第1話「ヒグマに遭遇」
7月上旬、北海道・知床
純恋はシレトコスミレを撮影するため、知床半島の主峰である羅臼岳の北東に位置する知床硫黄山を登っていた。
シレトコスミレとは、知床半島のみに分布し、知床硫黄山など、高山の砂礫地の中の非常に限られた環境で生息するスミレである。
純恋は幼い頃から夕張に住む祖母からシレトコスミレの話を聞かされて育ち、この目で見ることを夢見て生きてきた。両親が離婚し転校先でいじめに遭っても、その夢だけを希望に学校に通った。
しかし、大人になった純恋に転機が訪れた。
大学を卒業し夢を追って就職した会社が信用低下と放漫経営により倒産し、更に純恋自身が過労で倒れ入院したのだ。新人だが仕事ができた純恋に会社側が甘え、本来管理職がやる仕事を必要以上にやらせ、その上倒産直後の後処理も押し付けためである。そのせいか再就職活動が遅れ、関連した職業の数十、数百の会社の面接を受けてもなかなか受からない状況だ。
会社の寮から実家に戻っていたので生活は困らないのだが、仕事がないと肩身が狭く将来への焦りが生じる。終いには、
「このまま就職できないなら結婚しなさい。25歳でまだ若いんだから嫁ぎ先は幾らでもある」
父親が見合い話を20件受けてきた。
「どれもいい話だと思うぞ。土建会社の社長さんとか、酪農家さんとか…」
見合い写真をそっと見るが、どれも50歳はとうに超えているであろう方ばかりだ。
(私、介護士でも夜のお姉さんでもないんだけどなぁ…)
25歳の純恋の希望は、若さゆえの恋愛結婚だ。彼氏いない歴=年齢で男のおの字もわからない純恋でも、エゴかもしれないがやはり好きになった相手でないと結婚は怖いのだ。
「お父さん」
「なんだ?」
「結婚はお見合いじゃなくて好きになった人としたいの。もちろん結婚は生活だからお金も大事だけど、お互いの愛情もなければ冷めた家庭になっちゃうでしょう?お父さんとお母さんみたいに離婚したり、仮面夫婦になるのは嫌なの。そんなの、子供がいたらかわいそうだもん」
「そっか…」
「だから…この人たちには申し訳ないけど断わってきてほしいの」
純恋はこの時決意した。知床硫黄山に登ろう、夢見てきたシレトコスミレを見に行くのは今しかないと。
『知床硫黄山を登りに行きます。しばらく札幌には戻りません。 純恋 』
札幌から車で約7時間かけて知床硫黄山に到着し、今現在登っている。
カムイワッカゲートの脇を通り、花畑の林道脇を抜け、登山口、そして雪渓を進んで行く。
雪渓を抜けた砂礫地にシレトコスミレは咲いていた。白く小さな花弁を5枚身にまとった可憐な花は、美しい姿でそこにたたずみ登山者を見守っている。
夢にまで見たシレトコスミレを前に、ゆっくり屈む。純恋は心臓の鼓動が少し早くなるのを感じた。なんて美しい…いや、美しいだけでは表現し切れない何かがこの花にはあると感じ、感動で涙が出てくる。
純恋は涙を拭いながらスマホのカメラを向けた。現物を肉眼で見るのととカメラのレンズ越しで見るのとでは少し違って見えるのがもどかしいが、それでも記念として残したかった。
様々な角度から撮り納め、登山口に向かおうとした瞬間、足場が悪かったのか滑落した。
「ひゃっ…!」
落ちた先は手入れがされていない草地だった。頭上を見上げ目視で測ると、約3メートルと言ったところだろうか。左足を動かすと左足首にかなりの激痛が走り、立つことすらできない。
「やっちゃった…どうしよう…」
近くの木につかまり立ちできないかと草地を這っていると、どこからか男の声がした。
「怪我して動けねーのか?」
(…え?)
周りを見回すが人の姿はない。いるのは左手にある森の中にいるヒグマ一頭…。
「…っ!」
このままではヒグマに喰い殺されかねない、純恋はリュックのポケットから山小屋でレンタルした熊避けスプレーを取り出しヒグマに向ける。
「そんなもん、俺には効かねーよ」
ヒグマが口を動かし人語を話しているのを視覚で認識するが、ありえない状況に脳内での処理が追いつかず、純恋は混乱した。
(ありえない…ヒグマが言葉を話すなんてありえない!私は今危機的状況で混乱してるだけ!落ち着くんだ純恋!)
震える手で再びスプレーを向ける。しかし、それを嘲笑うかのようにヒグマはこちらに近づいてくる。
(…来る!来る!噴射しなきゃ…!)
ーーシュ…シュ…プシュー!!
スプレーの中身が噴射される。しかし、周りが臭くなるだけでヒグマは霧を払うように首を振りながら更に近づいてくる。
「どういうこと!?」
「クセェだけで俺には効かねーよ!今すぐやめろ!」
しかし、混乱している純恋にはヒグマの言うことに耳を貸すわけもなく、
「やだ!やだ!やだ!近づかないで!お願いだから私のこと食べないで!まだ男の人にも食べられたことないの」
と、余計なことまで口走る始末。
「ちょ…この状況で何言ってんだよ!混乱し過ぎだろ!」
「だってヒグマが目の前に迫ってきたら誰だって混乱するよ!死にたくないもん!」
純恋は泣き出してしまった。どうしたらいいかわからない状況で子供に戻ってしまっている。
泣き出してしまった純恋の目の前で、ヒグマは背を向けた。
「俺はお前を喰う気はねーよ。食べ物狙ってるわけじゃねーし。俺はただ助けたいだけ」
「…ヒグマが人を助けるわけじゃないでしょ…」
不審がる純恋。しかし、ヒグマは動じない。
「俺におぶされ」
「え…?」
「動けねーんだろ?ここでちんたらやってたら他のヒグマに目ぇつけられて喰い殺されるぞ」
「でも…」
「でもじゃない、早く乗れ」
純恋は少し冷静さを取り戻すと「死にたくない」という思いの元、ヒグマに従うことにした。
左足首の痛みに耐えながら純恋はゆっくりヒグマの背に乗った。
「行くぞ。しっかりつかまってろ」
ヒグマは純恋を乗せて走り出した。時速60キロで走ると言われているだけあって駿足である。純恋は落とされぬよう、しっかりとつかまった。