(一)から(十二)
『家族』
(一)
椎名瞭と篠原耕史は都内の高校の同級生で、同じ大学出身者でもある。読書家であった耕史は出版社で一流のジャーナリストを目指して、そして剣道一筋だった瞭は百八十センチの長身と体格を武器に警察官として、二人はそれぞれ社会人の一歩を踏み出した。瞭が警察官を選んだのには理由があった。瞭の父、椎名直樹は警察官で、国分寺署地域課に勤務していた。ある日、吉祥寺の自宅へ帰宅する途中行方不明となり、翌日多摩川の河川敷で胸部に刃物が突き刺さったままの刺殺体で発見された。享年二十八歳、瞭が三歳の時だ。犯人は逮捕されぬまま時効が成立している。殺人など重要事案に関して時効が撤廃される以前の事件。母の洋子はショックで体調を崩し、一年後に心臓麻痺で急死。まだ、二十五歳だった。その後、瞭は祖父の椎名仁に引き取られ、赤坂の賃貸マンションで九歳まで暮らした。仁も警察官であり、警視庁公安部に所属していた。公安は警視庁の中でも秘密裏に捜査することが多く、存在が不明瞭な部分が多い。そのせいかあまりマンションには戻らず、無口な仁と会話した記憶は殆ど無かった。その分、祖母の椎名有紀子は瞭を可愛がり、事件当時幼かったせいか両親の記憶は薄く、有紀子を実母のように慕った。仁は定年退職後、阿佐ヶ谷に一軒家を購入した。それは今まで家庭を顧みなかった贖罪か、それとも家族の居場所を確保したかったのかもしれない。それでも仁が家にいることは滅多になかった。今、警察官になった瞭は、仁が自分と同じように息子を殺害した犯人を探し出そうとしていたのではないかと思う。瞭が大学に進学した頃、警察官になりたいと言うと有紀子は泣いて止めた。直樹の事があったからだ。確かに瞭の中で父を殺害した犯人を自分の手でワッパをかけたいとの強い思いがある。仁は何も言わず黙認していた。きっと瞭の警察官になりたいとの理由を見抜いていたと思う。瞭が警察官になった半年後、仁が膵臓癌に罹患し、発見された時はステージ四と言われ、三ヵ月で亡くなった。最期、仁は瞭を呼び寄せ傍に行くと囁くような声で、しかしハッキリと言った「気を付けろ。誰も信じるんじゃない」と。瞭は所轄ではなく、警視庁の捜査一課に配属された。一課の中では事件が発生すると班ごとに駆り出される。待機の時、過去の事件の調書を調べたが、時効になった事件の調書は殆ど廃棄されていた。ただ、当時の新聞記事が残っていたぐらいだ。警察官が殺害された記事は、各新聞社の一面に大きく掲載されていた。今は起きた事件に関してデジタル化されているが、以前は紙での調書だったので膨大な量になる。瞭は事件を抱えると時間が不規則になり有紀子が一人になるので、仕事で徹夜になる時以外は遅くなっても家に帰るようにしていた。その有紀子が七十歳の時、交通事故に遭い亡くなった。即死だった。阿佐ヶ谷の中杉通りで有紀子が青信号で横断歩道を渡っていた時、二十歳の若者が信号を無視して突っ込んできた。犯人の若者はスマホに気を取られ、気付いたら衝突していたと証言した。重過失致死として逮捕、起訴された。たった一人の家族を亡くし、瞭は深く落ち込んだ。勿論、耕史が何かにつけ誘ってくれたが、気持ちは上向かない。父の事件も闇に深く沈んだままだ。事件が発生し特捜になると、ひたすら捜査に打ち込んだ。何も考えず犯人を追う事だけに集中していた時、瞭は自分が警察官になった理由を忘れかけていた、父を殺害した犯人を必ず逮捕するという事を。時効で逃げ得は許さない、必ず白日の元に曝け出す。組織にいると自由に調べられない。しかし、調べる為に警察バッチは有効だ。瞭の中で自問自答を繰り返し、そして自由を選び二十八歳で警察を辞めた。
(二)
瞭は自由に動き回れる仕事として、探偵事務所を立ち上げた。だが自由を手に入れたが、三年間父の殺人事件の犯人を闇から引っ張り出す事は難しかった。時効の壁は厚く、当時の刑事達も定年を迎えた人が多く、記憶も曖昧になっている。しかも、未解決事件は刑事達にとって屈辱感がある。何人かの元刑事に接触出来たが、一応に不可解な事件だったと証言した。身内が殺害されたとの事でいきり立ち、特捜に所轄や本部からも大勢の警察官が入ったのに関わらず殺害の原因も掴めない。多摩川河川敷までの足取りさえも分らなかったという。今のように防犯カメラが設置されている場所は少なく、ましてや多摩川の河川敷に防犯カメラは無かった。話が聞けた刑事は、こんな事を言うと刑事としての矜恃が地に落ちるが、まるで神隠しにあったようだとも言った。
この古いビルの上下二部屋を借りるのにも結構金が掛かった。阿佐ヶ谷の家を売ることも考えたが、あそこには仁と有紀子との時間が生きている。時々行っては窓を開け放し、掃除をして来る。時には泊り込んで家族の温もりを思い出す。
探偵事務所には普段寝泊りする住まいとして上の階にも部屋を借り、シャワーやトイレそしてベッドを二つ置いている。一つのベットは耕史が泊っていく前提となっている。廊下に出ず直接上の部屋に行けるように秘密扉への梯子を書庫の奥に取り付けた。この仕事は危険な事もあるのを警察官時代に知っていた。
篠原耕史は四ツ谷にあるクラフク出版を出ると中央線で新宿に出た。春浅い金曜日の夜は休日前ということも手伝って新宿の街は賑やかというか雑多な雰囲気に包まれている。耕史は人込みの間を器用に通り抜けながら、華美に彩られた伊勢丹デパートの前を進み仲通りに向った。小さな古いビルの三階の窓に書かれているくたびれた「宝探偵事務所」の文字を見上げ溜息を付いた。雰囲気的に何かを頼もうとする気が失せるし、そもそもこんな迷路みたいな場所に探偵事務所があるのを偶然でしか知り得ない。まさに椎名瞭のやる気のなさを表している。耕史は錆びた手摺の付いた階段を上り、三階の事務所のドアを叩いた。
「どうぞ」
一応立ち上がってドアを開けた瞭は耕史を見るなり、何だとばかりにくたびれたソファにどっかりと座り込んだ。耕史は瞭と向かい合ったソファが汚れていないかとそっと腰を下ろすと瞭を見やった。
「相変わらず、やる気のなさが探偵事務所内に充満しているな。こんな所じゃ誰も来ないだろう。そもそも誰にも気付かれないんじゃないか?」
「そんなことはないさ。寧ろこういう場所がいいんだ。客は堂々と来るんじゃなくて、こっそりと頼みこみに来るんだから。全くお前の顔を見た途端にやる気が失せたよ。それとも仕事でも頼みに来たのか?」
「いや、今日は早く上がったから、たまには飲みに行かないかと思ってね」
「何だ、お前も暇なのか。まあ、いいか。でも、お前の驕りだぞ、高給取りだろ」
二人は連れだって、いつもの居酒屋『宝屋』に向った。名前のせいか買取の店と間違えられるらしい。瞭の事務所の迷路を更に進んで穴倉のような場所にある。この店は、かつて瞭が警察官として事件を追っていた頃、エスとして使っていた親父さんの店だ。親父さんは瞭が警察を辞めた理由を何も聞かない。そして、以前のように無口で義理堅いところは変わらない。「宝探偵事務所」の宝は、親父さんの苗字宝田から一字取っている。瞭が前もって電話していたので、奥まった個室に予約札が掛けてあった。この個室は防音効果があり、更に抜け道もあり目立たぬよう裏口から外に出られる。事件を追っていた頃、利用したことが何度もあった。親父さんは日本酒と注文した料理を運んでくると扉を閉めた。こちらが何か頼むことがない限り無関心であり、この個室そのものの存在を消している。
耕史は瞭のお猪口に酒を注ぐと声を落した。
「ちょっと気になる話を聞いたんだが、野崎愛実って覚えてるか?」
瞭は頷いた。
「ああ、俺達の大学の後輩だったよな。確か二年の終わり頃にアメリカへ留学したんじゃなかったか」
「それがさぁ、アメリカへ行ってないみたいなんだ。今は行方不明らしい」
瞭は一年後輩の愛実の顔を思い出した。美人だが、お高く留まった感じも無く、寧ろざっくばらんな明るい娘だった。瞭も耕史も何となく気になっていた存在だった。三人で何度か飲みにも行ったが、一歩踏み出せない雰囲気を醸し出していた。
「行方不明?何なんだ。何で今頃分かったんだよ、十年前の事だぜ。本当なのか?彼女の事情はよく分からないが、親との関係は良くないって言ってたよな。でも、地方の財閥の娘だったって噂だったし。それに、学費や都内のマンションに住んでいた費用は親が出したんだろう。留学って聞いた時、やっぱりお嬢様だなって俺達話してたじゃないか。そんな話、どこから出て来たんだ」
瞭はお猪口の酒を飲み干してから、首を傾げた。
「それがさ今度うちの出版社で、海外で夢を追い掛ける女達っていう特集を組もうと編集長が言い出したんだ。それで俺はふっと野崎愛実の事を思い出した。それこそ夢を追い掛けるためアメリカに渡ったんじゃないかと思ってな。それで、ほら愛実の友達だった戸田里美を探し出したんだ。今、里美は結婚して埼玉県の大宮に住んでいたよ。そこで聞いたんだが、アメリカに着いたら連絡するからと言ってから、無しの礫らしい。俺達の前では明るいって印象だったけど、女達の間では不機嫌そうな感じで友達もいなかったと。だから里美も連絡が無かったし、何となくどうでもいいって思っていた。ただ、アメリカへ出発する一週間前にランチをしてたらしい。その時、着いたら必ず連絡するねって言ったんだそうだ。愛実にとっては唯一の友人だった」
瞭はそれでって顔で耕史を見た。
「それって愛実が単に連絡するのが面倒臭くなったんじゃないか。アメリカに着いたら色々と忙しいだろうし。そうこうするうち十年経ってしまったし、そんなに親しくなければいいやって思ったんだろうな。里美だって親友って訳でもないし、どうでもいいって思っていたんだろう。それが何で今頃行方不明って話になるんだ?」
「そうなんだけどな。何となく気になるんだ。ほら、最後に三人で飲みに行った時だって留学の話なんか出なかっただろう。あれから二か月後に愛実が留学したって聞いたんだよな。普通、留学が決まっていたら俺達に話すんじゃないか?強いて言うなら記者の感」
瞭は少し肩を揺らして含み笑いを上げた。
「お前ねぇ、刑事の感なら分かるけど記者の感なんて聞いたことがないぞ」
「まあ、俺の気休めだと思って、お前の昔の伝手で出入国の記録を見れないか?あれって個人情報で見せて貰えないだろう?」
「あれを調べるのは大変なんだぞ。明白に犯罪に関係しているなら兎も角、単に友達のことだろう。それに伝手を辿るのは金が掛かるしな」
瞭は暗黙の了解として頷いた。
「嫌だねぇ、友達を強請るなんて」
「いや、強請りじゃないぜ。これは探偵に対しての正式な調査依頼だろう。ということは、当然調査費用を請求する権利がある。まあ、友達の好みで格安で引き受けてやるよ」
その後、二人は飲み明かし、結局耕史は瞭の塒に泊まり込む羽目になった。
次の日、瞭は捜査一課の後輩、野口亜紀良を脅し?いや豪華な昼飯で釣って、愛実に対する出入国の記録を手に入れた。二日後、耕史は瞭のくたびれた「宝探偵事務所」のドアを開けた。
「おう、分かったぜ。俺の探偵の腕を見直したか」
「ほら、ちゃんと調査費用を持って来たぜ」
耕史は、ソファに座るとテーブルに金の入った封筒を置いた。
「はい、毎度ありがとうございます。ちゃんとした報告書がいるか?」
「そんなのはいいから、結果はどうなってたんだ」
「お前の記者の感が正しかったぜ。愛実は一度も出国していなかった。ところで、お前は、これからも愛実を探し出したいんか、惚れてたとか。もう仕事には関係ないんだろう。だから別に行方不明じゃなく、何処かで住んでいるかもしれないし。留学を辞めて彼氏と結婚か同棲してるかもしれないだろう」
耕史は、ちょっと考えるような仕草を見せた。
