和解、今日がどんなに壊れそうでも
自分に対しても、相手に対しても素直になるために、俺はいくつかの事を認めなければいけない。
自認する時が来た。
自分はもう昔とは違う。
人を疑う、人を妬む、人を見下す、人を恨む、人を嫌う。そういうドス黒い負の感情が今もなお俺の中に在り続ける。おそらくこの感情は、これから先も消える事は無いだろう。
自分がもう善人じゃない事を認める。それがまず一つ。
次、自分が弱い事を認める。
俺は一人じゃ何も出来ない駄目な男だ。
健の優しさに甘えて友人の少ない現状に不満を抱かなかった怠け者。
悪意からくる数の暴力に怯え、守る自信が持てず、ウザい後輩と称して美夜子を遠ざけていた臆病者。
伊織に相談しないと真面に行動すら出来ない愚か者。
雪雄に勝負を挑まずに負けた敗北者。
全てを姫光のせいにして被害者面をして現実から逃げ続けていた加害者。
全部の者が俺であり、その全ての行いに非がある。
自分が犯した罪を認める。悪者による悪行の罪を認めて償いを果たす。
悪い自分を認めて、弱い自分を認めて、自分の罪を認めて、己を知り己を変える。
頭で分かっていた認めたくない事を心の中で認める。
そして最後に──いや、それは最初から認めていただろ。
あの時に再確認したはずだ。
俺は変わらなければいけない。それは間違いない。
でも、変えなくても良い事だってあるはずだ。
この気持ちだけは絶対に変えたくない。
だからこそ、俺は姫光に逢いに行く。
夜十一時頃。潮風の匂いがする海岸沿いの道路。
みんなが住んでいる集落から離れ、海岸沿いに出てからさらに徒歩で二十分くらい行った先、住宅地とは縁遠い海が見える見晴らしの良い場所に学習塾『直江津サンシャインスクール』の跡地がある。
昔、そこは学習塾だった。
小さい頃の思い出が詰まった木造建ての長屋。遊び場に困らなかった秘密基地の様な学習塾。
しかしながら、今はただの廃墟だ。買い手が見つからない売り物件。主人のいない私有地。幽霊屋敷に成り果てた思い出の場所。
売地。私有地。関係者以外立ち入り禁止。月明かりに照らされた立て看板とバリケードの文字列を横目にボロボロになった塾の入り口に向かう。
時間的にも体力的にも。
そして、精神的にもこれが最後の機会なのは間違いないだろう。ここに姫光が居なかったら俺にはもうどうする事も出来ない。
「……頼むからここに居てくれよ」
そんな願い事を信じてもいない神に祈り『とある人物』から借り受けた懐中電灯のスイッチを入れる。
懐中電灯から放たれる丸い光に暗闇が切り取られ足元が明るく照らされる。
やはり、スマホのライトだけだと廃墟の探索は厳しかっただろう。
『しょーがないッスねー。他でも無いヤマくんの頼みならウチが断るわけにはいかないッスから。あっ、でもこれ『貸し』ッスからね?』
行きずりの知人から懐中電灯を借りて来たのは良いけど。余計な『借り』を一つ作ったのは後々の事を考えると最善の選択とは言い難い。
というか、あの『引きこもり』こんな夜遅くに懐中電灯持って何やってたんだ。まさか散歩って事はないだろうけど。
「…………」
いや、サブカルクソ女の事なんて今はどうでもいいだろ。
今は目先の事だけに集中しろ。
雑念を振り払い俺は真っ暗な廃墟の最深部に向かう。
しかし、人の出入りが無くなってから四年経っただけで家屋はこうも荒廃するものなのか。
床は傷んでボロボロだし空気は淀んでカビ臭い上に埃っぽいし。
いや、でも。
「…………」
違和感を覚えた。
廃墟にしてはすんなりと入れた。
通路に蜘蛛の巣がない。入り口も封鎖されていない。足元に目立った障害物も無い。壁も天井も崩れていない。
廃墟にしては中は割と綺麗だった。まるで誰かが定期的にここに出入りしているかの様な──そんな雰囲気がある。
「……どうやら当たりっぽいな」
確信があった訳ではない。
予測半分、期待半分。
でも予感はあった。
人の気配と物音。
暗い廊下を渡り、この廃墟で一番広い場所である最深部に位置する教室に入る。
割れた窓から月明かりが差し込む真夜中の廃墟。
