コップいっぱいの水
祖母が毎晩、寝る前に神棚へコップに水を入れたものをお供えしていた。
理由を問うと、「神様が喉を渇いてはいけないから、コップ一杯の水をお供えする」ということらしい。
一度だけ神様が喉が渇いたらどうするのかと問い返してみたことがある。
そうすると祖母は無表情でそっと私の耳へ口元を寄せて、
ーーー連れていかれるの。と言った。
祖母が亡くなる前の最後の夏、とある昔話をしてくれた。
祖母が家族や親族からみっちゃんと呼ばれていた少女だった頃の話。
当時、同居していた祖母のことが苦手だったそうだ。
無愛想でみっちゃんがやることをよく注意していたこともあり、少女の耳には小言も心配で発せられたことも全てが煩わしく感じていた。
子供心に「いなくなればいいのにな」と考えてしまっており、それも今でも悔いているそうだ。
みっちゃんは祖母の行動全てに嫌悪を感じていた。その中でも祖母が行う寝る前の儀式が特に嫌だった。
それは、寝る前に必ず、コップ一杯の水を神棚にお供えするというもの。
理由はただ一つ、神様の喉が乾いたらいけないから。というもの。皆がその理由についてそれ以上何か触れることもなかったので、みっちゃんもそういうものだと思ってわざわざ理由まで考えることはしなかった。
ただ、ほんの少し困らせたいという意地悪心が働いた。いつも眉に皺を寄せている祖母が焦った様子が見てみたい。理由はそんな軽いものだった。
祖母がコップ一杯の水を神棚へお供えし、手を合わせている要素を襖を少しだけ開けて確認する。
そっと隣の部屋に戻っている様子を見届けて数十分後、祖母の寝息を襖越しに聞くと、みっちゃんは行動に移した。
脚立を持って神棚の下に設置するとその一番上に立ち、母に買ってもらった当時流行っていたアニメの魔法のステッキでコップを引っ掛けると、そのまま真下の畳へ落とした。
コトっかコツっという鈍い音と共に畳へ水が吸収されていく。
みっちゃんはそれをみて笑った。いたずらの成功と、明日それを発見した祖母がどんな顔をするのかと想像して無邪気に笑った。
ーーーだが、翌朝に祖母は亡くなったという。
みっちゃんが起きた頃には家族が慌ただしくどこかへ連絡したり、祖母へ呼びかけたりしていたという。
みっちゃんには何が起きたか分からない。ただ、昨日行ったあの行為が、今目の前で起きていることと関係があるかもしれないということだけ。
その日からみっちゃんは毎日、夜、寝る前にコップ一杯の水を神棚に供えるようになったという。
神様の喉が乾かないようにするために。
否、何かに連れて行かれないように。
その昔話を聞いた夏が過ぎた後のこと。
ある朝、目を覚ました私はそっと隣の布団を見た。母は私よりも早く起きて家事を始めていることが多いので、もうすでにその姿はそこにはいなかった。
上体だけを起き上がらせて息を吐く。学校に行く準備をしなければとぼんやり考えながらあくびをしていると、廊下をバタバタと走る音や誰かの慌てている声が聞こえてくるのが分かった。
なぜかその瞬間、祖母の昔話を思い出した。朝起きたら、祖母は亡くなっていたと。嫌な予感がした私は部屋を飛び出して真っ直ぐに祖母の部屋へ向かう。襖をガバリと開けると、そこには口を開いたまま目を見開いて布団に横たわっている祖母がいた。思わず駆け寄ろうとする私を父が静止する。
「お医者さんが来るから」
医者が来ても助からないであろうという事は、なんとなく分かっていた。伸ばした手を引っ込めると、そのまま隣の仏間へ行く。
そこには床に転がったコップがあった。手に取ろうと一歩踏み出すと、足の裏に湿った畳が触れた。
ーーー神棚から落ちた?
そっと神棚を見つめる。祖母はいつも落ちないように少し奥にコップを置いていたはずなのに。
視線を感じて振り返るとそこには母がいた。
「お母さん」
呼びかけに母は応じない。ただ、自分の姿越しに祖母の部屋を見つめているようだった。
その顔は笑っているような、怒りを抑えているような、悲しんでいるような。
自分から見た母と祖母の関係は悪いものではななかったように感じていたが、見えないところ、知らないところで何かがあるのかもしれないと思わせる、そんな複雑な表情だった。
その日の夜、葬儀屋さんや親族が帰った後のこと。
仏間から少し開いた襖の奥で、白い布を被せられた祖母の姿が見えた。昨日までは普通に過ごして、寝る前のお供えもきちんとしていたのに。
畳の上で転がっているコップはいつの間にか誰かが回収しており、シミが付いた畳だけが昨夜なにがあったかを証明しているような気がする。
「・・連れて行かれちゃったのかな」
何気なく溢れた言葉に「なにが?」と問う声。振り返るとそこには母がいた。
「ううん、なんでも・・」そこで声は途切れる。
母の手元には水が入ったあのコップが握られていた。
コップいっぱいの水。それを神棚へ。
「神様が喉を乾いたらいけないから」
母は笑う。
その瞬間に、脳裏で神棚からコップを投げ捨てる母の姿がよぎったような気がした。




