第八話☆第二音楽室の黒い雨
第八話 ☆ 第二音楽室の黒い雨
その日の全校朝礼は、少しだけ特別だった。
壇上に立ったのは、六年生の白石真琴だった。町のピアノコンクールで優勝したのだという。校長先生が賞状を読み上げると、体育館いっぱいに拍手が広がった。
真琴は緊張した顔でぺこりと頭を下げた。
「放課後は第二音楽室のグランドピアノで練習します」
朝礼のあと、そんな声が聞こえた。
「へえ」
と暁は言った。
「第二音楽室のピアノって、あんまり使われてないよね」
「グランドピアノがあるからな」
と鉄男。
「アップライトより、ずっと響く」
小鳥はうなずいた。
「きっとすてきな演奏なんでしょうね」
放課後、三人が第二音楽室へ行ってみると、廊下にはもう人が集まっていた。扉の向こうから、ぽろん、と試し弾きの音が聞こえる。
「ほんとに人気なんだな」
と鉄男が背伸びをした。
三人がようやく中をのぞくと、真琴は黒いグランドピアノの前にきちんと座っていた。窓から差しこむ夕方の光が、ピアノのふたを鈍く光らせている。
「何かリクエストはありますか?」
真琴がそう言うと、教室の後ろのほうから、ひとりの女の子が口を開いた。
「葬送行進曲」
空気が少しだけ止まった。
言ったのは、同じくコンクールに出て、入賞できなかった藤沢美咲だった。
「えっ」
と誰かが小さく言った。
別の子がひそひそ声で、
「変わった曲を選ぶね」
とつぶやく。
小鳥は眉をひそめた。
真琴は一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐにうなずいた。
「……わかりました」
そして、静かに弾き始めた。
重たく沈むような旋律が、第二音楽室いっぱいに広がる。
暁は、思ったよりずっと上手だ、と思った。音が低く深く響いて、まるで教室そのものが小さく震えているようだった。
小鳥は、なんとなく胸がざわざわした。きれいだけれど、どこか不吉な曲だった。
そのときだった。
じゃあん、と強い和音が鳴った次の瞬間、
「きゃあっ!」
真琴が悲鳴を上げた。
天井近くの棚の上から小さな容器が落ちて、黒い液体がはねたのだ。真琴の髪にも肩にも、鍵盤の上にも、黒いしぶきが飛び散った。
教室じゅうがどっと騒ぎになった。
「何!?」
「上から落ちてきた!」
「墨汁!?」
真琴は呆然として立ち上がった。白いブラウスに黒いしみが広がっている。
先生が駆け寄り、みんなを下がらせた。
「みんな、離れなさい!」
暁たちもいったん廊下へ出た。
「なんだよ、今の」
と鉄男が言う。
「上から墨汁のようなものが……」
と小鳥。
そのとき、近くにいた男の子が言った。
「でもさ、変な音しなかった?」
「音?」
と暁。
「うん。かしゃーん、って。なんか薄いものが震えるみたいな」
「わたしも聞いた!」
と別の女の子も言った。
「ピアノの音にまざって、金属みたいな音」
鉄男の目が、ぴくりと動いた。
「……金属?」
その晩、宮本時計店の奥の部屋で、暁たちはその話をしていた。
ちゃぶ台の上には、お茶とせんべいが置いてある。
「空から墨汁が降るなんて、おかしいよな」
と暁。
「空からじゃない」
と鉄男が言った。
「たぶん、棚の上に仕掛けがあったんだ」
小鳥が目を丸くする。
「仕掛け?」
「薄い金属板だよ」
と鉄男は腕を組んだ。
「棚の上にそれを置いて、その上に墨汁の入った小さい容器を乗せておいたんだ」
暁が身を乗り出す。
「で、ピアノの振動で落ちた?」
「そう」
と鉄男。
「グランドピアノは響くからな。強い和音や低い音が続くと、置き方しだいで板がびりびり震える。容器がすべって落ちてもおかしくない」
「だから、かしゃーんって音がしたのね」
と小鳥が言った。
「うん。板そのものか、板の留め具か、何かが震えた音だ」
と鉄男。
「犯人は、演奏が盛り上がるところで落ちるようにしたんだ」
