涙の境界線
あかりは毎週木曜の午後、精神科病棟の大ホールの椅子に座るのが怖かった。円を描くように並べられた十脚の椅子。そこに座る人たちの顔は、みんなどこか疲れていて、でもどこか優しかった。
今日もここで精神集団療法が始まった。
「私は……会社で大きなプロジェクトを失敗させてから、眠れなくなりました。朝起きるのが怖くて、仕事に行こうとすると体が動かなくなって…結局辞めてしまったんです。『お前がいなくても回る』って上司に言われた言葉が、今も頭の中で繰り返されて……」
三十代後半の男性が、震える声で話し始めた。あかりの胸がぎゅっと締めつけられた。失敗の記憶、責められる視線、朝の布団の中で感じる無力感。それらが自分のことのように胸に広がっていく。
涙が、勝手に溢れた。
次に若い女性が話し始めた。
「私は、大学受験に失敗して、親に『期待を裏切った』と言われてから、何もする気が起きなくなって。毎日ベッドの中で『私は価値がない』って思って、ただ時間が過ぎるのを待つだけの日々でした」
あかりの肩が震え出した。彼女の痛みが、自分の痛みと混ざり合う。自分のうつ病のきっかけ——突然の親友の死と、仕事のプレッシャー——が蘇り、みんなの話と重なって、熱い波となって溢れ出す。
「ごめんなさい……また、止まらなくて」
セッションが終わったあと、あかりはトイレの個室で冷たい水を顔に当てた。鏡の中の自分は目が真っ赤で、情けなかった。
なぜ私はこうなんだろう。他の人はもっと重い話を聞いても、ちゃんと耐えられているのに。
その夜、夢の中であかりは透明な膜に包まれていた。膜の外側ではたくさんの人々が、うつに落ちたきっかけを語り続けている。失われたもの、折れた夢、言葉にできない喪失。膜は薄く、すべてをあかりの心に染み込ませてくる。苦しい。自分も飲み込まれそうになる。
目が覚めたとき、あかりは決めた。
次の週、精神集団療法が始まる前に看護師の佐藤さんにそっと声をかけた。
「他の人のうつになったきっかけの話に、全部自分のことみたいに感じてしまって……涙が止まらなくて。情けないです」
佐藤さんは穏やかにうなずいた。
「それは情けないことじゃないよ。あかりさんは感受性がとても豊かで、他人の痛みを深く受け止められる人なんだね。それは才能でもある。でも、その才能を守る方法を一緒に考えよう」
その日もうつ病になったきっかけを話題に精神集団療法がはじまった。
参加者たちが順番に話す中、あかりは初めて目を閉じてみた。心の中で、小さな透明な球をイメージする。球の内側に自分がいて、外側に他者の物語が流れていく。聞こえる。でも全部背負う必要はない。感じる。でも飲み込まれない。
一人の男性が、幼少期のトラウマについて話し始めた。
涙は出た。でも前ほど熱くはなかった。あかりは心の中でそっと呟いた。
——それはあなたの物語。私はここにいる。ただ、聞いている。
精神集団療法が終わったあと、若い女性があかりに声をかけてきた。
「今日、ちょっと顔色が明るかったね。泣いてたけど……前より少し落ち着いてる?」
あかりは小さく微笑んだ。目尻にまだ涙の痕が残っていたけれど、それは少しだけ温かいものだった。
外出先からの帰り道、秋の風が冷たかった。あかりは深呼吸をして、足の裏を地面に押しつけた。自分の体が、ここに確かに存在していることを確かめるように。
他人のうつ病のきっかけを全部背負う必要はない。でも、感じないふりをする必要もない。
境界線の内側で、自分を守りながら、他者の物語に耳を傾ける。それが、あかりのこれからの戦いだった。
木曜日の精神集団療法は、これからも続く。
でもあかりは、少しだけ、椅子に座るのが怖くなくなっていた。




