汚れた檸檬
目が覚めて、夜が来る。朝が来て、目を閉じる。僕の朝は朝じゃなくて、朝なんて一生来なくて。
目に入る色は、全て人工的だ。
「起きたか。早く立て」
男の野太い声がして、真っ暗な闇にぼんやりと、青白い光が入ってきた。
「ほら、行くぞ」
首輪を手早く取り付けられ、そこから伸びる薄ぼんやりとした灰色の、だけど僕にとっては真っ黒なカラスみたいな鎖を、勢いよく引っ張られる。犬の僕は地面に打ち付けられて、カラスは空へ羽ばたいた。男は、僕が立ち上がろうとしてよろめいても意に介さず、当然の如く一瞥もくれなかった。普通は、こんな扱いをされたら何か感情を抱くだろう。
けれど僕は違う。
腹を立てたり、呆れたりするのには、もう疲れてしまったんだ。
僕は今日も、牢獄のような部屋の中、檻に入れられて、いつもと変わらぬ夜を迎えた。
「あら、遅かったわね。もたもたしていないで早くこっちに来なさい。貴方の飼い主は暇じゃないの。待たせないでちょうだい」
僕はそんなにのんびり歩いたつもりは無いけれど、衰弱しきった体と行く手を阻む足枷のお陰で、僕の歩幅は既に、真っ白な少女同然だったようだ。
僕は主様の観賞用奴隷。
だから、食事も服も他の獣人達と比べればちゃんとしているし、過酷な労働に使われる事もなかった。
奴隷の中では優遇されたと言われるであろう僕の暮らしについてきたのは、一切外に出ることができないという対価だった。
人は、あまりに日光を浴びないと気がおかしくなってしまうらしい。
人間と獣の間に位置し、一時は神と崇められた獣人にも、その症状は当てはまるようで、僕の近くで檻に閉じ込められていた、鋭い牙と冷静な思考を持つ狼の獣人は、昼夜問わず奇声を発し、感情に任せて檻を殴り、ケラケラと笑い始めたかと思えば幼い子どものように泣きじゃくった。
真っ黒な鉄格子に囲まれた僕達観賞用は、閉め切られた窓をものほしげに眺め、狂気と化し、売り飛ばされた仲間を思い出しては怯える事を繰り返した。
外の光を最後に見たのは何時だっただろうか。
太陽に照らされた美しい花を、静かに降る七色の雨粒を、最後に見たのは何時だっただろうか。
少なくとも、記憶が曖昧になってしまうくらいには見ていない。
もう二度と光を浴びれないという、鬼畜な現実は心得ている。
「ちょっと、何をぼーっとしているの」
主様が不機嫌な声色で聞いてきた。もう慣れた事なのにこの不思議な感覚はなんだろう。
何かが違う。
主様の冷たい態度にいつになく未知なる恐怖を感じた。
「何も答えないとはどういうつもりよ。ちゃんと人の話聞いてるの?」
「すみません……」
小さく縮こまって謝る事しかできない僕は、何て無力なのだろう。
主様から顔を背け縮こまった僕の背中は、きっとそこらの生意気な子どもよりもうんと小さい。
「はぁ……あなたは本当に出来損ないね。勿体ないわ。毛色も形も綺麗なのに」
主様の言う綺麗な毛色や形とは、僕に生まれつき生えている耳や尻尾の事を指すのだろう。僕の毛はその珍しい色と柔らかな毛質から『愛の色を添えられた純白の天使』と謳われた。僕にとっては不思議なキャッチコピーだった。
「ねえ。何よさっきから。主の私と目も合わせないとはどういうつもりよ!」
「は、はい。すみません……」
主様は苛立ちを隠さずに机を荒々しく叩きながら、その横暴さを表すかのように細い目を吊り上げた。
「まぁ、いいわ。どうせ今日で最後。あなたはもう用済みよ。『愛の色を添えられた純白の天使』なんて謳われるあなたなら、今の醜くなった姿でも充分大金に変わるわ」
