し出したいと動き出した直後、肺癌のステージ四を宣告されました。

 父上を殺害した犯人は、禾蓮司の息子・禾建です。何故、金のネックレスを見て犯人が禾建か分かったのかは、大分時間を遡るのです。私は建が小学生の頃、イジメを受けていたところに出くわし悪童を蹴散らしました。その時、建の話を聞き、つい同情してしまったのです。建の母親は病弱で子供を持つと命を縮めると言われていたらしい。それでも命を掛けてでも我が子が欲しいと強引に子供を産むことを決心した。ただ、母親は建の成長を見届ける事は出来ないと覚悟していたのです。そして、金のネックレスを作り、建の幸せを数字に込めた。私はその時、建から見せてもらった。それから建に会う事は無かった。ただ、あのネックレスを見た瞬間、建の母親が浮かんでしまった。でも、瞭さんから父親を奪った建を許す事は出来ない。あの瞬間、私が犯した罪は自分で自分を殺した事を白状しなかった罪です。

 娘を探すことが出来ない身体になった私は、歌舞伎町で人の厄介事を始末する後藤に娘を秘密裡に探して欲しいと頼んだ。そして、見返りに建のネックレスの数字を教えた。禾に言えば一億位は出すだろうと付け加えて。ただ、ネックレスの意味は教えていなかった。後藤は娘を探し出してくれたが、娘は覚醒剤に犯され、薬物中毒になっていた。後藤には本当に申し訳なかった。私が頼まなければ殺される事はなかった。今、娘を地方の薬物中毒を抜く病院に入れ、私もその病院で残りの時間を過ごしている。妻は私と娘の面倒を見てくれている。初めて家族の絆を感じているんです。瞭さんには謝っても謝りきれません。最後に建の金のネックレスは、黙って椎名家の墓に入っている骨壺の中に入れました。時効が過ぎた今、建に罪を問えず物証にならない事は分かっていますが、父上が最後に刑事の意地で奪った物です。後の事は、宜しくお願い致します。


 瞭は、この手紙を何十回も読み返した。十年近く、父親を殺害した犯人を明らかにする事を、常に心の片隅から失くした事はない。例え、時効が過ぎても犯人を白日の元に曝け出す。瞭の家族を壊した元凶に他ならない。瞭の家の墓は、阿佐ヶ谷駅から歩いて一分も掛からない寺にある。お祖父さんが父親の為に建てた墓で、今は父と母と祖父と祖母の四人が納骨されている。祖父が定年後に阿佐ヶ谷へ家を建てたのは、毎日墓参りし、息子を殺害した犯人逮捕を墓前で誓っていたのかも知れない。瞭は仕事中の志桜里に今晩、志桜里のマンションに行くとメールを入れた。返信はメールでは無く、電話だった。

 「瞭君、マンションに行くのに私の了解は必要ないでしょう。二人のマンションなんだから。鍵だって持ってるでしょう。今のところ何事も無いから定時で帰れると思うわ。瞭君に料理を期待してないから、お惣菜を買ってきてね。宜しく」

 結婚してから、志桜里のマンションに徐々に瞭の着替えが増えて来たが、まだ志桜里のマンションの意識がある。この手紙の一件が決着したら、本格的に二人の住処を決めなくてはならない。これからも事務所の二階のベッドは耕史の為に置いておく。瞭は中目黒駅界隈で惣菜を買いながら、俺もいよいよ主夫かなと自虐的に考えた。志桜里は宣言通り、定時に帰宅した。瞭は手紙の話は食後にしようと思っていたが、志桜里が食前に嬉しそうに話し出した。

 「今日ね、うちの課長が西新宿署の総務課に欠員が出て、今なら移動願いが出せるからどうだって聞いてきたの。私が結婚したから取り計らってくれたんじゃないかしら。私二つ返事で宜しくお願いしますって言って来たわ」

 「そんな簡単に決めていいのか?折角、本庁の交通安全課での仕事が順調なのに」

 「だって、新宿から阿佐ヶ谷は近いでしょう。通うのに便利だし。そもそも総務課って滅多に残業も無いしね。瞭君の家、阿佐ヶ谷駅から近いよね。うちが元あった場所だから、勝手知ったる所だしね」

