一章、タイトル後記載.1
先程時計を確認したときには、八時二十分を指していた。辺りはほとんど何も見えなくて、等間隔に立ち並ぶ街灯が、申し訳程度に夜道を照らしていた。自転車のペダルを漕ぐ度に、肌寒い夜風が撫でていく。もう春だというのに夜はいつでも寒い。背筋がぞくっとして、身震いする。
文字通り物音ひとつしない田舎の街を、悠々と走り続ける。この街と相対的に、騒がしい自転車の無機質な駆動音だけが、今の僕を落ち着かせてくれた。友人同様趣味も少ない僕だが、自転車を漕いでいるのは悪くない。目を凝らすと遠くの方で踏切が見えた。家が近づいて来たので、今までのペースを落とす。
何だか踏切の近くに人がいるようだ。こんな時間だというのにいったいなにをしているのだろう。自分も言えた立場ではないことは分かっているが、僕にはちゃんとした理由がある。
ふと、あの人物が不審者ではないかと考えた。最近は物騒な事件が増えたり、危険な人物が増えたりしている。遠くから発見しただけの人物を不審者とするのはどうかと思うが、時間が時間だ。道を変えようかと迷ったが、そのままいくことにした。ある程度の護身術は身に付けているし、今は一刻も早く家に帰りたい。それに色々考えたが、こんな田舎にそこまで危険なことはないだろう。そう高を括っていた。
踏み切りに近づくと、相手の姿がはっきりとしてきた。周りが暗くてぼんやりしていたそれが、女の子なのだと判明した。それもただの女の子ではない。百人中百人が可愛いと認めてしまうような可愛いさを持ち合わせた女の子だった。しかしここら付近でこんな子を見かけたことは一度もなかった。誰だろう。僕は気がつくと警報も鳴っていないのに、踏切の前で立ち止まっていて、彼女のすぐそばで立ち止まっていた。見とれていたからではない。多分後から考えると、危険人物であるかどうかを、無意識的に確かめようとしていたのだと思う。見とれてもいた。
結局言葉が出てこなかったので、ただ止まっただけの。それこそ夜道で自分の隣に知らない男が急に止まって話しかけてもこないという、彼女から見れば僕の方が不審者だろうという、双方が固まり困るだけの不毛な時間が過ぎた。
彼女もどうしたらいいのかわかりかねたような顔で数秒固まり、立ち尽くしていた。が、思い出したかのように口を開く。
「こんばんわ。どうしましたか?」
全くだ。いったいどうしたというのか。質問されても黙っているわけにはいかず、取り敢えず挨拶を返す。
「こんばんわ。えっと、何をされていたのですか」
「何、してきたのかしらね」
美しい。でもどこか冷めていて鋭い、日本刀のような声だ。彼女は受け答えすると、僕なんか最初からいなかったかのように、遠くの線路に視線を移した。挨拶を返したのはいいものの、どう続けていいのか分からないので、取り敢えず申し訳ないとは思いながらも、彼女を観察した。
年は同じくらいだろうか。夜の空のように真っ黒なロングヘアーは、風になびいて揺れる。顔のバランスは人形のように整っていて、肌は白磁のように白く透き通っていた。細くて綺麗な指。すらりとした腕に、艶やかに伸びる脚。年相応にふっくらとした胸。純白のワンピースが風になびいている。
眺めすぎていたのだろうか。こちらが眺めているのに彼女が気付き、その白い肌をほんのり赤く染める。にこりと笑いかけてくるが、それ以上はなにもしないし、なにも言わない。
突然、踏切が警報機を鳴らし始めた。この音は、本能的に危険を感じる。しだいにゆっくりと遮断機のバーがおりてきて、彼女の視線の先に明かりが見えた。この時間なら、二十五分のと、五十分の電車があったはずだ。時計を確認すると、八時二十四分だった。
「何ですか?」
彼女の質問に、どきりとする。ここで急いで立ち去ろうとすると、かえってよくないので、単純に確かめるために止まったんだと伝えようと言葉を探した。
彼女は僕を見て話す。僕はいまだになにも言えず立ち尽くしていた。僕の返答など最初から待っていなかのように彼女は続ける。
「少しだけ話し相手になってくれるかしら。二十五分くらい」
以外に長い。でも、僕は断れなかった。僕らの前を電車が駆け抜ける。眩しい。物静かで暗い世界に、突如轟音と閃光が現れる。夜風なんて比にならない突風を纏いながら、電車は僕らの前を通りすぎるまで、叫び続けていた。窓から覗ける人々の表情は疲れきっていて、ちらほら見える笑顔が際立っていた。
「ねえ、私のことどう思う?」
彼女は電車が通りすぎると急に、口裂け女みたいなことを聞いてきた。あのお話は、どう答えるのが正解だったのか。
ありのままの答えを返す。
「よく分からないです」
分からない。知りもしないし見たこともない。初めて会った彼女に唐突に可愛いなんて言える精神を、僕は持ち合わせていなかった。だから次に思ったこと。むしろ一番最初に思ったであろうことを伝えた。
口裂け女の話でなんと答えたらよかったのかは分からないが、少なくともこの場合の返答は、「分からない」ではいけなかった。答えになっていない。彼女はその返答を受け取って、そっぽを向いた。
「つまらないわ」
彼女は嘆息をつく。失礼な態度をとっているのはどちらなのだろうか。質問をしておいて「つまらない」はないだろう。しっかり答えろと言われたなら、もう少し考えもするが、一方的に振って、一方的に終えられてしまった。
それならと、僕は自分の質問に移る。
「あなたは誰なんですか」
視線を上下左右に揺らし、けだるそうにぼそぼそ答える。
「縞伊佐木。住んでいるところはここからかなり離れているから、初対面よね。あなたは?」
「斎笹斎臣。家はこの辺だよ。確かに初対面だね」
お互いが自己紹介を済ませたところで、彼女は地面に置いていた鞄から何かを取り出す。僅かな街灯の光に反射したそれは、ピアノ線か釣糸か。
彼女は靴を脱ぎ捨てて、そのあと靴下も脱いできれいに揃えた。
「なにしてるの」
予想はついてる。
「さあ、なにかしらね」
「なにしてるの」
細い指でピアノ線を遮断機に引っ掛け巻いて、巻いて引っ掛け。こちらの質問を返すことなく、作業を続ける。幾重にも巻いたそれを、線路外まで引っ張ってくる。