第8話 波乱のキャスティング ~王子様役は誰のもの?~
「――彼女が舞台に立つに値するかどうか、この私が見極めてあげよう」
セレスティアの宣言に、その場は水を打ったように静まり返った。
嘲笑っていた令嬢たちは、彼女の圧倒的なオーラに気圧され、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
残されたのは、呆然とするリリアと、そして、してやったり顔のセレスティア。
彼女の心の中では、勝利のファンファーレが鳴り響いていた。
(ふふん、言ってやったわ!これでリリアちゃんも、堂々と舞台に立てるはず!そして私は、裏方に徹する!完璧な作戦よ!)
もちろん、本気で舞台に立つつもりなど毛頭ない。
彼女の目的は、あくまで『脱破滅計画』の遂行。目立たず、平穏に学園生活を終えることだ。
しかし、リリアの純粋な願いと、令嬢たちの傲慢な言葉に、ついカッとなってしまったのだ。
だが、結果オーライ。
リリアを助け、自分は目立たない裏方に徹する。
これぞ『脱破滅計画』の応用編だ。
(よし、演出や脚本の指導といった、裏方として手伝うだけなら目立たないはず!むしろ、裏方としてリリアを輝かせれば、私の存在は影に隠れる!これぞ一石二鳥!)
リリアを主役に据え、自分は黒子に徹する。
完璧な作戦に、セレスティアは一人満足げに頷いた。
彼女の脳内では、すでにリリアが舞台で輝き、観客から喝采を浴びる姿が描かれていた。
そして、その舞台の袖で、ひっそりと拍手を送る自分の姿も。
しかし、彼女のその目論見は、その場で脆くも崩れ去ることになる。
セレスティアの宣言を聞きいて、リリアを責めていたクラスメイトたちが、興奮した様子で彼女の元に殺到したのだ。
彼らの瞳は、まるで獲物を見つけたかのようにキラキラと輝いている。
セレスティアが学園の英雄として、そして女子生徒たちの「王子様令嬢」として絶大な人気を博していることは、既に学園中の常識となっていた。
彼女の言葉は、もはや絶対的な力を持っていたのだ。
「セレスティア様が、演劇に参加されるって本当ですか!?」
「まさか、あのセレスティア様が、私たちのクラスの演劇に!」
「夢のようですわ!」
「セレスティア様がご参加くださるなら、今年の学園祭は、私たちのクラスが優勝間違いなしですわ!」
教室は、一瞬にして熱狂の渦に包まれた。
クラスメイトたちは、セレスティアの周りに群がり、興奮した声で口々に叫ぶ。
その熱気に、セレスティアは思わずたじろいだ。
彼女の『脱破滅計画』は、開始早々、暗雲が立ち込めていた。
「ああ、本当だとも。だが、私は裏方に徹するつもりだ。主役はリリア、君に任せたい」
セレスティアが、なんとか平静を装い、リリアに微笑みかけると、クラスメイトたちはさらに熱狂した。
彼らの目には、セレスティアのその言葉が、まるで「謙虚な英雄」の振る舞いとして映っていたのだ。
「まあ!なんて謙虚な…!ご自身が主役を張れるほどの御方なのに、リリアさんを主役に推薦なさるなんて、器が大きすぎるわ!」
「リリアさん、セレスティア様のご期待に応えなければなりませんわね!」
「セレスティア様が監督なら、今年の演劇は勝ったも同然だ!私たちのクラスは、きっと学園祭の歴史に名を刻むでしょう!」
気づけば、クラスの演劇準備は、完全にセレスティアを中心に回り始めていた。
脚本、演出、衣装、舞台装置。
その全てにおいて、クラスメイトたちは「セレスティア様のご意見を!」と彼女の元へ集まってくる。
彼らは、セレスティアの言葉を金科玉条のように受け止め、彼女の指示を仰ぐ。
彼女の言葉一つで、クラス全体の雰囲気が変わり、生徒たちの士気が高まる。
それは、まるで、舞台の上の演出家が、役者たちを意のままに操るかのようだ。
(おかしい…!私はただ、裏方として静かにしているはずだったのに…!なんで私が、こんなに注目されているの!?これじゃあ、裏方どころか、完全に主役じゃない!)
