神恵の子ら 序章
<序章 森を抜けて>
鳥が鳴いている。朝が訪れていた。
「行くのか。平野に」
三日ぶりに、フェイは上体を起こす。
枝から彼の肩へ、クレメンツが、着地する。森の天上からあざやかに、体重を感じさせず、栗鼠の彼は飛び移った。
「あそこには、鉄と火が渦巻いている。危険だ」
フェイの体調を気遣うクレメンツは、ずんぐりとした野栗鼠だ。
体長は小さめの猫ほど。赤毛である。部分的にはこげ茶も、その松の葉のような体毛に混じっている。しかし全体的には、彼はやはり赤毛の野栗鼠だ。土を少し混ぜたような赤色が、彼の色である。
「森にいたほうが、いいのではないのか」
クレメンツは、喋る赤毛栗鼠でもある。森の英知でもあり、フェイよりも、数段ものしりだ。フェイが病床にいた三日間、看病してくれた恩人(栗鼠)でもある。
「ここでの献身的な看病には、感謝してる。本当さ。だが、いかなきゃならない」
クレメンツを右肩に乗せながら、フェイは荷づくりを済ませた。それほど荷物はない。殆ど脱走したときに置いてきたのだ。着のみ着のまま、この鬱蒼とした森林地帯へ身を隠したのである。新兵のとき配給されたミリア国製のナイフ、脱走のさいに拝借した国境警備隊の制服とブーツ、森で拾った木の実(非常食)、教会からの借り物であるグローブ……荷物はこれだけだった。
「あの病に襲われて、まだ三日目だ。無理ではないのか。身体がもつまい」
「彼女の言葉は嘘じゃない。三日三晩で、そっくり治った。健康そのものなんだ。不気味だけれど」
「追いかけるのなら止めておくがいい。次は……」
その忠告に、フェイは応じない。大男の彼は、葉の細い広葉樹の共棲する森の出口を目指す。歩いている最中は、一言もしゃべらない。
フェイの視線の先には、広い平野が待っているはずである。そこに、用があるのだ。
静寂で、どこまでも続いていそうな木陰の中を、確かな足取りでフェイは進む。国境警備隊のブーツは、渇いた落ち葉の層に沈みこんでも、身体のバランスを損なわない。フェイは、いいものを拝借したようだ。
「ついてくるのか、クレメンツ」
「森を出たくはない。私は森の英知だ。私のいるべきは、森だ」
「なら、どうして肩に」
「私のアニマが、彼女のそれに引き寄せられている。お前と彼女の一件を目撃して以来、ずっと。深く」
「へえ。まあ、道ずれなら歓迎するよ」
猫ほどのクレメンツが肩に乗っているというのに、重そうな素振りをフェイは、見せない。もっと重いものを担いだ経験がいくらでもあるからだ。農作業でも、教会の神事でも、戦場でも。言いかえれば、農民として、信仰を有するものとして、兵士として、そうした経験がある。
それらに比べれば、赤毛で前歯の大きい猫など、苦ではない。
「なぜ、国境の前線へ戻るのだ」
「伝染病は戦場で流行る。不衛生で、弱った媒体が大勢いる。あれの恰好のえさ場だ」
森の底に、光は殆ど届かない。日は昇って久しいが、葉の天井が遮ってしまうのだ。おかげで、地面は肌寒い。
「……そこにあれがやってくると、お前は考えているようだな」
「そうだ」
「だが、確証はない。身を危険にさらすだけかもしれない」
「百も承知だ」
「おまけにお前は脱走兵だ。敵前逃亡者は、馬に手足を引っ張られ、千切り殺される」
「構わない。それに、敵に殺されるのと、さほど変わりはしないだろう」
クレメンツは少し沈黙した。英知を備えた野栗鼠らしく、考え込んでいるらしい。
「あるいは、お前のアニマも、あれに引き寄せられているのかもしれない」
今度は、フェイが黙る番だった。
「確かに、それもある……かもしれない」
あと五日のうちに森を抜けるという任務だけに注がれていた神経が、赤毛栗鼠の言葉によって乱された。フェイの眉間に、ゆっくりと皺が寄っていく。
「だが、用があるのはあれ、じゃない。彼女の方だ」
「憑かれた存在だ。どうすることもできぬ」
「知ってる。だが行く」
このやり取りは、一人と一匹の間で、暇さえあれば繰り返された。お互いに折れず、誤差のない平行線だった。永遠に交わることも接することもない。
恐らく、これが人間と動物の限界なのだ。
「理解できぬな」
「でも、着いてくるんだろう」
野栗鼠は、返事のかわりに身動きしなかった。肩から降りないということは、同行するということだ。
「僕にも、お前が理解できないよ」
クレメンツは、フェイの肌に爪を立てた。しっかりとしがみついて、静かな吐息を繰り返す。どうやら、ひと眠りするらしい。
「まあいい。でも、危なくなったら君は帰るんだ。いいね?」
野栗鼠は答えない。もう寝息を立てていた。
(※第二章「前線へ」に続く)