暁は考えこんだ。
「でも、誰がそんなことを」
小鳥は昼間のことを思い出していた。
「……美咲さん」
「リクエストした子?」
と暁。
「決めつけるのはいやだけれど」
と小鳥は言った。
「あの子、演奏が始まる前から、何度も棚の上を見ていた気がするの」
鉄男と暁は顔を見合わせた。
「現場を見よう」
と暁が言った。
次の日の放課後、三人は第二音楽室へ向かった。
先生に頼んで中を見せてもらうと、天井近くの棚の上に黒いしみが残っていた。よく見ると、その近くに細い金属の粉のようなものもついている。
「やっぱりだ」
と鉄男がつぶやく。
「ここだよ。ここに板を置いてたんだ」
でも肝心の板はなかった。
「犯人が持っていったのかな」
と暁。
鉄男は首を振った。
「昨日は騒ぎですぐ人が集まった。そんな中で回収は無理だ」
小鳥が小さく言った。
「じゃあ、まだどこかにあるかもしれない。でも犯人は、きっと取りに来るわ」
「どうして?」
と暁。
「板に黒いしみがついていたら、仕掛けがあったってすぐわかるもの」
と小鳥。
「それに、学校の工作用の板なら、見つかったら困るはず」
鉄男がうなずいた。
「待ち伏せだな」
その日の夕方、三人は第二音楽室の近くで身をひそめた。
廊下の曲がり角の陰で、しんと息をひそめる。
しばらくして、きい、と第二音楽室の戸が静かに開いた。
入っていったのは、美咲だった。
「やっぱり」
と鉄男が小声で言う。
三人はそっとあとを追った。
美咲は棚の下に椅子を持っていくと、その上にのぼり、手を伸ばして奥から薄い金属板を引っぱり出した。板のふちには黒いしみがこびりついている。
「そこまでだ!」
暁が飛び出した。
美咲はびくっとして振り向いた。板を落としそうになる。
小鳥が悲しそうに言った。
「やっぱり、あなたなの?」
美咲はしばらく唇をかんでいたが、やがてぽろぽろと涙をこぼした。
「だって……だって、みんな真琴ちゃんばっかり」
鉄男が黙って板を見た。
美咲は泣きながら言った。
「わたしだって、いっぱい練習したのに。入賞もできなくて、誰も見てくれなくて……」
暁は静かにたずねた。
「それで、あんなことをしたのか」
「ほんとは、少し困らせるだけのつもりだったの」
と美咲。
「書道の墨汁なら、きっとすぐ洗えば落ちると思ったの。演奏を止めて、恥をかかせたかっただけで……」
小鳥は首を振った。
「でも、真琴ちゃんはすごく怖かったと思うわ」
美咲はうつむいた。
そのとき、戸口から先生の声がした。
「藤沢さん」
どうやら、暁たちがあらかじめ近くに呼んでおいたらしい。
美咲は先生の前で、とうとう全部を話した。
薄い金属板は、家にあった工作用の板だった。第二音楽室に忍びこんで棚の上に置き、その上に墨汁を入れた小さな容器を乗せておいた。そして、ピアノの強い振動で落ちるようにしたのだという。
「だから、かしゃーんって音がしたんだ」
と鉄男はつぶやいた。
数日後。
真琴の服の汚れはきれいに落ち、第二音楽室のピアノも無事だった。
美咲は真琴にきちんと謝った。すぐに仲直り、とまではいかなかったけれど、真琴は
「もうあんなことはしないで」
とだけ言って、静かにうなずいた。
帰り道、暁たちは校門を出ながら話していた。
「今回は、なんだかすっきりしないな」
と暁。
「事件が解けても、うれしいだけじゃないこともあるよな」
と鉄男。
小鳥は夕焼けの空を見上げた。
「でも、だからこそ、止められてよかったんだと思う」
二人が小鳥を見る。
「誰かがかなしい気持ちのままだと、また別のことが起きるかもしれないもの」
暁はうなずいた。
「そうだね」
鉄男も、少しだけ照れたように言った。
「……小鳥ちゃん、今日は探偵っぽかったな」
小鳥は笑った。
「今日は、じゃなくて、いつもです」
三人は声を立てて笑った。
その笑い声は、夕方の星見町の道に、やさしくひびいて消えていった。




