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冷たい公爵さまに「辞めてくれ」と言われたので荷物をまとめたら、続きがありました

作者: 夜華カナタ
掲載日:2026/11/04

三か月もたずにみんな辞めていく公爵家に、住みこみの家政婦がやってきました。

「三か月もてば、たいしたものですよ」


 紹介所のおばさんは、書類に判をつきながら言った。


「ヴォルフェンシュタイン公爵家。お給金はいいんですけどねえ。前の人も、その前の人も、三か月もたずに辞めちゃって」


「何か、ひどいことをされるんですか」


 フリーダが聞くと、おばさんは首を横に振った。


「何もされないの。何も言われないの。公爵さまが、ひとっことも口をきかないんですって。お屋敷じゅう、しーんとしてて、息がつまるって」


 フリーダは、少し考えた。


 しーんとしたお屋敷。何も言われない仕事。


「わたし、静かなの、わりと好きです」


               ◇


 公爵家のお屋敷は、本当に静かだった。


 広い廊下に、時計の音だけが響いている。使用人は、年取った執事と、通いの料理番がひとりだけ。部屋の半分は、白い布をかけられたままになっていた。


 主人のエーリヒ・ヴォルフェンシュタイン公爵は、二十六歳だった。背が高く、銀色の髪で、いつも眉間にしわを寄せている。


 初めて会った朝、フリーダが「今日からお世話になります」と頭を下げると、公爵は、フリーダの顔を三秒ほど見て、小さくうなずいた。


 それだけだった。ひとことも言わずに、書斎に入っていった。


(なるほど)


 フリーダは、はたきを握りなおした。


(これは、手ごわい)


               ◇


 フリーダは、気にしないことにした。


 毎朝、廊下を掃いて、窓を開けて、風を入れる。白い布のかかった部屋を、一日にひとつずつ、きれいにしていく。


 公爵は、何も言わなかった。


 けれど、フリーダは少しずつ気づいていった。


 朝食のパンを、いつも端から残している。でも、焼きたてを出した日だけは、全部食べている。書斎の窓は、いつも閉めきっている。でも、廊下の窓を開けた日は、書斎の扉が、ほんの少しだけ開いている。