本人の意図とは全く裏腹に、セレスティアは、クラス対抗演劇という新たな舞台の、紛れもない「主役」として、その中心に立たされてしまっていたのだった。
彼女の『脱破滅計画』は、もはや完全に破綻している。
しかし、彼女はまだ、自分が学園のアイドルとして、そして「王子様令嬢」として、絶大な人気を博していることに、全く気づいていなかった。
そして、この学園祭の演劇が、彼女を巡る恋のアンサンブルに、さらなる波乱を巻き起こすことになるとは、彼女はまだ知る由もなかった。
◇
クラスの演目が、王道の「王子様が呪われたお姫様を救う物語」に決まったのは、ある意味、必然だった。
学園祭の演劇は、毎年、ロマンスと冒険に満ちた物語が人気を博す。
そして、今年のクラスの演劇を監督するのは、学園の英雄であり、女子生徒たちの「王子様令嬢」であるセレスティア・ローゼンベルク。
彼女が手掛ける演劇ならば、王道こそが最も輝く道だと、クラスの誰もが確信していた。
そして、呪われた姫君役には、セレスティアが推薦したこともあり、一転して心優しく健気なリリアが選ばれた。
リリアの持つ純粋で可憐な雰囲気は、まさに物語の姫君そのものだったというのは、リリアの主役に反対していたクラスメイトたちも認めざるを得なかった。
彼女のピンクブロンドの髪、大きな瞳、そして、どこか儚げな佇まいは、見る者の庇護欲を掻き立てる。
問題は、その相手役だった。姫君を救う、白馬の王子様。
その役は、学園中の男子生徒たちの憧れの的となった。
なんと言っても、監督はあのセレスティア様だ。
相手役になれば、彼女から直接、演技指導を受けられるかもしれないのだ。
そんな彼らの淡い期待を打ち砕くように、二人の男が、すっ、と立ち上がった。
その存在感は、クラスの男子生徒たちの熱気を一瞬で冷めさせるほどだった。
「――王子役は、本物の王子である私が最も相応しいだろう」
アレクサンダー王子が、自信に満ちた笑みで言い放つ。
その完璧なルックスと生まれ持った気品に、クラスの誰もが「確かに…」と納得しかける。
本物の王子様が、劇で王子様を演じる。
これほどまでに説得力のある配役が、他にあるだろうか。
しかし、もう一人の男が、アレクサンダーの言葉を許さなかった。
「お待ちください。姫を救うという点では騎士である、俺の天命だ!王子役は、俺にこそ相応しい!」
ガブリエルが、熱い瞳でそう宣言する。
彼の言葉には、セレスティアの舞台を手伝いたいという絶対的な忠誠心と、姫を救う騎士になりたいという純粋な願いが込められていた。
どうやら彼は、王子役を「姫を護る騎士役」だと、捉えているようだった。
彼の脳内では、すでに自分が白馬に乗ってリリアを救い出す姿が描かれているのだろう。
その真剣な眼差しに、セレスティアは思わず苦笑した。
こうして、急遽、王子様役を賭けたオーディションが開催されることになった。
クラスメイトたちは、この予期せぬ展開に、さらに興奮を隠せない。
学園で有名な二人が、一人の姫君を巡って争う。
これほどまでにドラマチックな展開が、他にあるだろうか。
「では、アレクサンダー殿下から。こちらのセリフをどうぞ」
セレスティアが、緊張した面持ちで台本を渡す。
彼女の心臓は、ドクン、ドクンと、けたたましい音を立てていた。
元トップスターとして、数々の舞台で主役を演じてきた彼女にとって、演技指導は得意分野だ。
しかし、相手が王子となると話は別だ。
しかも、相手は演技ド素人。
果たして、彼をどこまで「王子様」に仕立て上げられるのか。セレスティアの腕の見せ所だった。
アレクサンダーは、自信満々にセリフを読み上げた。
