第4話「2人の気持ち 前編」
純恋は松葉杖で途中何度も転んで傷を作りながら必死で逃げた。逃げた先に木造の廃屋を見つけ、中に入った。
廃屋は平屋の小さな造りで、昔使っていたと思われる生活用品がいたるところに散乱していた。部屋の隅には子供用の赤いランドセルが転がっている。
「…戦前に家族が住んでいたのかなぁ…それにしても、散乱してるのはここから逃げたって事…?」
知床の特殊な自然環境に耐えられず、開拓民が逃げたと言う話を聞くが、本当のところはわからない。逃げ疲れた純恋は松葉杖を置き、畳の上の埃を払って押入れの前に座った。
(最果さん…ヒグマに負けて共食いとかされてないかなぁ…)
ヒグマは喧嘩で負けてしまうと、勝った相手に食い殺されてしまう。彼らの世界は恐ろしい世界なのだ。
純恋は最果のことが気になっていた。獰猛な野獣の姿を見た後でも、純恋の中では勇ましく優しい最果に変わりなかった。
(人間じゃなくてもいいから、最果さんとずっと一緒にいたい…また会いたい)
どんな形であれ、純恋は最果と過ごせればあとは何もいらなくなっていた。常に一緒でなくとも週に何回か会いに行ければそれでもいいとさえ思っていて、札幌を捨ててウトロもしくは斜里町市街で部屋を借りて暮らそうかと考え始めていた。
日が落ち夜になるにつれ、最果のことがどんどん恋しくなっていく。純恋は涙がひとすじ流れると途端に泣くことが止められなくなった。こんなにひとりの男に心を掻き乱されるのは初めてだった。
(最果さん…どうか生きてて…!)
純恋が強く願った瞬間、どこかで草を踏む音が聞こえてきた。
ーーガサッ…ガサッ…
(…誰…?!)
純恋は息を潜める。ここは観光客がそう簡単に立ち入れる場所ではない。ならばヒグマか…?
ーーフスッ…フスッ…
大きく匂いを嗅いでいるのか、それとも警戒を強めているための鼻息なのか…いずれにせよ、ヒグマだ。
(最果さんじゃないヒグマだったら確実に喰い殺されちゃう…)
ーーギシッ
(入ってきた!)
純恋は背後にある押入れの戸を開けて中に入った。かなりの埃っぽさとカビ臭さがあったが、今はそんなことは言ってられない。
ーーギシィ…ギシィ…フスッフスッ
(来ちゃう!来ちゃう!どうしよう!)
もう終わりかと思われた瞬間ーー
ーードスッ
今の音は押入れからではない。下から振動が来たので畳の上に何かを置いた音と思われる。
「純恋…ここにいるのか?」
最果の声だ。しかし、かなり弱っている様子だ。
「最果さん!」
押入れの戸を開け、すぐ様最果の体に触れる。暗闇で見えないが、首元に触れると何かで濡れた。
(まさか…?)