昔は学習塾の教室だった。
そのど真ん中に──。
「懐かしいよね」
家出したお姫様はそこに佇んでいた。
「あたしの前の列にさ、アンタと大智と健の三人が座ってて、いつも誰が真ん中座るかでギャーギャーしょーもない喧嘩してたのが……後ろから見てて、すごく楽しそうだって思ってた」
家出した幼馴染はこちらを振り向かず、誰が来たかも確認しないで、前を向いたまま淡々と思い出話しを語る。
「あたしさ、勉強するのは嫌いだけど、ここに来て『みんな』でトランプしたり、DS持ち込んでパケモンのバトルトーナメントするのとか、すごく好きだった」
場所が場所だから、思い出話を語られるとその光景が鮮明に思い出せる。
「好きだったのよ。この場所も、先生も、シャイニー海賊団のみんなも……」
姫光は。
「なのに、何で全部無くなっちゃたのかな……」
顔を見なくて泣いているのが分かる。明らかに涙声だった。
「…………」
かける言葉が見つからない。
この土壇場になって、何も言えない自分のことが凄く嫌だと思った。
「ねぇ、大和。なんか喋ってよ……」
「……っ」
不意に名前を呼ばれて反射的に身体が震える。
「……どうして、俺だって分かったんだ?」
「簡単よ。こんな時間に車にも乗らないで来る馬鹿はアンタくらいしかいないのよ」
「……そうか。確かに、徒歩で来るのは馬鹿だよな」
俺が来ることを姫光が信じていたとか、一瞬でも思っていたのが凄く恥ずかしい。ほんと、間抜けだよな。馬鹿でカッコ悪い。
お姫様を迎えに来るなら馬車の一つでも用意するべきだった。
「……ねぇ、教えてよ大和。あたしはどうすれば良かったの?」
「…………」
難しい質問だと思った。
おそらくその問題に明確な正解は無いと思う。
「……お前はどうしたいんだ?」
だから俺は答えにならない回答を姫光に投げかける。
「……お前の話、ちゃんと聞くから教えてくれよ」
明確な正解が無いなら話し合う必要がある。議論をして、迷って、悩んで、悔やんで。
自分じゃ分からない部分は相手に訊くしか無い。
この問題は一人じゃ無くて二人で相談する必要があると思うから。
「多分、あたしは昔に戻りたかったんだと思う」
そして姫光は自身の胸中を語る。
「昔みたいにみんなでワイワイ仲良く楽しく毎日を過ごせたら、それはとても素敵で、とても幸せな事なんだって。ここがあたしの『居場所』なんだって、ずっと前からそう思ってて」
嗚咽混じりで途切れ途切れになりながらも必死に話す姫光の健気さに胸が苦しくなった。
「だからさ、100%再現するのは無理でも頑張ってあたしなりに『自分の居場所』を作ろうとしたのよ。宝物って呼べる大切な物をもう一度、最初から、自分の力で」
その自分の居場所が何なのかはおおよその見当がつく。おそらく、それは『あの高校生グループ』なのだろう。
「……でもね、やっぱりそれは何かが足りなくて、必要なピースが欠けていて、似ているけど全然違ってて。出来たら宝物なんて呼べないほど、それは不恰好で歪な物だった」
だから簡単に壊れた、姫光はそう静かに呟いた。
「…………」
多分、家出の『本当の理由』はこれなのだろう。
自分の居場所が無い。不安と孤独に耐え切れなくなった。
確かに姫光は精神面が人より強い。ちょっとやそっとで折れる精神ならリーダー格なんて真面に務まらないだろう。
けど、だからって我慢の限界がない訳じゃ無い。
嫌な事があればいつかは泣くし、不安を隠していつまでも強気に振る舞う事なんて無理なんだ。
姫光だって弱い部分がある。
そんな事、ずっと昔から知っていたはずなのに。
なのに俺は──。
「……悪いけど。昔にはもう戻れないんだ」
優しさなんて微塵も感じられない残酷な言葉を姫光に投げる。
「……お前だってそれはもう分かっているだろ」
姫光は今誰かに救いを求めている。姫光にもっと優しくしてやりたい。素直にそう思う。でも、それはその場しのぎの対応策であって問題の解決策ではない。
俺だって優しくされたいし、優しくしてやりたい。
分かってるよ。
それは自分にも当てはまる。他人に投げかけた言葉は等しく自分にも返ってくる。
