事故物件(後編)
家賃も払わんような奴になんで怯えなきゃいけないんだ。
1.
悠天様――と、おっしゃるのですか――
兵十郎が言った僧侶の名を、陽山は初めて聞いた。
ええ。
かつて増浄山大師でいらっしゃったという高僧のお名前です。
大変立派なお坊様であったと――お聞きしています。
高僧――か。
弥吉はその僧侶に救われることはなかったが、他の者なら、あるいは――救われたのかもしれぬ。
陽山先生、たとえば――他人に殺められた者は如何なりましょう――
出し抜けに兵十郎がそんなことを聞いてきたので、陽山は面食らった。
どう――とは。
そのままの意味です。
陽山先生であれば、遺体が腐敗していって、骨になって、消えて――といったところでしょうかな。
いや、私も先月仏舎利を見たばかりですので、大差ないのですが――
苦笑いする兵十郎の意図は読めぬが、陽山は言った。
左様、私の見解も概ねそんなところでしょう。
亡くなってしまった者は――消えてゆくのでしょうな。
そう、そうなのです。
人は――どんな形でか、はそれぞれでしょうが――いつか必ず死に、必ず消えます。
当たり前のことです。
ですが――
亡くなられた人の魂を弔うというのも、また当たり前のことです。
消えてなくなってしまったけれども――ある、とするのです。
それは――陽山にも解る。
亡くなった人は消えてしまうが、それはそれ、これはこれだ。
死んだ者の魂があることにして、安らげるように供養する――
平十郎の言うとおり、普通のことだ。
では先生、生まれる前に亡くなった者は――如何でしょうか。
それは――
陽山は答えに詰まる。
ゆっくりと頭を振りながら、平十郎は続けた。
私は仏門の教えなど、仄聞する程度です。
深く理解などしておりません。
ですが――かつては生まれる前に亡くなった者は――
供養されることはなかったそうです。
――そうなのか。
いや――だが、そうした子供は。
水子は――
陽山先生、悠天上人は――
水子という概念を創られたのです。
平十郎の言葉に、陽山は聞き入っていた。
概念を、創る――
生まれることなく逝ってしまった者の――平穏を願うことすら、かつては出来なかったのです。
なかったのですから。
ですが――生まれることなく逝ってしまった者を想う悲しみや苦しみは――ないとすることは出来ません。
目には見えぬでしょうが、確かにあるのです。
ですから、悠天上人は――
受け入れる存在を、創られたのですな――
陽山の独白に、平十郎は深く頷いた。
ええ。
ないものを、ないと知りつつ――あるとしたのです。
心を痛める者の、拠り所とするべく――
そこまで聞いて、陽山は顔を上げた。
八坂殿、それでは――
平十郎は、ますます前のめりになっている。
そうです、私に出来ることと言えば――
悠天上人の猿真似くらいです。
しかし――
それで弥吉が救われるなら――やる価値はあるかと思います。
平十郎の言っていることは、無茶苦茶ではあるが――
何故か陽山の肺腑を突いたのだった。
2.
無いなら創るしかないだろ、悠天上人みたいに――
頭を抱える私に、天元は何故か偉そうにそう言った。
誰のせいで困ってると思ってんだ、と言いかけたとき――
悠天という名に聞き覚えがあることに気づく。
悠天というのは――たしか十七世紀から十八世紀にかけて実在した僧侶の名前だ。
以前、天元から聞いたことがある。
この悠天上人は――水子の概念を創ったのだという。
そうだ、この話をした時――天元は珍しく酔っていた。
仏様はよぉ、意外と薄情なんだな――
生まれて来られなかった子供達は――
ノーカンなんだとよ。
言葉の底に、わずかな苛立ちと静かな嘆きが混じっていたように思う。
はいそうですかと、納得できるか――
悲しみも苦しみも、置いてけぼりじゃねえか――
だから、その僧侶は――悠天上人は――
哀しみを引き受ける存在を創ったんだ――
傷を負った人が、能く生きられるようにな――
俺が、占い師になったのは――
おい、茫っとするなよルポライター。
なんかその、ないのか、それっぽい何かが――
天元の声で、私は回想から引き戻された。
似合わない髭を生やした男がこちらを見ている。
いやお前、ルポライターを何だと思ってるんだ、そんな都合のいい話を、ほいほい創れる訳ないじゃないか――
この際だ、多少強引な設定でも構わん。
何とか創るしかないんだ。
まあ、元はと言えば引き受けた俺のせいだ、すまん。
だが気の毒だろせっかくの新築物件が――
こんなことで。
引っ越し代も馬鹿にならんぞと、相変わらず言うことがみみっちい。
だが――
どうやら、客だからというだけではなく――
天元は本心から兵藤氏を救おうとしているようだった。
俺が、占い師になったのは――
私は――深く息を吸い込んだ。
その付近の事故物件マップを見せてくれ天元、検索すれば出てくるはずだ――
――やってやろうじゃないか。
それで、誰かが――
能く生きられるのならば。
3.
