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最寄りの駅から徒歩20分程、住宅街から外れた人の往来も少ない場所に二階建ての古い木造アパートが建っていた。
所々壁の塗装も剥がれてしまっているそのアパートに仁美は躊躇せずに足を踏み入れ鞄から鍵を取り出し一階にある一室へと入っていく。
扉を開けた途端に中から暖まった空気が流れてきて外との温度差に思わず身震いをした。
「ただいま」
「おかえり」
生活に必要なもの以外テレビすらもないその部屋で仁美を迎え入れたのは腰を折り箒で部屋の床を掃いている彼女の祖母だった。
「おばあちゃんそういうのは私がやるから座ってて」
「少しくらい動いた方が調子ええのに」
帰ってきて早々仁美はゆっくりすることもなくコートとマフラーをはずし箒を取り上げ祖母を椅子へと座らせた。
渋々仁美に促された椅子へと腰掛け今度はちゃぶ台に置いてあったやりかけの編み物を再開させる。
「そんなに腰折ってたら悪くするよ、体を動かすなら昼間に散歩でも行ってきたらいいの」
祖母のぼやきに慣れたように返し窓を開け集めたゴミをまとめて掃き出した。
「だからってなんも家のこと全部仁美がやらんでも」
「おばあちゃん夕飯はシチューにするから」
制服の上着を脱いでその上からエプロンをつけこれまた慣れた手つきで食材を捌いていく。
「はあ、そんなんじゃぼーいふれんどの一人も作るのはいつになるのやら」
「おばあちゃんには関係ないでしょ」
「関係ないことない、仁美が素敵なぼーいふれんどの一人でも連れて来んと心配でおちおち寝てもおられんわ」
そこで祖母は立ち上がり台所の方へ移動する。今まで目を細めてなんとか手を動かしていたがさすがに限界だと老眼鏡を取りに仁美が料理をしているすぐ後ろの棚の引き出しを開けた。
「ただでさえ友達と遊んだっちゅう話も聞かんのにそんなんじゃ嫁入りなんぞいつになることやら」
目当てのものを引っ張り出し一度仁美の反応を窺うが何もなかったかのように料理を続ける仁美にため息を吐き取り出した老眼鏡をかけ先程座っていた椅子に戻り編み物の続きに取り掛かる。
程なくして料理が完成しちゃぶ台に二人分の食器と真ん中にシチューの入った鍋が置かれ祖母も編み物を中断し食卓についた。
「友達ならいるよ」
しばらく無言で食事をしていた二人だが不意に仁美が抗議の言葉を口にする。
間が空きすぎて理解に時間が掛かったが祖母は次第にその顔に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「おばあちゃんのことは気にせんでそんな嘘つかんでもええよ」
「いるよ、今日だって一緒に出掛けてきたし」
挑発するように投げ掛けられた言葉に仁美は表情こそあまり変えないものの明らかにむくれた様子になりさらに反論をする。
仁美の言葉を聞き流していた祖母も食い下がる彼女の様子にただ見栄を張っているわけではないと気付いたが、それでも尚挑発的な姿勢は崩さずに手に持っていた食器を置いた。
「ほんならその友達を一度家に連れてきてみなさい」
祖母の言葉に明らかに困惑した気配を漂わせ目を泳がせる仁美にため息を吐き食事を続けようと置いていた食器に手を伸ばす。
「何て言えばいいかわからない」
一口頬張ったところで姿勢良く揃えられた膝の上に両手を置いて目の前で湯気を立てている食事に目を落とした仁美が弱々しく声を発した。
「仁美」
急にしおらしくなった仁美に微笑みかける。
「自分の思ったことをそのまま伝えなさい、そうすればきっと伝わるさ」
「・・・うん」
先程とは違う優しく暖かい声音で包み込まれ自信無く項垂れていた仁美も顔を上げ返事をした。
食事を口に運び出した仁美に満足そうに頷き、祖母も冷めない内にと食べ始める。
二人の間には不思議と心地よい沈黙が流れていた。
「疲れた」
弘樹が自室にある椅子へと身を沈みこませる。
三人での話し合いは思っていたよりも早くに決着が着き、食事も入浴もゆとりを持つことができた。
といっても話し合いは弘樹が香里への不満をぶつけている時間がほとんどで中身としてはそこまで多くの事を話したわけではない。
