新釈・恋愛論
《恋のはじめに》
かつて、約二百年前、スタンダールというフランスの作家が『恋愛論』というエッセイを書きました。そして我が国、日本でも六十年ほど前、その作品に触発されたと思われる坂口安吾が、同名の短い『恋愛論』を執筆しています。
僕もまたここに、恋愛への一考察を示そうと思います。それは高校生である僕の未熟な代物であり、未熟であるからこそ渋柿のような味が出るのではないかと考える訳です。特にこの場では、様々な物語からの観点を中心に恋愛について触れていこうと思います。
恋愛とは不思議なもので、世界に共通する数少ないものの一つであると同時に、世界に同一のものは存在しません。研究者が多数いるのも頷ける、極めて不思議な概念です。
あと、概念に蜜の味があるのも素晴らしいですね。
さて、本文の前に一言。この文章はエッセイであると同時に、内容は作者とも世界とも無関係のフィクションだと思ってもらって構いません。線路高架下の壁に描かれた落書きくらいに考えて、遠くから眺めて楽しみましょう。
「恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。
ただ、すきだ、ということの一つなのだろう」
――『恋愛論』(坂口安吾)
三年ほど前、『君の名は』が大ヒットしましたね。僕は泣きました。深く内容には触れませんが、つまりは遠距離恋愛の物語です(何か違う?)。赤く長い紐の端を千切って繋げ直して絡めたような、複雑な構成が魅力的でした。
あらゆる物語に人々が求めるのは、《愛》か《闘争》が大半です。その極みは『カラマーゾフの兄弟』から『スター・ウォーズ』まで幅広く見られますが、昨今ではどちらの要素もない物語は、簡単に排除されます。
はるか昔から、人類は恋愛という営みを続け、それは結婚などとはまた別の場所で進行していくものです。
ただ、高校生に恋愛はつきものだという意見は、一概に賛成はできませんが。僕の友人にはフラれた奴やフった奴、別れた奴や恋路を闊歩する奴など、様々です。しかしやはり恋愛は、勉学や部活や友情と言ったメインディッシュに付け合わされたサラダの如きものだと考えます。その存在は必須でないし、野菜嫌いには嫌悪すべき対象でもあるのです。
それでも人に心がある限り、恋愛のプログラムも組み込まれてしまっているのでしょうね。
「愛してその人を得ることは最上である……。
愛してその人を失うことはその次に良い」
――ウィリアム・メイクピース・サッカレー
愛も恋も、定義が曖昧ですね。
そして曖昧であるものは、美しい。
英語では恋も愛も〈Love〉であるといいますが、考えてみると「恋しい」という語は存在します。
〈Miss〉。
女性の敬称も、思えばこの語です。そろそろこれを恋の訳語として使ってもいいのではないでしょうか。
(意味)失う、会いそこなう、理解しかねる、的外れ。
実に恋に相応しいと思いませんか? 失恋を含めて、恋とは「何かを失うこと」だという定義はあながち
外れていないと思います。
ちなみに愛の定義は、もっと簡単です。
愛……(定義)人間の中にあるエネルギー。それを放出することを愛するという。
人は愛で動きます。スポーツへの愛が選手を動かし、金への愛が人を働かせるのです。
「誰からも好かれる人は、深くは好かれない」
――『恋愛論』(スタンダール)
スタンダールは、恋には《結晶作用》があると述べています。これは彼の仮説で、分かりやすく言えば「恋は盲目」、完全な現代日本俗語に置換すると《乙女フィルター》ですかね。つまり恋をした人間は、塩が表面に結晶化して輝く石のように、平凡なる相手や世界を美化して認識するという傾向です。
なるほど、確かに恋は人を変えるとは聞くし、実際に恋愛中の友人で、心底不幸せそうにしている奴はまだ見たことはありません(まあ、『表面』の話ですが)。
さらに第二の結晶作用として、「自分は相手を愛している(好きだ)」と強く思い込むようになります。盲目どころか、幻です。そして、どちらも段階的に起こる訳でなく、夕空のようにグラデーションを変化させていきます。これでは、自らの感覚で変化に気付くことはできません。恐るべし、恋愛。
どれも仕方ありません。恋は自由落下、加速度的に落ちていくものです。ただし相手に深い包容力がないと、墜落死してしまいますけれどね。
「恋の始まりは、晴れたり曇ったりの四月のようだ」
――シェイクスピア
僕はまだ、恋に落ちた(Fall)ことはありません。
「じゃあなぜこんな文章をお前が書くのだ?」と聞くものがあるかもしれませんが、恋に破れた者にこんな客観的な恋愛研究は厳しいでしょうし、絶賛恋愛中の人間には、こんなものを書いている暇はない。
つまりは、恋愛することに無関心な人間にしか書けないものもあるのです。
僕は恋愛小説や漫画、ラブロマンス映画を好む反面、他人の恋愛に興味はありません。いわゆる、恋バナの目的がよく分かりません。ただ、恋愛をする気はあります。好きな人はいました。奇妙ですね、実に。
僕の作品も、ほとんど恋愛ものです。書きやすいというのが最大の理由で、理想の恋愛を追い求めているのかもしれません。
理想の九割九分は実際に見て失望するものですけれどね。
「人生は壮大な暇潰し」
――『逃げるは恥だが役に立つ』
「結婚は人生の墓場」という格言を聞くと、度々思うのです。
え、死ぬの?