薬というものはな、これは様々な物からできておる――
陽山がそう言うと弥吉は、はあ、と気の抜けた返事をした。
いうほど――病みついているわけではなさそうだ。
多少やつれているように見えなくもないが――
陽山はそんな雑感を抱きながらも、努めて儀礼的に口上を述べる。
木の根、草の葉、獣の骨、岩や土や魚の糞まで――およそ薬にならぬものはないのだ。
魚の糞も――でございやすか。
そこに――食いつかなくてもいいだろと陽山は内心毒づく。
そうだ。
これらはみな、自然にあるものからできておる。
おぬしの住まうこの長屋も、そしておぬし自身も、突き詰めれば薬と同じだと言うことになるのだ、解るか――
なるほど、確かにそうで――ございやすね。
上手く納得してくれ――陰で聞き耳を立てている兵十郎も、知らず手を拳にして力を込めていた。
俯瞰してみるに、随分と――間抜けな絵面だ。
陽山が弥吉の長屋まで出張るというので――兵十郎はどうしても事の顛末を見届けたかったのだ――偶々、暇であったというのも、理由なのだが――
いたって普通の長屋で、もっともらしい口上を述べる医者と、己で己を病みつかせている患者に――それを陰で見ている侍。
とても――天気の良い日だ。
可笑しいだろどう考えても――
心配しつつも――兵十郎はこみ上げる笑いを堪えた。
つまりだ、おぬしも、その、何やら得体の知れぬものが憑いておるというこの長屋も、もともとは薬と同じなのだ。
それを治すというのなら、薬などいらぬという話になるであろう。
もともと薬であるものに――薬をつけて如何する。
焼き魚に――
――まあ、よいわ。
陽山は――何か上手い例えを言おうとしたのだが思いつかなかったようだ。
兵十郎は勢いよく顔を背けて――噴いた。
しかしお医者さま、この家は、何だか気味が悪くって――
あの、あの日から――誰かが居るような気配がしてしょうがねえんで――
そう言い募る弥吉を鼓舞するように、陽山はますます声を張る。
それだ、おぬしがそう感じるということは、これはつまり良くないモノに対する薬効が落ちておるのだ。
おぬしと、この長屋が本来持っておる薬としての働きが落ちておるのだ。
しかし心配するな。
先ほど薬につける薬は無いと申したが――
この場合は特別だ。
これは――
この家の薬効をもとに戻すための――薬の薬だ。
そう言って陽山は――懐から白い紙に包まれた粉末を取り出した。
4.
この赤い点が、そうだっていうのか――
画面に映し出された地図――事故物件のマップを見ながら、天元は半ば呆れたようにそう言った。
随分手間がかかってんだな、暇なのかおい――
暇でも何でもいいさ、これから何か思いつけばもうけものだろうが。
私は画面をスクロールさせながら天元に言う。
兵藤さんの家は――ここか。
当然だが、地図上の建物には何の印も打たれてはいなかった。
だが、マップの縮尺を小さくすると――
うん、まあ、多い――のか、これは――
天元はそう言ったが無理もない。
兵藤氏の家のおよそ1km圏内にある事故物件は、多いとも少ないとも言えない、微妙な数だ。
それでも――
こうやって災いに見舞われている、という烙印を押された物件を可視化すると、やはり気が滅入る思いがする。
沿線沿いに多い感じがするな――やはり人――否、物件が多いからか。
これ――繋ぐと如何なる――
ほぼ思いつきに近いような天元の呟きに、私は頭の中で印同士を線で結んでみた。
なんとなく――蛇、のような長いモノをを連想する形に――見えなくもない。
縮尺をさらに小さくすると、表示単位が大きくなるせいで赤い点はますます規則的に並んでいるように見えてくる。
この形のモノが――災いを呼んでいるってのはどうだ。
私はふと思いついてそう言った。
呼んでいるって、何が。
だから良くないモノだよ、祟り神みたいな、そうだな、例えば――
蛇の烙印で――
ヲ蛇烙様とかはどうだ――
私は友人のために、一生懸命怖そうな名前を考えた。
だっせえなおい――
なのにひどい事を言われた。
ネーミングが何々様って、何だ、あれだ。
民俗学的なあれじゃねえんだから。
民俗学的なあれじゃあねえんだから。
二回も言われた。
困ってるというから、無い知恵を絞ってるんだろうが。
私がそう言うと、さすがに天元もばつが悪そうにしている。
しかしなあ、ヲ蛇烙様はないだろ。
埋没するぞ。
何に――埋没するというのだ。
競っているわけではないのだから、ことさらに目立つ必要はあるまいに。
もっとこう、パンチが効いてないと客は納得しないぞ。
確かに細長く見えるから――蛇ってのは悪くないかもしれんが――
だったら竜とかでもよくないか、強そうだぞ。
いや、竜だと、その、霊験がありそうだろ知らんけど。
蛇のほうが、こう、祟り勝ちというかだな――
なんだかイメージが湧かないなあ、天元、ペンあるか。
ちょっと――描いてみる。
気づけば私達は、恐ろしくどうでもいい事に夢中になっていた――
5.