「ほら、最後に三人で飲んだ後、愛実が気分が悪そうで俺が渋谷のマンションまでタクシーで送って行ったことがあっただろう。俺はマンションの前で愛実をタクシーから下ろそうとした時、愛実が俺の手をしっかり握ると見つめて怖いって言ったんだ。その時、俺も少し酔っていたから部屋に誘われたのかって一瞬思ったが、愛実はタクシーを降りると有難うって言うとさっさとマンションの中に入って行った。俺は変に期待したのが馬鹿だったと思ったが、それだけなんだけど。それこそ今度の仕事を聞くまで愛実の事は忘れてたよ。お前、どう思う?」
瞭は、ちょっと考える仕草をした。
「確かに、お前の助平心は兎も角、愛実の怖いの一言は気になるけど。でも、十年だよ十年。何か事件に巻き込まれていたとしたら明るみに出ているんじゃないか、家族からとか」
「そうだよな。十年間の愛実の足跡を辿るのは難しいよな」
耕史は考え込んだが、閃いた。
「こんな特集を編集長に進言してみようかな幻の美女を追う。どうだ」
瞭は首を振った。
「俺が編集長なら、すぐ却下だな。本は売れて何ぼだろう。芸能人ならまだしも、一般女性を追い掛けてどうする。それこそすぐにストーカー規制法とやらに引っ掛かって逮捕だよ。俺がまだ警察官やってたら、すぐに御用でワッパを掛けるね。ただ一つ、行方を捜す方法があるとすれば行方不明者届を警察に出す。警察は十年前の行方不明者を捜すなんてしないだろう。だから自分達で捜そうとして動いても届を出しておけば正規の理由があり、正々堂々捜す事が出来る。でも行方不明者届を出すには家族の了承が必要になる。まずは家族と接触して行方不明者届を出しているか、していなければ行方不明者届を出して貰う。捜すのは、こちらで捜しますからと説得する。それと、お前がマジで探すなら経費は自分持ちだから。お前は、そこまでして愛実を捜したいのか?」
「お前は、また笑うかもしれないけど、どうしても引っ掛かるんだ。記者の感ってやつ」
瞭は溜息を付いた。こいつの執念、記者より刑事に向いてたかもな。
「まあ、まず俺の方で少し動いてみるわ。お前は愛実の家族を当たれ。お互い何か分ったら連絡しよう」
(三)
瞭は、まず十年前に住んでいたマンションの管理会社に聞きに行った。こういう時、必ず個人情報を盾に教えては貰えない。ましてや十年前ともなると、人も入れ替わっている。こういう時、バッチがあればと思う。まずは、今住む所を捜しているので、以前愛実の住んでいたマンションの名前を上げて見たいと声を掛ける。若い社員が出てきて愛想よく応対した。
「残念ですが、あのマンションは五年ぐらい前に取り壊されて、今は更地のままです。他にいい物件はありますから。それに、あそこの土地は縁起が悪いから、なかなか買い手が見つからなかったんですが、今度土地の買い手が決まったみたいですよ」
社員は、しまったというような顔で言った。
「いや、十年前の事ですし。ただ、入居者の退去者が続いて空き室が出たので、五年前に取り壊しになったんです。でも、そのうち新しいビルが立つ予定があるみたいです。他にも素敵なマンションがありますよ」
「十年前に縁起が悪いことがあったとしたらマンションが事故物件ということですよね。当然警察が入っているはずですよね。当時おたくの会社が、そのマンションを管理していたということは、当然マンションの持ち主は把握していますよね?」
ここでさすが社員はおかしいと思い、思いっきり引いた。瞭は一応何か分ったら知らせてくれと、やや強引に名刺を渡した。すぐにゴミ箱行きだとは思ったが。まあ、事故物件ということは警察で分かるだろうし、当時のオーナーの名前も割れるだろう。また、あいつに豪華な昼飯いやディナーを奢るしかないな、耕史がパトロンになる覚悟があるかどうか。瞭は前回頼んだ野口に十年前のマンションの事故物件について調査を頼んだ。今、野口の班は暇らしくディナーで了解したが、店は自分が捜しますと張り切っていたのも不安だった。これも、探偵事務所の経費だよなって自分を慰めた。
次の夜、「宝探偵事務所」で耕史と打合せをした。居酒屋で飲みながらという訳にはいかない。
瞭はソファに座ると耕史を見た。
「まずは、お前の報告を聞きたい。親を探し出せたか?」
「それがさ、大学の方は個人情報を盾に教えてもらえなかったので、例の愛実の友達、戸田里美に再度接触して、当時の愛実に両親の事を聞いた事があるか尋ねたが、本人は、あまり言いたくなさそうだったという。ただ、言葉の端々にはシングルマザーじゃないかと思ったと言った。でも、俺達の大学に入り、立派なマンションに住んで、更に留学まで考えていたんだぜ。あの頃、愛実は地方の財閥の娘だったって噂だったし。それに学費や渋谷のマンションに住んでいた費用は親が出したんだろう。留学って聞いた時、やっぱりお嬢様だなって俺達話してたじゃないか。勿論シングルマザーでも金持ちはいるだろうけど」
「まあ、素人はそこまでだろうな」
「何だよ、その言い方」
耕史は瞭を睨み付けた。
「俺も愛実の親の事まで掴めなかったが、十年前にマンションで自殺していた事は掴んだ」
「自殺って?」
耕史は、一瞬黙ったまま瞭を見つめていた。
「本当か?」
「そう、最後に俺たちが飲んで暫く経ってから。多分、友達とランチをしたあとじゃねえか」
耕史は、まだ信じられないふうに俯いて黙ったままだった。暫くして意を決したように小さく息を吐いた。
「あの時、俺が強引に愛実の部屋に行って話を聞いていれば。怖いの理由を」
瞭は耕史の方を見て言った。
「俺達は二、三回飲んだだけだし、後輩に奢っただけだ。もっとも安い居酒屋だったけどな。その時、俺達は愛実がお嬢様だと疑っていなかった。いや、実際渋谷のマンションに住んでいたんだから、お金があったのは確かだったろう」
「でも、本当に自殺だったのか?」
「それは何とも言えないな。当時、俺は学生で警察に入る以前の事だからな。ただ、自殺の手口がちょっと気になるな。風呂場のバスタブで手首をカッターで切ったとの事だが、睡眠薬が検出されている。勿論、恐怖から逃れる為にと考えられるが、朦朧とした女をバスタブで殺害するのは簡単だ。でも、室内には争った形跡もなく、何といっても手書きの遺書が残されていた。筆跡鑑定もクリアしていたし、遺書は多分遺族に渡されたらしいとの事だ。十年の壁は痛いな」
耕史は、テーブルに視線を落し呟いた。
「これから、どうする?」
「どうもしないし、どうしようもない」
瞭がさらりと言ったので、耕史はむっとして睨み付けた。
「俺達は愛実とそんな深い関係でもないし。もともと親、兄妹の事も知らない。しかも、十年前の事だぜ。殺人事件でもないし自殺だ。今、世の中で自殺する人がどの位いるか把握していないだろうな。お前が何かするのは勝手だが、俺は降りる。これ以上調べても無駄だし、俺にもお前にも仕事があるだろう?」
耕史は悔しいが、瞭の言うことに反論は出来なかった。耕史は、暗い気持ちを抱えたまま探偵事務所を出た。
(四)
暫くして耕史からアメリカのロサンゼルスに出張になったと連絡が入った。例の海外で夢を追い掛ける女達の特集で俺ともう一人の記者で何人かの女性と連絡が取れたので、取材することになったと。お互い仕事が動き出した。
瞭は浮気調査だ。経費は貰うが浮気のラブホへの現場写真を何枚か添付した報告書を仕上げるだけだ。簡単な割には調査費用が高い。しかし、依頼者の田所和彦が今一尻込みし、もう一度考えてみると言って帰って行った。一応、話だけは聞いといた。田所は大手の四つ葉銀行に勤める四十二歳の実直そうな男だった。田所の話では、妻は七歳下の三十五歳。五年前に結婚し、すぐに子供が出来るかもしれないと思っていたが中々出来ず、検査をしたら卵巣に異常が見つかり、治療を続けてきた。妻は沈み込むことが多くなり、気分転換に無理のない範囲で働いてみたらと言ってみた。たまたま、戈木党の事務所で事務員を募集している事を聞いて妻に話した。議員の事務所なら信頼出来ると思って。一年前に妻が働きだし、明るくなった。しかし、二ヵ月位前から帰りが時々遅くなりだした。仕事が立て込んで忙しいと言ってたが。その頃、田所自身も多忙になり仕事で遅くなることも多かった。妻の仕事を探して勧めたのも自分だったので、さほど気にしていなかった。今のところ確証がある訳でもなく心証らしい。だから浮気調査に躊躇していたのだ。もう一度、考えてみると言って帰った。
その後、瞭も弁護士の岡田克司から仕事を依頼された。克司は瞭が警察官の時、逮捕した容疑者を巡って対立していた事で知り合った。克司は瞭より九歳上の四十歳で個人弁護士事務所を経営している。瞭が探偵事務所を開設してから、人手が足りない時、弁護の資料集めを頼まれる事がある。瞭も仕事で法律関係に係ることがあると克司を頼ることがあるし、金離れのいい上客でもある。それで持ちつ持たれつの関係から友人になった。克司の抱えていた殺人事件で逮捕された者のアリバイ証明を見つける仕事に没頭して、二週間位が経った。結局、アリバイは崩れ、犯行を自供した。強固なアリバイより曖昧模糊としたアリバイの方が崩しにくい場合がある。克司も今回は国選弁護人を受けただけなので、瞭と同じく殺人者を野に放たされるのを防いだだけでも良かったと安堵していた。
仕事が一段落した頃、瞭に浮気調査の依頼を渋っていた田所の妻で事務員の田所美波が殺害されたニュースが流れた。遺体が遺棄された場所は多摩川河川敷。多摩川流域は瞭の父親、椎名直樹が刺殺体で発見された場所。瞭の心は、ざわついた。瞭も確実に依頼を受けた訳では無かったので何の調査もしていなかった。しかし、無視は出来ない。テレビで事件を知ったが、田所は正式に依頼していなかったので住所も電話番号も聞いて無かった。瞭は事件の詳細を知ろうと、またしても後輩の捜査一課の後輩、野口に連絡を取った。
「先輩、この事件は我々の班が仕切る事になったんですよ。殺人事件ですから特捜が立っているんです。事件の詳細を話せる訳いかないのは先輩が一番よく分かっているでしょう?」
「そんなことを言ってもいいのかな?重要な情報を持ってる者を邪険にして」
「何なんですか。その重要な情報って?」
「その前に田所の住所と電話番号を教えてくれ。そのうち、すぐにネットで流れるだろうけど」
「駄目ですよ。それに今、田所の行方を探しているんですから」
「田所の行方?そうか、田所が重要参考人って訳だ」
「それより、情報って?」
「俺のお客さんだよ。三週間位前に奥さんの浮気調査を依頼してきたんだけど、もう少し考えてからと言って正式依頼はしなかったんだ」
「と言うことは、やっぱり殺害の原因は奥さんの浮気ですね」
「待てよ、まだ旦那が犯人だと決まった訳じゃないだろう。焦ると冤罪を生むぜ」
それでも野口は我が意を得たとばかり瞭に住所と携帯の番号を告げて、さっさと電話を切ってしまった。
一先ず瞭は、田所の家に行ってみることにした。自宅は吉祥寺駅から徒歩十分程度の五階建てのマンションだった。和彦が戻ってくるかと監視をしている警察官が物陰にいるのが分かる。瞭も警察官の時は尾行や監視などは必須条件だったし、瞭は得意だった。この分だとマンションに近づくことは出来そうもない。瞭は田所の勤務先の大手の銀行に行ってみることにした。もっとも、警察が事情聴取しているだろうから、上司に会えることはないだろうけど、まずは見てみたい。勤務している四つ葉銀行の新宿支店は、瞭のテリトリー範囲内だ。早速、四つ葉銀行の新宿支店に行ってみた。このところ再三警察に聞かれていたので、支店長の的場博は面会を拒否したが、瞭は名刺を差し出し新宿で探偵事務所を経営しており、以前、田所さんの相談を聞いていたので彼が奥さんを殺害するはずがないと強調すると、的場は夜、瞭の事務所で会う事を了承してくれた。約束の時間まで昼食を取ろうと出掛け間際に耕史から携帯にメールが入った。
「明日、羽田に到着するから夜会えないか。いろいろ愛美の事が分かったんだ」
「こっちも、いろいろ忙しくなってきたけど、まずは明日の夜なら了解」
瞭は落ち着ける店として宝屋に行った。居酒屋なので午後五時からだが、瞭が事前に電話を入れると、いつもの部屋に通してくれる。
