けものフレンズというパンドラの箱
これはあくまで私の感想であり、作品自体やこの物語を愛する方を貶す意図がある訳ではない事を先に伝えておきます、今回の話の内容は『けものフレンズ』というアニメについて。
ネットでは多くの方が絶賛するものであるのでエッセイなどでも時々書かれていた事もあり、私も後学のために一度見てみようと思い少し見て「何だこの絶望感は」と絶句した、勿論けものフレンズという物語にではなく、これが流行った社会情勢に絶望したのだ。
そしてエッセイを書いて、私は生の意見を聞いてみようと敢えて一話のみでの感想を書き反論を書きたくなる文章を上げてみた、この文章に寄せられる感想を元にネットや近隣以外の人の感情を感じて再放送を見てみようと考えた。
その思惑通りこのエッセイには数名の意見が書かれ、私はその意見を元にもう一度この物語にチャレンジしたのだが残念ながら新たに様々な疑問を抱えることになった。
この疑問は私にとって非常に深刻で作品評価を下降修正している、動物が好きからこそ安易に利用すべきではないと考えているし、彼らを人間が檻の中で飼育することにエゴを感じてしまうのだ。
なので、私の意見に不快になる方も居るだろうと思い、これ以上は語るまいと以前のままにして放置してたが、この事に触れた感想を頂いたので改めて感じた事を文章に纏め直していこうと思う。
まず知能が下がる等とネットで言われているのは、このアニメを通じて再学習をして大人になろうとする必死に足掻く声だと改めて感じてしまった、このアニメを真剣に見ると知能低下など無く逆に様々な思いや疑問が浮かび頭は冴え、彼らの様な現象は残念ながら感じる事は適わないだろう。
彼女達の話す言葉やインターネットでよく見かける言葉として「得意なことはみな違う」という意図の言葉、仲間内で落ち込んだ仲間を慰めるためによく話す言葉。
頻繁に使われる訳ではないこの言葉を彼らが好むの真の意味は、失敗を恐れ怒られたくない心を優しい言葉で自身を癒しているのかもしれない、この物語は失敗をして責められる恐怖を徹底的に隠している。
その点が彼らの癒しになっているのだろう、子供時代に人によって得意な事が違う事を複雑な人間関係の中で社会性を学び大人になるが、疲れ果てた彼にはこの奇妙な世界を心地よく感じるのではないかと思う。
ロクにお茶も知らない(覚えていない)主人公がカップの形に草を抜いて、同じくお茶を知らない理解出来ない相手に絵で知らせる、カメレオンの少女が透明になったとしても手に持った武器で見つかるなど、大人が見ればあからさまにおかしな行動や発言でも周りは彼女を凄いと褒める。
彼女が賢いという周りの賞賛が大事で、不自然でも人間が賢いという部分を強調している安易な賞賛は、結果として動物を都合良く扱う人間のエゴが集約してしまう。
仮にこの問題を全て複雑な関係や動物の生態などを一切考慮しない児童向け創作作品であるとすれば、逆にエゴを隠すために仲良くしているとも言えるが大人向けという視線で見ると本当にエゴが鼻につき不快感を増していく。
ストーリで気になる点は未だ尽きない、記憶喪失の少女を助けるネコ型肉食獣の少女は面倒を見るが初対面でさして理由のない異常なまでの献身をする、関係の深まっていない一話の時点で命を掛ける行動を取るのだ。
この点にかなり後で、過去に何かがあったと匂わせる表現はあるがネコ型の少女は忘れており、初期部では人間側が動物に一方的な偏愛させ依存させるような気持ち悪さを感じながら話が進む、最終話に至っても置いてけぼりのままなので二期以降になにか語られるのであろう。
仮に児童向けであるならこういった表現は普通に使われるし特に異存はないが、大人向けだという意見にはこの疑問を投げかけてみたい。
何故彼女達は、そうまで主人公の少女に好意を持ち奉仕をしているのか理由を考えて欲しい、児童向けでないというなら動物は人間に奉仕するのが当たり前で、人間は賞賛され奉仕されるのが当然だという結果になり、フレンズと呼ばれる少女達は奴隷だとすら言える。
安易に安っぽく萌を重視したせいで、皮肉にも物語の舞台である動物園という絶滅危惧種の安楽死施設(人類全体としてであり、そこに関わる全ての人はまた別の評価である)を表現するかのように、動物の生態を無視した様々な表現が好ましいと言えない作品に成り下がる、リアルの社会性というものを切り離し全てが人間のために回る世界だと鮮明なってしまう。
