第3話 VS ヒロイン&騎士 ~忠犬、爆誕~
アレクサンダー王子への大失態から数日。セレスティアは、学園内でひたすら息を潜めていた。
あの顎クイ事件以来、アレクサンダーの視線が以前にも増して熱を帯びているように感じられ、セレスティアは彼と目が合うたびに心臓が飛び出しそうになる。
廊下で彼とすれ違うたびに、無意識に体が硬直し、冷や汗が背中を伝う。
まるで、舞台の幕が上がる直前の、あの独特の緊張感に似ていた。
『脱破滅計画』はすでにズタボロだが、まだ諦めたわけではない。
特に最重要項目である「ヒロインに近づかない」だけは、死守しなければならないのだ。
ヒロインであるリリア・スチュアートは、ゲームのシナリオ上、セレスティアの破滅の引き金となる存在。彼女との接触は、まさに地雷を踏むに等しい。
セレスティアは、リリアの姿を見かけるたびに、まるで透明人間になったかのように気配を消し、物陰に隠れる日々を送っていた。
そう固く決意し、廊下の隅を壁と同化するように歩いていた、その時だった。
前方の角から、大量の資料を抱えた一人の女生徒がふらふらと現れた。
小柄な体に、自分の背丈ほどもある書類の山。顔も見えず、足元もおぼつかない。陽光を浴びて淡く輝くピンクブロンドの髪が、綿菓子のように揺れている。
(間違いない、ゲームのヒロイン、リリア・スチュアート…!)
セレスティアの脳裏に、ゲームの記憶がフラッシュバックする。そして、このシチュエーション。ゲームで何度も見た、強制イベントだ。彼女はこの後、派手に転んで資料をぶちまけ、そこに居合わせた攻略対象に助けられるのである。そして、その攻略対象との間に、甘い恋のフラグが立つ。本来なら、その役目は王子アレクサンダーか、騎士団長のガブリエル、あるいは天才魔術師フェリクスのはずだ。まさか、自分がその場に居合わせるとは。
(来た!計画①『ヒロインには近づかない』!今度こそ、今度こそ避ける!ここで私が助けてしまったら、ゲームのシナリオが大きく狂ってしまう!いや、それ以前に、私がリリアに接触したら、いじめフラグが立つ可能性だってある!絶対に、絶対に避けるんだ!)
セレスティアは、全身全霊をかけて、その場から逃げ出そうとした。壁に張り付き、体を縮こませ、まるで忍者かのように気配を消す。
しかし、彼女の願いとは裏腹に、リリアが大きくよろめき、書類の山が崩れ始めた瞬間、セレスティアの体は、意思に反して、流れるように動き出していた。
長年培われたトップスターの反射神経が、危険を察知し、自動的に「助ける」という選択肢を選んでしまったのだ。
トン、と床を蹴り、完璧なステップでリリアの目の前に回り込む。
その動きは、まるで舞台の上で、華麗なダンスを披露するかのようだ。
一瞬にして空間を支配し、見る者の目を釘付けにする。周囲の生徒たちが、何が起こったのか理解できないまま、呆然と立ち尽くす中、セレスティアは優雅に、しかし迅速に動いた。
ガサッ、と音を立てて崩れ落ちる書類の束を、差し出した片手で完璧にキャッチ。
同時に、空いたもう片方の腕は、倒れかけたリリアの細い腰を優しく、しかし力強く支えていた。
その指先が触れた瞬間、リリアの体がビクリと震える。まるで、計算され尽くしたダンスの一場面のような、完璧なムーブだった。
「きゃっ…!」
「おっと」
腕の中で、リリアが小さく悲鳴を上げる。
その声は、まるで小鳥のさえずりのように可憐で、セレスティアの耳に心地よく響いた。
セレスティアは、そんな彼女の顔を覗き込み、体に染み付いた男役のスイッチがONになるのを感じた。
目の前にいるのは、守るべき「ヒロイン」。
舞台の上で、幾度となく演じてきた「王子様」の役が、彼女の意識を乗っ取っていく。
「――大丈夫かい、可愛い子猫ちゃん?怪我はなかったかな?」
キラキラキラ…と、どこからか効果音が聞こえてきそうな、完璧な貴公子の微笑みと共に、セレスティアはリリアに語りかけた。
その声は、甘く、それでいて芯のあるアルト。
リリアの耳元で囁かれるその声は、まるで魔法のように、彼女の心を震わせた。
セレスティアの紫の瞳が、リリアの大きな瞳をまっすぐに捉える。
その瞳の奥には、舞台の上の王子様が持つ、優しさと、そして揺るぎない強さが宿っていた。
(終わった…!どう考えても、悪役令嬢の私が原因で転びそうになったと思われてる…!「わざと突き飛ばして、恩を売るつもり!?」とか思われてたらどうしよう!破滅フラグが一本、いや、十本は立ったわ!)