欲望にまみれた『悪魔』の顔を僕は何度見ればいいのだろう。目の前の女は僕と同じ光の無い目で下品に笑った。
「……はい」
僕は絶望的な気持ちになった。この女から逃れられるのは嬉しいのに、未知なる恐怖の正体が僕の体を震わせた。この女の元を離れる事への、何とも理解不能な恐怖である。
たとえ次の主を見つけたとしても、今の暮らしが改善されるなんて有り得無いだろう。そんな事は、何よりも明確な事実である。それどころか、今よりずっと過酷で、辛い生活に苦しめられる日々を送らなければならなくなるかもしれない。
そうなるくらいなら、今の主に観賞用として、人形よろしく閉じ込められていた方がはるかに楽なのかもしれない……。
ああ、もっと大人しく、彼女の人形らしくしていれば……。
もっと、もっと彼女の喜ぶように相手をしていれば……。
……僕は、愚かだ。
そんな今更無意味な事を考えていたら、突然目隠しをされ、視界を完全に奪われた。重たい首輪も、手足の枷もそのままに、男のものだと思われる、ごつごつとした手に捕まる。乱暴に僕の手を引っ張り無理矢理立たせると、僕の手を握る男は大股で歩いた。僕はといえばおよそ引きずられる形で前へと進んでいる。
今僕は、どこへ向っているのだろうか。肌に冷たい空気が当たる。
外、に出たのか。閉じ込められていた僕が外に……。
これが意味する事は、考えなくとも分かってしまった。それは、僕の恐怖心を煽るには最適なもので。
怖い。怖い怖い怖い怖い……コワイ!
一度震えだした体は、まるでいうことを聞かなかった。
男は僕を、おそらくトラックの荷台に六つ並べられた檻に放り込んだ。その大きな車体が見えていなくても、僕には分かる。僕達獣人が売られる時、必ずそれでオークション会場まで運ばれるからだ。
獣人を多く飼っている人間は大体、オークション会場の近くに家を持っている。突然珍しい獣人がオークションにかけられてもすぐに駆けつけることが出来るようにだ。
今の主様も何百と獣人を飼っているから例に漏れず会場近くに立派な邸宅を構えている。
だから、僕が出品される会場に着くのは、一瞬だった。
闇の中を歩く感覚。
車を出てから、僕は会場に用意された檻に移された。鎖で首輪と鉄格子を繋がれて。
ここまで来て逃げる気は無いし、尤も、逃げる場所だってないのだからこんなものは必要無いのだが。
少しの間、音のない時間を過ごした。
僕のいるこの部屋にはきっと他の獣人もいるのだろう。しかし、誰も少しも動かず、何も発しない。
自分が悪魔達に買われるのをじっと待つ事しかできないのだ。
右の方が明るくなって、騒がしい声が聞こえた。
オークションが始まった。
汚い悪魔の歓声に、それを煽る司会者の甲高い声。
オークション会場はいつも、狂った人間達の賑やかな声が響いている。何が楽しいのか、僕には理解ができない。そもそも理解しようとも思わないのだが。
突如歓声が大きくなったかと思うと、タイヤの回る音がした。木の板に取り付けられた小さなタイヤだ。会場の檻は、古い木の台車に乗っている。
ぐらりと檻が揺れた。
そして、目隠しも外されて、眩しいライトで照らされた舞台上へと運ばれる。
僕は頭の中を空っぽにして、暫くの間じっとしていた。
苦しい……
全身が、闇に飲み込まれていくような、溶けていくようなこの感覚。
嫌だ。僕は汚い闇には浸かりたくない。
そう、声に出そうとしても、それは叶わない。抜け出したくて、必死にもがこうとしても手足は動かない。
やっぱりもう無理なんだ。僕は一生『悪魔』の奴隷として生きるんだ……。
