一章、タイトル後記載.2
僕の目の前で止まった彼女は、なにもなかったかのように会話を続ける。
「あなたに兄弟はいるのかしら」
僕はなにもなかったかのように答えた。
「一人、姉がいる」
「姉、そうなの。私には妹がいるわ。私によく似ている。と言っても、性格は勿論似ていないけれど。可愛いわよ。いい子だし。もう非の打ち所のない」
ずいぶんと溺愛されている妹だ。甘やかされて生きてきたのなら、そのべた褒めされている人格も疑わずにはいられない。いいこの定義には詳しくないから、というか縞伊佐木の目の前で妹をこけにしたら、首でもはねられそうだ。
その後も妹の話を長々と聞かされる。その割りには仲はいいとは言えないらしい。一方通行の愛なのか。すれ違いあってるのか。
八時三十二分。
家族の話となると語らねばならないのは、姉の斎笹桜だ。僕を「斎笹さん」と呼ぶ人は呼びにくそうだが、姉を「斎笹桜さん」と呼ぶ人はいないだろう。せいぜい病院の受付のかたぐらいだ。
ゆさささくらさん。
「どんなお姉さんなのかしら。同じ姉として気になるとこね」
そういうものなのか?
「まあ、姉貴は面倒くさがりで、なのにやることはやるから見るひとには真面目だと思われているね。興味がないように見えて人一倍愛情が深いから、今は姉貴のことをよく理解してくれている彼と付き合っているよ」
「いいお姉さんね」
まったく、僕の姉にしておくには惜しい姉だ。今何をしているのだろう。最近会っていないし連絡も取っていない。
ふと彼女を見ると、縞伊佐木はなぜか悲しそうな表情を浮かべていた。
「私は、姉ではなかったのかもしれないわね。あの子になにかしてあげられたかしら」
深く、深く瞬きをして、彼女は目を閉じる。僕も目を閉じた。感覚が研ぎ澄まされて、風が体を、背の高い雑草を、叩いていくのが分かる。深く、息を吸う。
八時三十三分。
自転車のスタンドをたてて、前輪のロックをかけて固定する。
「へえ、いいじゃないそれ」
「前輪のロック? 今日日どこにでもあるよ。前輪ロック付きの自転車なんて」
「私のにはないの」
それから僕らは、趣味の話をした。彼女も読書を嗜んで いたので、好きな本の話は盛り上がった。初対面の人間とこうして言葉を交わし、共感しあえるのに、友人が少ないのはなんとも皮肉だ。
彼女はミステリーを好んで読んでいるらしい。僕はこれといってジャンルを絞っていないので、僕が読んだことのないもので、オススメの小説をいくつか薦めて貰った。僕もいくつかオススメできる本を教える。
「そうね。読めるなら読んでおくわ」
なんとも曖昧な返しだ。ミステリー以外も読むらしいが、他のジャンルにはそこまで食指が動かないのだろうか。気に入ってる本なので、是非とも楽しんで欲しい。
八時四十五分。
残り五分のところまで時間は迫ってきていた。
「延長はできないのかな」
「延滞料金二万五千円よ」
「以外に安いな・・・。いや、決して安くはないけど、男子高校生に払えるレベル」
「無理しなくてもいいのよ」
「払ったら待ってくれるの?」
「あの世にばっくれるわ」
「ここまできてばっくれるとか言うな。言葉使いどうした」
「あの世ってとこは見て見ぬ、いいえ、聞いて聞かぬふりなのね」
「・・・」
「意気地無し―――」
悪かったな。さて、お金を払っても止められないのなら、どうしようか。もはや彼女が自殺しようとしているのは確実だ。このまま彼女を死なせるのは後味が悪い。かといってこういう場合は諭されたいわけじゃないよな。話聞く時間もないし。
なんで世間話してんだ。
「僕と付き合ってくれないかな」
「あなたが私に付き合ってくれる? 地獄まで」
地獄かよ。君はどんな生き方をしてきたんだ。天国行きも御免蒙りたいのだが、老後にお願いします。
「付き合うっていうのはそういう意味じゃなくて・・・」
「そういう意味よね? 情けや同情で言っているのなら地獄まで同席して貰うし、本気なら弱った女の子なら簡単に落ちると思った? 地獄まで同席して貰うわ」
「・・・コンビニまで付き合ってくれる?」
「二分で行って帰ってこれるなら」
駄目だ。最初から無理っぽい感じしていたけど、失敗した。他に、他に彼女を止める方法は。
「てか、なんで死にたいの?」
「退屈だから」
ああ、なんだ。最初から説得なんて無意味だった。その理由に解決策はなく、僕の足掻きは無意味だった。
「あ。あなたとのお喋りは楽しかったし、妹との時間もかけがえの無い大切なものだわ」
「なら、なんで。君に読んで欲しい本だってあるんだ」
「人生には、その幸せを帳消しにする程の退屈さがあるわ」
首にピアノ線を掛ける。僕はそれを止めることもできずにただ眺めていた。結局彼女を止めることは出来なかった。力ずくにでも止めるべきなのかもしれないが、僕にその後の生活を保証することはできない。
でも助けるべきなんだ。
自分が怖いから逃げてるだけ。
「別にあなたが心を痛めることはないのよ。ちょっと見苦しいことになるから、ここを離れてもらえると助かるのだけれど」
「いや、ここにいるよ。僕が君の自殺の目撃者として、君を見送るよ」
本当は逃げたかった。このままここにいれば後悔することになるから。それでも、逃げなかった。逃げられなかった。僕には彼女を見送る義務がある。
彼女は僕の失敗例だから。
「短い間だったけど、以外と楽しかったわ。ありがとう」
「まだ話したいことがたくさんあるよ」
「あの世というものが本当にあるのなら、そこから見守っていてあげるわ。妹のついでにね」
「そう」
警報機が鳴り始め、バーがゆっくりとおりる。そこで沈黙が発生した。
「そうだ。お願いがあるのだけれどいいかしら」
一際強い光が迫ってくる。
「私と、キスしてくれないかしら。私したことなくて」
「僕もないよ」
彼女の両手が僕の頬に伸びてきて、包む。こんな時間に外に長時間いたせいか、死体のように冷えていた。 顔が紅潮している。たぶん僕も。ゆっくりと、ゆっくりと。お互い初めてなものだから、それはゆっくりと近づいていく。
「遅かったわ」
電車が通った。
嫌な音が耳に届いた。聞いたことのない音だったので表しようがないが、凄く不快な音だった。小さく、電車の走行音に掻き消されてしまいそうだったが、確かに聞こえた。
頬に触れる手は沈み、彼女が離れていく。くるくると回りながら。頭の彼女と目があったとき、瞳のなかに月を見た。自転車の前かごに入った彼女は、なおもこちらを見ていた。やはり月が映っている。
「満月じゃないか」
開いたままの瞼に触れて閉じてあげる。
そういえば人間は頭が飛んでも、頭の血が抜けきるまで生きていると聞いたことがある。本当だろうか。本当だとして、彼女はまだ生きているだろうか。
「君のお願い。聞いてあげるよ」
僕は優しく彼女を抱き抱え、唇を近付ける。
柔らかい。
僕は初めてキスをした。ファーストキスは、レモンやら何かの味がするらしい。僕には人間らしい味がしたように思えた。
ファーストキスが断頭された頭部というのは、常人から随分と逸脱してしまっているが、まあいいだろう。僕の相手は美少女だ。そっちのほうが普通じゃない。
普通でないのは僕かもしれない。