神恵の子ら 第六章
<第六章 神恵の子ら>
フェイは、柔和な空間にいた。
「どこだ、ここは?」
肉体を駆使している実感がない。ただ、柔和な光に満ちているだけの空間に、フェイは浮遊していた。まるで海月のように、漂うばかりだ。
「観念の世界よ。フェイ、ここはそういった場所なの」
声がする。優しい、思慮深い、聴き慣れた音だ。フェイは、自分のさがっていた視線を、正面まで持ち上げた。
「シエル! シエルだね……?」
目の前には、柔らかな淡い栗色の髪と、快晴のような碧眼をした少女がいる。
「そうよ。私は、あなたの記憶のままの、シエル・パッセモント。あなたの知るシエルだけであり、今はあなただけが知る、私自身」
そういって、彼女は笑いかける。森の集落で、幼い時から向けられてきた微笑みだった。フェイの戦争によって荒んだ心さえも、その微笑に癒されていくのを、彼は感じる。
「とても、懐かしい気がするよ。戻ってきたんだって。あの頃に僕達は戻れたんだって、もと通りなんだって、そういう気がする」
彼は、そのために孤独な闘いに明け暮れたのである。
「シエル、戻れたんだね?」
彼女はフェイの言葉に明確な返答をしなかった。代わりに、フェイに陽の光のような微笑みを、向けてくれる。
「そうね」ようやく、彼女は口を開く。「私達は、つかの間の嵐のあと、ここまで戻ってきた。神の恵みを受けた者たちにしか降りかからない形での困難を、乗り越えたわ。そのためには、あなたの尽力が不可欠だったことも、いうまでもないわ、フェイ」
「僕達は、じゃあ……」
彼女は柔らかに、しかし明瞭に首を横に降った。
「わかっているでしょう。アルムタットは、私の一部でもあった。その存在が消滅すれば、私の一部も消滅せざるを得なくなる。これは摂理よ、フェイ。もう、決まっていることなの。あなたの知っている通りに」
フェイの瞳が、失望に翳る。
「そんな……。じゃあ、僕達は何故……」
シエルは、彼をそっと抱きかかえるような声音で、慰めた。
「失望しないで、フェイ。あなたの気持ちはうれしいわ。でも、この話は既に過去。過ぎ去った時は、思い出は、記憶は、私達にはどうすることもできない。もう、指の間からすり抜けていってしまったもの。私達には、もう手だけがないのよ。悲しまないで」
「でも!」フェイは、彼女に押しすがるように言葉を絞り出す。「でも。じゃあ、どうしてこんなことが起きたんだい? この出来事には、この時間には、この生涯には、なんの意味があったんだい」
彼女は、柔和に微笑む。
「意味は、見つけるものよ。与えられるものでは、ないわ。フェイ。あなたには見つけられるはず。あなたになら、きっと見つけられるはずよ、フェイ」
気づいていた。彼女の微笑みには、郷愁が混じっている。シエルは上手に、それを表情で打ち消していたが、十八年一緒にいたフェイが、それに感づかない訳がない。
彼の頬を、一筋の感情がこぼれおちた。名状しがたい、複雑で、狂おしく、陽光にさされた瞬間、溶けて消えるであろう感情が、一筋だけ、彼の外側へ流れおちた。
「……いってしまうんだね。遠くへ」
「安心して。残る部分もあるわ」
「でも、今、僕の前にいる君は、もう戻ってこない」
「そう。戻ってこないわ。次に会うシエルは、私とは部分的なシエル。不完全な私。でも、人は成長し、移ろっていくもの。その短所が、急激なだけよ」
「移ろう限り、また戻っても来られる。そうだね?」
彼女は、柔和な微笑を浮かべるだけだ。
「戻る生涯もあれば、戻らないままの生涯もあるわ。大切なのは、欠けたままの私では、ないということ。いずれ、違う記憶によって、私は満たされる。再び、別の満たされた私になる。あなたには、その一部を担ってほしい。そう思うわ」
「わかったよ。わかったよ、シエル」
彼女が不明瞭になっていく。フェイの夕いつ知る彼女が、薄れていく。
「シエル!」
彼は、たまらず叫んだ。
彼女は、柔和な微笑みだけを、たたえている。
「ありがとう! 僕の一部になってくれて。僕の記憶になってくれて! 君が家族で良かった。君と、一緒にいられて、よかった……」
「お礼をいうのは、私の方。ありがとう、フェイ。私の大切な人。あなたは、私の核の一部だった」
「僕もだよ。僕もだ……」
彼女は別れ際にこういった。
「さようなら、フェイ。またね」
「さようなら……またね」