 しゃべらないけれど、何も感じていないわけではない。


 フリーダは、そう思うことにした。


 ひと月がたっても、ふた月がたっても、フリーダは辞めなかった。


「三か月をこえた家政婦は、あなたがはじめてです」


 年取った執事のハインリヒが、ある日、しみじみと言った。


「どうして、平気なのですか。旦那さまは、あなたにも、ほとんど何もおっしゃらないでしょう」


「でも、パンは全部食べてくださいます」


 フリーダが答えると、執事は、目をぱちぱちさせた。それから、なぜか少し泣きそうな顔で笑った。


               ◇


 三か月目の、雨の夜のことだった。


 寝る前に水を飲もうと、フリーダが台所へ下りていくと、かまどの前に、誰かがいた。


 公爵だった。


 片手に小さな鍋を持って、火の前でじっと立っている。鍋の中では、牛乳が、いまにもふきこぼれそうになっていた。


「あっ」


 フリーダは、思わず駆けよって、鍋を火からおろした。白い泡が、ふちのぎりぎりで止まった。


 公爵は、鍋を持った手のまま、固まっていた。


「……すまない」


 はじめて聞く、ちゃんとした言葉だった。


「眠れなくて。自分でやろうと思ったんだが、うまくいかない」


「蜂蜜、入れますか」


「……ある、のか」


「料理番さんの棚に。少しだけ、お借りしましょう」


 フリーダは、温めなおした牛乳に、蜂蜜をたっぷり溶かして、カップに注いだ。公爵は、それを両手で受け取って、ゆっくり飲んだ。


「母が、よく作ってくれた」


 ぽつりと言った。


「眠れない夜に。……蜂蜜を、入れすぎるくらい入れて」


 それきり、また黙ってしまった。けれど、空になったカップを返すとき、公爵は、ほんの少しだけ、頭を下げた。


 次の日から、台所の棚の蜂蜜が、少しずつ減るようになった。


 お屋敷の東のはしに、ひと部屋だけ、鍵のかかった部屋があった。


「そこは、先代の奥さまのお部屋です」


 執事が、声を落として言った。


「旦那さまのお母上です。三年前に、お亡くなりになりました。それからずっと、旦那さまは、あの部屋に誰も入れないのです」


 フリーダは、その部屋の前を通るたびに、扉の前で立ちどまった。


 扉の下のすきまから、ほこりのにおいがした。それから、かすかに、枯れた花のにおいも。


 部屋の窓の外には、小さな庭があった。手入れをされないまま、雑草にうもれている。その草のあいだに、ばらの株が、いくつも残っていた。


 四か月目の春、フリーダは、その庭の草をむしりはじめた。


 部屋には入らない。鍵にもさわらない。ただ、窓の外の庭だけ。


 毎朝、仕事のあいまに、少しずつ。


 五月になると、ばらが、ひとつ、またひとつと、つぼみをつけた。


               ◇


 ある朝、庭で草をむしっていると、背中のほうで足音がした。


 ふり返ると、公爵が立っていた。


 眉間のしわが、いつもより深かった。


「……誰が、ここを」


「わたしです」


 フリーダは、土のついた手のまま立ち上がった。


「お部屋には入っていません。お庭だけです。……勝手なことをして、申し訳ありません」


 公爵は、何も言わなかった。


 ただ、咲きかけのばらを、じっと見ていた。長いこと、見ていた。


 それから、くるりと背を向けて、屋敷の中へ戻っていった。


(……怒らせた)


 フリーダは、土のついた手を、エプロンでぎゅっとふいた。


 その日の夕方、書斎に呼ばれた。


               ◇


 公爵は、机の向こうで、窓の外を見ていた。


 フリーダが入っていくと、こちらを見ないまま、低い声で言った。


「……辞めてくれ」


 フリーダは、しばらく、その言葉の意味を考えた。


 それから、小さくうなずいた。


「分かりました。お世話になりました」


 部屋に戻って、トランクを開けた。着がえと、エプロンと、庭仕事用の古い手袋。四か月半のあいだに、増えたのは、その手袋だけだった。


(やっぱり、庭は、やりすぎだった)


 トランクのふたを閉めたところで、扉が、乱暴にたたかれた。


 開けると、公爵が立っていた。


 息を切らしていた。髪が、少し乱れていた。


「……なぜ、荷物をまとめている」


「辞めてくれ、とおっしゃったので」


「最後まで聞け」


 公爵は、眉間をおさえた。それから、ひどく言いにくそうに、ぼそぼそと続けた。


「……家政婦を、辞めてくれ、と言ったんだ」


「はい。ですから」


「そのあとが、ある」


 公爵は、扉のわくに片手をついて、目をそらした。耳が、赤かった。


「家政婦ではなく……この家に、いてくれないか。母の庭を、また咲かせてくれた人として。……私の、そばに」


 フリーダは、トランクを持ったまま、固まった。


 廊下の時計が、こち、こち、と鳴っていた。


「……公爵さま」


「何だ」


「それは、ひょっとして」


「言わせるな」


「いえ、あの、言っていただかないと、また荷物をまとめてしまいそうなので」


 公爵は、長いこと黙っていた。


 それから、観念したように、ちいさく息を吐いた。


「……結婚してほしい、と言っている」


               ◇


 次の朝、鍵のかかっていた東の部屋の扉が、三年ぶりに開いた。


 公爵が、自分で開けたのだった。


 窓を開けると、庭のばらのにおいが、部屋いっぱいに流れこんできた。公爵は、窓ぎわに立って、しばらく庭を見ていた。


「母は、この庭が好きだった」


 ぽつりと言った。


「亡くなってから、見るのがつらくて、ずっと閉めていた。……屋敷ごと、閉めていたのかもしれない」


 フリーダは、隣に立って、同じ庭を見た。


「これからは、毎朝、窓を開けますね」


 公爵は、うなずいた。最初の朝と同じ、小さなうなずきだった。


 けれど、今朝は、そのあとに言葉がついてきた。


「……ありがとう、フリーダ」


 お屋敷に来て四か月半。はじめて、名前を呼ばれた朝だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


しゃべらない公爵さまの「辞めてくれ」には、続きがありました、というお話でした。言葉が足りない人の、言えなかったことを、毎朝の窓と庭が少しずつほどいていきます。


楽しんでいただけましたら、★評価やブックマークで教えていただけるとうれしいです。

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