夜、散歩の先は闇
俺の青春に開始地点という胡散臭いものが存在しているのなら、それはおそらく今日の夜の事だろう。
午後九時半頃。外出。いつもの散歩コース。
自宅のリビングでぼんやりとテレビを見ていたら愛犬のクロ(メスの雑種)が玄関のドアを前脚でカリカリと引っかいて散歩の催促をしてきた。仕方ないな、と気だるい身体を起こし散歩セットを片手に外出してから約二十分。気が付けば折り返し地点になる海浜公園の近くまで足を運んでいた。
もうすぐ犬を飼い始めてから六年が経とうとしている。
小学五年の夏に捨てられた子犬の世話を船長命令という横暴な要望で押し付けられたのが運の尽きだった。
『この子の名前はクロ。シャイニー海賊団の番犬でアタシ達の新しい仲間なんだから』
確か、そんなことを言っていた気がする。
傍若無人。唯我独尊。大胆不敵。わがままが服を着て歩いている。お姫様のように振る舞う海賊団の船長。
そんな奴が連れて来た新しい仲間。毛が長くてふわふわしていてお腹と足先の毛だけが白い真っ黒な子犬。
見た目が黒いからという安直な理由で船長から名前を付けられた我が家の愛犬。
今にして思えば、クロを引き取った事は良い判断だったと思う。
最初は半信半疑だったけどアニマルセラピーというものは案外バカにできない癒し効果がある。
それに今は愛犬の世話をするという明確な生き甲斐ができた。
もしもクロが我が家に来なかったら、今の俺はおそらく存在していなかったのかもしれない。そう考えると少しゾッとする。
『今日からこの子がアンタの新しい家族よ。これでもうさびしくないでしょ? ふふん。あたしに感謝しなさいよね!』
「…………」
ああ……駄目だ。
今日に限ってクロを見ていると『アイツ』との思い出ばかりが脳裏をよぎる。
ほんと、今日は感傷に浸る場面が多いな。普段なら昔のことなんて全然思い出さないのに。
健がシャイニー海賊団なんて懐かしい単語を出すから。思い出さなくて良い記憶まで胸の奥からジワジワと溢れ出てくる。
「…………」
仲間、仲間か。
「本当に仲間だったら裏切るはずないだろ」
昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の仇なんて言うけど。あそこまで手の平を返されたらもう笑うしかない。
「何が仲間だよ白々しい。最後まで味方だったの健だけじゃねぇか」
人の心はふとした切っ掛け一つで簡単に変わる。信頼だとか絆だとか友情なんて嘘臭くて薄っぺらい物は悪意の前では何の役にも立たない。
俺はそれを中学時代に学習した。嫌というほど思い知らされた。
「結局、一番大事なのは自分なんだよ。自己保身に走るのは別に恥ずかしいことじゃないんだ」
進路上の先にある見慣れすぎてもはや見飽きてしまった公園の遊具を遠目から眺め、そんな独り言をブツブツと呟く。
「他人に期待するのも、されるのも何もかも全部、面倒臭い」
いっそ何もかも全部かなぐり捨てて何処か遠くに行けたなら。新しい場所で新しい生活を始めれば。何かが変わるのだろうか。
変われるのだろうか。
その前に一人で行けるのか?
寂しがり屋のくせに。
なら、二人なら──。
「ワフッ」
そう二人なら。
「ワン!」
こうやって昔みたいに誰かに手を引かれて強引にでも連れていかれたら──って、どうしたクロ!?