セレスティアが内心で絶望の淵に立っているとは露知らず、腕に抱かれたリリアは、ぽかんとセレスティアを見上げていたが、やがてその頬が、ぼっと林檎のように赤く染まっていく。
彼女の心臓は、ドクン、ドクンと、生まれて初めて感じるような激しい音を立てていた。
平民出身のリリアにとって、公爵令嬢であるセレスティアは、まさに雲の上の存在。
しかも、学園では「悪役令嬢」として恐れられている人物だ。そんな彼女が、自分を助けてくれた。
それも、物語の王子様のような、甘いセリフと共に。
(セレスティア様…!なんて、なんて素敵な方なの…!)
リリアの瞳の中で、セレスティアの姿が、キラキラと輝く星屑で縁取られていく。
彼女の脳裏には、セレスティアの優雅な動き、甘い声、そして完璧な微笑みが、まるでスローモーションのように焼き付いていた。
今まで抱いていた「悪役令嬢」というイメージは、音を立てて崩れ去り、代わりに、白馬に乗った王子様のような、眩いばかりのセレスティアの姿が、彼女の心を埋め尽くしていく。
「あ、あ、あの…!セレスティア・ローゼンベルク様…!」
リリアは、感動と興奮で、言葉を紡ぐことができない。
ただ、セレスティアの名を呼ぶのが精一杯だった。その瞳は、憧れと尊敬の念で、キラキラと輝いている。まるで、初めて舞台の上のスターを見た子供のように、純粋な輝きを放っていた。
ヒロインのリリアの胸に恋(という名の憧れ)の炎が灯った瞬間、セレスティアは、腕の中で赤面する彼女を抱きしめたまま、静かに絶望するのだった。
彼女の「脱破滅計画」は、もはや風前の灯火。
しかし、リリアの瞳に映るセレスティアの姿は、悪役令嬢ではなく、まさに「王子様」そのものだった。
この出会いが、二人の、そして学園の運命を大きく変えることになるとは、この時のセレスティアは、まだ知る由もなかった。
◇
リリアとの「強制イベント」を終え、セレスティアは学園の廊下を足早に歩いていた。
あの後、リリアはセレスティアに何度も感謝の言葉を述べ、その瞳は憧れと尊敬でキラキラと輝いていた。
まるで、初めて出会った王子様を見つめる乙女のように。
セレスティアは、その純粋な視線に耐えきれず、半ば逃げるようにその場を後にしたのだ。
(ああ、もうダメだ。完全にフラグが立ってしまった…! しかも、よりによってヒロインに! これじゃあ、破滅フラグを回避するどころか、自ら地雷原に突っ込んでいってるようなものじゃない!)
内心で頭を抱えながら、セレスティアは次の授業である魔法実技の訓練場へと向かっていた。
屋外での魔法実技の授業。広大な訓練場には、すでに多くの生徒が集まり、それぞれの魔法を練習している。
火の玉を飛ばしたり、風の刃を操ったり、中には小さな水の精を呼び出している者もいる。
色とりどりの魔法の光が飛び交い、訓練場は活気に満ちていた。
セレスティアは、これ以上ないほど気配を消していた。
彼女の目標は、あくまで「空気」になること。
目立たず、平穏に学園生活を終えることだ。
しかし、それは彼女にとって、想像以上に困難な道のりだった。
前世でトップスターとして生きてきた彼女は、常にスポットライトの中心にいた。
観客の視線を集め、舞台を支配することが、彼女の存在意義だったのだ。
そんな彼女が、今、自らの輝きを抑え、影に徹しようとしている。
それは、まるで、太陽が自らの光を隠そうとするような、不自然な行為だった。
『クリスタル・ラビリンス』の悪役令嬢であるセレスティア・ローゼンベルクは、ゲーム設定上、膨大な魔力を持っていた。
その魔力は、王族に匹敵すると言われるほどで、彼女の傲慢な性格をさらに助長する要因の一つでもあった。
転生したセレスティア(橘麗)もまた、その膨大な魔力を宿している。
しかし、彼女はそれを悟られぬよう、必死に力を抑え、教科書通りの平凡な魔法を繰り出すことに全神経を集中させていた。
魔力を抑えるというのは、まるで、激流を細いホースで流そうとするようなものだ。
少しでも気を抜けば、ホースが破裂するように、魔力が暴走してしまう。
(お願いだから、誰も私を見ないで…! 平凡、平凡、平凡…! 私はただの、どこにでもいる公爵令嬢…!)
