第2話 VS 王子アレクサンダー ~王子様、姫になる~
講堂での入学式を終え、その喧騒から逃れるように、セレスティアは学園の中庭に足を踏み入れた。
色とりどりの花が咲き乱れ、中央に据えられた大理石の噴水の水音が心地よく響く、絵画のように美しい空間。
しかし、セレスティアの心は、その麗らかな春の景色とは裏腹に、鉛のように重く沈んでいた。
(なんとか、なんとか乗り切った……)
主要人物たちとの最悪のファーストコンタクトを果たし、すでに精神力はゼロに近い。
計画は初日にして破綻したが、もうどうにでもなれ、という自暴自棄な気分だった。
このままどこか人気のない日陰で、今日の出来事を反芻し、一人で悶絶したい。そんな現実逃避を考えていた、その時だった。
その背中に、鈴を転がすような、しかし有無を言わせぬ威厳を秘めた声がかけられた。
「待っていたよ、セレスティア・ローゼンベルク」
心臓が、喉から飛び出しそうになった。
振り返ると、そこに立っていたのは、陽の光を弾く金糸の髪に、冷たい光を宿すサファイアの瞳を持つ、この国の王子、アレクサンダー・アストレアその人だった。
噴水の飛沫を背に、完璧な笑みを浮かべている。
後光が差しているように見えるのは、気のせいではないだろう。いや、絶対に気のせいではない。
彼は、ゲームのパッケージを飾る、まさに「光」そのものの存在なのだから。
「婚約者として、君と一度、ゆっくり話がしておきたかった」
その言葉に、セレスティアの脳内は一瞬でフリーズした。婚約者。
そう、セレスティア・ローゼンベルクは、この国の第二王子のアレクサンダーの婚約者なのだ。
しかし、それはあくまで家同士の取り決めで、正式な顔合わせは学園入学後とされていた。
だからこそ、今まで一度も直接言葉を交わしたことはなかった。
政略的に決められた婚約者、悪名高いローゼンベルクの令嬢が、一体どんな女なのか。アレクサンダーは、ただそれを確かめたかっただけなのだ。
しかし、セレスティアの脳内は、語彙力を完全に失ったオタクの悲鳴で埋め尽くされる。
『解像度高っ! 顔面偏差値がカンストしてる! 公式供給が過剰すぎて処理落ちする! 無理無理無理無理ぃぃぃぃっ! なんで推しが三次元にいるの!? しかも距離感がバグってる!』
前世の橘麗は、宝塚歌劇団の男役トップスターとして、舞台の上では数多の女性を魅了してきた。
しかし、それはあくまで「役」としての自分。プライベートでは、舞台稽古と公演に明け暮れる日々で、恋愛とは無縁の人生を送ってきた。
女性しかいない劇団に所属していたこともあり、男性とまともに話した経験など、ほとんどない。
ましてや、こんなにも完璧な美貌を持つリアル王子と、二人きりで対峙するなど、彼女の人生経験には存在しないシチュエーションだった。
しかも、目の前にいるのは、ゲーム『クリスタル・ラビリンス』で、彼女が最も愛し、最も攻略に時間を費やした「最推し」キャラ、王子アレクサンダーなのだ。
ゲーム画面越しに、穴が開くほど見つめてきた彼が、今、生身で、しかも自分に向かって話しかけている。その事実が、セレスティアのキャパシティを完全にオーバーさせた。
『脱破滅計画』その二、「王子とは目を合わせない」が、音を立てて崩壊した瞬間だった。いや、崩壊どころか、粉々に砕け散り、跡形もなくなっていた。
「君が私の隣に立つに相応しいか、この私が見極めさせてもらう」
アレクサンダーは、完璧な王子スマイルのまま、値踏みするような視線を向ける。それは、絶対的な強者の余裕。ゲームで何度も見た、彼の高圧的な一面そのものだった。
だが、その時。セレスティアのオタクとしての鋭敏な観察眼が、彼の瞳の奥に、ほんのわずかに疲労の色が滲んでいるのを見逃さなかった。