「いつも悪いね。色々考えるには、この店が一番いいんだ」
親父さんは笑いながら言った。
「いいってこった。何たって瞭さん御用達の店だからね。でも、ある物でいいだろう」
「勿論、大将の料理の切れ端でもいいよ。何たって俺のご用達だからね」
「相変わらず嫌味なやつだな」
宝田は笑いながら厨房へ消えた。
瞭は初めて会った時の田所の様子を思い返してみた。何となくぎこちなさそうに話ていた田所に、浮気相手の予測が付いていたのだろうか。だから、まず自分で確かめようとしたのかもしれない。もし、そうなら妻でなく相手を殺そうとするんじゃないか。それとも、自分を裏切ったとして妻を殺したのか。いや、人を殺すのには余程の覚悟がいる。一介の銀行員の田所が殺人を犯すだろうか。田所はあの時一旦尻込みし、もう一度考えてみると言って帰って行った。田所は大手の四つ葉銀行に勤める四十二歳の実直そうな男だ。もう一人、殺人犯となりうる人物がいる。もし、妻が本当に浮気していたとしたら相手の男がいる。既婚者とか失うものが多い人物。ただ、そうなると田所が消息を絶つ理由が分からない。まさか、田所がその人物を知っていて問いただしたら、今度は田所自身が危険だ。折角の大将の料理も冷めたまま瞭は夢想に奔った。瞭は冷めた料理もきちんと食べつくして、探偵事務所に戻った。事務所に戻ると、以外な人物が待っていた。瞭が阿佐ヶ谷に住んでいた時からの幼馴染み、吉野志桜里だった。瞭が警察を辞めた後、入れ違いに警察に入った。所轄の交通課を経て、確か今は警視庁の交通安全課だったはずだ。
「どうした?久し振りじゃないか。俺に会いたくなったとか?」
瞭は志桜里の顔を覗き込むように言った。
「相変わらず瞭君って軽いわね」
「瞭君って俺の方が六歳も上の先輩だぜ。いや、元先輩か。まあ、綺麗とは言えないが入ってくれ」
瞭はドアを開けると、志桜里を中に入れた。
「これって綺麗かどうかっていうレベルじゃないと思うわ」
志桜里は、恐々とソファに軽く腰かけた。瞭は冷蔵庫からスポーツドリンクを出し、志桜里の前に置いた。
「ところで何の用なんだ。俺は今のところ交通違反はしてないぜ。もっとも車は阿佐ヶ谷の家に放りっぱなしで、動かしてないからな」
「瞭君、多摩川の殺人事件を調べているの?」
「調べるも何も、俺はもう刑事じゃないぜ」
「でも、被害者のご主人が浮気調査でここに来たこと捜査一課に上げたよね」
「そりゃ国民としての協力ってやつだよ。それより交通安全課の志桜里が何で殺人事件に関心を持っているんだ。それこそ場違いな事じゃないか」
そう言いながら、瞭は志桜里の視線が揺らぐのを感じた。
「二ヵ月位前かな?私は夜の十時頃、友達との食事を終えて家に帰る時、目の前に止まった黒塗りの高級車から女性が降りてきて、ふらつきながら歩道を歩き始めたの。私は何かおかしいと思って女性に声を掛けたけど、何でもないと言って歩き始めたの。私も少し酔っていたし、これといって何かある訳じゃないから、何かあったらって私の名刺を渡したの。一瞬、事件でもないのに名刺を渡したこと良かったのか分らなかったけど、仕事に追われて忘れてたのよ。それが、この前、それこそ、その女性の遺体が発見された一週間前、私の携帯に電話が掛かってきたの。一瞬で切れたし、誰からも分からないかったわ。ねぇ、どうすればいい?名刺を渡したのは過去に何度かあったからね」
「もし、美波さんからの電話だとしても当然携帯は処分されているだろうな。ただ、一瞬でも繋がったならリダイヤルしてみたのか?」
「ええ、でも繋がらなかったわ」
「志桜里への着信から番号を追跡出来るかもしれない。しかし、事件性が明確に関連しているならサイバー犯罪対策課で割だせるだろうが、今の時代一番忙しい課だからなぁ。まあ、俺の方でも少し動いてみるわ。飯一回驕りな、調査依頼費用」
「えっ、友達からお金取るの」
「当たり前じゃないか。俺はこれを生業にしてるんだぜ。飯一回なんて調査依頼費用にもならないよ。まあ何か分ったら志桜里に電話するからな」
志桜里は、ブツブツと文句を言いながら帰って行った。
さてと後は四つ葉銀行の新宿支店の支店長が来るのを待つか。支店長の的場博は午後六時半過ぎにやってきた。
「早目に店を出ましたが、ここは分かりにくい所にあるんですね」
的場はソファに座り、溜息を付いた。瞭は的場に向き合うように座った。
「すみませんねぇ、御足労をおかけして。でも、こういう目立たない所の方が探偵事務所としてはいいんですよ。おおっぴらに頼みに来る人は少ないですからね。ところで警察の方からは何を聞かれましたか?」
「何って言われても、ずっと支店に出社していないんですよ。真面目な田所さんが無断欠勤なんて初めてだから、何とも言いようがないんです」
「そうですよね。私も一回お会いしただけですが、奥さんを殺害するような人とは思えません。ただ、ここに来た時は悩んでおられたようなので心配しているんです。的場さんは何か聞いていませんでしたか?」
的場は、少し考えるような顔をしたが首を振った。
「プライベートな話は聞いていませんし。今の時代、上司が部下のプライベートな事を聞いただけでも問題になりますしね。少なくとも仕事上は問題ありませんでした」
「そうですか。お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありませんでした。私も田所さんの事が気になりますので、少し調べてみようかと思っています。勿論、仕事ではありませんが。実は私は以前、警視庁の刑事でしたので」
「そうでしたか。もし今後、私に役の立つような事があれば聞いて下さい。私も田所さんの事は信じておりますので。それから、これも何かのご縁かと思いますので調べて欲しい事が出てきました時、お願いしてもよろしいですか?公私ともにですが」
「ええ、調査するのは私の本業ですから。勿論、秘密厳守です」
的場からは田所についての情報は無かったが、顧客として顔繋ぎができたので良かった。
この時間から動ける場所は、歌舞伎町界隈の飲み屋。瞭のエスは、宝屋だけではない。祖父が公安にいた頃に使っていたエスで、仁との繋がりが濃かった人物だ。瞭が大学生の頃、仁に連れられ初めて訪れた。その時、仁は瞭が警察官になりたがっているとだけ言った。それからは飲みながら世間話をしていた。仁と飲みに行ったのは後にも先にも一回だけだった。仁が死亡した直後、荒野立から連絡が入った。お悔みの後、仁が瞭を一度連れて来た訳を察したと言った。その時、自分の店に来て欲しいと言われ、初七日の法要が過ぎた頃、「臣」に行った。荒野は仁に恩義があり、エスとして働いていた。そして、仁が瞭をここに連れて来た時、すでに自分の癌も進行しており、長くはないと悟っていた。ただ、仁から瞭のエスになってくれとは言われなかったが、仁は長い間息子を殺した犯人にワッパを掛ける事だけを生き甲斐にしていたと思う。そして、気付いたのは政界、財界そして警察、それらが絡んでいるかもしれないと。一警察官が、闇のフィクサーに立ち向かうのは容易ではない。実は、息子が殺されたのは俺のせいだと言ったという。警察に疑問を抱いた仁は息子に隠密行動を頼んだ。つまりスパイだ。警察内部で信じられるのは息子だけだと。だが、そのせいで息子は殺され、迷宮入りして時効を迎えた。瞭が俺のように父親を殺害した犯人を追い掛けるのではないかと危惧している。正義だけでは、どうしょうもない現実がある。瞭には父親の二の前にはなってほしくないという思いと、息子の無念を晴らして欲しいとの葛藤が交錯していると話していた。
渡野は歌舞伎町界隈から外れた所のビルの地下でバー「臣」をやっている。カウンター以外に四人掛けのテーブル席が二つあるだけの狭い店だった。渡野立という名前も赤ん坊の頃、親に捨てられ乳児院で付けられた名前だ。本人は荒野に立つみたいで気に入っていた。すさんだ生活をしていた十七歳の頃、歌舞伎町でヤクザに絡まれ、ボコボコにされていた時、仁がヤクザに話を付け、二度と立に手を出さない事に仁義を切らせた。仁はヤクザから一目置かれていたらしい。それは、仁がヤクザの世界に入り込む何らかの密約があったかもしれない。渡野は仁からの紹介で飲食店で働いた。一国一城を築けと仁に言われ必至に働き金を貯めたという。今は小さいながら店を構えることが出来たのは仁のお蔭だと、忠誠心は亡くなった今も変わらない。バー「臣」の臣は仁の名前からきている。
「相変わらず、暇そうな店ですね。以前来た時と変わりませんよ」
瞭は「臣」に足を踏み入れてすぐに嫌味を言った。
「さっきまで混んでいたんですよ。でも、終電近くなるとこんなものです。瞭さんのところは繁盛してるんですか?」
「まあ、俺のところが繁盛するのは、余りいいことではないかもしれないが。ほら、四つ葉銀行新宿支店の田所さんの奥さんが殺害されて、多摩川河川敷に遺棄された事件、当然ご存じですよね」
「勿論、新宿支店とは細々ながら取引がありますからね。でも、殺人事件ですから警察が動いていますよね。それとも刑事の血が騒ぎますか?」
荒野はチラッと瞭を見た。
「多少は。でもそれだけではなく田所さんのご主人が私の所に相談に来たんです。奥さんの浮気調査だったんですが、考え直すからと言われて。はっきりいうと正式に依頼を受けた訳じゃないから私の客ではないんですが気になります。それに奥さんが勤務していた所が戈木党の事務所ということも。戈木党は弱小政党ですが、政治団体であることに変わりありませんからね。警察は行方不明のご主人が犯人だと決めつけている節がある。下手すれば誤認逮捕になりかねません。冤罪は常にみんなが一方向を見ている事から起こりますから」
荒野は瞭の前にウイスキーの水割りを置いた。
「私も戈木党の事を少し調べてみましょう。弱小政党だからこそ、動ける事が出来る場合がありますからね。それに、田所さんは温和な方で私も融資のことで相談に乗ってもらったことがあります。身柄を確保されたら自白を強要されかねませんからね。ああ、警察官にも色々な人がいますから全部が悪徳警官とは言いませんよ」
「分かってますよ。俺も少し動いてみようと思ってます。では、よろしくお願いいたします」
瞭はウイスキーの水割りを飲み干すと、店を出た。
(五)
次の夜、ロサンゼルスから帰国した耕史が探偵事務所に来た。
「相変わらずだな、ソファは座り心地が悪いし」
「来たそうそう、文句を言いに来たわけじゃないだろう。俺も、この前ソファを志桜里に嫌そうな顔されたから、今度買い換えようと思ってるよ、客商売に変わりはないけどな。ところで、ロスで愛実の事を何か掴んだのか?」
「ああ、それより俺がいない間に凄い事件が起きたんだな。お前、その件に嚙んでいたのか?」
瞭は冷蔵庫からスポーツドリンクを出すと、耕史の前に置いた。
「まあ、嚙んでいたというか、殺害された女性の旦那が以前俺に浮気調査を依頼してきたんだ。ただ、その時はもう一度考えてみると言って帰った。それから、俺も例の岡田弁護士から調査依頼の仕事が入ったので、正直田所さんの事は忘れていたんだ。それが急に田所さんの奥さんが殺害され、行方不明になった田所さんが容疑者になった。田所さんは大手四つ葉銀行新宿支店の融資担当係長だったんだ。俺も一度会って話しているが、悩んでいる様子だったけど、取り乱すような感じではなかった。でも、行方不明となると警察も疑わずにはいられない。新宿支店の支店長にも話を聞けたが、少なくとも仕事上のトラブルは無かったという。今の時代、上司が部下のプライベートな事を聞いただけでも問題になるので聞いたことはないと言ってたよ」
耕史はドリンクを少し飲んでから言った。
「確かに奥さんが殺害され、旦那が行方不明となると、何かあったと考えざるを得ないな」
「もう一つ、気になっている事があるんだ。昨日、志桜里が来たと言っただろう?」
