人生最大の”落とし穴”
最近は、この颯太の部屋に入る者は誰もいなかった。
毎日の食事は颯太の母親が、颯太の部屋のドアの前に置く。食べ終わった食器も、ドアの前に置いておくだけで、母親が下へ持って行ってくれる。
お風呂と洗濯は日中、家に誰も居なくなった時間帯に。歯磨きは深夜に。そしてトイレは周りに充分注意を払って、済ませてしまう。
そんなふうにして、颯太は誰とも接触しない生活をここ1ヶ月ほど過ごしていた。
その生活に終止符を打つかのように、一人の少女が颯太の部屋に現れた。ゴシック調、とまでは言い難いが、黒を基調としたワンピースを着ている少女だった。
『私と契約しませんか?』
少女は颯太に顔を近づけ、微笑みながらこう言った。
セミロングの黒髪で、小学生低学年くらいと思われる幼めの顔立ち。颯太はこの突然のことに整理が追い付かず、目をただパチパチさせることしか出来なかった。幼女が勝手に部屋に上がり込んでいるというこの状況は、どう対処すべきなのだろうか。それ以前に、どうやって家に侵入したのだろうか。
そんな困惑状態の颯太に気付いたのか、再び少女が口を開く。
『私は死神のサク、と言います』
深々と丁寧にお辞儀をする少女。
少女の口から死神という単語を聞いた瞬間、颯太は目の前で起きていることが、本当に現実かどうかわからなくなっていた。見知らぬ幼女が現れて、その幼女は死神で…。そんな現実離れしたことが、簡単に信じられるはずがなかった。
幼い頃は、現実離れした多くのファンタジーに憧れを抱いていた。将来の夢に”魔法使いになる”と意気込んでいたくらいだ。
しかしその憧れは、幼稚園に入園して2年目に行われた行事、クリスマスと節分で消滅してしまった。始めはサンタさんが来てくれた、鬼は本当にいるんだ、と信じて喜んでいた。だがその正体がどちらも園長先生であると解かってしまった時には、ものすごく絶望したものだった。
ファンタジー要素のあるモノのほとんどは、全て種明かしというものが存在する。それを幼い頃から知ってしまった颯太は、死神が目の前に現れたという事を簡単に呑み込むことが出来なかった。
そうして、1つの結論に辿り着いた。これは新手の詐欺の手口ではないかと。
幼い少女を利用し、「死神です」と名乗らせて相手を困惑状態にさせ、判断が鈍ったところでお金を騙し取る、といったところだろうか。なんと悪質な手口なのだろう。
『私は颯太さんの人生をお借りしたいのです。私のこと、助けてくれませんか?』
少女のこの言葉に、颯太はやっぱりなと感じた。助けるためにはお金が必要なんです、とか言って巨額のお金を要求するんだろう。
『1年間、死神として一緒に活動してくれませんか?日中は普通の生活をしてください。ですが、夜だけは死神として活動して欲しいのです』
死神なんて現れるわけが無いという自分の常識を曲げない颯太は、少女にこう言った。
「…暇だし、やることなんてないから別にいいんだけど」
『本当ですかっ!?』
ぐいっ、と顔を颯太に近づける少女。颯太は少女の行動にびっくりしながら「ちょっと話を聞け」と言って、自分の顔と少女の顔を離す。
「お前が死神っていう証拠はどこにあるんだ。本当に死神だったら契約する」
この問いかけに、少女は頭を抱えて悩む。そして、静かに口を開いた。
『魂を、ちょっと離すことが、出来ます、ね』
「じゃあやってみろよ」
颯太は嫌味を含めながら言う。どうせただのハッタリだ、詐欺の契約なんて誰がするか。
しかしその考えは数分後、跡形もなく消え去ってしまった。
『颯太さん、右手を出して頂けますか?』
「ん」
颯太は言われたとおりに右手を出すと、少女はその手を両手で包んだ。そして次の瞬間、眩い光が少女から放たれた。颯太はその光のあまりの眩しさに、思わず目を瞑ってしまった。
次に目を開けた時、颯太はありえない事態に驚きが隠しきれなかった。
『俺が倒れてる…?』
下を見ると、パジャマ姿の青年が床に転がっていた。そして自分を見ると、服装が、真っ黒なスーツへと変わっていた。
『これで、証明出来ましたか?』
横でにっこり笑う少女。
『幼女!お前、俺に何したんだよ!これって俺、死んだの!?』
少女のその笑みに悪意を感じた颯太は、床に倒れている青年を指差しながらそう叫んだ。本当は胸ぐらを掴んで問い詰めたかったが、少女相手にそんな乱暴は真似は出来なかった。
『幼女じゃないです!私にはサク、というちゃんとした名前があります。颯太さんが死神である証明をしろ、と言ったので実行しただけです』
ぷくっと頬を膨らませながら言う少女。颯太の『要するに、俺を殺すことが死神の証拠か』という問に『違います』と言って、少女は続ける。