よく考えると、恋人たちはなぜか死んでしまいます。『ロミオとジュリエット』は苦悩の末に死を選び、『タイタニック』なんて……あっという間でした(ネタバレとは言わないでほしい、『古典』と『史実』ですから!)。
僕の知り合いに、「昔、恋人を亡くしたらしい」という噂を持つ人物がいて、依然としてその真偽は判然としません。尋ねる勇気もありません。
少し逸れますが、「死んでも守りたいもの、得たいもの」はあなたにありますか? かなり高い確率でそれは恋や愛の場合があります。どんなものでも、そのように大切にできる一つ(一人、一匹)でもあれば、幸せが共にあるでしょう。
ちなみに僕が求めるのは、そんな一冊です……。
「一人でもいいから、
心から誰かを愛することができれば、
人生には救いがある」
――『1Q84』(村上春樹)
「浮気」を無理やりポジティヴに変換するなら、「愛を分け与えたい相手がまた一人生まれる」となります(なぜか良い行為に聞こえる)。しかし愛にもまた保存則があり、無尽蔵に湧き出てくる泉ではありません。
ショートケーキを切り分けるような慎重さが要求され、大抵は切り分け損ねておじゃんです。
批判も称賛もしませんが、僕の中学時代の友人で二股をかけた男がいました。結果的にすぐ崩壊しましたが、恋愛にも多様な《形》があるのは事実です。
有名なのは、《三角関係》でしょう。理系の観点から言えば、軸が三つあれば空間に座標を設定できて、三脚も三点あるから固定されます。ある意味で三角形は安定した形です。恋愛においても。
ここに別の恋敵や協力者を投入したら、複雑な(時に美しい)図形が生まれます。
良い例は源氏物語ですね。あれほど多くの女性が出ていながら、それぞれの個性があり、彼女たちの関係性がまた物語を生む。とても素晴らしいです。
「人生とは、素晴らしい映画みたいなものよ。
お菓子があれば、一人でも十分楽しめる」
――『また、同じ夢を見ていた』(住野よる)
恋愛は人生に必須ではありません。しかし、人間が生きていく上での指針の一つとなりえます。
そこで文学史の中でも人気を博したジャンルの一つが、ラブロマンスです。世界一売れた小説の一つ『二都物語』も恋愛が主題です(実は冒頭を見ただけで未読です、すみません……)。これは、下手な恋愛指南書より学ぶことが多いです。
ただし、恋愛に関する物語は、ミステリや冒険物語と決定的に異なる部分があります。それは、「引き延ばされたストーリー」である点です。
極論、あらゆる恋愛物語は、
「私はあなたが好きです!(I love you!)」
「私もあなたが好きです!(I love you too!)」
この二行のやり取りで事足りるでしょう。これを、すれ違いや恥で引き延ばし、調味料を混ぜて、綺麗に盛り付けることで娯楽としています。ですから現実と虚構の恋模様は全く別の色合いを持ち、通じるのは根本の部分だけなのです。
「君がバラのために費やした時間の分だけ、
バラは君にとって大切なんだ」
――『星の王子さま』(サン・テグジュペリ)
ちょうど二年ほど前、中学三年の冬のことでした。友人から連絡が来たのです。
「もしもし」
僕が応えると、唐突に切り出してきた。
「なあ、ちょっと出かけようぜ」
「どこへ?」
「キャナルシティ」
「なぜ?」
「カノジョへのプレゼントを買いに行きたいんだ」
静かに受話器を置いた。
受験勉強については僕もとことんサボタージュしていたから何も言えませんが、その申し出はどうかと思いました。つまりは、恋愛に人を巻き込むべきでないという意見です。
恋路は細道。幅は、二人分しかありません。他人に相談したい気持ちは理解できますが、酷いことを言うなら、結局「僕に利得はない」です。恋の形状は千差万別なのだから自分に役立てることは難しいし、何より時間の無駄。恋愛においては、思考より行動に時間を回した方が断然得です。
例外としては、小説の題材には事欠きません。あるいは、馬鹿話の種とか。つまり、恋愛に真面目さを向けるのは、焼け石に水なのです。
「愛は、互いを見つめあうことではなく、
共に同じ方向を見つめることである」
――サン・テグジュペリ
実は、スタンダールの『恋愛論』は筆者の失恋から生まれた告白書という側面も強いです。また坂口安吾も、『恋愛論』の他に『男女の交際について』や、悪フザケが過ぎて『悪妻論』というエッセイまで発表しています。雑ではないにしろ、彼らもまた僕と同様に恋愛を「それくらいのもの」として見ていたのだと思うのです。
恋愛は時に死んでも続く。天国では永遠の淑女であるベアトリーチェ様が待っているといいます。
死ぬまで恋愛の鎖に繋がれているなら、その鎖を愛せるようになりたいものです。
「恋も愛も脆いものだ。
しかし、恋と愛が人を強くする」
――未熟なる僕
(参考文献)
『恋愛論』(スタンダール)……新潮文庫、大岡昇平訳