冷たい公爵さまに「辞めてくれ」と言われたので荷物をまとめたら、続きがありました
三か月もたずにみんな辞めていく公爵家に、住みこみの家政婦がやってきました。
「三か月もてば、たいしたものですよ」
紹介所のおばさんは、書類に判をつきながら言った。
「ヴォルフェンシュタイン公爵家。お給金はいいんですけどねえ。前の人も、その前の人も、三か月もたずに辞めちゃって」
「何か、ひどいことをされるんですか」
フリーダが聞くと、おばさんは首を横に振った。
「何もされないの。何も言われないの。公爵さまが、ひとっことも口をきかないんですって。お屋敷じゅう、しーんとしてて、息がつまるって」
フリーダは、少し考えた。
しーんとしたお屋敷。何も言われない仕事。
「わたし、静かなの、わりと好きです」
◇
公爵家のお屋敷は、本当に静かだった。
広い廊下に、時計の音だけが響いている。使用人は、年取った執事と、通いの料理番がひとりだけ。部屋の半分は、白い布をかけられたままになっていた。
主人のエーリヒ・ヴォルフェンシュタイン公爵は、二十六歳だった。背が高く、銀色の髪で、いつも眉間にしわを寄せている。
初めて会った朝、フリーダが「今日からお世話になります」と頭を下げると、公爵は、フリーダの顔を三秒ほど見て、小さくうなずいた。
それだけだった。ひとことも言わずに、書斎に入っていった。
(なるほど)
フリーダは、はたきを握りなおした。
(これは、手ごわい)
◇
フリーダは、気にしないことにした。
毎朝、廊下を掃いて、窓を開けて、風を入れる。白い布のかかった部屋を、一日にひとつずつ、きれいにしていく。
公爵は、何も言わなかった。
けれど、フリーダは少しずつ気づいていった。
朝食のパンを、いつも端から残している。でも、焼きたてを出した日だけは、全部食べている。書斎の窓は、いつも閉めきっている。でも、廊下の窓を開けた日は、書斎の扉が、ほんの少しだけ開いている。
しゃべらないけれど、何も感じていないわけではない。
フリーダは、そう思うことにした。
ひと月がたっても、ふた月がたっても、フリーダは辞めなかった。
「三か月をこえた家政婦は、あなたがはじめてです」
年取った執事のハインリヒが、ある日、しみじみと言った。
「どうして、平気なのですか。旦那さまは、あなたにも、ほとんど何もおっしゃらないでしょう」
「でも、パンは全部食べてくださいます」
フリーダが答えると、執事は、目をぱちぱちさせた。それから、なぜか少し泣きそうな顔で笑った。
◇
三か月目の、雨の夜のことだった。
寝る前に水を飲もうと、フリーダが台所へ下りていくと、かまどの前に、誰かがいた。
公爵だった。
片手に小さな鍋を持って、火の前でじっと立っている。鍋の中では、牛乳が、いまにもふきこぼれそうになっていた。
「あっ」
フリーダは、思わず駆けよって、鍋を火からおろした。白い泡が、ふちのぎりぎりで止まった。
公爵は、鍋を持った手のまま、固まっていた。
「……すまない」
はじめて聞く、ちゃんとした言葉だった。
「眠れなくて。自分でやろうと思ったんだが、うまくいかない」
「蜂蜜、入れますか」
「……ある、のか」
「料理番さんの棚に。少しだけ、お借りしましょう」
フリーダは、温めなおした牛乳に、蜂蜜をたっぷり溶かして、カップに注いだ。公爵は、それを両手で受け取って、ゆっくり飲んだ。
「母が、よく作ってくれた」
ぽつりと言った。
「眠れない夜に。……蜂蜜を、入れすぎるくらい入れて」
それきり、また黙ってしまった。けれど、空になったカップを返すとき、公爵は、ほんの少しだけ、頭を下げた。
次の日から、台所の棚の蜂蜜が、少しずつ減るようになった。
お屋敷の東のはしに、ひと部屋だけ、鍵のかかった部屋があった。
「そこは、先代の奥さまのお部屋です」
執事が、声を落として言った。
「旦那さまのお母上です。三年前に、お亡くなりになりました。それからずっと、旦那さまは、あの部屋に誰も入れないのです」