蛇螺鈍公の、言い伝えに当てはまるようです――
そう天元に告つげられた兵藤氏は、目を白黒させていた。
じゃ、じゃらどん――ですか。
公という尊称をお付けになられたほうがよいです、あくまで言い伝えの域を出ませんが――
実績あっての言い伝えですので。
そう聞かされた兵藤氏は――震え上がっている。
人の良さそうな、普通の中年の紳士である。
平穏を取り戻すためとはいえ――やはり気の毒だ。
生憎私は占いが専門でして、その方面からのアプローチしかできません。
そこで、こちらの――私の知り合いに調査していただきました。
ルポライターでしてね、事故物件関係にも通暁しているのです。
通暁してないよ――
頭を下げながら、私は心の中で言った。
なぜか知らないが、協力者の名目で同席させられたのだ。
そんな私にまで、兵藤氏は深々と頭を下げてくださった。
猛烈に――申し訳ない。
調査の結果ですが――やはり兵藤様のお宅自体に何らかの曰くや謂れがあるわけではありませんでした。
ただ――
ご自宅の周りにそういった物件がないか確認したところ、ある事が判りました。
ご覧ください――
そう言いながら、天元は例の地図を示す。
曖昧に点在していた事故物件を示す印が、私と天元によって恣意的に赤い線で結ばれ――
蛇のような形を描いていた。
6.
冷や汗をかいたわ――
陽山は薬箱を置きながらそう言った。
いや、なかなか堂に入っておりましたぞ先生――
兵十郎の労いに、陽山は苦笑いのまま額の汗を拭った。
しかし――たかが思い込みを正すのにこれだけの手間がかかるとなると――
やはり神社仏閣に頼るのが一番と、そう思えてしまいますな。
薬を調合する方が、余程楽ですと――陽山は嘆息した。
たしかにそうです先生。
家の病を治す等、やはりお医者のやることではありませんな――
兵十郎もつられて苦笑した。
かつて悠天上人が供養する対象として水子の概念を作ったように――
兵十郎たちは家の病、というよりも――
家の薬効という概念を創ったのだ。
怯える弥吉に、それは気の迷いだ錯覚だと言ったところで何もなるまい。
かといって、神社仏閣での解決は本人が求めていない。
厄介極まりない状況であったが――
薬効を取り戻すと称した薬を処方されると、弥吉は目に見えて活気を取り戻した。
嬉々として粉末を土間に撒く姿は――多少滑稽ではあったのだが。
あれは――蛇の抜け殻の粉末に白い顔料を混ぜただけの代物です。
顔料だけでも良かったのですが――なんとなく、蛇がふさわしい気がしましてな。
ほう、と息を吐きながら陽山はそう言った。
病みついた――というより、病みついた気になっていた弥吉に医者を勧めたのは、よく一緒に酒を呑む友人であったという。
神社仏閣では効果があるまいと――弥吉の性格から判断したのだろう。
手間をかけさせられたが――慧眼といえる。
持つべきは、良き友ですな――
そう言って、陽山は久しぶりに心から笑った。
7.