「おお、姫よ…!君のその悲しげな瞳、この私が、必ずや救ってみせる…!」
声も、顔も、立ち姿も完璧。
しかし、肝心の演技は、教科書を朗読しているかのように、固く、全く心がこもっていなかった。
まるで、感情のない人形が、ただ言葉を発しているかのようだ。
セレスティアは、思わずため息を漏らしそうになった。彼の完璧なルックスと生まれ持った気品は、確かに王子様そのものだが、演技となると、全くの別物だった。
続くガブリエルは、さらにひどかった。
「うおおお!姫!俺が来たからには、もう安心だ!悪を切り裂く、俺の剣技を見よ!」
もはや、王子ではなく、ただの脳筋騎士である。
セリフも、情熱だけで完全に空回りしていた。
彼の声は、まるで腹の底から絞り出すような叫び声で、その表情は、まるで悪と戦う戦士のようだ。
セレスティアは、思わず顔を覆いたくなった。
彼の真剣な眼差しは、確かに人を護る騎士のそれだが、舞台の上では、ただの「暑苦しい男」でしかなかった。
(だめだ…二人とも、絶望的にド素人だわ…!このままじゃ、学園祭の演劇が、コントになってしまう…!私の舞台人生に、こんな汚点を残すわけにはいかないわ!)
セレスティアは、頭を抱えた。
元トップスターとして、数々の舞台に立ってきた彼女にとって、二人の演技は、あまりにも、あまりにもお粗末すぎたのだ。
彼女の脳内では、すでに舞台が崩壊し、観客からブーイングが飛ぶ光景が再生されていた。
しかし、この状況を打開できるのは、自分しかいない。
セレスティアの舞台人としての魂が、再び燃え上がろうとしていた。
仁義なき王子様役争奪戦は、セレスティアの新たな頭痛の種となって、波乱の幕を開けたのだった。
そして、この争奪戦の行方が、学園祭の演劇、ひいてはセレスティアの「脱破滅計画」に、どのような影響を与えるのか。物語は、さらなる混迷を深めていく。
◇
「はぁ…」
セレスティアは、こめかみを押さえ、深いため息をついた。
目の前で繰り広げられる、あまりにも学芸会レベルの王子様役に、元トップスターとしての我慢が、ついに限界を超えたのだ。
「…仕方ない。手本を見せてあげよう」
その一言に、オーディション会場となっていた教室が、シン、と静まり返る。
クラスメイトたちは、息を呑んでセレスティアを見つめる。
彼女が、一体何をしようとしているのか。
その視線は、期待と、そしてわずかな不安が入り混じっていた。
セレスティアは、すっくと立ち上がると、アレクサンダーの前に立った。
そして、先ほどまでの監督としての厳しい表情から一転、ふわりと、艶やかな笑みを浮かべた。
その笑顔は、まるで春の陽光のように暖かく、しかし、どこか神秘的な輝きを放っていた。
「さあ殿下、私を口説き落としてごらんなさい」
彼女は、まるで舞台の上の姫君のように、優雅にカーテシーをしてみせる。
その動作は、指先から足先まで、神経が行き届いており、一切の無駄がない。
ドレスの裾が、ふわりと舞い上がり、まるで花びらが散るかのようだ。
普段の凛とした男役のオーラは完全に消え失せ、そこには、か弱くも気高い、絶世の姫君がいた。
その瞳は、潤んだように輝き、その唇は、まるで薔薇の花びらのように艶やかだ。
彼女の周りだけが、まるでスポットライトを浴びているかのように輝きだし、教室の空気が一変する。
それは、まさに、舞台の上の魔法だった。
(な…んだ、これは…?俺の知っているセレスティア様は、誰よりも強く、気高い騎士のような方だったはずだ。だが、今目の前にいるのは、俺がこの身の全てを懸けて護らねばならないと、魂が叫ぶような、か弱く美しい姫君…。俺の心臓が、おかしい…)