 志桜里は住処を阿佐ヶ谷に決めている口調だった。

 「俺もいずれ住処を決めなくっちゃとは思っていたけど。まずは、食事だ。冷めちまう」

 瞭は、いよいよ志桜里の手のひらで踊らされそうだなと苦笑した。食事が終ると瞭はやおら手紙を出して志桜里に見せた。志桜里も何度も読み返した。

 「これって酷くない。瞭君やお祖父さんがどんな思いで何十年も過ごしてきたか。警察官失格どころか人間としてどうなの」

 志桜里は、憤懣やり方ない表情で手紙を睨み付けた。

 「志桜里、明日の土曜日休めるか?」

 「勿論、金のネックレスがあるか確認するのよね。でも、この男、何で瞭君のお墓の場所知ってたの。ああ、そうだよね。警察官の風上にも置けない奴だけど、調べられるよね。ああ、ムカつく」

 次の日、瞭は志桜里と一緒に阿佐ヶ谷の寺にある椎名家の墓へ行った。まずは途中買った花と線香でお参りをした。瞭は一瞬戸惑って、ゆっくりと墓石の前の蓋をずらした。四つの骨壺が入っている。少し屈んで蓋を空けると、一つ目の骨壺の中にビニール袋に入った金のネックレスが出てきた。そうっと摘まんでネックレスを取り出し、志桜里に渡した。志桜里は袋からネックレスを出し、用意していた新しいレースのハンカチに包み込んだ。瞭は墓石の蓋を元に戻し、再度拝んだ。

 「少なくとも、手紙の主は嘘を付いていなかったなネックレスに関しては」

 志桜里は黙ったままネックレスを大事そうにハンドバックに仕舞った。

 「じぁ、これから我が家に行ってみようか」 

 「うん」

 志桜里は元気になり、歩き出した。瞭は祖母が事故で亡くなるまで住んでいた家に向った。たまに来ては、ざっと掃除機を掛けていたが、閉め切った家は何か埃っぽかった。家に着くと、全部の部屋の窓を開け放した。湿気っぽい空気を追い出すように。家に付いた途端、志桜里が掃除機を掛けだした。

 「ねぇ、懐かしいわ。子供の頃、しょっちゅう来てたもの母に連れられて。瞭君は遊んでくれなかったけど」

 「俺は子供と遊ぶのは苦手だったし。それより祐一兄さんと遊ぶ方が楽しかったけどな。でも、祐一兄さんは塾通いで忙しかったからね。北大行って、今は助教授だもんな。頭の出来が違うんだよな、兄妹でも」

 志桜里は瞭を軽く睨んで言った。

 「この家も締め切りだったし、二十年も経つと傷みが激しくなるよね。今、三LDKでしょう。建て替えても同じ位の家が建てられるでしょうし、駐車場も付いてるからね」

 もう、志桜里の頭の中では設計図が引かれている、建築費は別にして。瞭は呆れて志桜里を見ていると、耕史から電話が入った。話があるので今晩事務所に行くからと。瞭も話したいことがあると言ってから、寿司を三人分とツマミを頼むと付け加えた、これからローン返済が待っているのかと思うと溜息が出た。


(二十三)


 「おい、客に寿司やツマミを持って来いなんて言う奴いないぞ」

 耕史は、事務所に入って来るなり言った。

 志桜里は、にっこり笑って言った。

 「ありがとうございます。結婚すると家計が大変なのよね」

 と、言いながらお茶を出した。

 「なるほど。新妻になると逞しくなるんだな。初々しいなんて言葉死語になりそうだ」

 まずは三人で耕史が持参した特上寿司に舌鼓を打った。一息ついた頃、瞭は耕史に例の手紙を見せた。耕史は何も言わず、一心に手紙を読んでいた。

 「何なんだ、この野郎。最初から瞭の父親を殺害した犯人が分かっていたのに隠蔽するなんて。隠した瞬間、警察官じゃ無くなっただって。こいつは、その瞬間警察官どころか犯罪者じゃないか、証拠隠滅罪と犯人蔵匿罪だぞ。禾建も時効になった事件でも訴えられるんじゃないか、民亊でとか。まずは、この手紙の差出人を見つけよう。初めて家族の絆だと。瞭は三十年絆さえ見つけられなかったんだぞ。きっと癌だって嘘だろう。この手紙が中央郵便局から出されたということは関東エリアだ。地方の薬物中毒を抜く病院を探し出せば、こいつを探し出せるんじゃないか」

