緊急対処マニュアル
「ちょっと、顔貸してくれない?」
口をつけたばかりの、缶コーヒーブラック無糖がじんわりと舌に染みていく。
いち、に、…… ニ名様のご案内だ。いつもよりもやや少なめだった。
確認をしてから、頭の中で、緊急対処マニュアルを開く。
確か、この場合の対処法は、2ページ目ぐらいにあったような。
・ 物陰から、または面と向かって悪口なんか言われちゃった場合。違う。
・ いつのまにか持ち物がブラックホールに飲みこまれちゃった場合。違う。
・ 休み時間または放課後に、人気のないところへ連れこまれちゃった場合。これだ!
ぱちん、と指を鳴らした私の挙動を不信そうに、合計二×二個の目が見ていた。
「…… 聞いてる?」
「うん、聞いてる。ごめん、もうちょい待ってね」
該当部分を暗唱する。お客さまには聞こえない音量で。
対処法そのいち。
極力怖い人にはついていかないこと。相手が複数の場合特に。
ごくごくと茶色の液体でノドをうるおす。
仕事前にはいつもコーヒーを飲むようにしている。できれば思い切り濃い苦いやつがいい。
ちーちゃん、と心配そうな視線を一個前の席に座ったナナちゃんが向けてきた。
大丈夫、の代わりに空になった缶を手渡して、にこりと笑う。
「ちょっと行ってくるね」
「貞本くんとは、どういう関係なの?」
つれていかれたのは、定番の体育倉庫裏、定番のスポットだった。
二人とも、きれいなブラウン色の髪の毛で、メイクも暖色系でまとめていておそろいだ、かわいかった。
仲良しなんだろうなと思う。
マニュアルによると、仲良しがタッグを組んで挑んできた場合は要注意。手ごわいので、おとなしくやんわりとのらりくらり、肯定も否定もせず。くれぐれも強気な態度で接するべからず、とある。
困ったことに、一番苦手な部類の対処方法だった。
「幼なじみかな。小学校から一緒だから」
当り障りのない回答を。
でも相手はもちろんそんなマニュアルとおりの答えでは、納得してくれない。
わざわざ直接出向いてきたのだから、確かな証拠を手に入れたいのは当然の反応だった。
「じゃあ、貞本くんと付き合ってるの?」
「あー、どうだろう。…… 付き合ってはないかな。たぶん」
「たぶん?」
私から見て、右側にいる女の子の眉間にシワがよる。
かわいい顔が台無しになったけれど、どうやら彼女が進行役を買って出てくれたらしい。
腕を前で組んで、少し威圧感のある態度をとる。
これは静かなる拒絶のあかしだ。
あなたが何を言おうと私は受け入れる気がないのよ、という。
つまりこの強硬な態度を崩せないかぎり、こちらに勝ち目はないということになる。
というよりも、マニュアルそのいちを無視した時点で、勝利は放棄したも同然だった。
残る最善の道は、引き分けに持ちこむことぐらいだろうか。
ちらり、と、私から見て左側にいる女の子に目をやる。
視線に刺された瞬間、びくりと反応を示した彼女は、ショートカットがよく似合う、なんとも女の子らしい女の子だった。
見覚えが、あった。彼女の泣き出しそうな顔に。
確か、ヤモリさん…… じゃなくてイモリさん、だったかな。
この前、当たり前のように一緒に帰ろうとした貞本を呼び出していた。
そんな私の視線を察したのか、右側の女の子が口を開く。
「この子はずっとずーっと、貞本くんのことが好きだったんだよ。で、この間勇気出して告白したんだ。そしたら貞本くんは、好きな子がいるからダメだって」
イモリさんの大きな黒目がゆらりと濡れる。
思い出させてしまったのかもしれない、ダメだ、と言われた瞬間を。
想像、してみる。
あいつはたぶん少し困ったような微笑みの仮面をかぶりながら、そんな冷たい声を吐いたのだろう。
「 橘 さん、聞いてるの?」
「うん、ちゃんと聞いてるよ」
「貞本くんの好きな子って、橘さんのことでしょ?」
「あー……、たぶん」
「たぶん?」
また眉間にシワが寄る。ぐっと、前で組んでいた腕が強張る。
