花開くレモン
「おいで」
よく分からない空間を、漂っている。黒でもなければ白でもなく、赤や青でも何でもない色の塊。
冷たい気もするし、熱い気もする。固いようで柔らかい。
僕の体は浮いているのか、沈んでいるのか。寝ているのかもしれないし、歩いているのかもしれない。
何も、分からない。
「こっち」
声のする方へ、吸い込まれているのだろうか。自分で向かっているのだろうか。それともあちらから向かってきているのだろうか。
ただ、近付いているのは分かる。そんな気がする。
「お」
「い」
「で」
三人、男二人女一人。
その声に反応したくても、脱力したのか力が入りすぎているのか、手を伸ばすことは愚か、声も発せない。
「「「おいで」」」
ぽわん、と間抜けな音がして、柔らかな光が現れる。
僕はそれに手を伸ばして――――
指先に、ほんの少しの温もりを感じて目が覚める。
薄らと目を開けると、先程の世界は存在していなかった。
するり、と今にも僕の手から逃げていきそうなその温もりを手放したくなくて、咄嗟に手に力を込めれば簡単に捕まえる事が出来た。
頭上から、低めの女声が聞こえる。
「ふふっ。可愛いなあ」
温もりの正体がはっきりした。これは間違いなく、僕にとって三人目の主、一八様の指。
「一八様、おはようございます」
「おっ? おはよう」
起きてたのか、なんてにへりと笑う顔は一片の曇りも無くやっぱり綺麗だ。
「君、三日も寝てたんだよう? 疲れてたんだねえ。ちょっとは体が楽になったかなあ?」
「え、僕そんなに……。すみません、助けて頂いたのに」
「いいよう。君の家なんだからさあ、ゆっくりしてちょうだい」
こんなにふかふかな布団で、誰にも邪魔されず、怯える事も無く眠れた事は、今までに無い経験だった。
「家族は複数人で一つの塊だからねえ。他の人が補えればそれでいいのよう。さ、お腹空いてるでしょう? 美味しい朝ご飯、食べようか」
僕の手を弱く引いて、一八様は部屋を出た。そのまま真っ直ぐ歩いて大きな襖を開けると、背の低い茶色の机に和食がずらりと並んでいた。
「うちはねえ、基本和食だけど嫌いだったら言ってねえ。うちの執事さんは有能ですからあ」
胸を張る一八様の後ろから、執事服の上からエプロンをかけるセンリョウさんが湯のみに汲まれたお茶をお盆にのせて出て来た。あそこはおそらく台所だ。
「おはようございます」
「ぷくっおはよう。うん。似合ってる似合ってる。んふふ」
「なっ……ひ、一八様がこれを着ろと……っ」
センリョウさんは顔を真っ赤に染めて、笑いを堪えきれないといった様子の一八様を涙目ながらに軽く睨んでいる。
……因みにセンリョウさんのエプロンは普通の代物ではない。胸元に大きなハートの付いたふりふりのピンクエプロンというなんと言うか個性的なものである。
「いやあ。可愛いよ、うん。可愛い。……日本家屋の中で執事服の上からハートのエプロンッくふっ」
一八様は右手で口角が上がるのを抑えて、左手でお腹を抱えて、我慢をしているようだったが最後には結局声を上げて笑っていた。一八様の笑い声は独特で、くひひひひとか言いながら隣で腹を抱えている。く、くひひひひ……。そんな彼女を横目にセンリョウさんは一つ、咳払いをする。
「……そういえば一八様。その獣人の方は何と言う名前なのですか?」
「あーそっかあ。忘れてたや。とりあえずそれ脱いでえ。んふっ笑っちゃう」
センリョウさんは諦めたように溜息を吐きつつエプロンを脱ぐと、畳の上へさっと広げて几帳面に畳んだ。
「よし。ええと、ルカくんだよねえ」
「……は、はい」
一八様の口から出たルカ、と言う名前。確かに僕のものだが、僕はこの名前を心底嫌っている。
この名前で呼ばれた日々の苦しみは僕の人生の大部分を占め、これからの明るいであろう生活に馴染むには、少しも適していない。汚れた、なんとも憎い名前だ。
僕の送ってきた奴隷生活は、他人に容易く分かり得る程生温いものでは無い。
「……? ル、ルカくん?」
ボロボロ、ボロボロと涙が止まらない。一八様に指摘されるまで、自分でも気が付かなかったが、畳のい草を濡らす染みは隣同士が連なる程沢山できていた。
「だ、大丈夫? 落ち着いてえ?」
この人に、ルカだなんて呼ばれたくはない。呼ばせたくはない。