言葉による見えない針。
ヤマアラシのジレンマ。
自分が傷付く覚悟以上に相手を傷付ける覚悟を俺は今この瞬間に問われている。
俺と姫光に必要なのは救いでも優しさでも無い。現実と向き合う覚悟なんだ。
だから。
「死んだ人間が生き返らないように、壊れた物が寸分の狂いもなく元通りにならない様に、『俺たち』は昔に戻る事は“絶対”に不可能なんだよ」
昔と違う悪くて弱い俺は姫光に現実を教える。
「戻れるよ!!!」
こちらを振り向いて姫光は叫ぶ。
「どうして分かってくれないの!? あたしの気持ち、大和は全然分かってない!」
悲鳴に似た姫光の叫びが俺に突き刺さる。
「……無茶言うな。お前の気持ちなんて言ってくれなきゃ分かんねーよ」
「分かってよ! 言わなくてもあたしの気持ちくらい感じ取ってよ! 一体何年アンタと一緒にいたと思ってるのよ!」
似たような言葉、似たような状況。同じ過ちを繰り返す様な行動。
でも、一つだけ、いや二つ違う事がある。
それは『俺たち』が己の過ちを認めた事と──相手にも自分にも素直になった事だ。
「大和さえ居れば、大和さえそばに居てくれれば──あたしはそれで良かったの! 他に何もいらなかったの! なのに、なのに……どうして分かってくれないのよ馬鹿!」
暗い廃墟の中、姫光は俺に詰め寄り胸倉を掴む様な勢いでしがみつく。
「苦しいの! 居場所が無いのが辛くて切ないの! 一人ぼっちは嫌なの! 分かってよ!」
今まで散々泣いたせいか、姫光の目は僅かに赤く腫れ上がっていた。今もなおポロポロと瞳から涙が零れ落ちていく。
「……そうか。十年近く一緒でも分からない事ってやっぱりあるんだな」
姫光の気持ちは良く分かった。痛いほどに。
なら、今度は俺が自分の気持ちを伝える番だ。
「俺は──多分、犯人にされて──いじけていたんだと思う」
姫光に信じてもらえない事を、姫光に疑われている事を、それを本人にちゃんと訊いてもいないのに。自分の解釈で勝手にそうだと決め付けて、一人で馬鹿みたいに意固地になっていた。
「お前に信じてもらえないのが凄く嫌で、どうせ俺なんかって勝手に拗ねて、お前の気持ちも考えないで、ずっと現実もお前からも逃げていたんだ」
俺はずっと逃げていた。逃げれる場所まで逃げようと。そんな事何の意味も無いのに。分かってて今まで逃げていた。
だからこそ、俺は姫光に謝らければいけない。今までの事全部。
「俺のことを信じてくれとは言わない。それに、お前が悪いって言ったのは間違いなく俺の本心なんだと思う。俺はお前のこと、心の何処かで恨んでいたんだ」
でもな、と俺は言う。
「一つだけお前に分かって欲しい事があるんだ」
そして俺は言わないと相手に伝わらない事をはっきりと言う。
「俺は姫光の事──嫌いじゃないから。それだけは分かって欲しい」
「…………」
姫光の瞳がゆらゆらと揺れているのが暗い場所でも良く分かった。
「今まで逃げて悪かった。ごめんな姫光。もう俺は迷わないから」
気が付いたら窓から差し込む月明かりが俺たちの周囲を明るく照らしていた。まるで舞台に注ぐスポットライトの様に。
「……馬鹿」
姫光はポツリと呟いた。
「……犯人が誰とか、そんな事あたしはもうどうでもいいの……大事なのは……大事なのはアンタがあたしを……嫌いじゃないかどうか、ただそれだけなん……だから」
「嫌いじゃないよ。お前の事は──嫌いじゃないから」
ここで素直に告れないのは、やはり俺に意気地が無いのが大きな原因なのだろう。
流石にもう限界だ。素直に謝るだけでこっちはいっぱいいっぱいだから。
「…………そっか。そうなんだ」
そして姫光は。 息を大きく吸い込んで──。
「大和の馬鹿!」
俺を叱りつけた。
「…………え?」
いや、何でこのタイミングで怒るの?
「犯人じゃないなら、どうしてあの時にちゃんと否定しなかったのよ! どーすんのよ! あれから何年経ったと思ってんのよ! もうアンタの無実を証明出来ないじゃない!」
「えっ、ああ、そうだな……」
お前、犯人がどうだとか、もうどうでもいいって言ってなかったっけ?