フリーダは、その部屋の前を通るたびに、扉の前で立ちどまった。
扉の下のすきまから、ほこりのにおいがした。それから、かすかに、枯れた花のにおいも。
部屋の窓の外には、小さな庭があった。手入れをされないまま、雑草にうもれている。その草のあいだに、ばらの株が、いくつも残っていた。
四か月目の春、フリーダは、その庭の草をむしりはじめた。
部屋には入らない。鍵にもさわらない。ただ、窓の外の庭だけ。
毎朝、仕事のあいまに、少しずつ。
五月になると、ばらが、ひとつ、またひとつと、つぼみをつけた。
◇
ある朝、庭で草をむしっていると、背中のほうで足音がした。
ふり返ると、公爵が立っていた。
眉間のしわが、いつもより深かった。
「……誰が、ここを」
「わたしです」
フリーダは、土のついた手のまま立ち上がった。
「お部屋には入っていません。お庭だけです。……勝手なことをして、申し訳ありません」
公爵は、何も言わなかった。
ただ、咲きかけのばらを、じっと見ていた。長いこと、見ていた。
それから、くるりと背を向けて、屋敷の中へ戻っていった。
(……怒らせた)
フリーダは、土のついた手を、エプロンでぎゅっとふいた。
その日の夕方、書斎に呼ばれた。
◇
公爵は、机の向こうで、窓の外を見ていた。
フリーダが入っていくと、こちらを見ないまま、低い声で言った。
「……辞めてくれ」
フリーダは、しばらく、その言葉の意味を考えた。
それから、小さくうなずいた。
「分かりました。お世話になりました」
部屋に戻って、トランクを開けた。着がえと、エプロンと、庭仕事用の古い手袋。四か月半のあいだに、増えたのは、その手袋だけだった。
(やっぱり、庭は、やりすぎだった)
トランクのふたを閉めたところで、扉が、乱暴にたたかれた。
開けると、公爵が立っていた。
息を切らしていた。髪が、少し乱れていた。
「……なぜ、荷物をまとめている」
「辞めてくれ、とおっしゃったので」
「最後まで聞け」
公爵は、眉間をおさえた。それから、ひどく言いにくそうに、ぼそぼそと続けた。
「……家政婦を、辞めてくれ、と言ったんだ」
「はい。ですから」
「そのあとが、ある」
公爵は、扉のわくに片手をついて、目をそらした。耳が、赤かった。
「家政婦ではなく……この家に、いてくれないか。母の庭を、また咲かせてくれた人として。……私の、そばに」
フリーダは、トランクを持ったまま、固まった。
廊下の時計が、こち、こち、と鳴っていた。
「……公爵さま」
「何だ」
「それは、ひょっとして」
「言わせるな」
「いえ、あの、言っていただかないと、また荷物をまとめてしまいそうなので」
公爵は、長いこと黙っていた。
それから、観念したように、ちいさく息を吐いた。
「……結婚してほしい、と言っている」
◇
次の朝、鍵のかかっていた東の部屋の扉が、三年ぶりに開いた。
公爵が、自分で開けたのだった。
窓を開けると、庭のばらのにおいが、部屋いっぱいに流れこんできた。公爵は、窓ぎわに立って、しばらく庭を見ていた。
「母は、この庭が好きだった」
ぽつりと言った。
「亡くなってから、見るのがつらくて、ずっと閉めていた。……屋敷ごと、閉めていたのかもしれない」
フリーダは、隣に立って、同じ庭を見た。
「これからは、毎朝、窓を開けますね」
公爵は、うなずいた。最初の朝と同じ、小さなうなずきだった。
けれど、今朝は、そのあとに言葉がついてきた。
「……ありがとう、フリーダ」
お屋敷に来て四か月半。はじめて、名前を呼ばれた朝だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
しゃべらない公爵さまの「辞めてくれ」には、続きがありました、というお話でした。言葉が足りない人の、言えなかったことを、毎朝の窓と庭が少しずつほどいていきます。
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