汚い名前で大切な人に呼ばれるのは、こんなにもきつく胸を締め付けるのか。
一先ず涙を止めなきゃ。早くしないと一八様が困ってる。
「うっ」
止まれ、止まれ。
心配そうに覗き込む一八様に、複雑な気持ちになる。
心配してくれる人がいるのは嬉しい。僕の事を心配してくれたのはこの人が初めてだからというのもあるが。
でも迷惑をかけているのではないかと思うと申し訳なさやら何やらが押し寄せてくる。
涙を止めたくてでもどうすれば良いのかなんて分からないから、固く握った拳に更に強く力を込めてみても涙は一向に止まらなくて、目を抑えてみても、唇を噛んでみても結果は同じだった。
「……ねえ」
「ひっ」
とてつもなく、低い声だった。
怒気を含んだその声は、僕が先程まで聞いていたものでは無く、骨の浮き出た僕の体を震わせた。
「やめてよ……。私の大切な家族を傷付けないで」
一八様は、いつも薄く開いているだけの狐のようなその目を、獲物を見つけた猛獣のように開いた。その目は先程と同じ淡い翡翠色ではなく、どす黒い赤に染まっている。
怖い。
怒っているんだ。
勝手に泣いて、一八様や一八様の獣人を戸惑わせたから。手を煩わせたから。
……やっぱり、人間なんて皆同じなんだ。
「一八様、少し落ち着いて下さい」
センリョウさんが一八様の肩に手を置く。振り払いこそしないが赤の目は変わらない。僕を捉えて逃さない。
「許せないの」
怒りに打ち震えた手が僕の手をそっと握った。
「傷、付けないで」
次に見えた一八様は僕と同じ様にボロボロと大粒の涙を流していた。
懇願する様に、僕の手を摩って、泣いていた。
僕を心配していた……?
「一八様……」
この人はどこまで優しいのだろう。
否、きっとどこまでも優しいのだ。ここからここまでなんていう線引きは、この人の中には存在していない。真の優しさを持っているのだ。
「一八様、あの」
僕はもう一度声をかけた。
「僕、この名前嫌いなんです」
一八様は俯く僕をそっと抱き寄せた。
「……そっかあ。そうなんだねえ。ごめんねえ、嫌な思いさせて」
声はもう元の柔らかさを取り戻しており、顔を上げれば瞳は鮮やかな翡翠に輝いていた。
その瞳を僕に向けてごめんね、だなんて言うものだから僕は大きく頭を振った。
「違うんです。一八様は悪くなくて」
「でも、嫌だったんでしょう?」
「……はい。でも、その。原因は違うというか」
言葉を詰まらせても、一八様は怒る事は無い。僕の言葉をずっと待ってくれる。以前までの生活なら早く話せ、私に暇はないと罵られ暴力を振るわれただろう。
「ルカって呼ばれるの、怖くて」
そう伝えれば一八様は頤に手を当てて唸った。
「んーじゃあさ、名前変えよう」
名案名案、と一八様は言うと僕の周りをぐるり一周して、そしてまた一周した。
「レモン!レモンってどう?」
手をぱんっと打って頷き、一八様は明るく顔を輝かせて言う。
「レモン? 何でだよ」
いつの間にか机の近くの座布団に胡座をかいていたタイムさんが聞く。
「ええ? 何でって、花言葉」
「……想像はついてた」
タイムさんはつまらなさそうに呟いた。
「一八様は花言葉がお好きなので、私達に見合う花の名をくれるのですよ」
センリョウさんは一八様の常を知らない僕にも分かるように説明してくれた。
因みに『センリョウ』という花には恵まれた才能、可憐という意味が『タイム』という花には活動的、行動力、積極的という意味があるらしい。確かにイメージ通りである。
「レモンはねえ、誠実な愛とか愛に忠実って意味があるの。君は素直に可愛い事言ってくれるからねえ。ぴったりかなあって」
誠実な愛、愛に忠実、か。素直だからとは言っていたが、一八様はもしかして僕の従順さを見抜いたのだろうか。僕が主や好きな人に従順なのは犬の獣人の性なので、本能に逆らう事はなかなか出来ない。
「なるほどな。いいんじゃねえの」
大して興味が無いのだろう。こちらを見ずにそう言うと、タイムさんは早くも並べられた和食に手をつける。
この中では最高位だろう一八様より先に食べても怒られないのか。
「じゃあレモンで。よろしくう」
一八様もタイムさんに続いて手を合わせて食べ始める。僕も見よう見まねでそれをする。