「最果さん…まさか…首を」
「はぁ…頸動脈をやられた…」
そう言うと最果は横に倒れた。
ヒグマは喧嘩の際、真っ先に相手の首を狙っていくことがあるのだ。
「最果さん!しっかりして!」
畳の上に置かれたリュックからバスタオルを取り出し止血する。さらにリュックからライトを取り出し照らすと、かなり出血していることがわかった。
「俺はもう…じきに死ぬ…」
「いや…死んじゃ嫌…!」
「しゃあねーよ…生きてたら必ず死が来るんだ」
「離れたくない…」
止まっていた涙が再びとめどなく溢れ出す。
「俺なんかで泣いてくれてんのか…こんな汚ねぇヒグマなのに」
「最果さんは汚くない!」
「でも獣臭いだろ…人間だったらそろそろ加齢臭かって年齢だし」
「最果さんだから獣臭くても加齢臭がしてもそれすら…もう、愛おしいっていうか…」
「…性格いいよな…ほんと…俺、人間だったらすぐ食事に誘ってるよ」
「ヒグマでもいいから誘ってくださいよ…ぐすっ」
「純恋なら誘われるだろう…?すぐにいい奴見つけて結婚だってーー」
感情が高ぶっている純恋は、畳み掛けるように最果への気持ちをぶつける。
「最果さんじゃなきゃ嫌なんです!最果さんじゃなかったら…結婚だって…結婚だって考えられない…!」
純恋は涙を止められず、最果の体にぼろぼろと涙を落とす。
気持ちをぶつけられた最果は目を見開き、大粒の涙をひと粒、ふた粒と流した。
「ありがとう…その言葉だけでもう…幸せ…」
「…最果さん…?!」
最果は力尽きた。体を揺すっても最果はもう動かなかった。
「最果さん…私を置いてかないでよ…もう、こんなに好きになれるひとなんて現れないのに…」
純恋は亡骸を抱きしめた後、頭を撫で長い犬歯が覗く口元に長く口づけた。
「愛してます…最果さん」
愛の言葉をを囁いた瞬間、最果の体が眩い光に包まれた。
「…?!」
光が眩し過ぎて反射的に手で目を覆った。何が起きたか純恋にはわからない。
しばらくすると光は消え、純恋は恐る恐る目を覆っていた手を降ろす。目を開き、見えたのはヒグマではなく人間の男であった。
「…お、男の人…?!」
男は白いワイシャツに黒のスラックスを履いて横たわっている状態だ。身長はおよそ170から175㎝ほどで、色白の肌に髪は真っ黒なくせ毛。長さは肩まであり、後頭部の盆の窪のあたりでゴムで束ねている。首元には真っ赤に染まった先程止血のために使っていたタオルがあるが、傷口はケロイド状になって塞がれていた。
(すごく…整ってて、日本人じゃないみたい…)
顔が整い過ぎていて、まるで目を閉じたマネキンが横たわっているようだ。「美青年」とはまさにこのことを指すのではないだろうか。
純恋は恐る恐る男に近づいてその手に触れた。温かく、微かに脈を感じた純恋は、男に声をかけてみる。
「意識ありますか…?あるのなら返事してください」
純恋の声に男の瞼と唇が僅かに動く。
「…す…す…ぅっ…」
何か言いたそうにしている口元に、純恋は耳を近づける。
「す…すみれ…」
純恋は確信した。この男は最果の元の姿だ。
「最果さん!目を開けて!純恋はここにいます!」
純恋の声に応えるようにゆっくりと瞼が開かれ、青い瞳が覗く。顔にかかるひと束の黒髪のくせ毛が微かに揺れ動いた。
「最果さん…」
純恋は最果の白く細い大きな手に触れる。それに応えるように最果は優しく握り返す。
「あれ…俺、生きてんの?」
「はい、生きてます!」
最果は恐る恐る自分の手を見る。
「…え…戻ってんじゃん!」
勢いよく起き上がり、自分の体を確認する。
「純恋、鏡持ってる?」
「はい、あります」
「ごめん、貸してくれる?」
手渡された鏡で自分の顔を確認する?」
「ちょっと歳くったなぁ…まあ35だしな。純恋、その…本当に俺でいいの?がっかりしてない?」
青い瞳で見つめられ、真っ赤に頬を染めた純恋は少し俯きながら「してないです」と答える。
「あの…思ってたよりずっとかっこよ過ぎて、私どんな顔したら良いかわからなくなってます…」
純恋は正直な気持ちをそのまま答えた。
「え?俺が?」
「はい…あ、だめ…恥ずかしいので見ないでください…」
恥ずかしさのあまり顔を覆って背ける純恋。しかし、好きな子にそんなことをされると男としては余計に…。
「そうやって焦らされたら見たくなるでしょ…?」
「あ…ちょっとぉ…」
最果は純恋の顎にそっと触れると顔を見て、
「すっげえかわいい…あー、もうずっと言いたかった」
と囁き、優しく抱きしめた。純恋は最果の背中にそっと手を回す。
生まれて初めて心から愛し始めた男性に「すっげぇかわいい」と言われ、さらに抱きしめられた純恋は胸をドキドキさせていた。