「この胸をときめかせることができたなら、王子様の役を、あなたに差し上げましょう」
その声は、普段の低く響くアルトとは異なり、可憐で、しかし芯のあるソプラノ。
その言葉は、アレクサンダーの心臓を、直接鷲掴みにしたかのようだった。
彼の脳裏には、セレスティアの言葉と、その可憐な姿が、まるでスローモーションのように焼き付いていた。
パニックになると無意識で男役が出てしまうが、意識すればさすがトップスター、完璧な姫にもなれるのだ。
彼女の放つ「姫君」としてのオーラは、彼が今まで出会ったどんな女性とも違う、圧倒的な存在感だった。
その圧倒的な存在感を前に、アレクサンダーは完全に呑まれてしまった。
彼の顔は、カッと赤く染まり、瞳は驚きに見開かれている。
口は半開きになり、言葉を失っている。
まるで、初めて恋を知った少年のような、純粋な戸惑いが、彼の全身を支配していた。
(う、美しい…!これが、あのセレスティアだというのか…!凛々しく、誰よりも格好いい彼女が、こんなにも可憐で、守ってやりたくなるような表情をするなんて…!いや、違う、今は俺がリードしなければ…!俺は、王子だ!こんなところで、たじろいでいる場合ではない!)
アレクサンダーは必死に自分を鼓舞し、台本のセリフを口にする。
しかし、彼の声は、上ずって、まるで裏返りそうだった。
視線はあらぬ方向を泳ぎ、その姿は、もはや王子などではなく、「セレス姫に恋するただの青年A」と化していた。
彼の完璧な王子様の仮面は、完全に剥がれ落ち、そこには、ただ一人の、恋に戸惑う青年がいた。
「ひ、姫…!私は、あなたを…その…」
言葉はしどろもどろ。台本に書かれた甘いセリフは、彼の口から出る時には、まるで呪文のように意味をなさなかった。
彼の額には、冷や汗が滲み、その手は、台本を握りしめるあまり、白くなっていた。
彼の脳内は、セレスティアの可憐な姿で埋め尽くされ、思考は完全にショートしていた。
続くガブリエルも、その光景を目の当たりにして、呆然と立ち尽くしていた。
彼の脳裏には、セレスティアの可憐な姿が焼き付いて離れない。
彼にとって、セレスティアは「護るべき主」であり、「憧れの騎士」だった。
しかし、今、目の前にいるのは、護ってやりたくなるような、か弱くも美しい姫君。
彼の心の中で、セレスティアへの感情が、新たな形へと変貌していく。
セレスティアは、そんな彼に、小さく首を傾げ、憂いを帯びた瞳でささやく。
「…殿下?どうかなさいましたか?私の胸は、まだときめいておりませんわ」
その一言で、アレクサンダーの思考は完全にショートした。
彼の心臓は、ドクン、ドクンと、けたたましい音を立てていた。
それは、恐怖からではなく、初めて感じる、甘美な衝撃だった。
彼の顔は、さらに赤く染まり、その瞳は、セレスティアの可憐な姿を、まるで焼き付けるかのように見つめていた。
普段の男役のようなセレスティアが、真逆の娘役を完璧にこなしてみせる役者としての底知れぬ才能は、その場にいた全ての男たちの心を、さらに深く、強く、鷲掴みにしたのだった。
そして、この日、学園の男子生徒たちの間で、新たな噂が囁かれることになった。
「セレスティア様は、王子様であり、姫君でもある」と。
彼女の魅力は、もはや性別すら超越していた。
学園祭の演劇は、セレスティアの新たな伝説の幕開けとなるだろう。
そして、彼女を巡る恋のアンサンブルは、さらに複雑なハーモニーを奏で始めるのだった。
◇
セレスティアの的確な指導の下、演劇の練習は驚くほど順調に進んでいた。
彼女の指導は、まるで魔法のようだった。