ゲームをやり込んだ彼女だからこそ知っている。この完璧な王子は、その重責に押しつぶされそうになりながら、必死に理想の自分を演じているのだと。
その瞬間、セレスティアの中で、何かがプツリと切れた。
極度の緊張と、推しへの庇護欲、そしてパニックが振り切れた時、彼女の体は、最も慣れ親しんだ一つの「型」に全ての判断を委ねるのだ。
それは、長年、舞台の上で観客を魅了し続けてきた、男役トップスター・橘麗の「型」。
無意識のうちに、彼女の表情筋が、口角が、指先が、そして全身の細胞が、舞台の上の「王子様」へと変貌していく。
ふっ、とセレスティアの口元に、悪役令嬢の高慢さとは似て非なる、余裕の笑みが浮かぶ。
それは、橘 麗が舞台で幾千幾万の観客を虜にしてきた、あの自信に満ち、それでいてどこか憂いを帯びた、完璧な「トップスターの微笑み」だった。
「――見極める、か。面白い」
一歩、アレクサンダーに歩み寄る。その堂々とした様に、今度はアレクサンダーがわずかに目を見開いた。彼の視線が、セレスティアの紫の瞳に吸い寄せられるように固定される。
「だが殿下、その瞳、少し曇っているな」
セレスティアの指が、すっと伸びる。しかし、彼の頬に触れる寸前で止まり、まるで舞台の小道具を扱うかのように繊細な、しかし一切の迷いがない動きで、その完璧な顎をクイ、と持ち上げた。
宝塚の舞台で、幾度となくヒロインたちの心を射抜いてきた、伝説の顎クイである。その指先は、まるで彼の心の奥底に触れるかのように、優しく、しかし確かな力で、彼の顔を上向かせた。
「王子という重圧に、君自身が押しつぶされそうだ。国民の期待、王族としての義務、そして何よりも、完璧な自分であろうとする君自身の理想が、その輝きを縛り付けている」
至近距離で見つめ合い、セレスティアは囁くように告げる。
その声は、甘く、それでいて芯のあるアルト。まるで、舞台の上の王子様が、傷ついた姫君に語りかけるかのように。
「けど、心配いらないさ。君の曇った瞳は、この私が輝かせてみせる…!」
それは、かつて彼女が演じるはずだった王子役の、稽古で魂を込めて繰り返したセリフそのものだった。ゲーム本編で、アレクサンダーがヒロインに語りかける、まさにその言葉。しかし、今、その言葉は、彼自身に向けられていた。
「なっ…!?」
アレクサンダーの完璧な仮面が、初めて明らかに崩れる。今まで誰にも見抜けなかった、彼の心の奥底に澱む不安と孤独を、目の前の婚約者は、初対面でいとも容易く見抜いてみせた。
彼の青い瞳が、驚きと困惑、そして微かな期待の色を宿して、セレスティアの紫の瞳を捉える。
その紫の瞳が、射抜くように、それでいて慈しむように、まっすぐに彼を見つめている。
その瞬間、アレクサンダーの胸に、今まで感じたことのない衝撃が突き抜けた。
それは、王子としての重圧から解放されるような、甘美な感覚だった。
(な、なんだ、この女は…!?)
彼の脳裏に、セレスティア・ローゼンベルクという悪役令嬢の数々の悪評が駆け巡る。
しかし、目の前の彼女は、その悪評とはかけ離れた、圧倒的なカリスマと包容力で、彼を包み込もうとしていた。
「なっ…、き、君は…一体、何を…!」
図星を突かれたアレクサンダーは、激しく動揺し、言葉を失う。
完璧な王子様の仮面が、ガラガラと音を立てて崩れていく。その表情は、まるで迷子の子供のようだ。
普段はどんな時も冷静沈着で、感情を表に出すことのない彼が、これほどまでに狼狽する姿を、側近ですら見たことはないだろう。
(あら…? 王子様、顔が真っ赤じゃない? もしかして、人前に出るのが苦手なタイプだったのかしら? 完璧に見えて、実は緊張しいとか…尊い…!)