俺が物思いにふけていたら、クロが急に鳴き出してガリガリと地面を蹴り上げ広場の方に向けて力強く走り出そうとしていた。
「おい、待てクロ。今日は公園で遊ばないからな!?」
「ウォン!」
前進出来ないと悟るとクロは後退りしてでも広場の方へ向かおうとする。首輪が顔に食い込んでクロの表情がシワだらけのブサイク面になる。
気が付けば愛犬と綱引きの真似事をしていた。
最近はあまり遊べてないし、散歩もサボり気味だから、もしかしたらクロも欲求不満がたまっているのかもしれない。
でも、夜も遅いし、遊び道具も持って来ていないから。そんなに手綱をグイグイ引っ張っても今日は散歩以外しない──。
「ワフッ!!」
スポッ、と。
緩んでいたのは首輪の金具か、はたまた俺の気だったのか、首輪から抜け出し束縛から解放されたクロは放たれた矢のように走り出し、暗い闇の彼方へ消えて行った。
「おいっ!? コラッ、戻ってこいクロ!」
ただでさえ暗くて見え辛いのに、クロ自身も真っ黒な毛並みだから闇に溶け込むと冗談抜きで何処にいるか全然わからなくなる。
「クロのやつ、何処に行った?」
俺はスマホのライトを頼りに暗くなった公園で幼児とほぼ同じサイズの愛犬を捜索する。
急に始まった望んでもいない愛犬との隠れん坊。
クロはとても賢い犬だ。少しやんちゃな性格だけど飼い主に従順で物覚えも早いから吠え癖や噛み癖はすぐに躾けで矯正できた。『待て』を命じれば少なくとも数分はその場にとどまる位の忠誠心がある。そんなクロが俺の制止を無視して好き勝手に走り回る。そんなこと今まで一度だって無かった。
「……まさか、俺に愛想が尽きた──なんて事は無いよな?」
脳裏をよぎる悪い予感。
唐突に襲い来る孤独感。
そんな感情がただの杞憂だということを俺はこれから嫌というほど思い知らされる。
「ひゃあっ!?」
何処からか悲鳴じみた人の声が聞こえてきた。
「なに? なんなの? 黒いモフモフがこっちに向かって来るんだけど!?」
声の感じからして間違いなく女の子。その声がする方に視線を向ければそこには見飽きて見るのも憂鬱な赤い色のたこ型滑り台があった。
「ワン!」
「ふわっ!?」
犬の鳴き声に過剰な反応を示す女の子。近付くにつれてその姿がはっきりと見えてきた。
「なんだ犬かぁ……ビックリしたぁ……」
聞き覚えのある声だった。その声を聞いていると胸の奥からジワジワと、言葉では上手く形容できない感情が込み上げてくる。切ないような、苦しいような、胸を締め付けられているのに不快感をまるで感じない。そんな不思議な気持ち。
そして。
「……あれ? もしかしてクロ?」
俺は抱いていたその感情が『懐かしさ』だと悟る。
「…………そこにいるアンタ、もしかして大和なの?」
「…………お前、姫光なのか?」
その会話が互いの姿形を認識した瞬間だった。
月明かりが照らす夜の下。俺はあの日からずっと目を背け続けていた『アイツ』と約二年ぶりに言葉を交わした。
近距離まで近付いてようやくその姿がはっきりと自分の目に映った。
暗い中でもハッキリと分かる明るい色をした茶髪のロングヘアー。淡いピンク色のシュシュでまとめたサイドポニーテール。薄っすらと青みがかった切れ長の瞳。マスカラ要らずの長いまつ毛。白人系特有の白い肌。高校生になってから全体的にギャルっぽくなったファションセンス。日系クォーターのせいなのか、日本人離れした顔立ちと体型。中学の時よりも色々成長したせいか、改めて見ると少し大人びた感じの印象を受ける。
姫川姫光。
俺が五歳の時に近所に引っ越してきた姫川一家の末っ子。小さい頃からずっと一緒だった女の子。下手をしたら健どころか家族よりも一緒にいる時間が長かったかもしれない。幼馴染と呼べる存在。シャイニー海賊団の船長でみんなの中心人物だった。
そして今は疎遠になった相手。それが俺にとっての姫川姫光。
名は体を表すと言うが、苗字と名前に一つづつ姫の文字が入っているせいか、昔から姫光は高飛車でわがままな性格をしていた。仲間内から『ひめちゃん』とあだ名で呼ばれるほどおてんばでお姫様気質な女の子だった。
そんな奴と愛犬を挟んだ状態で偶然の対面を果たした。
遠目から後ろ姿を眺めているだけだった相手が今、俺の真正面に座っている。
唐突に訪れた予期せぬ事態。