「この汚いソファにいやいや座った時だろう」
「煩いな。その時、志桜里が二か月位前かな?夜の十時頃、友達との食事を終えて家に帰る時、目の前に止まった黒塗りの高級車から若い女性が降りてきて、ふらつきながら歩道を歩き始めた。志桜里は何かおかしいと思って女性に声を掛けたけど、何でもないと言って歩き始めたらしい。志桜里も少し酔っていたし、これといって何かあるわけじゃないから、何かあったらって志桜里の名刺を渡したらしい。それが、この前、それこそ女性の遺体が発見された一週間前、志桜里の携帯に電話が掛かってきたらしい。一瞬で切れたし、誰から分からないかったって言ってた。まあ、こんな事があったから俺も気になったんだが、よく考えたら志桜里も酔っていたし、夜遅かったから、その女性が田所美波とハッキリ確認出来ていなかった可能性もあると思う。そんなあやふやなことで、サイバー犯罪対策課が調べてくれるだろうかと思っている」
「成程、俺には調査費用として金を取ったのに、志桜里には飯一回か。それは、狡くないか?ただ、携帯に掛かってきた女性が美波かどうかは分かるな。お前のいつもの手で裏から調べたらどうだ?」
「それより、ロスで見つけた愛実の件で分かった事とは何だ?愛実はアメリカへ行く直前、自殺しているんだぜ」
耕史は、もう一度ドリンクを飲んでから、咳払いをした。
「愛実の親は確かにシングルマザーだったが、父親は政界の大物Xらしい」
「らしいって。大体そんな情報、どこから仕入れてきたんだ。十年前だぜ、ロスで何か掴まされたんじゃないか?金とか」
「確かに証拠はない、十年前だからな。ほら、例の海外で夢を追い掛ける女達の特集を調べていたら、そのうちの一人が十二年前ロスに行く前に、愛実とあったことがあると言ったんだ。愛実が大学に入学してきた頃だったらしい。自分がロスで事業を立ち上げるって話をしたら、私も行きたいと言っていた。お金が掛かるのよって話したら、私の父親はお金持ちだから、私の頼み事は何でも聞いてくれるの、断れないしね、って言って笑っていたらしい。シングルマザーだったり、父親は政界の大物だとの事は彼女が感じた印象だけだから確証は無い。でも、そう考えると、愛実が俺に怖いと言った意味が変わってくる。愛実が脅されたのではなく、脅している方だとすると、急にロスに行くことにしたのは自分の身に危険が迫っていることに気付いて逃げ出す為じゃないのかな。そして、その前に自殺に見せかけて殺された」
瞭は話を聞いて首を捻った。
「つまり、愛実の件は自殺ではなく殺人だと。しかし、以前も言ったが俺が警察に入る前の事だし、自殺として遺書も確認されている。今更、十年前の事を覆すのは無理だろうな。政界の大物ということも、その女性が作り出した話だろう。推理小説の域を出ていないな。まあ、お前の出版社でも乗らないだろうと思うけど。夢想世界と現実世界の狭間は事実、つまり証拠がものを言うんだ。それこそ田所美波の事件は、殺害された遺体が目の前にある。それこそ現実だ」
耕史は瞭に言い負かされて、自分の推理に自信を失った。何となく砂城を築き上げたように思えてきた。十年前、大学生だった瞭や耕史に何が出来た訳もなく、考えもしなかった事だ。瞭は意気消沈している耕史を『宝屋』に誘った。いつもの部屋に入ると瞭は耕史に向って言った。
「俺は現実世界の事件を追おうとしている。お前も手伝ってくれないか?」
「俺が手伝うと言ってもな。それこそ警察内部の情報はお前の方が得意じゃないか」
「いや、出版社ならではの情報。殺された美波は戈木党の事務所で事務員として働いていた。戈木党の内部で問題がなかったか?というか、そもそも戈木党は、政界での立ち位置はどうだったのか?出版社は与党にしても、野党にしても常に大きな政党に目が向いている。だから、極小政党の戈木党の内部情報をチェックしていない。今、美波の殺人事件で目を向けられているが、警察は夫の和彦を重要参考人として探し回っている。確かに和彦が行方不明になっているから、警察が躍起になって探しているのは分かるが、俺は和彦が初めて来た時に美波の浮気を疑って調べて欲しいという事だった。もし、それが事実だったら美波の事は違った見方が出来る。浮気相手にも美波を殺害する動機が出てくるだろう。ただ、そうなると和彦が行方を晦ます理由が見えてこないんだ」
耕史は、この際愛実の一件は保留にして瞭の頼みを聞くことにした。
「俺は政治経済を担当する部署ではないが、極小政党にしても何も分からないということはないだろう、ましてや実際に殺人事件が起きているのだからな。社に戻ったら戈木党の事について調べてみるよ、同期もいるから」
耕史と飲んでから二週間経っても、和彦の行方は分からなかった。耕史も、あれから同期に聞いたり、戈木党に関する情報を調べてみたが、これと言って怪しい動きは無い。寧ろ、事務所の事務員が殺害された事が戈木党のイメージの悪化を懸念している。
警察が必死に田所の行方を探していた時、唐突に田所の遺体が発見された。しかも、美波が発見された多摩川流域の場所から僅か三十メートルの先の草叢の一メートル地中に埋められ、ほぼ白骨化していた。まさに警察の顔に泥を塗ったような仕業だ。事件は白紙状態から始めることになり、警察の士気が落ちた。ただ、特捜の警察上層部は犯人に舐められたままで終われないぞと、声を荒げた。
そんな時、仁から引き継ぎ瞭のエスになった渡野から電話がきた。今晩、十一時頃店に来て欲しいとの話だ。今は連絡にスマホやパソコンが使われる。しかし、渡野に言わせるとネットの世界はまやかしの世界でもあるという。瞭は十一時過ぎに「臣」へ行った。当然、店には渡野だけが待っていた。
「何か飲みますか?」
「いや、素面で聞きたい」
渡野は瞭の前にオレンジジースを置いた。
「これは、ハッキリした事ではありませんが、魏王組の周りでチョロチョロとしていた者が消えたらしい。いつもは自分で火消の仕事をやっていた、金になるからね」
「そのチョロの名前は分かるか?」
「そもそも、そのチョロはちゃんとした住民票なんか出してる訳じゃないし。仲間内では火消のやっちゃんと呼ばれている。火消は分かるだろう、人の厄介事を始末するということだ。今まで殺人には手を染めていなかったらしいが、そいつが消える前に今回は大金が入って俺にもツキが回ってきたから外にでも行こうかなって、酔った時にホステスに言ったらしい。私は飲みに行って、そのホステスに話を聞いたが、男はいつも適当なことを言ってたし、酔っぱらっていたので聞き流していたと言う。私は、外っていうのは海外かもしれないと思ったんですよ。今まで、それこそチョロチョロして金を稼いでいたらしいが、大金というほどの金額じゃなかった。それが大金というからには少なくても数千万か。もし、二人を始末するという依頼を受けたら当然億単位の可能性もありうると思います。何と言っても二人殺害して捕まったらほぼ死刑ですからね。そうなると依頼者はかなりの大物ということになりませんか?」
瞭は目の前のオレンジジースを一口含んで、ちょっと考えていた。
「でも、外に出るには必ずパスポートが必要だろう?」
「今時、偽造パスポートなんて手に入るんじゃありませんか。実際、偽造パスポートで入国した輩が姿を消した例もありますよ。まあ、今は厳しくなったと思いますが、昔は聞いたことがいくらでもありましたよ。一旦入国したら、この界隈だけじゃなく生きていく場所はありますからね。実際、日本人でも指名手配の者が海外へ逃げ切ることもありますよ。警察だって、全てを追いかけられる訳じゃないですから。国際警察機構も完全ではありません。特に政情不安定な国に逃げ込んだらアウトだと思いますよ」
瞭は又、オレンジジースを口にした。
「もしかしたら、そのチョロに襲われたのが田所さん夫婦という可能性もあるという事か?」
「私はもしもの話はしたくありませんが、大金が入ったと聞いた時、ああ正確な事ではありませんが時期的に嫌な予感がするんですよ」
「偽造パスポートが手に入れば、正規の出国では無く、近隣諸国なら相手のマフィアを通じて船でも出国出来る可能性はあるな。田所さん夫婦殺害がチョロだとしたら、犯人逮捕はかなり難しいことになる。まず、チョロの人定が分かったとしても、二人を殺害した証拠を提示しなくては逮捕は出来ないからね」
瞭は、腕組みをして考え込んだ。確かに、田所さんと美波さんが同時に殺害されたとの公算が強い。田所さんを地中に埋め、美波さんは目立つ所に遺棄する。そうすると、今回警察が翻弄されたように、夫が妻を殺害して行方を晦ますという図式になる。
(六)
「臣」の渡野の店でチョロの話をしてから暫くして、瞭のスマホに以外な人物から連絡が入った。名前を聞いただけでは誰だか思い出せない人物。愛実の住んでいたマンションを見たいと声を掛け、マンションの持ち主を聞いた時、思いきり引いた不動産屋の若い社員。あの時、何か分かったことがあったらと、瞭は強引に名刺を渡した男だ。期待どころか名刺を渡したことさえ忘れていた。
「あの、私の事覚えていますか?」
「ああ、悪い。どなたさまですか?」
「やっぱり忘れていますよね。今田雄太といいます。いや、私自身名刺を貰ったことさえ忘れていましたから。ほら、以前事故物件のマンションの事を気にしていましたよね。実は、更地にした土地を五年近くそのままでしたが、ビルが立つことになり工事が始まったんです。そしたら地中から人骨が見つかったんです」
「えっ、人骨が。それじゃあ、殺人事件ですから警察が動いているんですよね」
「それが、気味悪いことに左手首の先からの骨だけだったんです。しかも、ⅮNAの結果、野崎愛実さんの左手だったんです。椎名瞭さんの名刺に探偵事務所と書いてあったので、調べて貰えるか電話してみたんです。うちの社長が気味悪がって、たまたま椎名さんに名刺を頂いていたのを思い出したんです。警察は自殺で処理された物件だということで捜査はされないとのことです。ただ、ビルの建て主からハッキリさせろとやいのやいの言われて、工事もストップしているんです。調査費用は社長が出すので、調べて貰えませんでしょうか?」
瞭は一瞬何のことか分からなかったが、忘れていた愛実のことが急に目の前に引きずり出されたようだった。
「分かりました。まずは、詳しい事情を伺いたいので、お手数ですが事務所まで来ていただけますか?少し分かりずらい場所ですが」
「住所が書いてあるので、スマホで調べて伺います。十時過ぎになると思いますがかまいませんか?」
「勿論です。お待ちしております」
瞭はスマホを置くと腕時計を見た。九時前だった。それから耕史に電話を入れた。
「おはようって起きてたか?」
「当たり前じゃ無いか。今日は金曜日。一般人は仕事を始めてるぜ。お前みたいに、優雅に寝ている場合じゃない。ところで、どうしたんだ。お前がこんなに早く電話してくるなんて」
「愛実の亡霊が現れた」
「えっ?どういうことだ」
「今大丈夫か、少し長くなるけど」
「勿論、俺の時間は俺が決めるんだから」
「何だぁ、それじゃ俺と変わらないな。我がまま言ってると、その内、会社を首になるぜ」
「俺は会社の頭脳なんだから、そんな心配は無用だ。それより、どういうことだ」
瞭は先程電話をしてきた不動産屋の今田雄太の話を伝えた。一瞬、耕史の息を飲む声が聞こえた。
「まじか、確か自殺してたんだよな」
「前にも言ったけど、俺も大学生で警察の事は分からない。ただ、その当時の警察が自殺と判断したんだから自殺ということだろう。だが、荼毘に付された骨が更地になった場所から出たということは誰かが故意に左手首の骨を埋めたとしか考えられないよな。どっちにしても、これから今田が来るから、その辺りのことを聞いてみるよ。まあ、今田もてんぱってるから分からないだろうけどな」
「俺も、これからそっちに行こうか?」