彼女は消えた。いなくなってしまったのだ。フェイは嗚咽した。不思議と、涙は出ない。あの一滴だけだった。
フェイの意識が、現世に引っ張り上げられる。誰かの呼び声が、彼を連れ戻した。
◆◆◆(場面転換)◆◆◆
「フェイ! おい、フェイ!」
「フェイ殿!」
「中佐殿!」
「フェイ中佐!」
誰かが、呼んでいる。
真っ先に帰ってきた感覚は、肌の感覚だった。大気は乾いているが、地面は濡れている。雷雲が消滅したことで、こうなっているのだろう。
次に、視覚が帰ってきた。晴れ渡って星星が顔を出した夜空が見える。そこに、見知った顔が四人分、侵入してくる。士官候補生の四人だ。
その中の、一番気の強そうな両目と視線が合う。ジャンだ。
「フェイ! 無事だったか」
「ジャン…………」
ぼんやりと彼の顔を眺めていたフェイが、唐突に半身を起しかけた。が、激痛により、寝ていることを余儀なくされる。
それでも、彼は言葉だけは絞り出した。
「ジャン! シエルは? 彼女は何処だ!」
「安心してください。気を失っていますが、彼女に目立った外傷はありません。恐らく、なんらかのショックで気絶しているだけです」
クルス衛生兵が、フェイの脈をとりながらいう。
「シエルが、無事なのか……?」
クルスは、にっこりと笑顔をつくる。
「はい。それよりも、フェイ中佐の方が、重体です。様々な不治の病にかかって、それが一斉に治ったような、憔悴の仕方です。医学の常識では、考えられない症例です。それに加えて外傷も酷い。よく、生きているものです」
「全くだ。カミが去っても、この男から悪運は去らぬらしい」
ぴょこりと、見慣れた色とシルエットが、フェイの胸に立つ。クレメンツだった。
「クレメンツ。無事だったんだね」
「私があれくらいで、不覚をとるわけがなかろう。それに、喜べ。アルムタットは、完全に消え去った。お前に宿るジゴレイドとともに」
その事実を聞いたとき、フェイには堪えがたい郷愁に襲われた。自らの一部でもある、ジゴレイド。その存在が彼の内部からいなくなってしまった事実は、彼に悲しみを与える。偉大な戦友を失くしたような、愛する家族をなくしたような、そんな感情が、湧きあがる。
「そうか。じゃあ、ジゴレイドはもう……」
「話は最後まで聞くがいい。ジゴレイドは、確かにいなくなった。だが、なぜお前は私やこの人間たちを認識できると思う? それは、ジゴレイドがお前に余白を、残したからだ」
「余白……?」
「つまり、本人はいなくなるが、その空間だけは、亡くならないように残してくれたのだ。そうすることで、彼女と違い、お前の記憶はなくならなかった。巨人の計らいに、感謝するがいい」
「そうか……ジゴレイドが、そんな配慮を」
彼は、雷雲一つない夜空を見あげる。数十分前まで、そこで雄々しく闘い、この世ではないどこかへ還っていった雷の巨人に、思いを馳せる。
(ありがとう、ジゴレイド。僕の戦友であり、一番の庇護者……)
祈りは、静かに星達へ吸い込まれた。
そこで、あることに思いあたる。
「そうだ。クレメンツ! 僕に余白が残されたなら、シエルにも……」
しかし、赤毛栗鼠は首を横に振る。
「残念だが、彼女とアルムタットの結びつきは、お前とジゴレイドよりも浅く、短い。アルムタットは、彼女にそこまでの配慮や執着を残さなかったようだ。だが、これでいいともいえる。もし彼女に余白が存在すれば、いつかアルムタットが再び彼女にとり付き、この世界に具現する可能性が残される。その危険がないほうが、よかろう」
「……そうか。そうだな」
フェイは落胆した。しかし、これで完全にアルムタットはこの世からいなくなったのである。その事実は、本来喜ぶべきものであったのだろう。
「シエルは、僕の知っているシエルは本当に、損なわれてしまったんだな……」
「安心するがいい。彼女は生きている。生きていれば、またお前との関係性も変化するだろう。再び始めるのだ。お前と彼女の関係性を」
赤毛栗鼠の硝子球のような両目が、失意の彼に訴えかける。その周囲には、一個師団が逃げ出した後でも、彼を信じこの場に戻ってきた士官候補生四人の顔がある。
フェイは、すっと夜空へ指先を伸ばした。彼の庇護者、彼の記憶の断片、そして疾病のリュウを呑みこんでいったもう戻らない虚無に、しばし黙祷する。
そして、瞼を開ける。
「そうだな。また、始めよう」
(※終章「嵐のあと」に続く)