心の準備すらまともに出来ていない状態での邂逅。
疎遠になっていた相手と不安定な精神状態で和かな会話が出来るわけもなく。
「…………」
俺はただ黙って相手を見つめることしか出来なかった。
顔すらまともに見れない状態を見つめるとは言わないだろうけど。
「……何しに来たのよ?」
沈黙を破り先に話の口火を切ったのは姫光の方だった。
「何しにって……」
見れば分かるだろ、そう言いかけた言葉を飲み込み当たり障りのない回答を模索する。
「クロの散歩だよ」
というか、そうとしか言えない。約束も何もないのに「お前に会いに来た」とかそんな歯の浮くセリフ冗談でも言えるわけがない。
「ふうん。そっか……そうだよね……」
姫光は納得した様子で自分の側に寄り添ってきたクロの頭を撫でる。俺はその様子を黙って見守る。
「あたし──来た──ないんだ……」
姫光はブツブツと独り言を呟く。声が小さくてほとんど聞き取れなかった。
「…………?」
今なんて言った? と、聞き返すのも沈黙が続くのも気不味いので俺は特に何も考えず何気ない質問を姫光に投げかけた。
「そういうお前は何しに来たんだよ?」
その何気ない質問が命取りだった。
「…………は?」
姫光は。
「べつに、アンタには関係ないでしょ……」
誰が聞いても明らかに分かるほど、あからさまなトーンで、自分が不機嫌だと言わんばかりに声の質を変えてーーそう吐き捨てるように言った。
「っ…………」
険悪な空気になり言葉が出なくなった。
ていうか、と姫光は言う。
「なんで平然と馴れ馴れしく話しかけてきてんの? アンタは最初にあたしに言わなければいけない事があるでしょ?」
「…………?」
一瞬、姫光が何を言っているか理解出来なかった。だが、姫光が発した次の言葉で俺はすぐにそれが件の事だと思い至る。
「ほら、またそうやって黙る」
「っ…………!?」
またそうやって黙る。それはつまり、前にも同じ状況があったという事だ。
「黙ってないで何か言ったらどうなの?」
怒気を込めた姫光の指摘に返す言葉が見つからない。
「……ねぇ、なんで何も言わないのよ!」
姫光の剣幕に気圧され視線を下に落とす。視線の先には黒い毛玉。クロも険悪な空気を感じとったのか大人しく芝生の上で小さく丸まっている。
以前にも同じ様な事があった。あの日、この場所で、俺は姫光から『あの事』を問い質された。
「…………」
この場で姫光に言わなければならない事。
分かってるよ。それが何なのか。
でも、それを口に出すと言う事は自分に非がある事を認めた証拠になる。
それが嫌だから。それが認められないから俺はあの時、何も言わずにいたんだ。
何も言わないで姫光から離れたんだ。
「はぁ……アンタさ、マジで何なのよ。これじゃあたしが虐めてるみたいじゃん」
俺の煮え切らない態度に苛立ち始める姫光。
せめて何か言わなければ。
誤解を招くのが無理でも、和解するのが無理でも。何か、何か言わなければ。
そう頭の中でグルグルと思考を巡らせても妙案が出るわけもなく。俺の口は死んだ貝の様に固く閉ざされたままだった。
「はぁ……結局さ、時間が経っても何も変わってないのよね」
姫光は待つのを諦めたのか、冷めた口調でつらつらと話しを続ける。
「アンタは相変わらず何も言わないし、あたしの気持ちも変わらないでそのままだし。ほんと、時間が過ぎただけじゃない」
確かに、何も変わっていないのかもしれない。
その時間は忘れるには短すぎた。許しを得るには時間が長すぎた。心の準備をするには時間が早すぎた。何か行動を起こすには時間が遅すぎた。
そんな時間が一体なんだというんだ。
時間の空費。俺はこの瞬間にそれを思い知らされた。
「ほんと、無駄な時間だった……」
無駄?
お前まで、無駄だって言うのか? 姫光まで俺に無駄だって──。
『オレに無駄な時間をとらせないでくれ』
脳裏をよぎる嫌な記憶。
「……るさい」
『お前がなんと言おうと、オレはお前を信じないし、お前を許す気は無いから』
「うるさいんだよ!!!」
何も知らない癖に勝手な事言ってんじゃねえよ!
『これが最後通告だ、二度と『姫』に関わらないでくれ』
そんな事、姫光が言ったわけでもないのに。一度だって言ったことないのに。俺は無実なのに。
何でお前が俺と姫光の間に入ってくるんだ?