 耕史は怒りで声まで上ずっている。むしろ、瞭は何十回も読み冷静になり、手紙の差出人を見つけて俺は何がしたいのだろうかと考えていた。変な話、俺の中で燻っていた澱が何か、この手紙が教えてくれたような気さえしている。

 「ああ、でもこの手紙で数字の謎が分かった事が大きかったんだ。勿論、数字が解読出来る訳じゃないけど。この金のネックレスに込められた子を思う母の気持ち。俺は警察官そして探偵で多くの事件で加害者や被害者に接し、お互いの憎しみ合うのを見てきたが、この金のネックレスには、ただ無垢な愛が感じられるんだ。相手を憎むんじゃなく許す。今はそんな気持ちを大事にしたいんだろうな。勿論、この先、事件に関わる事があるだろうし、許すなんて言えない事件も多々あると思う。でも今は金のネックレスを前にして両親や祖父母に対する気持ちは家族愛だけでいい。いつか、この金のネックレスを禾建に掛けてあげたいと思う」

 瞭はレースのハンカチに置かれた金のネックレスを見ながら言った。

 「全く、お前は甘いんだよ。まあ、それがお前か。志桜里、覚悟しろよ。生活苦は続くだろうな」

 「大丈夫よ。私には強い味方があるからね。これが目に入らぬかってね」

 志桜里は左手の金の指輪を差し出した。

 「ま、お前達は破鍋に綴蓋で上手くいくだろうな」

 耕史は瞭を見て首を振った。

 「そうだ、大事な事を言いに来たんだ。うちの会社が初めてニューヨークに支社を出すことになって、俺が初代の支社長になったんだ。まあ、俺以外に適任者はいないだろう」

 「えっ、ニューヨークに支社だって。それは凄いな。部下は何人いるんだ」

 耕史は少し声を落して今は一人という。

 「何しろ初めて支社を立ち上げるんだから、準備など色々忙しくなりそうだ。支社が大きくなったら社員も増やさなくっちゃならないからな。このところ例の件でアメリカには行き来していたから慣れているし」

 「それで、いつアメリカに行くんだ?」

 「マンションを解約したり、荷物も片付けなくちゃな。まあ、荷物は中野の俺の部屋に押し込めるだけだからな。後は親父とお袋に任せるよ、ブツブツ言ってるけど。内心寂しいらしい。大丈夫だ、青い目をした美人妻を探してくるからって言ったら、お袋なんかマジで英語を勉強しなくっちゃと言ってるよ。親父は若い時アメリカに住んでいたから気にしてないけどね」

 瞭は、少しだけ寂しそうに言った。

 「二階の部屋は、いつでも泊まれるように置いとくからな」

 「志桜里、いつでも俺のベッドで寝てもいいぞ」

 「耕史さんが寝てたベッドで寝る訳無いでしょう。これから阿佐ヶ谷で家を立て直すんだからね。新築の我が家に泊まりに来てね」

 志桜里は瞭を見て言った。耕史は瞭を見て軽く首を振った。

 「やっぱり俺は独身を貫こうかな」

 瞭は苦笑するしか無かった。


(二十四)


 耕史は一週間もしないうちにアメリカに旅立った。瞭と志桜里は成田まで見送りに行ったが、耕史は旅行に行って来るような雰囲気で軽く手を振って出発ゲートに消えて行った。事務所に戻った頃を待ち構えていたように、瞭の携帯に焦っているような音量で野口からの着信があった。

 「先輩、大変です。禾建が先輩の父上を殺害したと本庁に自首してきました。もう疾うに時効になっているのに。あいつ、罪に問われないと分かって自首して来たんですよ絶対、何て奴だ。先輩や仁大先輩の三十年の苦しみを嘲笑うような行為だ。今、捜査一課全員で何かの罪を問えないものかと、課長以下全員で憤っています。中沢恭司と禾蓮司の事件は国際犯罪対策課と東京地検が仕切っていますから、警視庁はあくまで裏付け捜査の手伝い止まりです。それに建が関係していても捜査一課が逮捕するのは難しいみたいです」

 瞭は建が自首してきた事に正直、驚いていた。捜査一課が憤っているのは、多分三十年前に逮捕出来なかった自分達へプライドのせいかもしれない。

 「今、建は取調室に入れています。何といっても自首して来たんですから。僕としては留置場に押し込みたいですけどね。課長が先輩に建の取り調べをするよう言ってます」

 野口は怒りが止まらないようだ。

 「でも、警察辞めた人間が取り調べなんか出来ないだろう」

 「課長は正式な取り調べを要求している訳ではありませんよ。どっちにしろ建を逮捕出来る訳ではありませんから。多分、先輩が建に話を聞きたいんじゃないかと。これは捜査一課が刑事殺害の犯人を逮捕出来なかった事が恥だったと思っているんじゃないですか。当時の捜査員は殆どいないみたいですが」