『颯太さんの魂は確かに本体と離しましたが、厳密に言うと死んでは、いません。私と同じような死神の状態に、なったみたいな…』
『どういうことだ』
颯太は少女を睨むかのように問い詰める。少女はそんな颯太の目を逸らしながら、気まずそうにこう言った。
『契約、しました……』
『契約?』
そういえば初めにそんなことを言っていたな、と記憶を辿ってみた颯太。だが、その契約内容を思い出し、驚愕した。
『まさか…死神の活動をする、っていうあの契約か?』
『でっでも暇だからいいよって言ってましたし!それに、1年間頑張ってくれたら、望みを1つ叶えますよ!相手を傷つけるものでなければ、何でも叶えますよ!!』
慌てたようにそう言い放つ少女。そうだ、本当に死神だとは思ってもいなかったから承諾したわ。てっきり詐欺だと断定していた自分が悪いんだ。
颯太はそう思いつつ、1つ冷静になって考えた。
望みを1つ叶えるって、本当に何でも叶えてくれるのだろうか。普通に過ごしていては成し遂げられないものも、現実ではありえないような事も、叶えてくれるのだろうか。
目の前には瞳をうるうるさせ、今にでも泣き出しそうな顔をしている少女がいる。その姿に颯太は罪悪感が生じた。
『……もう、怒らないから泣き止め。な?』
そう言いながら颯太は少女の頭を撫でる。撫でられた少女の顔は、段々と明るさが戻っていった。颯太は、怒鳴ってしまったことはちょっと大人気なかったな、と反省しながら少女に微笑む。
『これから1年間よろしくな』
『…それって、承諾してくれる、ということですか?』
少女のきょとんとした上目遣いに、思わず照れてしまう颯太。目線を少女から逸らし、照れを隠しながら『そうだよ』と言う。少女はその言葉に『ありがとうございますっ』と言って、颯太のお腹をめがけて勢い良く飛びついた。
『そんなにひっつくな!俺から離れろ!』
『もうちょっとだけこうしてたいですっ』
少女のこの行動に、妹が1人増えたな、そんな気がした颯太だった。そして、こんな生活も悪くはない、と思ってしまった自分が少し怖かった。もうこの少女と馴染んでしまってきているのか?と思ってしまうことが。
『そういえば、死神の活動ってどんなことをするんだ?』
ふと、思い出したようにして颯太は問う。
『人の魂を正しく導くことと、悪霊を退治することが主な仕事内容です』
少女の言葉は、1つ目は大方予想は出来ていたが、2つ目の内容は意外なものだった。死神というのはただ魂を狩るだけの存在ではなかった、と気付かされた。
『言い忘れましたが、颯太さんのそのスーツは多くの呪いから身を守るものです。悪霊退治には様々なリスクが伴うので』
『要するに、俺は生身で出会ってしまったら危険な奴と対峙するのか』
これは危ない橋を渡っているな、と初めてこの契約に身の危険を感じた颯太。簡単に言うと、この死神の状態なら安全だが、人間の状態だったら死ぬよ、といったところだろうか。まぁ、この転がっている人間の姿で外に出ることはないけどな。
しかし、颯太のこの考えは甘かった。
『それでは早速、颯太さんの本日の活動は…午前中はまず学校に行くのですね。夜中には”送る”作業が入っています』
『……え?』
『本日から死神の活動を始めて頂きたいのですが…何か困ったことでも?』
『あの、学校に行く、ってなんで?』
『”日中は普通の活動をしてください”って言った通りなんですけど…颯太さんは学校には通ってはいませんでしたっけ』
そう言って少女はどこからか1枚の紙を取り出し、それを読み上げた。
『えー…、砥上颯太、16歳、公立國川高校在学中。ここ数週間はひきこもり生活。家族構成は父、母、妹の合わせて4人。芸術と運動科目は最低だが、勉強はそれなりに出来る。好物はシチューで、食べ物では嫌いなものは特になし。趣味は』
『おいおいおいおい職権乱用してんじゃねえよ!俺の説明やめろ幼女!』
『わっ、私は幼女じゃないです!サクっていうちゃんとした名前があります、ってさっきから言っているじゃないですか!!』
自分のプロフィールを他人に読み上げられ、何か恥ずかしいものが込み上げてきてしまった颯太。その恥ずかしさに耐えられなくなり、思わず声を荒げてしまっていた。そして少女も”幼女”と言われたことに思わず強く反論してしまう。
『まぁ名前の話は一旦置いておいて…ここにしっかりと書かれているじゃないですか。高校在学、って』
『だからって、なんで学校に行かなきゃ…』
『それも含めての契約です。情報収集も兼ねて日中はごく一般的な生活をしてもらいたいのです。颯太さんの場合、その最低条件は学校に行くことですね』
颯太の情報が書かれている紙を見ながらそう言う少女。