棒読みだったアレクサンダーのセリフには感情が乗り、その完璧なルックスと相まって、真の王子様としての輝きを放ち始めていた。
彼は、セレスティアの指導に真剣に耳を傾け、彼女の期待に応えようと必死に努力していた。
その姿は、セレスティアにとって、かつて舞台で共に汗を流した仲間たちの姿と重なり、彼女の指導にも熱が入った。
アレクサンダーは、セレスティアの言葉一つ一つを真剣に受け止め、夜遅くまで自主練習に励んだ。
彼の努力は、目に見える形で実を結び、その演技は日を追うごとに洗練されていった。
クラスメイトたちも、王子殿下の真剣な姿勢に感銘を受け、練習にも一層熱が入るようになった。
そして、脳筋騎士だったガブリエルは、王子様役ではなく「姫を陰から見守る、寡黙な護衛騎士」という新しい別の役どころを割り振られた。
彼の変化は、セレスティアの指導の賜物でもあったが、何よりも彼の生来の真面目さと、リリアへの純粋な献身がそうさせた。
ガブリエルは、リリアが舞台上で少しでもよろめけば、音もなく駆け寄り、その体を支える。
リリアが小道具の剣を落とせば、誰よりも早く拾い上げ、恭しく差し出す。
ある時など、リリアがセリフを忘れて立ち尽くした際、ガブリエルは舞台の袖から、彼女の次のセリフを口パクで教えていたほどだ。
その一挙手一投足は、まさに忠実な騎士そのものだった。
彼の視線は常にリリアに向けられ、その瞳には、護るべき対象への揺るぎない忠誠心が宿っていた。
セレスティアは、そんなガブリエルの姿を見て、内心で「ガブリエル君、完全に役に入り込んでるわね…」と感心していた。
彼の存在は、リリアにとって、そしてクラス全体にとって、かけがえのない支えとなっていた。
ガブリエル自身も、この「護衛騎士」という役どころに、深い喜びを感じていた。
彼は、リリアを護ることで、自身の存在意義を再確認し、セレスティアへの忠誠心も一層深まっていた。
彼の心の中では、セレスティアは「主」、リリアは「護るべき姫」という明確な役割が確立され、その二人のために尽くすことが、彼の至上の喜びとなっていた。
クラスの雰囲気も最高潮。
誰もが、今年の演劇での優勝を確信していた。
セレスティアの指導は、生徒たちの士気を高め、彼らの才能を最大限に引き出していた。
学園祭の演劇は、単なるクラスの出し物ではなく、彼らにとって、かけがえのない青春の舞台となっていた。
放課後、遅くまで残って練習に励む生徒たちの顔には、疲労よりも充実感が満ち溢れていた。講堂には、彼らの笑い声と、セレスティアの的確な指示が響き渡り、まるで一つの大きな家族のようだった。セレスティア自身も、この熱気に包まれた空間に、前世の舞台稽古の日々を重ね合わせ、充実感を感じていた。彼女の『脱破滅計画』は、もはや遠い記憶の彼方へと追いやられていた。
しかし、その輝かしい成功を、冷たい瞳で見つめる者たちがいたことを、セレスティアたちはまだ知らなかった。
セレスティアの生家、ローゼンベルク公爵家と長年敵対する、モンフォート伯爵家の令嬢、イザベラとその取り巻きである。
イザベラは、セレスティアとは幼い頃から何かと比べられてきた存在だった。
美貌、才能、家格において、常にセレスティアの後塵を拝してきた。
特に、王子アレクサンダーの婚約者の座をセレスティアに奪われたことは、彼女にとって耐え難い屈辱だった。
イザベラは、幼い頃からアレクサンダーに憧れ、彼こそが自分の隣に立つべき存在だと信じて疑わなかった。
しかし、婚約者に選ばれたのは、悪役令嬢と名高いセレスティアだった。
その事実が、彼女の心に深い憎悪の根を張らせた。
