翌日、トイレと小悪魔後輩
俺にとって後輩である少女、見附美夜子の人格を俺は上手く語る事が出来ない。
美夜子と知り合ってから十年以上経った現在に置いても俺は未だに見附美夜子の全容を把握しきれていない。
仮にこの後輩の取扱説明書を紐解いたとしても恐らく俺では半分も理解できないだろう。
底が知れないというより、底が抜けていてどうしようもないというか。表面上は浅いけど一度潜ったら沼のようにズルズルと奥底まで沈んで、気がついたら地球の反対側に着いていた。そんな得体の知れないミステリアスな一面が美夜子にはある。
怪奇さや不気味さの意味でのミステリアスではなく、謎めいている、少し不思議な空気を纏っているという意味合いでのミステリアスが表現としては近いのかもしれない。
弁護士である両親の下で育った三姉妹の末っ子。事あるたびに罪だの刑罰だのと法律関係の用語を口に出して俺をからかったりするお調子者で生意気なウザい歳下。
人の膝の上に御構い無しに乗ったり、ペタペタと気軽にボディタッチをするくせに、こっちがいざ触ろうとすると「セクハラです!」とか言って逃げる猫のような気まぐれさがあの後輩女子にはある。
一見すると気分とノリだけで生きている様に映るだろう。だが、時折見せるずる賢さを考慮すると、決して何も考えずに無策で行動しているわけでもない。
正直に言う、俺では美夜子の行動を予測し切れない。ぶっちゃけこの後輩が何を考えているか全く分からない。
というか。
「お前はマジで何を考えてんだよ!?」
男子トイレの出入り口で今にも膝をつきそうなほど衰弱している後輩女子に俺は悲鳴じみた質問を投げかける。
「せ、先輩が逃げたんで追いかけて──みました……」
息も絶え絶えとはこの事を言うのだろうか。大した距離を移動したわけでもないのに後輩女子はまるでフルマラソンを完走したランナーみたいに疲れ果てていた。
おかしいな、走った覚えはないんだけど?
「訊いてるのはそこじゃねーよ。何でナチュラルに男子トイレ入って来たのか訊いてんだ」
「堪忍やであんちゃん。きょ、今日だけは男にしたってや……」
「お前は大阪のおばちゃんか!」
漏れそうなのか? 息だけじゃなくて違う物も漏れそうなのか? 違うよな?
「先輩、ちょっと待って下さい……美夜子は今、冗談抜きで瀕死です……」
「…………」
お前、体力なさすぎだろ。
「すーはーすーはー……ふー」
深呼吸をしながら息を整える瀕死の後輩。トイレの空気をそんなに勢いよく吸い込んで大丈夫なのだろうか。
「ふぅー、男子トイレは空気が不味いですねー」
「だろうな!」
むしろ空気が美味いトイレがあるなら教えて欲しいくらいだ。多分だけど富士山の山中でも不味いと思う。
いや、そうじゃなくて。
「お前、自分が何してるか分かってんのか? こんな所を誰かに見られでもしたらどうするんだよ?」
「大丈夫ですよ。入る前にちゃんと周辺に先輩以外の人が居ないのは確認しましたし」
「そういう問題じゃなくて……」
だって、と後輩は言う。
「こうでもして追い詰めないと先輩はまた美夜子から逃げるじゃないですか?」
「…………」
確かにその通りだ。
馬鹿だな俺。
逃げ場の無い場所に自分から逃げ込んで追い詰められるとか愚策もいいところだ。
「さぁ、先輩。観念して美夜子と一緒に教室でお昼ご飯を食べて下さい。先輩と違って美夜子は便所飯NGですから」
「いや、俺も便所飯は普通に無理だから……」
そこまでボッチ拗らせてないから。
「さぁさぁ先輩、グズグズしていると昼休みが終わってしまいますから早く教室に戻りましょう」
「…………」
ちょうど良い機会なのかもしれない。言うべきことは此処でハッキリと伝えておかなければ。
俺にはその責任がある。
クルリと振り返る後輩の背中に俺は言葉をかける。
「美夜子、もう俺に関わるな」
「嫌です」
相変わらずというべきか、後輩は間髪いれずに即答する。
「先輩は水臭いですねー。美夜子裁判だとスメルハラスメントは割と重罪の部類ですよ?」
「水臭いに嗅覚を刺激するような不快な匂いはねーよ。いいから真面目に聞け」
「真面目ですよ。美夜子は今しがた不快な思いをしています」
「不快って……」
俺がお前を避けている事がか?
