第3話「2人の距離」
翌朝、目覚めると最果の姿はなかった。外に出るのが怖かった純恋は、巣穴の中で過ごすことにした。
左腕につけたBABY−Gが午後2時を示した時、最果が戻ってきた。巣穴の奥で何かを口から出している。
「…最果さん?」
ライトで照らすと、大きな葉の上に川魚数匹と木の実などがあった。
「今日の食料。腹減ってるか?」
「はい…」
川魚を焚き火で焼きながら最果が質問する。
「そういえば、名前なんていうの?」
「私の?」
「そう」
「姫山純恋です」
「純恋か。まだ若そうだけど幾つだ?」
「25歳です」
「大学出たばっかりか」
「はい」
「仕事はどうした?有給か?」
「…会社が倒産して失業中です」
純恋は苦笑する。
「若いのに苦労してんなぁ。詳しいことはあまり聞かないとして、仕事探しはしてるか?」
「 はい。でも倒産直後に過労で入院したので就職活動が遅れちゃって…そのせいかなかなか受からないんです」
「それだけじゃないだろうそれ。何かは資格あるの?」
「TOEIC600点です。あと会社で取得しようとしてたのが「旅程管理主任者」の資格で…」
「添乗員さんになろうしてたのか」
「はい、そうです。よくご存知で…」
「昔ホテルで働いてたとき、たまに添乗員さんと話すことがあってな。あれ、資格がないと添乗できねーからな…焼けたぞ」
いい具合に焼き目がついた魚を受け取る。
「腹が減ってたらサバイバルには勝てねーよ。腹満たして次の策を練るんだ。思い切って別の道を選んだっていいんだよ、まだ若いんだからさ」
10年前にヒグマに変えられてしまった最果。もしかしたら今の最果はサバイバルに打ち勝った姿なのかもしれない。
そんな最果の人間性や優しさに触れ、純恋は彼のことが気になり始めた。一体何歳なのか、人間だった頃はどんな人生だったのか、好物だったものは…ーー。
(聞きたいことがありすぎてどこから聞けば…この場合、年齢かなぁ?)
「最果さん」
「ん?」
ーージーィ!!
「いやぁぁぁぁぁぁ〜!セミなんて食べるんですか?!」
最果の口には生きたコエゾゼミが尻から半分入っていた。それを噛み切って頭を吐き捨てる。
「セミはいい栄養源になるからなぁ。スズメだって喰ってるぞ。てかな、セミの他にも俺、蟻も喰うぞ?」
きっと、こういうワイルドな食生活が人間だった彼が今生きている理由なのだろう。
「で?俺が今幾つかって?」
「なんでわかるんですか?」
「顔にそう書いてた。今年で35だよ」
「私より10歳上なんですね」
「おっさんは嫌か?」
「10歳上くらいなら平気です。むしろもっと上かと思ってました。ヒグマで生き残れるくらいだから」
「そっか…それ喰ったら、カムイワッカ行こう」
「え?」
「“風呂”入りてぇだろう?今日は天気がいいから連れて行くよ。水着、持ってるか?」
「あります」
「入る予定だった?」
「そりゃ知床の観光地ですもの、用意しました」
純恋は笑顔で答える。
「よし、準備しよう」
「はい!」
カムイワッカ湯の滝に行くためノースリーブのワンピースの下に、水着を着て巣穴から出た。ワンピースが汚れようが、純恋は構わず這って巣穴から出た。
「最果さん…それは?」
最果が大きな木の枝を使って何かを作っていた。
「即席だが松葉杖を作った。これなら俺から離れても歩けるだろう?」
「ありがとうございます!」
早速松葉杖を使って歩いてみる。即席で作ったとはいえ、160㎝の純恋の身長にあった上等なものだ。
「それと、純恋のリュックは持って行こう。他のヒグマに持っていかれたら大変だからなぁ」
リュックを背負い最果の背中に乗る。
「こっから飛ばしゃあ5分だ。行くぞ」
時速60キロの全力疾走で森の中を駆けて行く。車と比較すると遅いが、手を離せば大事故になりかねない。純恋は必死でしがみついた。
5分ほどでカムイワッカ湯の滝にたどり着いた。カムイワッカ湯の滝は滝自体が温泉となっている滝で、通常入浴するためには滝登りしなくてはいけないのだが、純恋が骨折しているため最果は入浴スポットまで運んだ。
「結構滑るから気をつけて入れよ。あと、酸が強いから入浴は短めの方がいい。俺は純恋の警備に徹するわ」
「ありがとうございます。とても心強いです。…よいっしょっと」
「…わっ!」
背を向けた純恋がいきなり目の前で脱ぎ始めたので、最果は慌ててそっぽを向いた。
「行ってきます!」
最果に笑顔を向けると、草を掻き分けて足を引きづりながら滝に入っていった。
(水着ってまさかのスク水か…しかも結構な…)
昨日まで登山スタイルの服装だったため隠れていたものがスクール水着によって露わになり、そのため最果は思わず鼻血を吹きそうになった。ちなみに純恋のカップは最果の計算上、Fカップである。
しかし、現実は厳しい。
(…だめだ!俺はヒグマなんだ!もう人間の女の子とは付き合えねーんだ!どんなに純恋がもうめちゃくちゃすっげぇタイプだろうが、ヒグマじゃ無理だ!)
最果は純恋のリュックを抱きしめ、野性のとてつもない嗅覚でその匂いを嗅いだ。純恋本人を抱きしめている気がして一瞬幸せに感じたが、すぐに虚しさに変わった。
(人間の時は自分から努力しなくても女の子から寄ってきたり、長いこと付き合ったけど性格悪すぎて困った元カノだっていたんだ。恋になんか悩んだことなかったのなぁ…ちくしょー!)
最果が片目から一筋の涙を流している頃、純恋は左足を岩の上に置き、仰向けに寝た状態で気持ちよく入浴していた。美しい知床の大自然の中で寝転び夏空を見上げるというのは、なかなかの贅沢に感じた。
(ちょっとぬるめだけど、夏だからちょうどいいくらいだなぁ…)
湯温は30度くらい。冬だと寒いが、夏だと気持ちよく入浴できる。
通常昼間は観光客で賑わっているのだが、今の時間は人がおらず、貸切状態であった。
2分間の短い入浴で切り上げ、純恋は森の中に戻った。しかしそこにいるはずの最果の姿がない。
「最果さん…?」
素早く水着を脱いで体を拭き上げ、長い黒髪が濡れたまま着替える。着替えを済ませると松葉杖を使って歩き出した。
「最果さーん」
探し回っても最果の姿はどこにもない。代わりに聞こえてきたのは…ーー
ーーガルルルッ
(ヒグマ…!)
木々の隙間からヒグマが見える。だが、ヒグマが威嚇しているのは純恋ではなくーー
「最果さん…!?」
ヒグマが威嚇していたのは最果だった。最果の右下腹部には人間の時に負った手術痕があり、そこだけ毛が一部禿げているのだ。
ーーヴァァァァァァ!ヴァァァァァァ!
最果が獰猛な唸り声を上げた。いつもの優しい低い声とは違い、猛獣と化していた。
恐怖で動けずにいると最果が純恋に気づいた。戦闘モードに入っているせいか、眼光が鋭い。
「今すぐ逃げろ!純恋!早く!」
最果の指示に従い、純恋はその場から逃げた。