「駄目だ。今田は探偵である俺の所に来るんだからな。つまり、俺の客だ。お前がいたら、何も話さず帰る可能性もある。色々、聞きだしたら後で話してやるよ、愛実の事はお前の方が気にしていたからな」
「分かったよ。今晩、行ってもいいよな」
「ああ、宝屋の支払いはお前持ちな、じぁあ、夕食の時に。例の部屋は予約入れとくぜ」
今田は約束通り十時過ぎに現れた。紺のスーツを着込み、そのまま物件を紹介するような雰囲気だったが、その顔は緊張したままだった。
「分かりにくかったでしょう。まあ、お座りください」
今田は、買い換えたばかりの黒皮のソファに深く座った。この際とばかり、ソファ以外にも壁紙を張替、テレビや冷蔵庫、流し台やコーヒーサイホンに机やテーブルなど事務所を一新したせいで、ビルそのものは古いが事務所は明るいイメージになった。最も仕事は暗い話が殆どだが、せめて雰囲気だけでも前向きにしようと思った。決して志桜里に言われたせいではないが、耕史は女の力は凄いなとニヤニヤ笑って馬鹿にした。
「もう少し電話の内容を詳しく話して頂けますか?」
「電話で話した通りですが、私自身よく分からないんです」
「では、十年前今もそうかもしれませんが、土地の持ち主はどなたですか?」
「はい。私自身十年前は入社しておりませんでしたが、書類は揃えてきました」
今田は、黒いトートバッグから茶封筒を取り出した。
「成程、失礼ですが今、おいくつですか?」
「二十六歳です」
「ということは、当時高校生ですね」
「はい。取り壊されたマンションが事故物件で、自殺された方がいたことは聞いていました。まさか、十年経ってこんなことが起こるなんて思いも寄りませんでした。一等地ですが、呪われているなんて言われて社長も頭を抱えているんです」
「それで、持ち主は十年前も今も一緒の方ですか?」
「はい、そうじゃなくても事故物件は敬遠されますし、更地にしてもおいそれとは。十年経って、やっと売れたと思ったら、この騒ぎです。最初は呪われているなんて思わなかったけど、こんなことがあると否定出来なくなりそうです」
「では、持ち主の氏名と住所を教えて下さい」
瞭は手帳を拡げ記入する態勢に入ったが聞いた途端、十年前と今が繋がったと確信に近い思いに捕らわれた。持ち主は、戈木党党首、赤木登五十四歳。十年前なら四十四歳。その彼が渋谷の一等地にマンションを建てることが出来るのだろうか。親の遺産が入ったとか、調べる標的は、赤木登。弱小政党と言われる戈木党には何かある。
「人骨の件も含めて、至急調査します。他に何かあった時の連絡先は今田さんでよろしいですね」
今田は宜しくお願い致しますといい、頭を下げて帰って行った。
昼過ぎ、早いかと思いつつ、「臣」の渡野の携帯に電話を掛けた。瞭自身興奮しており、話を聞いて貰う相手は荒野しかいない。夜の仕事だから寝ているかと思ったが、二回のコールで出た。
「起こしてしまいましたか?」
「まさか、もう仕事モードですよ」
荒野は笑いながら言った。
「どうなさいました。興奮しているような声ですが」
瞭は、さっきまで今田と話していたソファに深く座り直し、深呼吸をした。それから、ゆっくりと今田から聞いた事を話した。
「それは」
荒野も一瞬言葉を切ってから言い出した。
「私も戈木党について調べていたのですが、これと言って怪しい動きはありませんでした。しかし、十年前となるとは考えてもいませんでした。警察も自殺で処理されていたんですよね。でも、それなのにマンションを撤去するなど不自然ですね、かなりの金もかかりますし。ひょっとすると自殺ではなく殺人で、自殺と処理されても不安で撤去したんでしょうかね。万が一後から証拠となる物が発見されたら大変だと。それにしても、ただでさえ弱小政党に大金があるとは思えませんから。当然、バックにかなりの人物が係っているんでしょうね。後は、今回掘り出された人骨は一体誰が埋めたんでしょう?」
「俺も大学の時、何度か野崎愛実と飲んだりして少し関りがあったんですが、金持ちの娘と聞いていたので留学したと聞いて納得し忘れていました。それから彼女の友人が行方不明じゃないかと心配したので、俺が警察時代の後輩に出入国を調べてもらったら、出国してないことが分かり、更に十年前に自殺していることを知ったんです。その頃は俺も大学生だったし、愛実の事は何も知りませんでした、親兄弟の事も。ただ、こうなると愛実を丸裸にするには警察の力が必要になるんです。警察は十年前に自殺として処理した案件を真剣に調査するとは思えないんですよ。しいて言えば、警察内部の人間も人骨の出所を調べなくてはいけなくなると思うんです。確証はないんですが、母親が確かシングルマザーで父親は政界の大物Xらしい。しかも、母親は愛実が十二歳の時に自殺しているらしいという不確か証言しかないんですよね」
「私の方も戈木党の事を調べてみます。ただ、十年前の事となると簡単にはいかないかもしれませんが、何といっても赤木登という名前が出てきたことは大きいと思いますから」
瞭は渡野と話した後、どうやって警察内部の情報を得るか考えた。後輩の野口は年下だから、十年前の事を知る由がないし、今は例の田所夫婦殺害事件に追いまくられているだろう。後は秘密裏に頼める人間は一人しかいない。部署は違うが却って動きやすい面もある。瞭は志桜里の携帯に電話した。
「ああ、瞭君」
「今、話せるか?」
「大丈夫よ、今遅い昼食を取っているから。今日の午前中、交通安全のポスターの事で会議が長引いてね。ところで何?」
「勿論、デートの誘いに決まってるだろう?」
志桜里は溜息を付いて言った。
「ハイハイ、で何なの」
「是非とも志桜里と夕飯を食いたいんだ。お邪魔虫が一人いるけどな」
瞭は、夜七時に事務所に来る約束を取り付けた。瞭は宝屋に予約を入れようとして、ふっと考えた。確かに、あの個室は防音効果もしっかりしているが、今日は金曜日で客も多いいだろう。しかも、耕史と二人なら別に目立たないだろうが、そこに警察官である志桜里が加わったら、万が一警察関係者や記者の目を引き付ける可能性がある。特に内容が内容だ。この事務所も探偵事務所を立ち上げる時に、防音処置といざという時の隠しカメラも施してある。瞭は宝田に電話して、店が立て込む前に冷めてもいい料理の出前を頼んだ。それから、奥に畳んで置いたローテーブルを引っ張り出し、ソファの所に置いてあるテーブルに付けた。高さも丁度いい。準備万端整えてから遅い昼食を取りに古色蒼然とした喫茶店「止り木」に行った。ここは瞭の事務所より更に奥まった所にあり、白髪混じりの老人が一人でやっている。店内は静かに流れるブルースの曲が落ち着きを醸し出し、美味しいコーヒーに彩りを添えている。
「いらっしゃいませ。お久し振りですね」
このところ色々忙しく、コーヒーをゆっくり飲む暇が無かった。
「ミックスサンドとコーヒーのブラックを。ここに来ると仕事を忘れて癒されるよ」
瞭はカウンター席に座ると、店主の鏑木に言った。
「ありがとうございます。お仕事柄気を使われるんでしょうね。私はのんびり仕事させて頂いておりますよ。ご覧の通り儲かりませんが」
鏑木はミックスサンドとコーヒーをカウンターに置くと、思い出したように言った。
「そう言えば、瞭さんの名字は椎名さんでしたよね。懐かしいなぁ。ほら、初めていらした時に、瞭ですっておっしゃったので、いつも瞭さんとお呼びしていたから名字を気にすることがなくてね」
瞭が、この喫茶店に来たのは事務所を立ち上げて暫くしてからだった。分かりにくい場所だったせいか、ここに喫茶店があることも知らなかった。あれは、何年前だろう。たまたまぶらついていたとき偶然見つけ、奥まったこんな所に喫茶店があるのを珍しく思った。何度か入った折に椎名といい、ああ瞭でいいですって言ったんだ。二、三年位前だろうか。
「そうですね。もう二年以上になりますかね」
「いえ、懐かしいと思ったのは、もっと前。あの方は瞭さんのお父さんかな、いや、お祖父さんかな」
瞭は摘まんだタマゴサンドを、もう少しで落としそうになった。
「何十年前の事ですか?」
「そうか、そうですね。何十年前になるんですね。いえね、私が店を出したのは四十過ぎでして、今でも目立たない店ですが、あの頃は特にお客が少なくて、それで納得していたんです。あの日は昼を大分過ぎても誰もいらっしゃらず、初めて来店して下さったお客様でした。入って来るなり、ここは隠れ家みたいでいいですねって、おっしゃって。その分、儲かりませんよって言ったら、お会計の時じぁ前払いをしておこうと言って、あの当時で何万も払っていかれて、お名前をお聞きしたら椎名ですと。てっきり何度も通って下さると思っていのですが、それが最初で最後のご来店だったので不思議だったんです。暫くは椎名様の名前を書いて待っておりました。今でも意味が分からないのですが、潰れそうな店だと思って寄付して下さったのかと」
「ご主人は、古希になったとおっしゃっていましたよね。それなら二十年位前ですね」
瞭は心臓がドキドキしてきたのを意識した。父が殺されたのが二十九年前。瞭はそっと息を吐き出して聞いた。
「その男は若かったですか?」
「いえ、私と同じ位の中年の方でしたよ」
その時、中年ということは仁だろう。父が殺害されたのは、二十八歳だったのだから。今の自分より若い、改めて父の無念さを感じた。二十年前に来た祖父の足跡が一瞬でも感じられ、同じ店に来ている自分との時間が重なった気がした。
「その時、中年ということは祖父ですね。何となく時を経て同じ場所にいることを奇遇に感じますよ」
瞭はゆっくりとサンドウィッチを食べ、コーヒーを飲んだ。祖父が、この店に入ったのは偶然だろうけれど、このあたりで何か仕事の最中だったのだろうか、例えば犯人を尾行とか。それはないな、尾行の最中に食事をする訳がない。ただ、隠れ家みたいでいいと言ったのは何か事件に関してか、それとも祖父は公安だったから、あちらこちらに部屋を持っていたのかもしれない。瞭が考えに耽っていると、鏑木が店の奥の方をガサゴソといじり出した。暫くすると、古い紙箱を探し出してきた。
「これこれ、思い出しましたよ。あの時、万札の間にメモみたいな小さい紙が挟んであったんです。すぐに、いらっしゃると思って、他のメモ用紙と一緒に箱に入れていたんです。何十年も経って、仕舞っていたことも忘れてました」
鏑木は、三センチ四方のくすんだ紙を瞭に渡した。瞭が見ると何かの数字が書かれていたが、小さく黒ずんでハッキリとは分からない。瞭は、その紙切れを手帳に挟んで、「止り木」を出た。内心、この数字の意味は分からないが、祖父が意図的に万札に挟んだのか、たまたま万札に紛れて仕舞ったのか。瞭は初めの方だと思った。ひょっとすると、尾行していたのは祖父ではなく、尾行されていたのではないか。だから、このメモを万札に隠した。でも、大事なメモだったら何で取りに来なかったのだろう。どっちにしろ、このメモの番号は最初の三という数字だけは辛うじて分かる。後で何とか割り出そう。でも、警察を信用してはならない気がしている。
耕史と志桜里は、示し合わせたように六時半に事務所のドアの前に立っていた。
「何だ、待ち合わせて来たのか?」
瞭は二人を見ながら言った。
「妬くなよ、大丈夫、お前の女に手は出さないよ」
「ちょっと何の冗談。それってセクハラだからね」
瞭は二人を見ながら言った。
「何、遊んでるんだ。今日は真剣な話なんだからな。まあ、座ってくれ」
耕史は、テーブルに所狭しと並んだ料理に目を向けた。
「今日は宝屋に行くんじゃないのか?」
「あそこの個室は防音処置がされているけど、三人でコソコソしているのを見られるのがヤバいかも知れないと思ってな。特に志桜里は一応警察官だから。料理の請求書はお前持ちな。まずは、冷めてもいい料理を頼んでおいたけど、まずは食おうぜ。あっ、話が終わるまで酒は抜きな」
三人は暫く食べる事に専念した。少し落ち着いてから、瞭は今田から頼まれた仕事に付いて話した。すぐに、耕史が反応する。