でも、それは仕方がない事なんだ。
お互いの身を守るにはそれしか──。
「ここのトイレが思ってた以上に変な匂いで美夜子の気分は今最悪です……」
「そりゃあんだけ深呼吸すれば気持ち悪くもなるわ!」
人が真面目に話そうとしてるのに、どうしてこの後輩は変に茶化してくるんだよ……こいつと話すのホント疲れる。
「なーんちゃって、大丈夫ですよ」
「あっ? 気分でも落ち着いたか?」
「いえ、そうではなくて。先輩と仲良くした位で暴落するほど美夜子の株は安くないという意味です」
だから安心して下さい、と後輩は得意げに言う。
「っ…………」
こいつは……人の思惑を気軽に見透かしやがって。
「おや、何ですか先輩そのお顔は? 美夜子は先輩の考えてる事なんて手に取るように分かりますよ?」
聞き捨てならない言葉だった。
「へぇ……じゃあ、俺が何を考えてお前の事を疎んでいるか答えてみろよ?」
そんな俺の意地悪な質問に後輩は自信に満ちた表情で返す。
「そうですねー、美夜子のかまってちゃんムーブに嫌気がさした事以外なら自分のせいで美夜子が傷付く所を見たくないってところですかね?」
「お前、かまってちゃんの自覚があったのか……」
自覚があるなら少しは直せ。
「先輩、そこは流す部分です」
「……そこまで分かってんなら察しろよ。お前はもっと空気、読めよ」
「嫌です」
「美夜子、聞き入れろ」
そう言うと後輩はフッと目を伏せる。
「……分かりました。空気、読みますね」
ペコリと小さな頭を下げて後輩は言う。
「ごめんなさい。美夜子は先輩に金輪際近付かないことをお約束します」
「……ああ。そうしてくれ」
それが一番楽だから。それが一番安全な方法だから。誰も傷つかないならそれでいい。俺は一人でもやっていける。
前例がある以上同じ過ちは繰り返してはならない。
「今までお世話になりました」
そう一言残し後輩女子は男子トイレから外へ出て──。
「ちょっ!? 先輩、先輩っ、人が来ましたよ!?」
行かなかった。
「早く、隠れて下さい。美夜子がここで見つかったら冗談抜きで洒落にならないですよ!?」
小声でごにょごにょと喋って俺をトイレの個室に押し込もうとする後輩。
「え? ちょっ待て!?」
お前はともかく俺は隠れる必要無いよな!?
そう思った瞬間にはもう時すでに遅し。ガチャリとドアを施錠され、気が付いたら男子トイレの個室で後輩女子と超至近距離での対面を果たしていた。ぶっちゃけ後輩の身体がやんわりと俺に接触している。
直近で後輩の容姿をまじまじと眺めると昔と今の違いがよく分かった。
クルクルで癖っ毛だった髪は艶々のストレートに。野暮ったい目はメイクでハッキリとした瞳に。身体つきは年相応に。薄化粧で彩られた小顔を改めて見るとなんだか魅力的に思えてくるから不思議だ。
そんな顔にジーっと上目遣いで見上げられると背中が無性にむず痒くなる。
なんだこれ。今どういう状況ですか?
後輩と一緒にトイレの個室に入って今から何するんだ?
「五限の授業マジだりーわ」
「わっかる。マジそれな」
個室の壁の向こうからそんな会話が聞こえてきた。
どうやら、人が来たのは本当らしい。
危機一髪。
危ないな、こいつが気付かなかったら今頃大変な目に遭っていたかもしれない。
一瞬だけホッと安堵の溜息を吐きたい気持ちに駆られた。たが、冷静に考えればそもそもかまってちゃん後輩が男子トイレに入って来なければこんな危機的状況にならなかったわけで。
今回はどう考えても後輩が悪い。いや、責任を全部押し付ける気は無いけど。
これは未然に回避できた危機だ。
しかし、この状況をどう切り抜けたもんか。
とりあえず、人が出るまでこのままやり過ごすしか──。
ちょんちょん、と。
こっちを見て下さい、と指で俺の胸を突く後輩。その手には猫型のケースが付いたスマホが握られていた。
俺にスマホの画面が見えるように後輩はずいっとスマホを突き出す。
そこに書かれていた文章はこうだ。
『かくれんぼみたいで楽しいですね』
「…………」
この後輩は……今の状況分かってんのか?
