第2話「ヒグマの過去」
「着いたぞ」
ヒグマに連れて来られたのは、森の中の巣穴と思われる穴の前。
「俺の巣穴の隣に大きな岩があるだろ?そこに時間かかってもいいから座れ。二足歩行でお姫様抱っことかできないからさ」
純恋は座った状態で左足を引きずりながら岩に近づき、腰掛けた。
「左足か?見せてみろ」
純恋は怪訝そうな顔で、
「…食べない…?」
と訊いた。
「喰わねーから早く見せろ」
恐る恐る左足をヒグマの前に出す。ヒグマは熊の両手で優しく触診する。
「…痛い」
「ここが痛いのか。靴と靴下脱がすぞ」
患部を動かさぬ様にそっと脱がす。患部に皮下出血があり、腫れている。
「ちょっと触るぞ」
患部である左足首に直接触れると、少し骨が崩れているのがヒグマにはわかった。
「骨折してるぞ。傘か何かあるか?」
「折りたたみなら…」
「折りたたみか。他にも何か支えられるものは?」
「ガイドブックなら…」
「よし、包帯は?」
「あります」
リュックの中から必要なものを取り出し、患部を折りたたみ傘とガイドブックで支えながら包帯で固定した。
「ヒグマなのに手際が…」
「昔人間だったからなぁ。10年も前の話だけど」
「え…人間だった?!」
「信じられねーと思うけど、ウトロのホテルで働いてたんだぞ」
「ウトロって…まさか三つ星ホテルとか…?」
「そう、三つ星ホテルだった。ポジションは…想像に任せる」
「自らそう言うってことは…普通の従業員じゃなかったってことですね」
「上の方のポジションではあったよ」
「支配人…とか?」
「さあ…?」
話しているうちに巻かれていた包帯は結ばれ、患部が動かない状態になった。
「他のヒグマに見つからねーうちに巣穴に入ろう。巣穴に入れるか?」
巣穴の入り口は140㎝くらいの子供が入れそうな大きさで。斜めに奥深く掘られていた。
「俺が先に入るから合図したら足から入れ。滑ったらまずいから受け止める」
ヒグマから先に入り後に続いた。足から入り、そのままゆっくり後退する。
「奥まで入ったら俺に背を向ける形で体を横にして、膝を抱える様にしろ。そう…そうだ」
ヒグマの言う通りに入ると、自然とヒグマの腕の中にすっぽりと収まった。
「山登って疲れただろう?眠ったらいい」
人間の様な振る舞いで優しくされてもやはり彼がヒグマであることは変わりはなく、純恋の中で恐怖感が募るばかりであった。腕まくらにしている腕も、お腹に置かれた手も、人の手ではなく熊の手である。しかし、休憩を挟みながらきたとはいえ、札幌から約7時間車を走らせて登山をしていた純恋は体力の限界を迎えていた。
ヒグマは獣臭い。だが、柔らかな毛と温かな体温に包まれていると心地が良いもので、純恋は目を閉じるとすぐに眠りに落ちていった。
何時間眠っていたかわからないが、目が覚めると巣穴の中は真っ暗でヒグマの姿はなかった。代わりに外から何かを焼いている様な匂いが漂っている。
巣穴から出ると、ヒグマが焚き火でとうもろこしを2本焼いていた。通常ではありえない光景に、純恋は我が目を疑った。
「腹減ってるか?減ってるなら喰った方がいいぞ」
純恋は人間の様に振る舞うヒグマに対し、不信感と戸惑いを感じていた。しかし、空腹と生きるか死ぬかの環境下にいることを考え、恐る恐るとうもろこしを食べ始めた。
「俺に対して不信感抱いてるだろう?」
ヒグマの質問に、正直に答える。
「…はい」
「昔流行った熊のキャラクターみたいに、背中にファスナーとかあるか探してみ?」
純恋はポケットからライトを取り出し、目視と手探りで探す。が、ファスナーどころかヒグマの体に不自然なものは1つもなく、着ぐるみではないことがわかった。