不快指数がじりじりとマックスに近づいているのが見て取れた。
よくない展開だ。
どうして、私はいつもこうなのか。
怒らせたり、泣かせたり、そんなふうに人の感情を乱したりして。
どんな権利があって、イモリさんとその友達の中に踏みこんでいるんだろう。
「あの、橘さん」
初めて、イモリさんが口を開いた。
「橘さんも…… その、貞本くんが好き、なの?」
今、私はたぶん、断崖絶壁につま先立ちで立っていて、あと少し後ろに体重を傾けるだけで落っこちる。
つまり、絶体絶命のピンチだ。
でも、こういうときのために。
と、あいつがくれた緊急対処マニュアルには、こういう場合はどうすればいいのか。対処できるような記述は、一文字もないのだ。
ちっとも役に立たない。
「…… あの、イモリさん、だっけ?」
ぱちぱち、とイモリさんの長いまつげが動く。
自分の名前を呼ばれたのに驚いたみたいだった。
「ごめんね」
少し困った微笑みの仮面は、私にはかぶることができなかった。
ちょっとつられて、怒ったり泣いたりするのの入り混じったみたいな顔になった。
うまい対処の仕方ではなかったと思う。
でも、イモリさんは、ぽんぽんと友達の肩を叩いて、それを合図にして、友達の組まれたままでいた腕がほどかれた。
去っていく二人の背中を見送りながら、残された体育倉庫裏で、ほ、と胸をなでおろした。
なんとか無事に仕事を終えることができたようだ。
「―― しかし、どうして橘さんはマニュアルをことごとく無視するのかね」
唐突に聞こえた冷たい声に、心臓が凍りつきそうになる。
いつからそこにいたんだろう、予告も挨拶もなしに貞本は私の隣に並んだ。
怪訝そうな顔をした私に、貞本はケータイをふらふらと振る。
どうやらナナちゃんあたりに余計な心配をかけてしまったようだ。
「…… 無視は、してないよ。怖い人にはついていくな、でしょ」
イモリさんたち別に怖くなかったし。
言うと、貞本が盛大にため息をついて、やれやれと苦笑した。
「イモリさんじゃなくて、ヤモリさんだけどな」
「え」
「しかし、彼女はなかなかいい質問をしてたな」
イモリさんじゃなくてヤモリさんに心の中で小さく詫びてから、私は今そこにある危機を悟った。
放課後。体育館倉庫裏。
隣には、お得意の微笑みの仮面を、女の子を何人も泣かせる仮面をかぶった貞本くん。
「で、橘さんは貞本くんのことが好きなの?」
私は慌てて、緊急対処マニュアルを開いた。
ええと、こういうときは確か、これだろうか。異性と二人きりになっちゃった場合。
「ちぃ、違う。この場合は7ページ目だ。一番後ろだよ」
ちぃ、と昔からの呼び方で、貞本が訂正を入れる。
私こと橘 千夏を差す、省略形だ。
(7ページ目?)
なぜか、貞本は昔から女の子にモテた。
そしてなぜか、私は、ずっと昔から貞本の好きな人なのだった。
そういうわけで、私は十五年間、おもに貞本関係でトラブルに巻きこまれ続けてきた。
幼なじみであることも、好きな人であることも、私のせいではないのだから仕方がない。
貞本にとってもそうであるので、文句のひとつも言ったことはなかったが、中学校に入学して確か最初の誕生日。
プレゼントされたのが、この緊急対処マニュアルだ。
そのマニュアル、毎年対処すべき書きこみが増えていく項目の、最後のページ。
「ええと、―― 貞本くんと二人きりになっちゃった場合?」
「ぴんぽーん。それだ」
ぱちん、と、愉快そうに指が鳴る。
いつのまにか、体育倉庫の壁と薄い身体に挟まれている。いつのまにか見上げる身長に成長した幼なじみ。
それでも私のことを好きだと言い続ける男の子。
不測かつ緊急事態に固まってしまい、いつまでも対処法を思い出せない私に痺れを切らしたのか、微笑みの仮面を外して、貞本は耳元に呟いた。
冷たい声で。
「おとなしく従うこと、だ」
ほんとにちっとも役に立たないマニュアルだと思った。
おしまい