スマホで筆談とか随分と余裕じゃないか。
俺の蔑視など意にも介さず後輩は小さな子供のようにニコニコと無邪気な笑顔を浮かべる。
「…………」
うん。やっぱお前が全部悪いな。こうなる事を事前に予測していたような面構えしてるし。
昔から胆力が強いとは思っていたけど。歳上に対しても物怖じしないというか、敬う気がないというか。世の中をナメくさっているとしか思えない。
やはりこの後輩は油断ならない。
まだ筆談をしたいのか後輩はポチポチとスマホをいじる。
今度はこう書かれていた。
『さっきの言葉は取り消させてもらいます。美夜子は諦めたくありませんから』
さらに続けて。
『それに先輩はハブるよりもイジる方が断然楽しいですから』
「…………」
俺は。
その文章を見て自分のスマホに短い文章を打ち込む。
そして、それを後輩の眼前に突き出す。
後輩はまじまじとそれを見て珍妙なトイレでのスマホ筆談をこう締めくくった。
『そうさせてもらいます』
人気が無くなったのを個室から出た俺が確認した後、ゆっくりと後輩は男子トイレから外へ出て行く。
「こうしてると昔を思い出しますねー」
「あ? 何を思い出したって?」
「いえ、先輩が先に外に出た事が懐かしくて」
昔もそうしてましたね、と後輩は感傷に浸る。
「かくれんぼで美夜子が見つかりそうになった時に先輩は先に出て囮役になってくれましたよね」
「…………」
そういえば、そんな事もあったな。そんな事一々覚えているとか、お前も存外に未練がましいな。
未練がましくて女々しい。
それは俺にも当てはまるのだろう。
「……お前がかくれんぼの鬼役の時に俺を見つけるの諦めてそのまま帰った事、今でも根に持ってるからな」
「……あっ、枝毛見っけ」
「髪をいじって露骨に話題をそらすな」
まぁ、でも。たしかに懐かしい。
あんな夢を見た後だから余計にそう感じる。
「……名前、ちゃんと呼んでくれましたね」
テクテクと廊下を歩いてボソリと何か呟く後輩。
「あ? なんか言ったか?」
「いえいえ、やっぱり部室は必要かなーって思っただけです」
「そうか?」
「そうですよ。部室は必要です」
必要というなら必要なのだろう。
この学校に友達は必要ないし今後も作る予定はないけど。
でも。
もしかしたら、気のおける後輩一人と部室の一つくらいはあってもいいのかもしれない。
「それにトイレでお話ししていると先輩にいつかエッチな事されそうで不安ですし」
そう言って後輩は悪戯っぽくパチリとウインクする。
「あ? 別にどこでも同じだろ?」
「先輩、その発言はリアルにドン引きです……」
身をよじり侮蔑の眼差しを向ける後輩。
「バッカちげーよ。お前相手に変な気なんて起こさないって意味だ」
「それはそれでなんかムカつきますね。美夜子裁判でセクハラまがいの侮辱罪は私刑ですよ? あっ、ご安心くださいリンチの方ですからね?」
「何一つ安心出来ねーよ」
そんな感じで他愛も無い会話をしながら俺と後輩は本校舎に戻る。
「美夜子は自分の教室に戻りますね」
階段を登った途中で後輩は俺に別れを告げる。
「お弁当は先輩の方で処理して下さい。どうやら先輩は遅刻してお昼ご飯を買いそびれたみたいですし」
そんな言葉を残し後輩は一年生の教室に向かってそそくさと退散していく。
トボトボと自分の教室に戻り、机の上に置かれた弁当らしき包みを見て俺はこう思った。
ああいう性格の奴を小悪魔と呼ぶのではないだろうか?
なら、あの後輩の人格は小悪魔で決まりだ。
だって。
手作り弁当の雰囲気を出した包みの中にコンビニの唐揚げ弁当を入れるような輩は小悪魔以外の何者でもないのだから。