私も人が困っていれば手を差し伸べるし、道を尋ねられたら余裕があれば一緒に行ったりもするが、出会って直ぐに命を賭けたような行動を気軽に取れるのは過剰で異常だと感じてしまう。
この世界には金銭の概念は無いのでカフェの料金なども誰も支払わない点からあくまで遊びでやっていると言われるかもしれないが、それでも過剰だ。
大人向けとしてみると相当の悪意と絶望を感じる作品を見た人達が知能が下がると評するのは少女の可愛らしさを露骨なポーズやローアングルで表現する萌えのためだ、大人向けであるなら動物の生態や詳細など切り捨てねじ曲げてまでやるべきか私は疑問に思う。
特に最終回の主人公を救う為フレンズと呼ばれる少女達が戦う姿は、人間の都合によって作られた動物が主を助けるため戦う作為的な感動ポルノであるとすら言える。(私は動物を使った感動モノのフィクションが苦手であるので、そう思うのかもしれない)
これが動物を原題にしていなければ私もここまで感じなかったが、安易な萌と擬人化が鼻につき深い世界観を作ろうとしているのだろうが、結果として動物を道具にして人間のエゴばかり見せつけられ不快に見える。
だが今作はドキュメンタリーではないし、ただの娯楽作品である程度は仕方ないだろうと言われるだろう、動物ドキュメンタリーを好む層は非常に不満が残るから対象外であるとした方がいいのだろうが、萌え重視の作品創りの歪さの弊害であると私は思う。
制作側が萌えを重視し、大人向け児童向けを曖昧に作り表現したいものが迷子になっている、どちらかに絞ればよかったのだが、その時の都合の良いように作ったために迷作と言わざるをえない出来上がりになったのだろう、元々がソシャゲの販促に作られた作品である以上は仕方ないのかもしれないが、二期以降で修正をされていけばいいと思う。
社会はみな持ちつ持たれつで回っており、世間の人々が様々な仕事をして働くお陰で我々は文明を享受している、これは人として互いに支えあうのが理想だ。
その点では己の命を賭けてまで、敵の体内に囚われたネコ型少女を助ける主人公の行動は過去の自らの立場から来る責任の発露と言うべきものだろうし、その想いには私自身は賛同したいと思うし、児童向けであるのであれば非常に道徳的であると思う。
この評価を象徴するように再放送では子供達の目に入る時間に変更され、角川主導で監督が変更され児童向けにしようとする動きが見えてきた、劇中で彼女達の話す言葉は大人が子供に語るべき言葉が多くある。
この物語を小学生の子供に見せるのであればとても良い学習教材だと私は思っている、きっと二期は子供向けの良い話になると期待しているので是非角川には頑張って欲しいと思っている。
だからこそ、熱狂する大人の彼らが人として生きて行くことすら辛いと逃避先として物語を選んでいるのだとしたら、こんなに恐ろしい社会はないと改めて思う。
大人向けとして鑑賞するのなら社会の苦労から切り離され、何もしなくても食料などは安定供給され、周りの動物たちは自身のために喜んでその身を捧げる、そんな世界に喜びを感じるのがネット評価だと理想だと言わないといけないからだ。
リアルで上手く構築できない関係の慰みとして、作品を大人向けとして見て物語で補完しているのならば絶望と言わずしてなんと言えばいいのだろう、そうなると人に気軽に声を掛けれることが出来ない悲しい現代の大人たちの縮図がけものフレンズにはあると言わざるをえない。
そうした視線で見れば、児童アニメに大人が熱狂するこの現象に奇妙な違和感を感じる人もいるだろう。
だが彼らが自分の足で立ち生きるという事をするために、逃避ではなく物語に込められた子供達への言葉の中に明日を生きる活力を見出し、他人と関わろうとしているのであればこの物語を大人が見る事にも評価をしたい。
大人が絵本に癒やされるように児童アニメを見る事で、子供のまま大人になってしまった不幸な人々が明日を生きる為の方策を模索しているのであれば、私が感じた絶望にはパンドラの箱のように希望が残されているのだと信じてみたい。
私はそうである事を願うと同時に自身が感じた悲しい絶望が見当違いであると笑い話になる事を願っている、リュックを背負った少女が長い旅をして親友となったネコ型少女と別れ、海の向こうの新しい世界へ独りで旅立っていったように、この危険な悪人が跋扈する弱肉強食が存在するコンクリートジャングルのフレンズの一員として、彼らも出会いと別れを繰り返し行って欲しいと切に願う。
このエッセイは個人の感想であり、いかなる個人、団体に対して向けられたものではありません。