セレスティアは、心の中で呪文のように繰り返す。
しかし、彼女の放つ魔法は、どうにも平凡には見えなかった。
例えば、火の玉を放つ練習では、他の生徒が放つ火の玉が、せいぜい手のひらサイズであるのに対し、セレスティアが放つ火の玉は、意識的に抑えているにもかかわらず、わずかに大きく、そして、炎の色がより鮮やかだった。
風の魔法を使えば、他の生徒が起こすそよ風が、セレスティアの手にかかると、まるで舞台の演出のように、優雅な旋風となる。
彼女は、その度に内心で悲鳴を上げていた。
そんな彼女の視線の先――訓練場の一角で、一際目を引く青年がいた。
騎士団長子息、ガブリエル・ナイトレイだ。
彼はゲームにおいて、寡黙で実直、そして何よりも「人を護る」ことを己の存在意義とする、生粋の騎士だった。
その鍛え上げられた肉体は、まさに「動く要塞」。
どんな困難にも屈せず、一度決めたことは最後までやり遂げる、そんな愚直なまでの真面目さが、彼の魅力だった。
ゲームでは、ヒロインを護るために何度も傷つき、それでも立ち上がる姿に、多くのプレイヤーが胸を打たれたものだ。
彼にとって、人を護ることは、呼吸をするのと同じくらい自然な行為であり、彼の人生そのものだった。
実直な彼らしく、真剣そのものの表情で訓練に打ち込むガブリエル。
その魔法捌きは、流れるように滑らかで、それでいて力強い。
模擬戦の相手は、彼の魔法に翻弄され、防戦一方だ。
そして、その近くで、ヒロインのリリアも訓練に励んでいた。
(嫌な予感しかしない…)
セレスティアがそう思った瞬間、事件は起きた。
ガブリエルと対峙していた生徒が、焦りからか魔力の制御に失敗したのだ。
ゲームでも、この場面で彼の魔法が暴走し、リリアが危険に晒されるというイベントがあったはずだ。
「しまっ…!」
生徒の手から放たれた巨大な炎の塊が、あらぬ方向へと暴走する。
その炎は、まるで生き物のようにうねり、訓練場の空気を焦がしながら、一直線にリリアへと向かっていく。
彼女は、突然の事態に、ただ立ち尽くすことしかできない。
「リリア嬢!」
ガブリエルが、己の身を盾にしてリリアを庇おうと駆け出す。
彼の脳裏には、ただ「護る」という騎士としての使命だけがあった。
しかし、炎の到達の方が早い。
ガブリエルの足が、炎の速度に追いつかない。
(またか! なんでいつもこうなのよ! 私の計画は、いつもこうして、私の意思とは関係なく、勝手に破綻していくのね!)
セレスティアの体は、彼女の意思を裏切った。
考えるよりも早く、体が動いていた。
前世で、舞台の上で危険を察知し、咄嗟に共演者を庇った時のように、彼女の反射神経が、最高速度で反応する。
一瞬でガブリエルの背後に回り込むと、リリアを庇おうとする彼の腕を強く掴む。
「え…?」
驚くガブリエルごと、有無を言わさず自分の背後へと引き寄せた。
その手つきは、優雅でありながら、確かな力強さを秘めていた。
その動きは、まるで舞台の上の王子様が、危険から姫君を護るかのように、流れるように滑らかで、一切の無駄がない。
周囲の生徒たちは、何が起こったのか理解できないまま、ただ呆然と立ち尽くす。
「え…?」
「なっ…!?」
ガブリエルとリリアの困惑した声を背中で聞きながら、セレスティアは迫りくる炎の塊を冷静に見据える。
彼女の脳裏には、ゲームで見た防御魔法の詠唱と、その効果が瞬時に再生される。
転生してまだ魔法を使い始めたばかりだが、前世のゲーム知識と、トップスターとして培われた「完璧にこなす」才能が融合し、彼女の体は、まるで長年使い慣れた道具のように、自然に魔法を操ることができた。
そして、最小限の魔力で、完璧な円形の防御障壁を展開した。
その障壁は、まるで透明なクリスタルの壁のように、美しく輝いている。
それは、ただの防御魔法ではない。
セレスティアの魔力と、彼女の美意識が融合した、芸術品のような魔法だった。
ゴウッ、と音を立てて炎が障壁に激突するが、まるで幻だったかのように、一瞬で霧散していく。
セレスティアの障壁は、微動だにしない。
その場にいた誰もが、息を呑む。訓練場に、静寂が訪れる。
静まり返る広場。
セレスティアはゆっくりと振り返ると、呆然としているガブリエルの肩を、ポン、と軽く叩いた。
その手つきは、まるで舞台で共演者を労うかのように、優しく、そして力強い。
そして、まるで頼れる兄貴分のように、ニッと笑いかける。
その笑顔は、舞台の上の王子様が、仲間を鼓舞する時に見せる、あの自信に満ちた笑顔そのものだった。
「無茶をするな、少年。君が護りたいものは、君自身が健在でなくては護れないだろう?その志は立派だが、もっと周りを見ることだ」
(また男役スイッチ入っちゃったー!しかも少年って呼んじゃった!彼は同級生なのに!でも二人とも無事でよかった…って、ホッとしてる場合じゃない!またフラグ立てちゃったじゃないのぉぉぉっ!)