そして、最近のセレスティアの学園での「英雄」としての評価、そしてアレクサンダーやガブリエル、フェリクスといった学園の注目を集める男子生徒たちが、こぞってセレスティアに夢中になっている現状は、彼女の嫉妬心を激しく掻き立てていた。
彼女は、セレスティアが手に入れた全てが、本来は自分のものだったはずだと、心の底から信じていた。
「…気に入らないわね、あの女。平民のリリアを主役にするなど、貴族令嬢としてあるまじき行為だわ。それに、あの王子様気取りの振る舞い…吐き気がするわ」
練習風景を遠巻きに見ていたイザベラは、吐き捨てるようにそう呟いた。
彼女の瞳には、憎悪と嫉妬の炎が燃え盛っていた。
彼女は、セレスティアの成功を、決して許すことができなかった。
彼女は、セレスティアの輝きを、自らの手で消し去ろうと画策していた。
彼女の取り巻きたちは、イザベラの言葉に同調し、セレスティアへの悪口を囁き合う。
その声は、まるで毒蛇の囁きのように、陰湿で、そして冷たかった。
イザベラは、セレスティアを陥れるための計画を、綿密に練っていた。
彼女は、セレスティアの「脱破滅計画」など知る由もないが、セレスティアが目立たないように振る舞おうとしていることを逆手に取り、彼女をさらに追い詰めることを企んでいた。
そして、運命の本番前日。
学園祭の熱気が最高潮に達する中、事件は、立て続けに起こった。
それは、まるで誰かの悪意が、静かに、しかし確実に、舞台の幕裏で蠢いているかのようだった。
セレスティアは、練習を終え、講堂を後にする際、ふと背筋に冷たいものを感じた。
まるで、誰かに見られているかのような、不快な視線。
しかし、振り返っても誰もいない。
気のせいか、と首を傾げたが、その胸には、微かな不安がよぎっていた。
その夜、セレスティアは、なぜか寝付けずにいた。胸騒ぎがする。
まるで、嵐の前の静けさのように、不穏な空気が漂っているのを感じた。
◇
学園祭の前日。
まず、王子様役のアレクサンダーが、練習中に舞台の床の僅かな歪みに足を取られ、激しく転倒した。
その床の歪みは、普段は存在しないものだった。
まるで、誰かが意図的に仕掛けたかのように、舞台の床板がわずかに浮き上がっていたのだ。
アレクサンダーは、その罠に気づくことなく、完璧なターンを披露しようとした瞬間、足を取られた。
鈍い音を立てて倒れ込んだ彼の顔は、苦痛に歪んでいた。
診断は、全治二週間の捻挫。
全治二週間。学園祭の本番には、到底間に合わない。
アレクサンダーは、悔しそうに唇を噛み締めていた。
彼の瞳には、セレスティアの期待に応えられないことへの、深い絶望が宿っていた。
彼は、セレスティアの指導に応え、最高の王子様を演じようと、誰よりも努力してきたのだ。
その努力が、こんな形で無に帰すとは。
彼の心は、深い絶望に沈んでいた。
さらに、ヒロインのリリアが、イザベラから「喉にいいから」と差し出されたハーブティーを飲んだ後、原因不明の高熱で倒れてしまったのだ。
イザベラは、満面の笑みでリリアにハーブティーを差し出した。「リリアさん、最近練習で喉を酷使しているでしょう?これは、私の実家で採れた特別なハーブを使ったお茶なの。喉にとても良いわよ」と。
リリアは、その言葉を疑うことなく、感謝してハーブティーを飲んだ。
そのハーブティーは、普段リリアが飲んでいるものとは違う、どこか甘い香りがしたという。しかし、その甘さの裏には、リリアの体を蝕む、微かな毒が仕込まれていた。
リリアは、高熱にうなされながら、セレスティアに「ごめんなさい…」と何度も謝っていた。
彼女の純粋な心が、悪意によって傷つけられたことに、セレスティアは激しい怒りを感じた。