「……俺が犯人じゃないって信じてくれるのか?」
「信じるわよ馬鹿!」
まくしたてる様なマシンガントークで姫光は言う。
「アンタって昔からそうよね! 肝心な事は強引に訊くまで中々喋らないし。言いたい事があっても黙って下向くし。そーいう所が駄目なのよ! おかげであたしが悪者になったじゃない。どーしてくれるのよ!」
「いや、だってそれは──」
「うっさい! アンタの口からハッキリと否定してもらわないと信じる物もちゃんと信じてあげられないの! 1%でも疑いがあったらやっぱりそうなのかなって思っちゃうの! 分かる? 分かるわよね? あたしの気持ち!」
「……はい。ごめんなさい」
「分かればいいのよ。まったく、本当に大和は馬鹿なんだから……」
言いたいことを言ってスッキリしたのか、もう姫光の瞳に涙はなかった。
「…………」
というか。
さっきまでは気付かなかったけど。そう感じる心の余裕がなかったけど。
しがみ付いたままだから姫光の胸が俺の身体にガッツリと押し当てられている。
ノーブラだからめっちゃ大きくて柔らかいのが良く分かった。
控えめに言って最高の感触だった。
「…………」
いやいや、待て。ここで欲情するのは場違いというか空気読めてないだろ流石に。
「ねえ、大和」
不意に名前を呼ばれてビクリと身体が震える。
「な、何?」
「あたしさ、アンタと仲直りしたいんだけど?」
「…………ん?」
下から見上げる子猫の様にジーっと熱い眼差しを俺に向ける姫光。その眼差しは何かをねだる様な雰囲気があった。
「えっと……」
熱視線を送らせて戸惑う俺。
「ほら、言葉だけじゃ伝わらない事ってあるじゃん?」
「お、おう。そうだな……」
「知ってると思うけど、あたしって結構ワガママなのよ」
「お、おう。そうだな……」
だからさ、と姫光は──。
「……あたしの事、嫌いじゃないって行動でちゃんと教えてよ」
俺に核弾頭級のお願いをお見舞いしてくる。
「えっ、いやその……行動って言われても具体的にどうすれば──」
言ってる途中で姫光が瞳を閉じて顎を少しだけ上げたのが目に入って来た。高さを合わせる様に少しだけ背伸びをして。
「…………」
姫光のその行動が分からないほど俺も馬鹿じゃない。
薄々は感じていた。もしかしたら『そうなんじゃないか』って。
気付いていたけど。不安だった。もしかしたらそれは俺の勘違いなんじゃないかって。
だから、今まで必要以上に近付かないで幼馴染以上の関係にならない様に距離を置いて接していた。何かの拍子で離れ離れになる事が怖かったから。
近付き過ぎて傷付くのが怖かったから。
だけど──だけど。
俺は姫光とこれ以上離れたくない。
「……分かったよ姫光」
そう言って俺は姫光の肩を抱き寄せて自分の顔を姫光の顔に近付ける。
暗くても間近まで迫ると、まつ毛の長さが良く分かった。目が少し腫れていても姫光の顔は充分可愛いかった。
姫光が愛おしい。だから俺は──。
コツン、と。
自分のおでこと姫光のおでこを重ね合わせた。
「…………」
一言だけ言わせ欲しい。
マウスケアも無しに廃墟で接吻とか普通に無理だから!
「……………」
というか、仲直りもそこそこにいきなりキスとかハードル高すぎるから!
そういうのは、もっとお互いの気持ちをちゃんと確かめ合ってからにして欲しいかな!
「…………大和の意気地なし」
目を開けてポツリと呟く姫光。
「…………悪い」
ムスッと、むくれて不満そうな姫光に謝る事しか出来ない自分が情けないと思った。
「……ごめんね大和。ちゃんと信じてあげられなくて」
「俺の方こそ、ごめんな姫光」
おでこを合わせたまま、俺たちはそう謝り合う。
シャイニー海賊団の家訓その9。
悪い事をしたら、ごめんなさいと言える素直な子になりましょう。
今はその言葉に素直に感謝しておこう。
「……じゃあ、仲直りも済んだことだし、さっさと帰りましょ。大和の家に」
「いや、お前は自分の家に帰れよ」
「嫌よ、今帰ったら絶対大輔にこっぴどく叱られるから」
「それは残念だな、今から電話で迎え呼ぶから。お前は自分家に強制帰宅な」
「よし、分かった。じゃあ、逃げ──ちょっと、何で強く抱き締めるのよ? 苦しいんだけど!?」
「逃げる相手を簡単に逃がすほど俺はお人好しじゃないからな?」
「……もう、分かったわよ。大輔が来るまでせいぜいあたしの事しっかり抱き締めておきなさいよね?」
場所が場所だから。多少は強引になれる事だってあると思う。
もしかしたら、今回の一番の立役者は天に浮かぶ月とその言葉を残してくれた先生なのかもしれない。
色々あったけど。何とか最悪の事態だけは回避出来たと思う。
いや、むしろこれはベストな締め方だろう。
姫光と仲直り出来た。それ以上に喜ぶ事なんて──。
「……あたし、待ってるから」
大輔さんの厚意に甘えて自宅まで車で送ってもらった後、別れ際に姫光にそんな事を言われた。
別れの挨拶に『待っている』は間違いなく不適切な言葉だろう。
不適切だけど。
「じゃあ、またね大和」
もしかしたら。
高校生の俺たちは今が一番面倒臭い時期なのかもしれない。