「愛実は自殺じゃ無かったってことか?」
「いや、十年前に自殺として処理されているから警察は捜査をしないだろうな。マンションが取り壊されているから、今更殺人の証拠が出て来るわけないし。もっとも証拠隠しの為に処分しただろう。今田の依頼は、人骨が出て来た経由をハッキリして欲しいとの事だ。土地を買ってビルを建てる会社が渋り出しているから」
「人骨って?」
何も知らない志桜里が口を挟んできた。
瞭は簡単に愛実の事を話した。
「十年前は俺達は大学生で、その時何度か居酒屋で飲んだくらいの付き合いだった。その後、耕史が助平心で色々調べると自殺したと分かったんだ。今度、そのマンションがあった土地を更地にしてビルを建てる事で工事を始めた途端、左手首の人骨が出てきたんだ。しかもDNAの結果、愛実の骨と分かった。こうなると骨を埋めた人間がいる。問題は誰かということだ。しかも、元の持ち主は戈木党党首の赤木登。今、特捜が躍起になって探している田所夫婦の殺害の犯人探し。しかも、田所美波は戈木党で事務員として働いてた。志桜里が名刺を渡した相手だ」
瞭は話疲れて、お茶のペットボトルを半分近く一気に飲んだ。
耕史はマンションの持ち主が戈木党党首の赤木登ということに少しショックを受けていた。
「愛実の父親が赤木登ということもあるのかな」
「いや、俺はそれは無いと見てるが。二十年前赤木登は三十四歳だぜ。まあ、無くはないが。極小政党つまり赤木の後ろに誰かいるんじゃないかな、一等地にマンションを建てるだけの金を出す人間。志桜里に頼みたいのは、愛実を丸裸にする資料を何とかならないか。愛実の本籍とか親含めて親族はいるのか。あの頃、噂では金持ちの娘とかシングルマザーで自殺しているとか。愛実の自殺ということで何にも明らかにされていない。今回の田所夫婦の殺害に戈木党が関与しているかもしれない。ただ、事実がハッキリしなければ机上の空論で終わってしまう。でも、戈木党のバックに大物がいた場合、志桜里に危険が及ぶこともあるかもしれない。しかも、今度愛実の手首の骨を持ち出せる人物。そして、その骨を更地に埋めた人物の意図」
瞭は話ながら、その人物像が分からなかった。自殺として処理した警察に喧嘩を売っているのか、その人物が十年前の事に疑問なり納得していない警察官か。
「確かに難しい事だよな。一般人が十年前の愛実の骨を簡単に持ち出せるのか。そもそも、愛実の骨は、どこへ納骨されているのか。やっばり愛実の事を調べなくては分からないよな。確かに瞭の言うように、志桜里が調べ始めたら困る人間がいたら志桜里に危険が及ぶ可能性もある」
耕史は及び腰になった。
「やあねぇ、私を誰だと思ってるの、私は優秀な警察官よ。手始めに野崎愛実さんの本籍地を当たってみるわ。確かに政治家が絡んでくると警察が信用出来ないって事よね。大丈夫よ、私なりの伝手があるから」
志桜里は一人で納得している。それはそれで瞭には怖く思えた。まずは、志桜里の結果待ちで動く事にした。後は、たくさんの料理を摘まみにビールを飲んだ。志桜里が帰った後、瞭と耕史は、改めて愛実の自殺が不自然だったと話し合った。当時、大学生だった二人には何も出来なくても、今なら出来ることがある。耕史は今の戈木党ではなく、十年前の戈木党について調べ直すと言った。瞭は鏑木から貰ったメモが気になっていたが耕史には言わなかった。瞭自身、余りにも唐突に出て来て戸惑っていた。耕史は、いつものように瞭の上の部屋に泊っていった。
(七)
瞭の事務所で人骨の話し合いをしてから、志桜里が野崎愛実の本籍地を探し出したのは二日後だった。それを聞いて、早速事務所に集合した。
「志桜里、早かったな。ヤバくなかったか?」
「大丈夫よ。警察とは関係ない筋から調べたから。まあ、私のエスかな」
耕史は、驚いた声を上げた。
「志桜里にエスがいるのか?」
瞭も初めて聞いたので驚いたが、突っ込まないことにした。
「野崎愛実の本籍地は、滋賀県草津市になってるわ。愛実の母親は東京の御徒町で愛実を出産した記録はあったけど、やっぱり配偶者は白紙。愛実が十歳の時、母親が風呂場で左手首を剃刀で切って出血死しているわ、やっぱり自殺で処理されてる。本籍地には誰もいないのに、愛実はその後草津の養護施設に中学卒業までいたみたい。不思議でしょう?それから大学に入って、例のマンションに住むまでの間、どこにいたのか記録がないわ。大学入るまでの三年間が抜けているし」
志桜里は一気に話しペットボトルのお茶を飲んだ。
「志桜里、よく二日でここまで調べられたな。よっぽどエスが優秀なんだな」
瞭は素直に驚いた。
「瞭君、それって私の手柄じゃなくて、エスがいいからって事。まあ、どっちにしろ所々抜けているのよね」
「いや、ここまで調べられたのは凄いよ。これで大分愛実のことが分かってきたからな。ふっと気になったんだが愛実の母親が手首を切ったのは本当に自殺なのかな。まるで、愛実の時と同じじゃないか。今回、愛実の左手首の骨が出て来たのも、何かの因縁か復讐かもしれないな」
黙って聞いていた耕史も考え込んだ。
「なあ、俺達十年前の愛実の自殺を不審に思ったけど、ひょっとするとそれ以前から繋がっているのかな。そうなると、いよいよ難しくなるよな。どっちみち物的証拠となるものは探しようがないし」
「後は、愛実の遺骨がどこに収められているかだよ。何しろ、あの骨は愛実のだからね」
「そうよね。調べてみるけど親族と言われる人がいないのよ。それも不思議よね。血縁もなくぽっと人が現れるはずないもの」
「いや、いないんじゃなくて消されたとか」
「えぇ、親族一同殺されたとか」
瞭は、まさかと首を振った。
「違うよ、書類上の事だよ。もし、凄い力のある黒幕だったら書類の書き換え何て訳ないさ。それこそ、殺人を自殺にする方が大変だと思うよ」
「流石、瞭も志桜里も警察官だけあるな。俺には思い浮かばない世界だよ」
耕史は、出版社の企画で海外で夢を追い掛ける女達の特集を組むことになり、てっきり愛実が留学しているものだと思いこんだ。それから、愛実の自殺に発展し、今度は母親の殺人疑惑まで繋がると、記者には付いていけない世界だな。二人の話を聞いてると、少し悔しい思いがある。
「何言ってんだよ。警察官は警察という世界に縛られているんだ。それが強力な武器になる一方、不正義の槍に突かれたら一瞬で藻屑になる危うさも含んでいる。俺は警察の武器が欲しい時と、それから解放された武器もあると知ったよ。まずは、今田の依頼を調べるしかないな。何たって仕事なんだから。まずは愛実の遺骨の存在だな。悪いが志桜里のエスに頼んでくれないか?」
「ええ、分かったわ。この方が難しいかもしれないわ。無縁仏として、何処かに入れられたらね。いや、多分そうだと思うわ。十年前に自殺した死体は警察が関係者を探し、分からなければ荼毘に付されるでしょうね。ほら、公園などにいる浮浪者は亡くなっても身元を示す物を持ってない人が多いから、結局警察が身元不明者として荼毘に付し、暫くは置いとくみたいだけど。十年前に自殺した愛実さんの事に関係した人なら、分かるかもしれないけれど」
「そうだな、難しいかも知れないな。確か、愛実の遺書があったから自殺と判断されたらしいが事実は分からないよな。こんなに複雑な事ばかりだと」
瞭は考え込んだ。
「そうだ、掘り出された人骨が愛実のものだと確認されたんだよな。と、いうことは確認するためには愛実のⅮNAが必要だよな。十年前に自殺した者のⅮNAって保存されていたのかな。やっぱり愛実の自殺に関係した人がいないと分からないか」
「でも、十年前なら事故でも事件でもデータとしてファイルされているんじゃないの。昔は資料は紙だったから、時期が過ぎると処分されてたみたいだけど、今は危機管理室みたいな所だと残っていないかしらね。ああ、でも警察に知られるとまずいのよね」
黙って聞いていた耕史が首を捻って言った。
「今、思ったんだけど、今田さんが更地から出てきた人骨を警察に聞いたら、自殺した愛実のものなので捜査はしないって言われたんだろ う。その時、警察は素人に説明するのが面倒だったのかもしれない。でも、警察としては誰の者でも人骨が出てきたんだから無視できないはずだろ、こっそり捜査しているんじぁないか?」
「そうだな、もし殺人を自殺として処理した者に取っては、誰が埋めたのか恐怖だろうな。そうなると、いよいよ警察内部が信じられないな」
「週刊誌でスッパ抜くというのはどうだ。だって実際土中から人骨が出てきたのは確かだからな。警察は、かなり焦るぜ」
耕史は、考えながら言った。
「それは、お前の会社がヤバいことにならないか?警察から目を付けられるぜ」
瞭は耕史の会社での立場が心配だった。
「いや、今田さんは警察から自殺した愛実の骨だと言われているんだ。それならこれは、秘密でもないだろう。俺は編集長に他社が手を付けてない記事だ、これはスクープだと言って捩じ込むよ」
結局、耕史の出版社の出方を待ってから、再度三人で会うことにして、この日はそれぞれ別れた。
次の日、瞭は耕史から今週の週刊誌に愛実の骨発見の件を捻じ込む事に成功したと電話してきた。週刊誌が三日後に出版されるので、当日の夜に再度瞭の事務所に集合することにした。週刊誌が出版された当日、まさに三人が集合したその日、新聞の夕刊に戈木党の赤木登が自殺した記事が一面を騒がした。警察内部も一枚岩では無い。愛実の骨が出てきた時点で警察内部では監察が十年前の愛実の自殺に関して調べ始めたばかりだった。
瞭は弁当とペットボトルのお茶をテーブルに並べた。
「今晩の夕食は簡単だけど、それどころじゃないよな。耕史の会社の週刊誌が、こんな形になるなんて思わなかったよ。ひょっとすると、愛実を自殺に見せかけて殺したのは赤木ってことも考えられるし。何たって自分のマンションの事だったからね」
耕史は弁当を食べながら、あっという顔で言った。
「ほら、俺が十年前の戈木党を調べるって言っただろう。戈木党が結成されたのは、愛実の自殺の後だった。つまり、愛実を殺すことで巨額の金を手に入れたんじゃないか。それを資金元にして戈木党を立ち上げた」
瞭は考えた。そうだとすると、黒幕はとてつもない人物ということになる。志桜里も不安げな表情になった。
「そうなると、黒幕は巨額の金を持ち、本籍地の改ざんや警察、ひょっとすると政界も牛耳っている人物?」
「今の俺達じゃ動きようがないだろうな。ただ、監察が動き出したらしいと聞いた。暫く、様子をみようか?俺も、それとなく警察の様子を知り合いに聞いてみるよ。でも、志桜里は、何もせずにな。何か、嫌な予感もするし、お前は交通安全課何だから。それと暫くはここに来るなよ」
耕史は、頷いた。
「そうだな、志桜里は大人しくしていたほうがいいよ。俺は警察から離れた所にいるし、記者なんだから情報を得るのが仕事だし。これからは、瞭と俺とで動いてみよう」
志桜里は何となく仲間外れみたいな気がしたが、確かに下手に動けば二人の足を引っ張りかねない。それから、志桜里は早目に引き上げて行った。
瞭も耕史も、これといった作戦もなく、ビールを飲んで、耕史はいつものように瞭の部屋に泊った。
(八)