僕は、そうやって終わるんだ。
「いや、だ」
福之御殿の一室、犬の獣人は布団の中で声を上げた。苦しそうに顔を歪めて、涙まで流して。
「……ねえルド、この子私の家族にしたいなあ」
のんびりとした口調で、だけどどこか哀愁を感じる声色で慈しむように足元で横たわる獣人を見つめた。
「ああ。分かったよ。手続きをしてくるからちょっと待ってて。一八、俺が戻ってくるまでにその子起こしておいて。一八が良くても、その子はもしかしたら一八の事を怖がるかもしれない」
「はあい。分かった」
ルドと呼ばれた男ストレリチア王国王、ルドベキアは襖の奥に消えていった。微かに廊下を進む足音が聞こえる。
「ねぇ、おはよう。朝だよ」
一八は目の前の獣人を揺すって顔を覗き込んだ。
「眉間に皺寄ってますけど」
くすりと笑うとそれに反応して獣人が目を覚ました。
人の声が聞こえた。
僕は眠っていたようで、目を開けると目の前には女の人がいた。それから何故かわからないが顔を覗き込んでいる。
「わっすみません! え、あの……」
「あれ、起こしちゃったね。まあ起こすつもりでしたけど。おはよう」
「お、おはようございます……?」
その女の人は、僕の見た事の無い格好をしていた。袖が太くて、胸元の布を交差させた美しい服。これが和服というものなのだろうか。和服は見たことがないが、彼女の着るそれは、ドレスでもワンピースでも、はたまたズボンでもなかった。
「私ねえ、大手鞠一八って言うの」
「はい」
「ここはねえ、福之島にある福之御殿っていうお屋敷なの」
「はい」
「それでねえ、君の家族になりたいなあと思ってね」
「はい……?」
「だからね、家族になりたいなあって」
僕には理解ができなかった。人間は獣人を汚らわしいとまで言ってきた。なのに目の前の人間は今、何と言っただろう。
「……奴隷じゃないんですか」
「ここにはね、そんな人いないよ。君が思ってるような汚い人間は一人もいない。ここはね、平和の島なの」
澄んだ瞳が僕を捉えた。人間の瞳を見て、美しいと思えたのは初めてだ。人の心を映し出すこの球体が、こんなにも透明なのを僕は見た事がなかった。
「サルビア島ってさ、知ってるかな?」
「……『差別や暴力の無い、自然と充足感に満たされた伝説』ですか」
僕がまだ探るような顔をしていたからだろう。一八という女性は僕の言葉に頷くと、ゆっくり言葉を選んで話し始めた。
「私ね、そのサルビア島に住んでるの。それでね、〈天〉っていう獣人を管理してる組織でお仕事してるんだよ」
頭がついて行かなかった。
サルビア島に住んでいる、とは即ちサルビア島は存在しているという事……。そして目の前の彼女はそこに住み、獣人の奴隷問題解消のために設置された組織で働いているというのだ。
信用してもいいのだろうか。
「主様の家はサルビア島にあるのですか」
主様は満足げに笑って頷いた。
「一八でいいよー。主様なんて堅いなあ、もう。もっとゆるーくいこうよ」
なんて言いながら彼女は僕の横になる布団の上にぽすっと座った。
何でだろ。胸のあたりが、じんわりする。
「一八、手続きは済んだよ」
「あら、ルドお疲れさーん」
片腕を象の鼻のように上げたかと思うと今度はそのまま手を僕の頭に落としてきた。
叩かれる!
僕は反射的に強く目を瞑ったが、頭に来た衝撃は驚くもので、とても柔らかかった。ふわり、と頭に乗せられたその手は僕の髪を優しく梳いた。
あれ、まただ。これは何? この人が僕に触れる度、僕に寄り添う度に感じるこれは何?