「着ぐるみとかじゃない…」
「そりゃ、生きた野生の熊だからなぁ。元は人間だが」
「人間だった時のお名前は?」
「最果、最果燈夜」
「“最果”って、“最果ての地”の?」
「そう、その“最果”。知床らしい苗字だろ?」
「では最果さん、なぜヒグマの姿に?」
「話は長くなるけど、いいか?」
「ええ」
「俺は10年前、川で釣りをしていたんだ」
ーー10年前
釣りが趣味の最果は知床半島のオチカバケ川(斜里郡側、半島の左下にある川)で川釣りをしていた。
『…きたな』
釣り糸が小刻みに引かれる。小さな川魚だろうか。最果は慎重にルアーを巻く。
ーーザバァッ
魚は大きく飛沫を上げて釣り上げられた。
『オショロコマか』
オショロコマはサケ目サケ科に属する魚で、カラフトイワナとも呼ばれる。全長約20〜30㎝くらいの大きさで、体色は褐色である。
シングルフックをオショロコマから外し、釣り用バケツに放り込む。バケツの中には、10匹ほどのオショロコマが入っている。
(…釣り過ぎたか)
オショロコマは食べることを禁止されていないが、絶滅危惧種に指定されている。そのため最果は5匹川に放すことにした。
ーーガサッ
川に放していると、森の草むらのどこかで物音がした。
(ヒグマか…)
知床半島にはヒグマが約500頭生息していると言われている。当然、オチカバケ川周辺にいてもおかしくはない。
荷物とバケツを持って自分の車に戻ろうとした時だった。
『バケツに入ってるの、オショロコマだろう?』
どこからかわからないが野太い声が聞こえてきた。周りを見渡すが、観光客はおろか、人間の姿などない。
『ここだよ、ここ』
『…っ!』
目の前にいたのは一頭のヒグマ。体重およそ400kgはありそうな巨大熊が川の中にいた。
(やべぇ…下手したら喰い殺される)
最果はゆっくり後退する。背を向けて逃げると、ヒグマに獲物と認識され捕らえられるまで60キロの速さで追いかけてくるからだ。
『待て、私はお前を喰い殺そうとは思っていない。私の狙いはそのオショロコマだ』
『誰がそんなこと信じるんだよ。俺は帰るぞ』
最果は再びゆっくりと後退する。
『待たんか!』
ヒグマの姿が見えなくなったところで最果は駐車場に向かって前を向いて走り出す。しかし、既に遅かった。
突然林道に霧が立ち込め、一瞬にして周りが真っ白になった。
(海霧か)
知床半島は弓なりに伸びた牛のツノの様な形の地形で、周りは海に囲まれている。そして間に山があることでフェーン現象を起こし、暖められた海が冷やされることによって海霧が発生しやすい。だが、15秒も経たずに真っ白になるの初めてだった。
『オショロコマをよこしなさい!』
『っ!』
振り向くと背後にヒグマがいた。そして息つく間もなく大きな熊の手が振り落とされる。
『お前には一生ヒグマになってもらおう!』
ーーゴロゴロ…ドッカーン
最果に雷が落ちた。電流が全身を駆け巡る。
『うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁあ!』
『この地で飢え死ぬがよい!!!』
倒れている最果の傍らにあったバケツから、ヒグマはオショロコマを奪い去っていった。
そんなことがあってから何時間経ったのだろうか。目が覚めた最果は川を覗き込んだ。水面に映ったのは、ヒグマになった自分の姿だった。
それから10年、現在に至る。
「…そういうことだったんですか…」
「まあ、そういうことよ」
最果は食べ終えたとうもろこしの芯を穴を掘って埋めた。
話を聞いた純恋は、とりあえずだが最果のことを信じてみることにした。