8万円で生きていた15歳の頃の私から、事務員へ。
はっきり言うけど、私の成績はすこぶる良かった。
うっすらとしか知らない実の父親は国立大学出の証券系出版社にお勤めだったらしいから、きっとその人の遺伝子がいい仕事をしてくれていたんだろうと思う。
勉強しなくても11クラス40人の中で14番前後だったんだから。
これだけが、子ども時代の私の自慢だった。
今になって思い出したら笑えるけど、あの頃の私は頭は良いのに馬鹿で。
夢見る夢子ちゃんだったんだろう。
いつかお金が稼げるようになったら自分の家を買うんだ、なんて、売り家のチラシばかりを眺めていた。
生活苦で働かなきゃいけない子供は高校には行けない、なんて。
高校に行けないほど生活でいっぱいいっぱいの子供は、大学にも行けないんだって。
だからいい仕事になんか絶対つけないし、普通の就職だってできないんだなんて。
思ってもいなかったんだから。
中学時代までが、だから私の青春だったのかも。
運動はからっきしだったけど、胸はあっても太らないタイプの、女子にしたら恵まれた体系だった。
童顔で、白黒ギャルが流行ってたから白ギャル風に寄せたスタイリング。身長は小柄と中背の真ん中くらい。
170センチとかに憧れたし、今も憧れるけど。
でもそうだったら私は夜の世界でも売れずに燻っていたかもしれない。
背の高い女の子は、男相手のほとんどの商売であまり売れない。
銀座や六本木のお高い店なら人気にもなるんだろうけど。
まあとにかく中学卒業まで家の外ではまあまあ楽しく人生を送っていた私は、
卒業と同時に夢の中から引きずり出された。
中学を卒業して定時制の高校に入ると、すぐにでも家を出なくてはいけなくなった。
元々家は出たかった。だけど、そのお金は誰が出すのか。
父親から振り込まれていた3万円は母の支配下にあった。
高校に慣れたら働くつもりだった私は、入学と同時にアルバイト先を探した。
まだ15歳だったけど、高校の学生証を出したらすぐに採用してくれた。
今になって、15歳って働かせていいの?とは思いつつ、助かったのだから御の字だ。
あの頃は不景気が当たり前で、コンビニのアルバイトの時給も安かった。更に高校生は100円安いと言われた。だから即採用されたのか、とも思う。あの頃はわからなかったけど。
それでもそれしかなかったのだから仕方がない。
援助交際が流行っていて、駅や道端の電話ボックスの近くで知らないおじさんに何度も誘われたけど、その時はそっちには手を出したらいけないと思っていた。
恐かったし…。
…まだ『ふつうの結婚』や『普通の家庭』に憧れていたのである。
夢子、死んでなかったのか、夢子。
定時制の高校で出会った、今で言う『親ガチャ失敗』の変な家で生まれた女の子と意気投合したのは4月の終わり。
主に、家を出たいというその部分だけではあったんだけど。
定時制の教室には、いろんな人がいた。おじいちゃんやおばさんや、少し年上の人が多くて、現役の私たちは浮いていた。
先生たちもどこか気楽な感じで、責任は自分で取りましょう、みたいなそんな雰囲気で。
私は、あそこが好きだったと思う。ああ、卒業、したかったな。
彼女と一緒に暮らし始めたのは高速道路沿いにあるラブホテルが乱立する中にある月4万円のアパートで、私が母親に頼み込んで付き添ってもらい、母親は私の父親の名前を勝手に使って契約をした。
敷金1か月、礼金は無し。バストイレ別で、1LDK。
2階建ての1階で、猫の額ほどもない庭だった。ラブホの壁が目の前にある、外置きの洗濯機置き場。
ホテルからのいろんな声が聞こえる場所に生える雑草を抜きながら、私は洗濯をした。
朝5時に起きて、坂の上のコンビニで朝6時から9時までの3時間働いた。色々引かれて、月に3万円。
その後アパートに帰って、貰った廃棄のお弁当を食べて、寝て、12時から16時半までまた違うコンビニでアルバイト。そこでも色々引かれて、廃棄のお弁当を貰って、4万円か、5万円。
母親はたまに作った料理をタッパーに入れて持ってくるけど、私名義の通帳に振り込まれていたお金は置いて行かない。パチンコで消えているのは知っていた。匂いでわかる、タバコ臭いパチンカス女。
こんな感じで、私は自分で稼いだ8万円で暮らしていたのだ。
家賃が半分で2万円。携帯代が5千円。
電気もガスも水道も半分で、一人1万円行くか、行かないか。
学費は5~6千円払っていたと思う。学食も(強制的に)ついてたし、修学旅行の積み立ても払ってた。
学費がうろ覚えだったから、今、あの高校の学費を調べたら、2000円に満たない。
まじで?安くなった?学食、積み立て金含めずってやつなの?