セレスティアは、彼の動揺を盛大に勘違いした。王子といえども、まだ若い。
大勢の前に立つのは、やはり緊張するものなのだろう。特に、入学式という大舞台を終えたばかりで、きっと心身ともに疲弊しているに違いない。
そう思うと、急に庇護欲が湧いてくるから不思議だ。前世で、舞台度胸のない後輩を、これまで何人も育ててきた経験が、セレスティアの脳裏をよぎる。こういう時は、こうしてやるのが一番だ。
セレスティアの体が、再び勝手に動く。
持ち上げたアレクサンダーの顎に、今度はもう片方の手をそっと添えた。驚きに見開かれた青い瞳を、慈しむように覗き込む。
「――大丈夫。私がついている」
低く、甘い声が、まるで魔法のように中庭に響く。
そして極めつけに、パチン、と。まるで客席の隅々まで届けるかのように、ほんのわずかに顔の角度を変えてから、セレスティアは無意識のうちに、完璧なウインクまで添えていた。
それは、舞台のフィナーレで、観客の心を鷲掴みにする、まさに「必殺技」とも言える一撃。その一瞬、アレクサンダーの視界は、セレスティアの輝く瞳と、その瞳の奥に宿る、圧倒的なカリスマ性で満たされた。
「…………っ!」
至近距離で、完璧すぎる王子様ムーブを真正面から食らったアレクサンダーは、カッと顔を真っ赤に染め上げたまま、完全に固まった。
顎に残る指先の感触、耳に残る甘い声、そして、視界を埋め尽くす彼女の瞳の輝き。五感全てが、未体験の刺激に支配されていた。
生まれてこの方、常に「王子」として女性をリードし、エスコートする側だった。
女性に対しては、常に優雅に、紳士的に振る舞い、彼女たちを「姫」のように扱うのが、彼の役割であり、矜持だった。誰かにリードされるなど、ましてや、こんな風に「姫」のように扱われるなど、想像すらしたことがなかった。
心臓が、経験したことのない衝撃に、ありえない速さで鐘を打っている。ドクン、ドクンと、まるで初めて恋を知った少年のように。
その様子を見て、セレスティアはハッと我に返った。
アレクサンダーの顔が、茹でダコのように真っ赤になっている。その瞳が、潤んでいるように見えた。
(あああああああ!またやった!私のバカ!何やってるのよー!よりによって、最推しに、最推しの決め台詞を、最推しの顎クイで、しかもウインクまで添えてぶちかますなんて、ファンとして失格よ!いや、ファン以前に、悪役令嬢として、破滅フラグを回避するどころか、特大のフラグを立ててどうするのよぉぉぉっ!)
内心で絶叫し、頭を抱えてその場に蹲りたい衝動に駆られる。しかし、今はそんなことはできない。
「し、ししし、失礼しますわっ!」
セレスティアは、無理やり淑女の皮を被り直し、これ以上ないほどしどろもどろになりながら、アレクサンダーに背を向けた。
制服の裾が乱れるのも構わず、全力でその場から逃走する。まるで、舞台の幕が下りるように、颯爽と、しかし内心はパニックのまま、中庭を駆け抜けていく。
後に残されたのは、噴水の音と、顔を真っ赤にしたまま、添えられた手の感触が残る自分の顎に、恐る恐る触れる王子殿下、その人だけだった。
「セレスティア・ローゼンベルク……」
アレクサンダーの口から、その名が、まるで初めて発する言葉のように、ゆっくりと紡がれた。
彼の胸に、生まれて初めて「守られたい」という感情が芽生えた瞬間を、セレスティアはまだ知らない。
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【アレクサンダー視点】
嵐のように去っていった婚約者の背中を、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。
顎にまだ彼女の指の感触が残っている。熱い。まるで火傷でもしたかのようだ。
『――君のその瞳は、この私が、輝かせてやろう』
脳内で、彼女の言葉が何度も反芻される。アルトの声が、まだ耳の奥で響いている。
彼女が最初に口を開いた時、その声は令嬢らしい、少し高めの可憐なものだったはずだ。
しかし、今、俺の耳を打つのは、少し低く、それでいて不思議な色気と説得力を持つアルトの声。
同一人物の声とは、到底思えなかった。
(…私を輝かせる、だと?)