内心のパニックとは裏腹に、その立ち振る舞いは完璧だった。
周囲の生徒たちは、セレスティアの圧倒的な存在感に、ただただ見惚れていた。
悪役令嬢という噂など、もはや彼らの記憶には残っていなかった。
ガブリエルは、何も言えなかった。
彼の脳内は、真っ白になっていた。
騎士として、人を護ることだけを己の存在意義として生きてきた。
それが彼の全てであり、彼の誇りだった。
その自分が、護るべき対象の女性である公爵令嬢に、身を挺して護られたのだ。
しかも、その女性は、自分よりも華奢な体つきをしている。
腕を掴まれた感触。背中の温かさ。
そして、自分を「少年」と呼んだ、圧倒的な強者の余裕。
その全てが、彼のあろうとする騎士の信念を揺さぶる。
彼の信じてきた世界が、メキメキと音を立てて崩れていく。
「護る」ことしか知らなかった自分が、「護られる」側にいる。それも、最も「護るべき」か弱い令嬢に。脳が、理解を拒絶していた。
ぐちゃぐちゃだ。
自分の信じてきたもの、騎士であろうとする誇り、その全てが、目の前の少女によって、根底から覆されてしまった。
彼の瞳は、困惑と、そして、今まで感じたことのない、奇妙な感情を宿して、セレスティアを見つめていた。
ガブリエル・ナイトレイの価値観が、音を立てて崩壊した瞬間だった。
そして、彼の心に、セレスティアへの絶対的な忠誠心が芽生え始めたことを、セレスティアはまだ知らない。
この日から、ガブリエルはセレスティアの「忠犬」となることを、彼女はまだ知る由もなかった。
◇
【ガブリエル視点】
俺は、その場に立ち尽くしていた。
目の前で繰り広げられた光景が、信じられなかった。
立派な騎士になるために、常に人を護るために己を鍛えてきた。それが俺の全てであり、誇りだった。
だが、俺はリリア嬢を護れなかった。それどころか、護るべき存在であるはずの公爵令嬢に、リリア嬢ごと護られてしまったのだ。
『無茶をするな、少年』
彼女の言葉が、頭に突き刺さる。
そうだ。俺は未熟だった。ただがむしゃらに前に出ることしか知らなかった。
それにひきかえ、あの御方はどうだ。
最小限の動きで、完璧に、そして優雅に、護るべき者すべてを護りきってみせた。
あれこそが、真の強さ。
俺が目指すべき、真の騎士の姿ではないのか。
俺は、ゆっくりと片膝をついた。
(俺のこの剣、この命、あの御方に捧げよう!)
心に誓う。
このガブリエル・ナイトレイのすべては、今日この日より、セレスティア・ローゼンベルク様のためにある、と。
これからは、影となり、日向となり、あの方の騎士として、生涯お護りするのだ。
こうして、セレスティア本人も知らないうちに、彼女に付き従う【忠犬】が誕生し、ストーカーまがいの過剰な護衛が開始されることが決定した。
【セレスティア&リリア視点】
「リリアさん、本当に怪我はない?大丈夫?」
「は、はい!セレスティア様のおかげで、かすり傷一つありません…!」
セレスティアは、興奮冷めやらぬリリアの無事を確認し、心から安堵のため息をついた。
(よかったわ…。ガブリエル様もリリアさんも、大したことなくて…)
自分のやらかしはさておき、二人の無事が何よりだった。そう思っていたセレスティアの手を、リリアががしっと掴んだ。
その瞳は、尊敬と憧れで、星のように輝いている。
「セレス様…!なんてお強いんですか!それに、なんてお優しい…!私、感動しました!」
「え、ええと…」
「決めました!私、セレス様のファンクラブを結成します!会長はもちろん、この私、リリア・スチュアートです!一生ついていきます!」
高らかに、そう宣言するヒロイン。
(…………え?)
セレスティアの思考が、フリーズした。
(ファン…クラブ…? 私の…?)
いじめるはずの相手に、懐かれた。
破滅フラグを回避するはずが、なぜかファンクラブ会長が爆誕した。
(もうだめだ…この世界、バグってる…!)
『脱破滅計画』が、もはやシュレッダーにかけられた後の紙屑同然であることを悟り、セレスティアは、ヒロインの熱烈な視線を一身に浴びながら、ただただ青ざめることしかできなかった。
平日の朝7時に1話ずつ投稿していきますので、よろしくお願いします。
一応全12話で完結しようと思っていますが、ご好評いただけたらもっと続けていこうと思っているので、
リアクションをいただけると嬉しいです。