僕を挟んで話していた内容は少しも頭に入らなかった。この女の人に触れられた頭が、すごく軽かった。今まで僕の頭いっぱいに居座っていた黒の塊が一つだって見当たらなかった。
嬉しい……。嬉しいんだ、僕は。
「もっと」
気が付いたら、口から零れていた言葉。
駄目だ。欲張りを言ったら嫌われる。
嫌われる……? 何で僕はそんな事を気にしているのだろう。
「嘘、です。ごめんなさい……」
こんな言葉が無意識の内に出てしまったという事は、僕が本能的にこの人を信用してしまったという事だ。
好かれたいんだ、この人に。だから僕はこの人に迷惑をかけたくない。
「えー、嘘かあ。残念だなあ」
離れていくその手を僕はじっと目で追った。
「そんなに見なくていいんじゃない? だって、もっと撫でなくてもいいんでしょう?」
「……どうしてそんな事言うんですか」
「だってさ、あの人が君の許可得ないと連れて帰っちゃ駄目って言うから」
目で追った先には男の人が立っていた。さっき入ってきた人だ。
「お願い、許可だして」
「大切にしてくれますか」
勿論、と頷いた彼女の顔はあまりにも美しかった。美人とか可愛いとかそういう事じゃなくて、本当に綺麗だったんだ。だから僕は、きっぱりと言ってみせた。
「僕にあなたを信じさせてください」
僕の言葉を聞いて、二人は安堵の表情を浮かべた。
「なんだそれ。プロポーズみたいだな」
「せっかくの温かい空気を乱さないで下さい。全く貴方は」
襖から二人の男が入ってきた。一人はネイビーのパーカにカーキのカーゴを履いていて頭には三角形の耳が、もう一人は外に向いた耳をして執事服を着ていた。
「二人共早かったね。じゃあ一八、僕は仕事があるから帰るよ」
呼ばれた彼女ははいよーと、ひらひら手を振った。
「こんにちは。私は馬の獣人、センリョウ。こちらは虎の獣人、タイムです」
「仲良くしようぜ」
「え、あの」
「なんだよ。これから一八の家族なんだろ? 俺がお前に握手求めちゃ悪いかよ」
「あ、ごめんなさい……」
「タイム、やめなさい。戸惑わせてしまったようで申し訳ありません。貴方も謝る必要はありません。長い間奴隷として扱われていたのですから、『普通』の扱いになれていなくて当然です。しかし一八様は貴方を助けたいと願い貴方を買うのですからたくさん甘えていいのですよ。まあ買うという言い方を一八様は好んでいませんが」
「……そうなんですか」
僕は自分の手を見つめた。節くれだった、不格好な指。まだ若いのに深い皺が刻まれていて。
「こんな手で誰かを触るのは許されない」
助けられるなんていうのも僕がされていいものではない気がした。
「どうして? とても素敵な手だと思うけどなあ。私は」
「駄目、です。特に皆さんには触って欲しくない……です」
「皆、面白いくらい同じことを言うねえ」
彼女は袖元を口に当てて笑む。
「センリョウもタイムも自分の手は汚いって言ってた。一度闇に浸かった体の一部で、その闇に、一番、深く干渉した部分。自分の手は鏡なの。自分が悪の手先になっていた様が鮮明にその手に映るの。でもね、よく見てみて。覆い尽くされた悪の中に、必ず善が隠れてる。君は闇に浸かりたかったの? 違うでしょ? その本心が見えたら手が汚いなんて思わなくなるの」
本心なんて言うものは隠すものだった。本心で生きていたら、獣人としては生きていけない。本当はこんな事やりたくないんだ、なんて一言でも言えばいとも容易く首は宙を舞った。
「大丈夫ですよ。私とタイムだって貴方同様獣人です。一八様に拾っていただく前は殺しだってしておりました。その他にも無数の悪に手を染めて生きてきた私達の方がよっぽど汚い」
「一八の事が好きって思ったらそれでいい。他の事なんざ考える必要ねえよ」
自分と同じ獣人が、こんなに綺麗な服を着ているのを僕は知らない。こんなに綺麗な眼差しを人間に向けるのを僕は知らない。こんなに綺麗な毛並みだって、心だって知らなかった。
ああ、神様。僕はこんなに恵まれても良いのですか。僕はこんなに幸せを感じていいのですか。
頬を、涙が濡らした。
「そんじゃあ家に帰ろうか?」
細く、冷たい手が触れた。少し握れば折れてしまいそうなそれを僕が包み込む様にすると、鼓動が早まって胸が熱くなった。
「かーえろーかーえろー」
「一八様、うるさいです。皆見てますから。お静かに」
「いいじゃんか。君はいっつも堅いなあ。私だって家族が増えれば浮かれるのよう」
家族という言葉がどれだけ僕の心に刺さるのか、彼女は知っているだろうか。こんなにも喜んでいるのを分かってくれているだろうか。
「一八様」
口に出せば更に愛しさが込み上げた。
「なあに?」
僕が立ち止まれば、無理に引っ張ることなく止まってくれる。これが普通なのだろうけど僕には特別な優しさだ。
「僕は一八様の事が大好きです。だから……。もっと強く……手、繋いでいいですか」
「うん。強く、強く離れないようにね」
振り向くと、クリームがかった半透明の橋が僕らを乗せて、福之島と“僕等の家”を繋いでいた。