なんて女だ。不敬にも程がある。王子であるこの俺に向かって、あんな口の利き方、許されるはずがない。断じて。
だが、命令に背くように、心臓が勝手に高鳴る。ドクン、ドクンと、まるで俺のものではないかのように、存在を主張してくるのだ。
兄である第一王子との熾烈な後継者争い。父王からの期待。常に国民の模範であれという無言の圧力。
誰も俺自身を見てはくれず、「完璧な王子アレクサンダー」という偶像しか見ていない。
その事実に、心がすり減っていくのをずっと感じていた。弱さを見せることは、即ち敗北を意味するのだと。
なのに、彼女は。セレスティア・ローゼンベルクは、いとも容易くそれを見抜き、そして、包み込むように言ったのだ。「私が輝かせてやる」と。
あれは、俺がずっと心のどこかで憧れていた「理想の王子様」そのものの姿だった。
誰かを守り、導き、輝かせる、絶対的な存在。
(私が、なりたかった姿…)
それを、あんなにも鮮やかに、圧倒的なカリスマで体現してみせた婚約者。
「…ははっ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
そうだ、俺は、ずっと求めていたのかもしれない。この重圧を分かち合える誰かを。いや、違う。俺を、この王子の仮面ごと受け止め、導いてくれる、そんな存在を。
「セレスティア・ローゼンベルク…」
なぜだ、彼女の姿に憧れを抱いているはずなのに、同時に、この胸の高鳴りは明らかに異性に向けるものだ…この感情は一体…?
胸に宿ったこの熱い感情の正体にまだ気づかぬまま、俺は初めて、婚約者の名を満面の笑みで呟いていた。
ああ、興味深い。実に、興味深い。
セレスティア・ローゼンベルク。君という存在が、この俺の心をこれほどまでに掻き乱すとは。
この熱の正体を、必ずや突き止めてみせよう。
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【セレスティア視点】
一方、その頃。
帰りの馬車でやっと一人になったセレスティアは、ビロードのクッションに顔を埋め、足をジタバタさせながら、渾身の力で無言の絶叫を繰り返していた。
「私のバカバカバカーーーっ!!」
(やっちゃった!やっちゃった!完全にやっちゃったー!)
王子殿下の顎を持ち上げ、挙句の果てに「輝かせてやる」とキザなセリフを吐き、完璧なウインクまでかましてしまった。
思い出すだけで、全身の血が沸騰しそうだ。
「王子殿下に顎クイなんて、断罪RTAじゃないの…!」
もう終わりだ。破滅フラグ回避どころか、自ら特大の破滅フラグを建築してしまった。
本来のシナリオなら、ヒロインへの嫉妬でじわじわと評判を落とすはずが、王子への不敬罪で一発アウトかもしれない。
「ああああ、もうお嫁に行けない…!」
いや、嫁ぎ先は決まっていたはずだが、それももはや風前の灯火だ。
セレスティアは、攻略対象の心を射止めたことなど露知らず、ただひたすらに、自らの「やらかし」を悔やみ、枕を涙で濡らし続けるのだった。
勘違いラブコメディの歯車は、今、確かに、大きく回り始めていた。
平日の朝7時に1話ずつ投稿していきますので、よろしくお願いします。
一応全12話で完結しようと思っていますが、ご好評いただけたらもっと続けていこうと思っているので、
リアクションをいただけると嬉しいです。