プロローグ
「早く起きなさーいっ!」
”彼女”はこう叫んで、俺がかぶっていた掛け布団を剥がした。
徐々に暖かくなってきているとはいえ、まだまだ肌寒く感じるこの季節。部屋がいくら暖かくても、お布団の温かさには勝てるはずがない。軽くてフワフワしている、あのお布団に。
そんなお布団は、俺のそばから離れていってしまった。あの温もりが恋しい俺は、仕方なく敷き布団の上で丸まってこう呟く。
「あと、5分だけ…」
「もうっ。また遅刻する気なの?」
彼女の呆れた、という声。俺は聞こえないふりをして枕に顔を埋める。本当に5分だけでいいから、この温もりの余韻に浸っていたいんだ。
こんな俺を見てか、彼女はとうとう実力行使にでた。カーテンを開き、窓を開け放ったのだ。
日光の眩しさと風の冷たさで、一気に俺は目が覚める。
「ふぅ、やっと起きた!ご飯、出来てるよ」
「……おう」
「今日のお昼のお弁当には、あったかーいシチューも用意したからね」
笑顔を浮かべながら彼女は言う。
俺は彼女の作るシチューが昔から大好きだった。よほどのことがない限り失敗しない料理だが、何故か彼女の作るシチューは格別なものだった。きっと、俺の好きな具材がぎっしりと詰まっているからだと思う。
心の中で「よっしゃ」と喜びの声をあげ、平然とした顔で支度をし始めた。
スーツに着替え、出かける支度が終った俺はリビングへと向かう。テーブルには既に息子が席に着いていた。
「お前は早起きなんだなぁ」
「あぃ!」
俺の問に、右手を大きく挙げて返事をする息子。口には多くのご飯粒が付いていて、それがいっそう愛嬌がある。
キッチンの方に目を移すと、彼女がリンゴを剥いていた。俺はテーブルにあるいつものお弁当セットを手に取り、「出かけるぞ」と彼女に言うと、「ちょっと待って」という返事がきた。
すると彼女はキッチンから出てきて、「朝食は大切だよ」と言って、俺が持ってたお弁当セットにおにぎりを一つ入れた。
「鮭おにぎり、通勤途中でもいいから食べてね」
「サンキュー。じゃ、行ってきます」
「気をつけて、いってらっしゃい」
彼女の言葉を聞き、俺は玄関のドアに手を伸ばす。ドアを開けると、眩しい太陽の光が先に飛び込んできて……。
…そこは、いつもの部屋だった。
カーテンから差し込んでいる光がとても眩しい。
手を伸ばした先に見えたのは目覚まし時計。時刻は7時を指そうとしている。
「やっぱり夢、か…」
横になっていた体を起き上がらせる。真横には乱雑に置かれた掛け布団があり、寝ている間に剥いでしまったんだな、と見てとれる。
この世界が夢だったら、どんなにいいことか。後悔してばかりいるこの現実の世界より、夢の中のほうがずっといい。
夢に出てきた彼女の顔は、もう薄っすらとしか思い出せない。それでも、この現実より充実していたことがわかる。…そりゃ夢だから当たり前か。
…今日は何をして過ごそうか。
家にあるゲームは既にやり尽くしてしまったし、ネトゲも長続きはしなかった。勉強も自分で出来る部分は終わってしまい、暇を持て余す毎日。
かといって外出はしたくない。外に出たって、何か特別なことが起きるわけではない。自分の得になるような事も起こらない。それが分かっているのに、わざわざ外に出かけるなんて。何の意味があるのだろう。
頭でそんなことを考えていると、部屋の外、ドアの近くでコトン、という音が聞こえた。
「颯くん、朝食ここに置いておくね」
部屋のドアをはさんで母さんの声がした。
俺は母さんが階段を下っていったのを確認してから、朝食を部屋へ運んだ。最近は、自分の部屋が2階にあってよかったなぁ、と思う。ばったり廊下ですれ違う、ということが起こりにくいからだ。
今日の朝食はシチュー。お盆の上にはシチューが盛られたお皿、スプーン、麦茶の入ったコップが乗っていた。そういえば、夢でもシチューが出てきたような気がする。
俺は湯気がたっているアツアツのシチューを、スプーンでかき混ぜた。今日のシチューには、きのこの代わりなのかレンコンが入っていた。
冷めないうちに、食べてしまおう。そう思って口にシチューを運ぼうとした。その時だった。
『その生活、ずっと続けるつもり?』
どこからか聞こえたこの言葉。痛いところを突かれた俺は、思わず「誰だ」と叫んでしまった。
しかし、周囲を見回しても、誰もいない。ドアを開けて廊下にも出てみたが、2階には既に誰もいないみたいだった。
やはり空耳か、と思った俺は部屋ヘ戻ってシチューに目を移す。
しかし、目を移した先にあったのは、シチューではなく、1人の少女だった。