『例えばさ、もし、学校に行かない場合は…契約に反するようなことをした場合はどうなるんだ?』
『契約違反はですね…恐らく一生死神として働くんじゃないですか?』
『疑問形って…お前、本当は知らないのかよ!知らないなら素直にそう言え!!』
颯太の言葉に『ごめんなさい知りません!』と少女が答える。
契約違反で何か大きな請求をされたらどうしようか、家族に多大な迷惑はかからないだろうか。家族にはこれ以上迷惑はかけられないと思った颯太は、仕方なく学校へ行く決意をした。
『しょうがない。久々に行くか…』
そう言って颯太は、クローゼットにしまっていた白いシャツ、紺のベスト、青がかったネクタイ、灰色のズボン、そして黒っぽいブレザーを取り出す。
『あっ、颯太さん待ってください!着替える前に…また右手、出してもらえますか?』
少女のこの言葉に従い、颯太は右手を出す。少女はその出された右手を、再び両手で包み込んだ。するとまた眩い光が少女から放たれた。
そして颯太が再び目を開けると、自分が床に寝そべっているのが分かった。服装は真っ黒なスーツではなく、パジャマを着ている。今までのは夢、だったのだろうか。そう思いながら体を起こすと、1人の少女が目に飛び込んできた。
『真っ黒なあのスーツを脱がれては困るので、颯太さんの体を元に戻しておきました』
夢じゃなかったのか。これは現実なのか。颯太は心の中でため息をつきながら、学校の制服に着替え始める。
「あのな、着替え中は俺のこと見るな」
じっと颯太を見ている少女にビシッと言い放つ。すると少女は『えー』と口を尖らせつつも、颯太の言葉を素直に聞き入れ、窓の外へ目をやった。
持ち物はどうしようか。着替え終わった颯太は、今日持っていくべき荷物に悩んでいた。上履きにノート、筆箱、貴重品は必須で…そして体育の実技があったら困るから体育着も必要だろう。そうして必要最低限のものをカバンに詰め込んだ。
最後の準備として、食べかけで冷えきってしまったシチューを平らげ、開いたお皿を下の階へと持ち運びに行った。部屋を出て行った颯太を見た少女は『私も手伝います!』と言って、カバンを持ち、颯太の後を追いかけていった。
下の階、リビングには食器を洗っている母親のひろ子と、テレビを見ている妹の奏がいた。2人はリビングに突然やってきた颯太の姿を見るなり、こう言い放った。
「颯くん…どんな心境の変化なの!?何が起きたのよ!?」泣きそうになりながら言う颯太の母親、ひろ子。
「兄ちゃんがとうとう学校に行くなんて、今日は良からぬことが起こる前兆かもよ、お母さん」険しい顔で言う颯太の妹、奏。
颯太はこの2人の言葉に「何も起きてないし、何も起こらないよ」と言って、食器をひろ子に渡す。
ふと奏の観ていたテレビから『残念!乙女座の貴方は今日の運勢は最悪〜。人生最大の落とし穴に遭遇しちゃうかも』と聞こえてきた。
乙女座である颯太は、この声に心臓が跳ね上がりそうになった。これはまさに自分の事を言っているのではないかと。死神と出逢い、契約を交わしてしまったあの事は、まさに人生最大の落とし穴に違いないと。
こういった占いに全く興味が無かった颯太だったが、今日は何故か聞き入ってしまっていた。
「あ、兄ちゃん落とし穴に気をつけてだって」
「うるせぇ。余計なお世話だ」
颯太の返しに「忠告してあげてるのに」と言いながら口を尖らせる奏。その奏の姿があまりにも死神の少女に似ていたため、颯太は口元が緩みそうになった。
「じゃあ母さん、俺もう行くから」
「あっ、颯くんちょっと待って」
母親は洗い物を中断させ、ポケットからがま口の小さめのお財布を取り出した。そしてそこから千円札を抜き取り、颯太に手渡した。
「これ、学食代」
「別に自分の小遣いがあるから必要ないんだけど」
「何かあった時に困るから、余分に持っておきなさい」
颯太は母親という存在のこの優しさに、胸がぎゅっと締め付けられた。しかし、喉まで出かかった、たった1つの言葉は、なかなか口にすることが出来なかった。
「おっ、お母さん…カバンが、兄ちゃんのカバンが……独りでに動いてるよ!」
そんな余韻は、奏の一言で崩れてしまった。まさか、と思い颯太は奏の指差す方向を見ると、本当にそのまさかが起きていた。
「やっぱり、兄ちゃんが学校に行くから、こんな現象が起きているんだ!」
独りでにカバンが動く理由は、やはり死神の少女のせいだった。『カバン、持ってきました』とにこやかに言う少女に、颯太は血の気が引いた。コイツ自身は全く気付いていないのか、と。
颯太は少女の姿が二人には見えないと分かると、すぐさま少女ごとカバンを抱きかかえ、「超常現象だ!」と騒ぐ奏のいるリビングを後にした。