八方塞がりの状況が続く中、混乱続く中東の国で、一人の日本人が死体で見つかったとの情報が外務省にもたらされた。若い男とは分かったが、身分証も無く身元不明とされた。日本に搬送され指紋から初めて身元が判明した。後藤安治、三十歳。十八歳の時、傷害罪で捕まったが喧嘩による事ということで、不起訴になっている。やっちゃんは本名だったということだ。中東の国の混乱で殺害されても日本の警察は手が出せないし、これから先が進まない。その間に志桜里の携帯の着信先が判明した。女性の遺体が発見された一週間前に志桜里の携帯に一瞬掛かってきた着信。志桜里は以前、美波に何かあったらと名刺を渡していた。だから、てっきり美波からの電話だと思っていた。それが田所和彦の携帯番号だったとは。田所は美波の遺体が発見された同時期から無断欠勤していた。しかし、携帯番号が田所和彦としても、本人が掛けた証拠はない。ただ、志桜里の携帯番号を知り得る人物であることは確かだろう。それなら、その人物が志桜里に電話した意図は攪乱か。田所夫婦殺害の事件は暗礁に乗り上げてしまった。瞭は、これこそが二人の殺害を依頼した人物の狙いだったかもしれないと思い始めていた。美波の浮気などなく、和彦に疑心暗鬼を抱かせ、さらに巻き込んで真実を闇に放り去る。こんなに大がかりな事件、二人の殺人と巨額な資金を駆使しても隠さなければならない事の裏には、政治家あるいは、それを動かしている黒幕の存在。瞭は黒幕の闇が父が殺害された二十八年前から引きずっているのではないか。仁が最後に言い残した言葉「気を付けろ。誰も信じるんじゃない」は仁が闇の存在の端緒に気付いたのかもしれない。息子の無念を晴らして欲しい気持ちと、孫を失うのではないかとの恐怖。仁の事を思い出した時、瞭は「止り木」に行ったとき鏑木から渡された仁が残していた紙片の事を思い出した。鏑木が三センチ四方のくすんだ紙を瞭に渡した。瞭が見ると何かの数字が書かれていたが、黒ずんでハッキリとは分からなかった。あれから色々な事柄に奔走しているうちに、紙片の事は忘れていた。今、あの数字の意味が重要な手掛かりになるのかもしれない。仁が故意に紙幣へ忍ばせたのだから。瞭は上の部屋に上り隠し金庫を開け、茶色の小さな箱を取り出した。再度見返しても何かの数字三らしいが、紙が黒ずんでハッキリとは分からない。
チョロの正体が後藤安治、三十歳であることが判明してから、瞭は再度「臣」の渡野の所へ行った。
「やっぱりチョロでしたね」
瞭が話し出す前に渡野が言い出した。
「私もあれから戈木党の事を再度調べ始めたら、赤木登が自殺したことで戈木党は解散していました」
「俺は今度の一連の事件は父が殺害された二十九年前から始まっていたと考えているんです。父が殺害された原因に黒幕大物Xがいた。もし、その大物Xが政治家や警察を動かす力を持っていたら、日本を動かす事もできる。勿論、それは極端として。でも、その中の一部の人間を抑える事はできる。大物Xの周りには汚い仕事を引き受ける人間がいる。例えば赤木のように。果たして赤木が自殺かどうかも揉み消すことができる。俺が警察に入った時、父の事件は時効になっていた。ただ、その時事件を捜査した人に話を聞くことが出来た。その人は、まるで神隠しにあったみたいだと言ってました。警察官が殺害されたとのことで、警視庁や所轄など多くの警察官が動員されたにも関わらず、犯人に辿り着けなかったと」
瞭は仁が最後に言った「気を付けろ。誰も信じるんじゃない」の言葉を浅野に言ってしまった。これじゃ浅野をも疑ってしまったようじぁないか。
渡野は笑いながら瞭の前にオレンジジュースを置いた。
「今夜は素面じゃないと考えが纏まらないんじゃありませんか?疑ったらきりがありませんよ。瞭さんも元警察官だったら初心に帰りませんか。事件を解決するには何が必要か?」
瞭は浅野に頭を殴られたような気分になった。
「揺るがない証拠です。でも、それを隠蔽されたら。ましてや二十九年前です」
渡野は笑いながら瞭さんはせっかちですねと言う。
「何か事を起こしたら、必ず足跡を残すと思いますよ。まずは最初の一歩です。それを手掛かりに追い詰めていくのですよ。あっ、この言葉は仁さんが言ってたことです。仁さんは息子さんの事件を調べていた時、信じるのは証拠だと。まずはマンションに埋められた愛実さんの骨。これは揺るぎない物証です。そして、愛美さんを自殺から殺人だとの犯人に対する強烈なメッセージだと思いませんか?」
瞭は考え込んだ。
「確かにそうですね。ただ、愛実の本籍を調べたとき、改ざんされていました。だから愛実の骨壺がどこにあるのか分らなかったんです」
「どうでしょう、誰にも見咎められず骨壺を隠す事ができる人物は限られるんじゃないですか、例えば警察官とか」
「まさか、警察官が何故。それに愛美が自殺したとされてから十年ですよ。マンションが撤去されてからも五年です」
「例えばですよ。更地が売れて建物が建つことになったのは、つい最近じゃないですか。そして、それを待っていたかのように骨が現れる。この状況は、犯人をあぶり出す時を待っていたとか」
確かに骨が発見されたのは建設を始めた業者が見つけたのだ。瞭も渡野の言葉に納得した。瞭はふっと仁が隠したと思われも紙片の事を渡野に話した。黙って聞いていた渡野は、その時の状況を聞いて頷いた。
「きっと、その紙片には重要な数字が書かれていたはずです。仁さんが意味なく万札に挟むとは思えません」
「でもそうなら、何故祖父は取りに行かなかったんでしょう。何十年も」
渡野は暫く考えてから言った
「さっき瞭さんが、その時仁さんが誰かを尾行していたのかと思ったが、反対に仁さんが尾行されていたのかも知れないと思い直したと言いましたよね。仁さんは公安です、すぐに気付くはずです。それから仁さんが渡した紙片が危険な代物だったら、その喫茶店には行かないでしょう。私もハッキリ言えませんが、もし仁さんが常に監視の目を感じていたら。多分、仁さんが息子さんの犯人を探していたのに気付かれていたとすると、その喫茶店に行く訳には行かなかった。それほど、その紙片に書かれている数字は爆弾だった」
「でも、その紙片は何十年も経っていて、微かに数字だとは分かるですが読めないんです。科捜研にでも調べて貰えば分かるかもしれませんが」
「それは危険ですね。仁さんが言った「気を付けろ。誰も信じるんじゃない」ってことです。それは、最後の切り札として安全な所に隠しておいたほうがいいですよ。そして、誰にも言ってはいけません、親友にも。危険が及ぶかもしれません。今更、私にもとは言えませんが。まずは、骨について調べることですね。私も赤木について調べてみます」
(九)
瞭は渡野と話してから、愛実の遺骨に触れられる人物、そして愛実に対して深い愛情のある人物。十年間自殺では無いと考えていた人物。ただ、殺人の証拠が無いと言われ、遺書もあったら異議を唱えるのは難しいかもしれない。渡野の言う警察官なら当てはまる要素が浮かんでくる。十年前、瞭や耕史は大学生で、愛実とも何度か飲んだだけで、個人的な話をした覚えはない。その時、愛実は警察官と交際していたのか、それとも自殺として処理した警察に不審感を抱いた警察官か。どちらにしても十年は長い。もう一つ、原因が愛実にあるのではなく、赤木本人に対して何らかの恨みを抱えていた警察官。赤木の人生を丸裸にする必要がありそうだ。確か渡野が赤木の事を調べると言っていた。瞭は、別の角度。赤木の戸籍を調べ子供の頃からの事、例えば警察官が同じ出身で、赤木との間で何かしら苛めを受けていたとか。それでも十年間は長い。余程の事が無い限り恨みを持ち続ける事にはならないだろう。
瞭は久し振りに耕史へ連絡した。耕史は週刊誌が引き金となり、赤木が自殺した事で忙しくなったようだ。金曜の夜、耕史は瞭の部屋に来た。何かとヤバい気がして暫くは宝屋への出入りを止めている。
「久し振りだな」
耕史は来るなり言ってソファにどっかりと腰を下ろした。新しくしてから汚れを気にすることがなくなったからか。
「ほら、寿司とツマミを買って来たぜ。ビールぐらいはあるんだろうな」
「ああ、ビールとスポーツドリンクはいつでも冷蔵庫に置いてるよ。急に客が来てもいいようにな」
「成程、滅多に来ない客用か」
「来たそうそう嫌味か。それより週刊誌の反響はどうだ」
「まあ、反響はあったが赤木の自殺に持っていかれたよ。自殺が殺人だと分かった時点で警察は愛実を殺した犯人は赤木だろうとして、決着を図りたいんじゃないか。警察の事は分からないが監察もその方向で決着するつもりだろう」
瞭は寿司を摘まみながら、愛実の骨について警察官なら保管していた骨壺を持ち去る事が出来るんじゃないかと話した。渡野の存在は耕史 にも話していない。あくまでも祖父から受け継いだエスだから。
「お前、週刊誌の後追い記事として赤木の出身地や子供の頃の事を調べられないか?ひょっとすると警察官と赤木の繋がりが出てくるかもしれない。俺が動き出すと目立つからな」
「その警察官が以前赤木との関係があったという事か」
「ああ、単なる繋がりじゃない。何十年も前からの繋がり。それを持ち続ける位の恨み。警察官となった男は愛実の事でマンションの持ち主が赤木と分かった。警察官ならすぐ分かったはずだ。だが、遺書もあり自殺とされた。それを覆す機会をずっと待っていた。更地になっても売れず、五年待ってビルが建つことになった。このタイミングで骨を埋めれば発見される」
耕史は、グッとビールを飲んだ。ふぅと息を吐いてから言った。
「それこそ、ちょっとやそっとの恨みじゃないな。それを利用して大物Xは自分の配下に赤木を入れ、更に大金を出してマンションや戈木党を出す価値があった。そうだな、赤木が議員なら個人情報とやらで煩いが、殺人犯とみなされているなら大丈夫だろうな。それに、大物Xも自分に火の粉がかかる前に火消に躍起になるだろう。それは、大物Xを曝け出すチャンスかも知れないな。早速、明日から動いてみるよ」
「俺は定年になった警察官に当時の現場の状況なんかに探りを入れてみるよ。現役警察官じゃ話さないだろう、何たって警察官も監察官に調べられたということを汚点と思っているだろう」
その夜も、耕史は当然のように瞭の所に泊まった。
瞭は十年前、愛実の自殺を捜査した人間で、今、退職した人物をどうやって見つけ出すか考えた。総務部人事課で調べて貰うのが早いが、当然教えてくれる訳がない。そうだ、自分が私立探偵になってから、父の事件を担当した刑事に話が聞けた。こんな事を言うと刑事としての矜恃が地に落ちるが、まるで神隠しにあったようだとも言った。あの時、話を聞いた刑事は誰だっただろう。多分、定年になっているはずだ。瞭は警察手帳とは別に常に持参し、父の事件に関する資料を記載していた手帳を探し出した。瞭が探偵事務所を立ち上げてから、半年位経ってから聞いた人物。石田毅だ。歳は六十六だと書いてある。今は、三年位経っているから七十近いのではないか。その時の携帯番号も丁寧に書いてある。愛実の自殺の時は十年前だから、五十九歳位で定年まじかだったはずだ。ただ、いくら定年したと言え警察官の個人情報を簡単に教えてくれるとは思えない。瞭は石田の携帯に電話してみた、ダメもとで。まずは、以前父の事で話を聞かせてくれた礼を言った。
「実は野崎愛実は同じ大学の後輩で付き合いがあり、自殺はショックだったんです。ましてや殺人だったとは。十年前は刑事になる前の事で何も分かりませんでした。以前、お話した通り私立探偵ですが警察官も経験しています。愛実が自殺とされた現場はどんな感じだったか知りたいんです。石田さんは愛実の自殺現場に臨場しませんでしたか?」
石田は少し息苦しそうに咽た。瞭は慌てて大丈夫ですかと聞いた。
「ああ、肺癌になってな」
瞭は一瞬言葉に詰まった。
「えっ、じぁ病院ですね。済みません知らなくて、お電話をして」
「いや、もうステージ四で手術も出来ないので、自宅に戻って来てるんだ。それから、愛実さんの件ご愁傷様だったね。友人だったんだ。俺は現場に臨場したが、若い女性の死体は何度見ても悲惨としか言いようがないね。でも、まさか殺人だったなんて。鑑識もキッチリ調べたあげたと思うけど」
石田は時々言葉に詰まりながらも言った。
「私も六年間刑事をやって、色々な現場に行きました。勿論、鑑識さんが這いずり回るように調べている姿には関心していました。ただ、愛実の最後はどんなだったか知りたくなりましてね。確か遺書があったと聞きました。石田さん以外にも臨場した警察官はいましたよね。ちょっと話を聞きたいんですが駄目でしょうか?」
「彼は私より三歳位若かったけど、あれから間もなく警察を辞めたんじゃなかったと思うよ。確か名前は脇田譲じゃなかったかな。でも、今どうしているか分からないよ」