彼女の瞳には、静かな、しかし燃え盛る炎が宿っていた。
彼女の心は、リリアの苦しみに深く共鳴し、悪意を許さないという強い決意に満たされていた。
そして、追い打ちをかけるように、同じクラスの生徒が、血相を変えて稽古場に飛び込んできた。
「大変だ!舞台セットが、誰かに…!無残に破壊されています!」
全員で講堂に駆けつけると、そこには無残に破壊された舞台セットの残骸が転がっていた。
王の城は見るも無残に切り裂かれ、物語の鍵となる魔法の剣は、真っ二つに折られている。
それは、まるで、誰かの悪意が、舞台そのものを破壊しようとしているかのようだった。
舞台の幕が、無残に引き裂かれ、背景の絵も、無残に切り刻まれている。
小道具は散乱し、照明器具は破壊され、講堂はまるで嵐が過ぎ去った後のようだった。
クラスメイトたちは、その惨状を前に、言葉を失う。
彼らの顔には、絶望の色が浮かんでいた。
彼らが、セレスティアの指導の下、寝食を忘れて作り上げてきた舞台。
その全てが、一瞬にして破壊されてしまったのだ。
彼らの目には、涙が浮かび、その唇は、悔しさで震えていた。
主役とヒロインの離脱。
そして、舞台セットの崩壊。
それは、学園祭の演劇を中止に追い込むには十分すぎるほどの、壊滅的な打撃だった。
「もう…演劇は、中止だ…」
誰かが、絶望的にそう呟いた。
その言葉は、クラスメイトたちの心に、重くのしかかる。
彼らが積み上げてきた努力、夢、そしてセレスティアへの期待。
その全てが、悪意によって踏みにじられた瞬間だった。
シン、と静まり返る講堂に、生徒たちの静かな嗚咽が響く。
彼らの瞳には、絶望と、そして、やり場のない怒りが宿っていた。
しかし、彼らはどうすることもできない。ただ、目の前の惨状を前に、立ち尽くすしかなかった。彼らの心は、深い闇に包まれていた。
誰もが、諦めかけた、その時だった。
セレスティアが、静かに、しかし力強く、一歩前に進み出た。
その瞳には、絶望の色など微塵も浮かんでいなかった。
ただ、全てを焼き尽くすかのような、トップスターの怒りの炎だけが、燃え盛っていた。
彼女の『脱破滅計画』は、もはやどうでもよかった。
今、彼女の心にあるのは、ただ一つ。仲間たちの夢を、悪意から護り抜くという、舞台人としての強い使命感だった。
ショー・マスト・ゴー・オン。
舞台は、何があっても続けなければならない。
それが、彼女の、そして宝塚の魂だった。
彼女の背中からは、まるで後光が差しているかのような、圧倒的なオーラが放たれていた。
そのオーラは、絶望に打ちひしがれていたクラスメイトたちの心に、微かな希望の光を灯した。
彼らは、セレスティアの背中を、ただ見つめることしかできなかった。
彼女の瞳に宿る炎は、悪意を焼き尽くし、新たな舞台の幕を開けるための、聖なる炎だった。
「この舞台は、私が守る」
セレスティアの静かな声が、教室に響き渡った。
その声は、まるで魔法のように、生徒たちの心に染み渡り、彼らの絶望を打ち消していく。
彼女の言葉は、彼らにとって、何よりも力強い希望の光となった。
学園祭の演劇は、まだ終わらない。
セレスティアの新たな舞台が、今、まさに幕を開けようとしていた。
彼女の瞳は、悪意に満ちた闇を打ち破り、希望の光を灯す。
その光は、学園祭の舞台を、そして生徒たちの未来を、明るく照らし出すだろう。
この舞台は、彼女にとって、新たな伝説の始まりとなるのだ。
平日の朝7時に1話ずつ投稿していきますので、よろしくお願いします。
一応全12話で完結しようと思っていますが、ご好評いただけたらもっと続けていこうと思っているので、
リアクションをいただけると嬉しいです。