箸、というらしいこの二本の棒も、一八様とセンリョウさんを見て習う。……タイムさんは僕より行儀が悪いので、見習う必要は無いとセンリョウさんに言われた。
確かに彼は行儀が悪い、という部類なのだろう。何もかもを素手で食べている。
まあ僕からしたらそちらの方が当たり前だったのだが、この箸、実に便利だ。直接つかむ必要が無いので手が汚れない。
デメリットを強いて言うなら慣れるのに時間がかかりそうな事だ。
「箸も初めてなんてねえ。覚束無いのがまた可愛いねえ」
まあ、タイムは諦めて手掴みで食べる子に育ったけど、と僕を見てにやにやする一八様。またくひひ、と不思議な笑い方をして、肘でつついてくる。
「一八様、変態みたいになってます」
「え、やだあ。いけないいけない」
一八様とセンリョウさんはとても器用に箸を使う。小さな豆も易々と掴んで口に運ぶのだ。
真似してみても、僕には到底出来そうにない。ころころと皿の上を転がるだけだ。
「手先が器用なのですね」
「そうかなあ。褒められるの嬉しい。レモンも初めてなのに上手だねえ」
満足げにそう言うと、一八様は親切に僕が悪戦苦闘していた豆を掴み、僕の口に運んだ。美味しい。
「一八は器用じゃねえぞ。着物すら一人で着られねえから」
「うるさいなあ。いいじゃないの。センリョウやってくれるし、その方が楽だしねえ」
「私の方はけっこう面倒臭いのでご自分で着られるように努力して下さい」
「ちぇー。冷たいの」
煮物というらしいそれを頬張りながら三人の雑談を聞く。
「センリョウさんの料理、全部美味しい……」
僕が頬いっぱいにご飯を詰め込み感動していると、センリョウさんは柔和な笑みを向けた。この笑顔が優しい味を生み出しているのか。
「そうやって言って頂くと作り甲斐があります。和食、レモンさんのお口にあったみたいで良かったです」
「レモンはセンリョウの事、大好きみたいだよう? 良かったねえ」
悪戯好きの子どものような人懐っこい笑顔で笑う一八様に、センリョウさんは恥ずかしそうにこめかみを掻いた。
「センリョウはねえ、素直な子の面倒を見るのが好きでねえ、レモンの事すごく気に入ってるの」
「何処かの虎のように我儘じゃなくて、弟みたいで可愛いんですよ」
「誰が我儘だよ、堅物」
「ご自分の性格も把握していないのですね、軟派男」
「あ? それだからお前は彼女の一人もできねえんだよ。ばーかばーか」
「……貴方は積極的なだけで結局女性を連れている所は見た事ありませんが」
「!!!」
二人は尽きる事の無い罵声を浴びせ合いながら睨みを効かせていたが、僕は家族というものもそれに似たものもなかったので、センリョウさんの弟という言葉が、無意識の内に頬が緩む程嬉しかった。
「一八様、僕弟って言われました」
僕が言うと一八様は少し目を大きくしてから嬉しかったの、と僕の頭を撫でた。
「レモンの笑顔は可愛いねえ。撫でた時に細くなる目も可愛いなあ」
僕の耳をふさふさと触る。耳や尻尾を触られるのは、相当気を許した相手じゃない限りイヤな感じがして鳥肌が立つ。眉間に指を近づけられる感覚と同じだ。
でも一八様は別で、寧ろ心が温まりさえもする。
「ふふふ。尻尾振りすぎい」
「えへへ。ごめんなさい」
言われて意識してみると僕は千切れそうなくらい強く尻尾を振っていた。
「ふふーん。許さないぞう。とうっ」
一八様は僕に飛び付いてきた。
好き。この人が大好き。大好きだ。
僕の心を『好き』の二文字が埋め尽くした。頭の中もその二文字でいっぱいになって他は何も考えられなくなっている。
「好き!」
ぴたっと一八様の動きが止まる。
駄目、だったのだろうか。……僕は早くも嫌われてしまったのだろうか。
「うっううー」
一八様は何やら唸りながら頭を抱えて縮こまった。
「ひ、一八様……? 頭が痛いのですか? ぼ、僕何か悪い事……」
「ううううっ可愛すぎる……!」
上擦った声でそんな事を叫ぶ。
苦しいのか痛いのか分からない僕があわあわと両手を動かして戸惑っているとセンリョウさんはよく分からないが写真を撮り始め、我が子が、我が子が、と何か危なそうな事を唱えている。
「あーほっとけ。そいつ等頭おかしいんだよ。センリョウはこの世に現れて長くなるからか知らねえけど、ああ見えて小さかったり丸い可愛いものなら何でも好きだし、一八は可愛い感じの男子が好きなんだよ」