「そうですか。いや、愛実の最後を聞きたかっただけですから。殺人事件の犯人も分かりましたし。それより具合の悪い時に話して頂いて有難うございました」
瞭は、お大事にとは言えず電話を切った。脇田譲か、でも愛実の事件以後、急に辞めるのはなんでだ。多分、その時五十八歳位だろう。定年まで二年位なのに何故辞めたんだろう。あれから十年経っているから、脇田は六十六歳位で赤木は五十四歳だ。約十歳くらい離れている。そんな二人に接点なんかあったのだろうか。一応、名前が割れたので耕史に連絡した。
(十)
耕史が瞭の探偵事務所に来たのは一週間後だった。赤木の出身地は長野で、地元では有名な進学校出身だった。父親は役所勤めで、母親は専業主婦。共に死亡しており、一人っ子だった。東京に出て行ったのを近所の人は聞いていたが、どこの大学かは聞いていない。その頃、両親が自宅の火災で死亡。火災の原因はハッキリしていないが、登が東京のマンションにいた事は確認されている。火事の後、帰ってきた登は代々の広い土地を処分、両親の火災保険の保証金。又、父親は一人っ子の登の為に、かなりの財産を残していたらしい。ひょっとすると、あのマンションは、その時の遺産が元手になっている可能性もある。少なくとも登がここに住んでいた間に警察と関係できたことは無い。
「つまり、脇田譲と赤木登との接点は東京に出てきてからだな」
耕史はソファに腰を下ろすと長野で買ってきた土産の野沢菜の御焼きを食べながら滅多に来ない客用のビールを飲んだ。
「そうか。でも、赤木と脇田の間には何かしらの関係があるはずなんだが。じゃないと脇田が十年近く、愛実の遺骨を持っていた意味が分からない」
瞭もビールを飲みながら御焼きを摘まんだ。
「そもそも、その刑事の脇田が愛実の遺骨を持っていたことの前提が違うんじゃないか、証拠もないんだし」
「そうだな。もう一回、愛実の過去を検証するしかないか」
「その出発点が間違っていたら全部が否定される。俺たちは無意識にすべてを大物Xを絡めている気がするよ」
耕史は飲みながらも冷静に分析していた。瞭も確かに事件を一つに結び付けているのかもしれない。田所の妻、美波が戈木党に勤めていた、そして夫の和彦共々、殺害された。そこにチョロチョロしていたやっちゃんこと後藤安治が犯人と目され、海外で殺害される。戈木党の党首である赤木の秘密を美波が気が付き、夫に言う。しかし、果たして秘密が赤木の事とは判明していない。例えば大物Xの事だったら後藤安治に大金を払い、海外に逃がす。ひょっとすると、後藤安治をわざわざ海外に逃がしたのは、殺害しても自分に降りかかってくることは無いと踏んだのだろう。確かに中東の反乱地域では完全犯罪となるだろう。父の事件に固守したら前に進まない。渡野の言うように現在完全な物証がある愛実の事件から始めよう。瞭は明日からだと思い、滅多に来ない客用のビールを空にした。
(十一)
次の日、瞭と耕史は愛実の事柄から始めた。
【一】愛実に付いて話し出したのは、耕史が野崎愛実がアメリカに留学していないのではと言い出した。十年前から行方不明だと。瞭が十年前に自宅のマンションで自殺していた事実を掴んだ。風呂場のバスタブで手首をカッターで切り、睡眠薬が検出されている。勿論、恐怖から逃れる為にと考えられるが、朦朧とした女をバスタブで殺害するのは簡単だ。でも、室内には争った形跡もなく、何といっても手書きの遺書が残されていた。筆跡鑑定もクリアしていたし、遺書は警察が保管しているはずだ。
【二】
愛実の母親、野崎文は確かにシングルマザーだったが、父親は政界の大物Xらしい?確証はない。野崎愛実の本籍地は、滋賀県草津市になっている。愛実の母親は東京の御徒町で愛実を出産した記録はあったけど、やっぱり配偶者は白紙。愛実が十歳の時、母親が風呂場で左手首を剃刀で切って出血死している。まさに愛実と同じで、やっぱり自殺で処理されているが、ハッキリとしない。本籍地には誰もいないのに、愛実はその後草津の養護施設に中学卒業までいた。それから大学に入って、例のマンションに住むまでの間、どこにいたのか記録がない。三年間が抜けている。母親と愛実の遺骨がどこに収められていたかは判明していない。
【三】
果たして愛実の父親は、本当に大物Xなのか。まずは、文が自殺と判断された東京の御徒町署で当時、文と愛実が住んでいた場所を確認する。
【四】
愛実が自殺したマンションは、赤木登の所有だった。愛実と赤木登との接点。例えば、愛実の父親が赤木登だとすると、自分の娘を殺害したことになる。その理由は?でも、そうなると、わざわざ地中に愛実の骨を埋める意味がない。そのことで、赤木登は自殺している。それに脇田譲元刑事と赤木登の接点は?当然、政党党首の赤木登に前科はない。
瞭と耕史は愛実について、ざっと書き上げてみた。まずは、耕史が口火を切った。
「こう箇条書きにしただけで、俺達愛実の事について何も知らなかったんだな」
「しょうがないだろう。十年前、俺達は大学生で殆ど接点は無かったんだし。お前が雑誌で海外で夢を追い掛ける女達っていう記事を書くということが発端で、あの当時愛実がアメリカに留学したと思っていたんだよな」
「ああ。それが」
瞭は少し考えるように黙った。
「まずは、原点に立ち返る。野崎文が自殺したとされる御徒町署に聞いて見よう。例え自殺でも記録が残っているだろう」
「それは、お前の役目だろう。例の後輩刑事の伝手で」
「だが、あいつに頼むと高く付くからなぁ」
瞭はチラッと耕史を見た。
「分かったよ。でも、今回は折半だぜ」
次の日、野口に連絡を取った。
「先輩、我班は例の殺人事件で忙しいんですよ」
「何言ってんだよ。夫の和彦さんへの疑いに固守して、結局犯人逮捕に至ってないじゃないか」
野口は、黙ってしまった。
「それより、野崎愛実の母、野崎文の生活状況や自殺に関する資料を御徒町署から取り寄せてくれ。俺の方で田所夫妻の殺人事件に関する情報を渡せるかもしれない。そしたら、お前警視総監賞ものだぞ」
「それ、本当ですか?」
「但し、裏取りはお前たちの役目だぞ」
今回、野口は何の要求も無く、夕方には野口文に関する資料を持って来た。よっぽど焦っていたのだろう。瞭は歌舞伎町辺りでやっちゃんと呼ばれていた後藤安治が大金を持っていた事実。その後、中東で殺害された件について徹底的に調べるようにと言った。二人を殺害した報酬金の可能性も。そして、殺害を依頼した人物を洗い出すこと。野口は喜んで徹底的に調べますと言って帰って行った。瞭も気になっていた件だが、国際的な事も絡むと個人では難しい。
(十二)
瞭は野口から渡された野崎文の生活状況や自殺に関する資料を読み込んでいった。そして、その中に脇田譲の名前が出てきた。当時、文は御徒町の古いアパートで暮らしていた。仕事はバーのホステス。そのバーがヤクの取引所と疑われ、脇田が潜入捜査官として出入りしていた。脇田が関係していたのは赤木登ではなく、野崎文だった。当時、脇田は三十代で妻子がいた。もし、脇田と文に関係があったら、愛実の父親ということも有り得る。文は亡くなっているから、真実を知っているのは脇田だ。当時、不倫の関係で、しかも事件関係者と。果たして脇田と連絡が取れるのだろうか。いや、退職したとしても家族との関係がある。
夜、相変わらず握り寿司とツマミを持って耕史がやってきた。瞭は冷蔵庫に滅多に来ない客用のビールやスポーツドリンクなどを補充していた。
「脇田は妻子があったし、文は事件関係者だから問題があった。だから、二人の仲はすぐに終わった。多分、文の方から別れを告げただろう。文は脇田に惚れていたと思う。もし、愛実が脇田の子供だとするとシングルマザーを覚悟しても産みたかったのだろう」
瞭は野崎文の生活状況や自殺に関する資料を耕史に渡して言った。耕史は黙って読んでみると、確かに関連があると思った。
「脇田は文の自殺を知らなかったんだろうか、警察官なら分かるはずだが」
「二人が別れてから二十年経っているし、脇田は世田谷署で事件に追われていたかもしれない。殺人事件なら未だしも御徒町で起きた自殺には関心を持つ暇がなかったのかも知れない。十年前、愛実の自殺現場に臨場した脇田は名字を見て、すぐに文の事を調べ、初めて文が自殺した事を知った。それで愛実の骨を骨壺ごと隠した。警察も自殺した者に親族がいないとなれば、最終的に合同墓地に埋葬される。親族で調べたが文は草津の養護施設に捨てられ、その養護施設で育っている。愛実が草津の養護施設で育った経緯も親族がいない事も判明した。そして、脇田は密かに自分と愛実のDNA鑑定をし、愛実が自分の娘であることを確信した。本当に自殺なのか調べ始めたが、自筆の遺言書により自殺と判定された。その後、脇田は退職し調べ始めた。マンションの持ち主の赤木登が殺したのではないかと疑ったが証拠はない。十年待った執念は娘を殺した犯人を炙り出し、自殺と判断した警察にも復讐の時間だった。そして、ついに愛実の骨を埋める機会が訪れた。赤木は警察が動き出すことに慄き自殺した」
瞭は自分の考えを聞かせると耕史は黙って頷いた。
「赤木の自殺で愛実に関する殺人事件は、これで幕引きなのかな。愛実が草津の養護施設を出た後、俺達に会う五年余り愛実は何処にいたんだろう。金持ちのお嬢様で無かったのだから、大学の学費や生活状況、マンションで暮らしていた事はどういうことだろう?パトロン、例えば赤木とか。概ね愛実の人生は解明されたような、でも中途半端だよな」
耕史は、寿司を摘まみ、ビールを飲んだ。瞭は脇田が退職した後、愛実の事を色々調べた筈だと思う。
「だが十年後、愛実の遺骨が出て来たとしても殺人だったという確証はない。それなのに赤木は何故自殺したのだろう?」
瞭はビールを一口飲んで考えた。耕史は瞭の顔を凝視した。
「例えば、脇田が娘の復讐の為、殺したとか?いくら何でも、元刑事がそこまでするか?」
瞭は静かに首を振った。
「赤木の自殺はマンションの自室で、薬物による中毒死だったよな。薬物だったら簡単に殺害できる可能性もある。その場に居なくても前もってウイスキーに入れたり、常用しているサプリメントか何かにも入れる事もできる。赤木は十年前に愛実との事が原因で離婚しているが元妻の犯行ならが十年も待たないと思う。政党を立ち上げる前だ。政党を立ち上げた戈木党事務所にいた人物なら、誰でも赤木に薬物を飲ませるチャンスはあったはずだ、赤木に恨みを持っていた人物もいたかもしれない。そういうことなら、戈木党事務所で働いて殺害された田所美波も加害者になり得るし、他にも大勢の人物が出たり入ったりしていたはずだから、そこまで疑うと手に負えなくなるだろう」
瞭は、そこまで手を広げると間際がなくなるだろうと考えた。
「なあ、愛実の事は大体判明したんじゃないか?これ以上調べても限界があるからな」
耕史はビールを飲み干して言った。瞭も頷いた。
「そうだな。後は警察がどうするかだ。殺人だという証拠もないし、十年も経っているからこのままで幕引きになるだろう。依頼主の不動産屋の今田雄太には事件の可能性は無いからビルの建て主には大丈夫だと伝えるように言うよ。後は脇田がどうするのか分からないが、元刑事だったら事件にはならないだろうという事は分かっていると思う。赤木が死んで彼の中で決着が付くんじゃないかな。今、警察は田所夫婦の殺人事件で手一杯だろう。この前、野口に情報を出したから捜査を始めている筈だ。もっとも、この件は他国が絡むから難しいと思うけど。俺じゃ手が出せないからね」
瞭は闇の政界の大物Xが田所夫婦の殺害を後藤安治に依頼し巨額の金を渡したのではないかと考えている。しかし、根拠が無い時点では何ともしがたい。大物Xが父親の殺害に関係していたのではとの思いが瞭の中にある。まずは、渡野に言われたように目の前の事実を一つづつ解明していくしかない。