 「分かった。これから本庁に行くよ。宜しく」

 瞭の側で聞いていた志桜里は、内容を察した。

 「私も一緒に行こうか」

 「いや、これは俺がケジメを付ける問題だよ。大丈夫だ。マンションで待っていてくれ」

 瞭は志桜里を抱きしめ、キスをして出掛けた。瞭が警視庁に入るのは三年振りだった。つい此間の気もするし、大分経った気もした。瞭は裏口から入る旨、野口に伝えていた。今、禾家は記者達の恰好な餌食になるだろう。野口と一緒に久々の捜査一課の部屋に入った。殆どが瞭の見知った連中で無言で頷いてくる。瞭は頭を下げた。課長の富田は瞭の傍に来て、あいつを一発殴っても誰も見ていないからなと言った。瞭は曖昧に頷いた。皆の思いがヒシヒシと感じてくる。瞭が取調室に入ると、建が椅子から下りて土下座した。多分、五十歳位の歳だ。

 「座って下さい」

 瞭は静かに声を落として言った。取調室には野口が書記役の机に座った。例え、時効で罪に問える事が出来なくても、調書は必要だった。建はノロノロと椅子に座った。瞭は、ポケットからレースのハンカチに包まれた金のネックレスを机の上に置いた。建は、それを見るなり肩を震わせて泣き出した。

 「殺害時の状況を話して下さい」 

 その時、瞭は被害者家族ではなく、刑事だった。暫くして落ち着いた建は目を瞑り事件当時二十歳だった頃の話をしだした。「私は元々気が弱く、常に周りへ虚勢を張り、ナイフを持っている事で自分を固持していたんです。ある夜、自宅近くの路地で、出会いがしらに男とぶつかりそうになった。私は咄嗟にナイフを男の胸に突き刺してしまった。パニックになり、家に駆け込むと父親が家にいるように言い、自分の部屋で震えていたんです。自分が殺した男が刑事だった事は次の日知りました。父親から絶対に何も言うなと釘を刺されました。それから三十年近く、秋田県の農家で暮らしていました。土を耕す事で自分の罪を忘れようと思っていたんです。天気に左右される畑で必死に作物を作る方達と一緒に働き、感謝もされましたが、この方達を騙している自分に苛まれていました。今度の父親の事件は知りませんでした。しかし、あの時こんな父親のいう事を聞かず、自首していればと後悔しています。今の私には罪を償うことすら許されないのです。きっと、母も私の事は許さないでしょう」

 建は机に置かれた金のネックレスを見ながら、小声で咽び泣いた。瞭は父親を殺害した建は許せないと思う半面、ただ、父親が憎まれて殺害されたのではないと少しだけホットしている自分がいた。

 「建さん、この金のネックレスに込められた母親の気持ちは、あなたに幸せになって欲しいという無垢な愛です。どうぞ、お持ち帰り下さい。そして、二度と失くすことがないよう首に付けておいてください」

 建は深く瞭に頭を下げ、そっとレースのハンカチに包まれた金のネックレスを両手に包み込んだ。

建を解放すると課長の富田は、お前は刑事に向かないなと言いながら、頭をポンと叩いた。

 マンションに戻ると、志桜里が手塩に掛けた料理が並んだ。瞭は、簡単に建との遣り取りを話した。

 「瞭君なら建を許すと思ったわ。母の愛は何よりも強いのよね」

 その夜、ベッドに入った志桜里が、思い出したように言い出した。

 「私の移動に際して、課長が新婚旅行でもして来いと言って、有給休暇一週間を承諾してくれたの。だから、来週北海道に行こうと思うのよ。ほら、私達の結婚が急だったから挨拶してないし。両親が定年後、兄のいる北海道に住んでるでしょう。兄の娘が三歳で両親はジイジ、バアバと言われて、目尻を下げてるみたい。そして、瞭と志桜里の孫も見たいって言ってるのよ。気が早いって」

 「じゃあ、早速頑張って孫を見せてやるか」

 瞭はベッドの照明を消した。

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