悶えてる、と言うらしい。あまり意味は分からない。生憎僕はそんな言葉を聞いた事が無いのだ。
「僕は悪くないという事ですか?」
そうとも言うし、そうじゃないとも言う、となんとも曖昧な答えが帰ってきたので僕の頭は今にも沸騰してしまいそうだった。
「ごちそーさんっと」
床でじたばた暴れる二人を特に気にする事無く立ち上がったタイムさんは、カチャカチャと音を立てて食器を運んだ。
この二人の状況を僕にも分かるようにもう少し噛み砕いて説明して欲しかったが、残念ながらそれは叶わなかった。
「うぐっわ、私もご馳走様」
「ひ、一八様、この写真後でお裾分けします」
何故か苦しむ二人と、その異常に毛程も興味の無いタイムさんに呆然としているといつの間にか僕の分の食器も下げられていた。
壊れても優しい所は変わらないらしい。
「ねえレモン、今更だけどさ服のサイズどう?」
漸く落ち着いた一八様がいつもの笑顔で聞いてきた。切り替えが早い。
「大丈夫です」
首周りが大きく開いた白ニットはふわふわしていて暖かいし、ズボンはぴたりとくっついて履き慣れないが、きついという程でもなく案外動き易い。
「天使みたいだねえ」
一八様は僕を見つめてうっとりしている。少し自意識過剰にもとれる表現かもしれないが、本当に効果音が付きそうなくらいこちらを見つめてくるのだ。
「一八様、恥ずかしいです」
「恥ずかしがる所も可愛いよう」
また僕を撫でる。だからお返しにと思い、彼女の顔を舐めてみた。
「え」
凄く驚いた顔をした。
正直僕は今の所、何がやってはいけなくて何がやって良いのかよく分からない。
「あーそれ、犬特有の愛情表現だよな」
タイムさんは僕に同意を求めるが、僕はそんな事初耳で、人間はやらないのか、と驚いた。
人間は頭が良いからこれ以外に自分の愛を伝える方法を知っているのかな。
「へえー、そうなの。可愛いねえ。びっくりしちゃったあ」
ぶわり、と紅に染まった形の良い頬に手を当てる彼女は嬉しそうだったので、嫌われた訳では無いのだと安心した。
もう一度、今度はさっきよりもずっと優しく紅の頬に舌を落とすと、ぎゅっと抱きしめられる。嬉しくて彼女の顔中を余すことなく舐めた。
優しく、僕のいっぱいの愛が届くように。
「ふふっ必死に舐めてるの可愛い」
一八様は可愛い、とばかり僕に言うし、すぐに僕の頭を撫でる。
センリョウさんやタイムさんには可愛いなんて言わないし(エプロン姿のセンリョウさんには言っていたが)、あの二人の頭を撫でている場面なんか見た事がない。
何だか自分だけ特別扱いされているのが、逆に、家族という一つの纏まりに入れてもらえていないような錯覚を起こして、僕を不安にさせる。
「どうしたの?」
不意にしゅん、と垂れ下がった僕の耳と尻尾を見て、彼女にも三角の耳があったなら垂れ下がってしまいそうな顔をした。
「……僕は家族になれていますか?」
唐突な質問だったにも関わらず、一八様は真剣な面持ちになった。
「家族、だよ」
そしてまた僕を抱きしめて頭を撫でる。
不安になるけれど、それでも僕は嬉しいらしい。頭に彼女の手が触れる度に尻尾が大きく強く揺れていく事が分かる。
「ん。好き、です」
僕は強く彼女を抱き締め返した。
「もうぐっすりですね。レモンさん」
一八に抱きついた姿勢のまま、レモンはすぐに眠りについた。安心しきったように口を半分開けて寝る姿は子どもにも見えた。
「そうみたいねえ。可愛い」
「お前可愛いしか言ってねえぞ」
「あれえ? タイムくんは焼きもちかなあ?」
煽るように一八が言っても蔑んだ目で馬鹿じゃねえの、と冷たく言い放つだけだった。
尤も、一八は可愛い男子が好きなのでそ、そんな事ねえよ、とか言うタイムを少しだけ期待したが、相変わらずの反応に口を尖らせる。
「一八様、お時間です」
「あちゃーそっかあ。タイム、お留守番中のレモンよろしくねえ」
「はいはい。どうせずっと寝てるだろ」
タイムは面倒そうに言いながらも、一八が座布団を二つに折って作った枕に頭を置いて眠るレモンに、そっと毛布を掛ける。
「はい、ありがとう。じゃあ行ってくるねえ。お利口さんにしてるんだよう」
「俺はガキじゃねえ」
一八はそれを見送ると、ちょっとした羽織を肩に掛け、センリョウと共に家を出た。