一月後という長いようで短い期間では何か特別なことをしようともすぐには思い浮かばず、とりあえず近々親戚家族への挨拶はして後は思い付いたら都度三人で共有するという事で落ち着いた。
それよりも…。
「会社畳んだって流石に思切り良すぎるよ」
香里がほとんど家に帰らず忙しそうにしていたのは会社を畳むそのために手続きや従業員への説明等色々と奔走していたからだという。
それなりに貯えはあるし何もなければまた何処かで働けばいいさと笑っていたがその行動力にはいくらなんでも驚かされた。
何とはなしに手元にあった携帯を確認してみる。勇人と小春から数件のメッセージが来ていた。
勇人は今家族で田舎に帰る準備をしていて、小春は今後の事について家族会議をしているみたいで二人して愚痴を言い合っている。
大変そうだねと一言添えて弘樹が携帯を机に戻すと同時に部屋の扉が叩かれた。
返事を待たずに開かれた扉から風呂上がりだと思われる香里が首に掛けているタオルで雑に頭を拭いながら入ってくる。
「弘樹、今大丈夫か?」
胸の辺りまで伸ばした髪を掻き撫でながら無遠慮にベッドに腰を落とす。乾ききっていない髪をぞんざいに擦り付けているため水滴が辺りに飛び散っており弘樹は顔をしかめた。
「大丈夫って居座る気満々じゃん」
「まあな」
「それで、何か用?」
暖房の風量を弱めつつベッドの上で頭の水気を取っている香里に尋ねる。
「弘樹は何かやりたいことはないのか?」
改めて何を話すのかと思えば。
「だからそんなすぐに思い付かないって」
数時間前の話し合いで結論は出ただろうと食傷気味の質問に呆れ混じりに返答した。
「違う」
しかし香里はそんな弘樹の態度を一蹴するかのように厳しく言い放つ。
「さっきの話は三人で何がしたいかだ」
腕を組み殆ど睨むような鋭い眼光で弘樹に問いただす。
「弘樹自身は何かやりたいことはないのか?」
香里の醸し出す空気に気圧されながらもその言葉の意味を理解し再度思案してみるが。
「ごめん、思い付かない」
結局何も見つからず先程と同じ答えを繰り返してしまった。
「謝ることはない、ただ」
香里が立ち上がり再びタオルで頭を擦り始める。
「お前は周りの事を考えすぎて自分の事を蔑ろにするきらいがあるからな」
出入り口まで歩いていき扉を開けた所で弘樹を一度振り返った。
「残った時間は長いようで短い、その時に未来を切望することはあっても過去を悔いることはないようにしろよ」
それだけ言い残し香里は部屋から出ていった。
一人になった部屋には暖かい空気を送り込む音が微かに流れている。
しばらく香里の出ていった扉を見つめていたが体を戻し机に突っ伏した。
途端に携帯が震え始める。
今は話す気分にはなれずどうせ勇人か小春だろうと思い放っておいた、いつもの二人なら四、五コール程待てば勝手に切ってくる筈だ。
けれどいつまで経っても携帯は一向に動きを止めず不信に思い最低限顔を上げ明かりの灯った携帯の画面を横目でちらりと覗き込んでみる。
そこには今日登録したばかりの〝九条さん〟の文字が浮かんでいた。
慌てて携帯を引っ掴み誤って切ってしまわないように慎重に通話を開始させる。
「もしもし」
「もしもし?」
耳に当てた携帯から戸惑うような声が聞こえてきた。
「九条さんだよね?」
「うん」
連絡先を交換したばかりでまさかその日の内に連絡がくるとは思わず緊張してわかりきった事を聞いてしまう。
「その、こんな時間に迷惑だった?」
「いや全然、九条さんこそこんな時間にどうしたの?」
「その・・・今日は付き合ってくれてありがとう」
「俺も楽しかったし、こっちこそありがとう」
お互い慣れない電話にそれ以降会話が続かず黙りこくってしまった。
お礼を言うためにわざわざ電話をしてきたのかとも思ったが、それならば会話が終わった時点で用件はすんでいるはずだし他に何か伝えたいことがあるかどうかこちらから尋ねるか、などと弘樹が逡巡していると。
「あの」
仁美の方から再び声をかけてきた。
「どうしたの?」
聞き返すとおそるおそるといった風に仁美が話を続ける。
「急な話で、嫌なら、大丈夫なんだけど」
そこで一度言葉を切り、大きく息を整えた。
「今度うちに遊びに来ませんか?」
慣れない事をしたせいで最後に敬語になってしまったが、仁美は今日電話をかけた最大の目的を達成することに成功した。
文章力がなく
こそあど言葉多様しすぎな気がします