「黙って聞いてれば好き勝手言いやがって何様だよ!」
俺の意思とは無関係に口から怨みが溢れ出てくる。
「…………何よそれ」
姫光の声が耳に届き俺はハッと我にかえる。
「やっと喋ったかと思えば……何よそれ、何様はどっちの方よ!!!」
気が付いた時にはもう手遅れだった。
口は災いの元。一度出た言葉は二度と取り消せない。例えそれが本心じゃなくても。
「今まで散々あたしのこと無視してきた癖に被害者面しないでよ!」
姫光は声を震わせて俺にありのままの言葉をぶつける。
「消えてよ!」
その言葉がトドメだった。
「もうアンタの顔なんて見たくない! 今すぐここから立ち去りなさいよ!」
違うんだ。
さっきの言葉はお前に言ったわけじゃないんだ。
「ほら、逃げなさいよ! 《《今朝みたいに》》尻尾巻いてあたしの前から消えて見せてよ!」
違うんだよ姫光。
今朝のあれはお前から逃げたわけじゃないんだ。
お前の隣に見たくない顔の奴がいたから。これ見よがしに現実を突きつけるから。
悪意がお前の傍らにあるから。
だから俺は、お前に何も言えないんだ。
「…………」
そう言えてさえいれば、この状況は改善されたのだろうか。
心中の吐露。本音を相手に伝える。
それが出来ないから。出来ていないからこういう結果に繋がるんだ。
もう十分だろ。
やっぱり俺には無理なんだ。
もう諦めろ。その方が楽だから。
そう自分に言い聞かせて芝生の上で丸まっている黒い毛玉に首輪付きの赤い紐をくくりつけ強引に引っ張って毛玉を犬の形に変える。
「クロ、帰るぞ」
うちの愛犬も案外、空気が読めるらしく強引に引っ張ったら素直に立ち上がりトコトコと歩き始めた。これで離れるのをぐずり出したら、抱きかかえてでも連れ帰らないといけない。そんな光景は滑稽でしかない。
せめて、去り際くらい綺麗に終わらせたい。
立つ鳥跡を濁さず。往生際が悪いと格好がつかないから。
「やっぱり──あたし──なんだ」
姫光が何か言ってる。でも今更聞いて何になるんだ?
「あたしの居場所なんて何処にも……」
振り返ったりすると女々しくて見苦しいから。俺はただ真っ直ぐ前を向いて愚直に公園の出口を目指す。
一歩、また一歩。重い足を必死に動かして歩いた歩数がわからなくなるまで歩き続ける。
「…………」
あれ? なんか周りが暗い。
世界ってこんなに暗かったっけ?
視界が狭くなった様な。俺だけが世界から切り離されて暗い闇の中に放り込まれた様な。そんな感覚に襲われる。
目の前が真っ暗で足元が全然見えない。
なんだこれ。
誰か、灯りをつけてくれよ。
光、何でもいいから光が欲しい。明るく照らしてくれる光がないと真っ直ぐ家に帰れないから。
そんな事を考えたせいだろうか。
それともただの偶然なのか。
足元の闇が徐々に薄くなり狭まっていた視界がみるみる晴れていく。
天を見上げればそこには月。それが暗雲のカーテンを脱ぎ捨て地上に光を放つ。
天に浮かぶ月。
『大和君はヤマアラシのジレンマを知っているかい?』
それは月夜の晩にされた先生からの質問。その夜はとても寒くて、寂しくて、苦しくて、泣き出したくなる、そんな夜だった。
ヤマアラシのジレンマ。
天を見上げて月を見ると俺はそればかりを思い出す。
『僕は思うんだ。どうしてヤマアラシは寄り添い合う事を恐れたんだろうって』
俺の隣に座って先生は自分の考えを淡々と話していた。
『だっておかしいよね。凍えて死んじゃうくらいなら針が刺さって痛いのなんていくらでも我慢できると思うんだ』
大人らしくて何処か子供っぽい疑問を先生は口にしていた。
『本当に必要なのは傷付く覚悟じゃ無くて相手を傷付ける覚悟だ。お互いの気持ちを理解し合えれば痛み分けできる。でもそれが難しい。相互理解の難しさを表現したのがヤマアラシのジレンマ。僕はそう思うんだ』
手渡された毛布の暖かさとその言葉を俺は今でもはっきりと覚えている。
言われた当時は難しすぎて寓話の部分しか理解してなかったけど。
「………」
本当に今日は昔のことばかり思い出す。
「……分かってるよ」
もしかしたらこれが最後の機会なのかもしれない。
「そんな事は分かってるんだ」
俺はただ臆病なだけなんだ。自分が傷付く事を恐れていた。我が身可愛さで保身に走り相手の気持ちを軽視していた。
ヤマアラシのジレンマは心理学の一説であって真実じゃない。所詮は綺麗事。
だけど。
傷付ける覚悟はなくても傷付く覚悟は今この瞬間にできた。
俺は姫光と仲直りがしたい。
だったら──。
「身体中が針まみれでも我慢するのが男。そうですよね先生?」
公園の出口で立ち止まり決意の証明としてクロに『おすわり』を命じる。
「クロ、少しだけここで待っていてくれ。待て、だ」
「ワン!」
律儀に返事をして忠犬ハチ公さながらの忠誠心を見せるクロ。
「良い子だクロ。俺はちょっと『お姫様』を迎えに行ってくるから、ちゃんとここで待ってろよ?」
クロの頭を軽く撫で、立ち上がりクルリと踵を返す。
俺は暗い公園の方へ向かって再び歩き始めた。