…これがそのまんまならズルイなぁ
…いや、良かった、のか。行きたい人が行けるようになったのなら良かった。うん。
で、8万から諸々支払って4万。
残りの4万で服や、ほとんど図書館ですませていたけど、本当にたまに本を買って、月に一回、ピザの日と、スカイラークの日があって。それでたまにする自炊の材料を買ったら、おしまい。
そんな日々を幸福に感じ始めていた、そんな時に同居していた女の子が学校を辞めて出ていった。
私は一人でもやれる。そう思って少し粘ったけど、少しで潰れた。
ぎりぎりだったんだなぁ、うん。
出費が3万増えたらもう無理で。ぺしゃんこに潰れて、高校に行けなくなった。
退学届を出したら、すぐに退学が決まった。
定時制だからね。
ハイハイ、ってなもんだった。
帰り際に受け取ろうとした数万円ほど貯まっていた積立金は、事務員がわざわざ母親に電話をして渡した後だった。
あの女は、そういうときだけは本当に手も足も早かった。
勿論お金は返ってこない。
聞いたとて。
何を聞いても「お金が無い」というあの女の声を聞くのが心底嫌だった。
「私の積立金、知りませんか」って言いながら、あの事務員の夢枕に立ってやる。
そう思いながら、私はいろいろなバイトを掛け持ちして、結局はスカウトの『稼げるよ』という言葉に負けて、水商売に入った。
未成年でしたよ。
ええ、もうぴっちぴちでした。
一応ノンアルコールで貫き通したよ、20歳までは。
朝の4時とか5時まで働いてたから、18歳までにまとまった金額が貯まっていた。
で、未成年が夜の店で働くのが犯罪だとは知らなかったけど、後からなんとなくまずいって言うのはわかった。
近所で、一つ年上の子が働いていたお店の店長が捕まったからだ。ニュースにもなった。
私は犯罪者になってしまうのだろうか(もう時効だけど)補導じゃなくて、刑務所に行くんだろうか。(もう時効だけど!)
そんな風に怖くなって、私は18歳で服屋の店員になった。昼職っていうやつだ。
手取り13万。店服は買い取り。
安いブランドじゃなかったから、月に一本ボトムスを買って、トップスを3枚買ったらもう服だけで毎月5~7万は飛んだ。冬服は13万じゃ足りなかった。
貯金なんて母親に貸すのと生活費でどんどん無くなっていった。
だから服屋で朝から晩まで働いて、
その後家の近くのカクテルバーでバーテンダーをした。
時給800円。
21時から24時まで働いて、2400円
服屋がシフトで休みの日は17時から24時まで働いて。5600円。
月に8万円くらい。
バーに来る夜職の子たちと話すと、キャバクラを思い出した。
私は夜の商売が嫌いじゃなかった。
店の店員や女の子は独特な人も多くて苦手な子もいたけど、お客さんはほとんど全員好きだった。
私は根っからのファザコン…枯れ専…なんだと思う。
順番に思い出していく。
8万で生活していた頃が懐かしかった。
私の中に隠れて住む、15歳の私が言う。
『13+8で21万円も稼いでるのに、お金ってあればあっただけ必要になるものなんだろうか』
お金は、あっても無くても、恐いものだ。
あの事務員も、落ち込んだ私を見て落ち込んだだろうか。
いま、少しだけそう思えるようになったよ。