これは――
兵藤氏の顔色が変わる。
蛇螺鈍公はヱ戸時代中期ごろから伝わる言い伝えですが――字面のとおり、螺旋――とぐろを巻く存在であるとされています。
そして蛇螺鈍公は――
災いを喰うために、その身を伸ばしてゆくとされています――
災いを――食べる、のですか。
兵藤氏は――今度は目を丸くした。
そうです。
最初、事故物件と兵藤様は仰いましたが――
昔はそんな言葉は、少なくとも一般的には流布しておりませんでした。
情報が個々により発信され、猛烈な速度で拡散されるに伴い、広く膾炙して認知されうることとなったのです。
逆に、蛇螺鈍公の記録、否、概念は――長らく忘れられていたようです。
そうですね雅さん――
急に振られたので、ふぇい、だか、ひょう、だか妙な声が出た。
誰だ雅て――
慌てて咳払いで誤魔化すと、そうです、記録は殆ど残っておりません――そう言った。
天元、この野郎――
私の視線を無視しながら、天元はより饒舌に説明を続けた。
おそらくネット検索にも出ないでしょうね――などと、真面目な顔つきで言っている。
先ほど申し上げたとおり、私の専門は占星術です。
天体の運行から人の、というより世界の動向行く末を読み解くのが占星術です。
ですが、これは逆も当てはまります。
人の行いや意識に――天体が呼応するのです。
付け焼き刃どころか――現在進行形で刃を付けている。
天体が呼応するって、そんな訳ないだろうが。
私は内心冷や汗をかいていたが――
依頼者である兵藤氏が――真剣に聴いてくださっているのが救いだ。
これは――前回兵藤様がご相談に見えた時の占術の結果です。
蝕の位置に白禄があり――天鱗の作る沙角を遮っています。
これだけならば――稀に見られる星の配置です。
しかし問題は――沙角の先、全天の縁に――羅塵星があることです。
一般的な名で言うと――アルゴルという星です。
何を言ってるのかさっぱり判らぬが――兵藤氏は前のめりで天元の説明を聴いていた。
アルゴルはたしか、ペルセウス座の二等星で――明るさが変わる変光星だ。
兵藤様のご体調が優れなかったのも、ご自宅に不可解なモノが居るとお感じになったのも――この羅塵星の位置が関係しています。
で、では――
私の家は、事故物件などでは――
ええ。
先ほども申しましたが、兵藤様のご自宅に――
事故要素はありません。
もう、間違いなく、一切、金輪際ありません。
蛇螺鈍公の位置も、それを裏付けています――
兵藤氏は、じっと地図を見つめていた。
自宅が――蛇螺鈍公の進行方向から外れているのを見ているのだ。
まあ――外れるように線を引いたのだが。
し、しかし天元さん、私は――確かに毎晩聞いたのです。
ひたひたと歩き回る跫音と、そう、それと、異様な臭気を――
おそらく、ですが――
天元はそう前置きして説明を続ける。
兵藤様は、良くないモノが映り込んだ映像をご覧になった、と仰いましたね。
首を撥ねられ殺められた者の怨念を鎮める儀式――顎楽。
ご自宅で起こった不可解な出来事の大部分は――それを見た事による思い込みが原因と思われます。
思い込み――
兵藤氏は呆気にとられているようだ。
天元は畳みかけるように話し続ける。
そちらの雅さんはアウトドアが趣味だそうで、何度も夜の山でキャンプをしたことがあるそうです。
そんな事、一度もしたことない。
すると、まあ実にいろいろな音を――拾うのだそうです。
それこそ跫音や話し声、ひどいときには女性の泣き声まで――
他にはありましたかね、雅さん――
えあそ、そうですね、赤ん坊の泣き声とそれをあやすお婆さんの声が同時に――
それは聞こえすぎだろ盛りすぎだ馬鹿、と自分が情けなくなった。
おそらく静か過ぎる環境で、入力される情報が極端に少なくなると――人間の脳はわずかな刺激を別のものに変換して解釈してしまうのです。
家の軋みをラップ音に、隣の家の物音を霊の所作に、鼓動を――跫音に。
それは嗅覚も同様でしょう、しかし――
天元は兵藤氏の瞳を覗き込みながら続ける。
しかし通常は、こんなことを気に病む人は居ません。
たとえ恐ろしい呪いの画像を見たところで、それだけで幻覚幻聴が出るなどあり得ません。
しかし、羅塵星の影響下であれば話は別です――
天元は、再び占術の紙を示す。
人の行いや意識が、天体にも呼応する――先ほどそう申し上げました。
羅塵星は――変光星なのです。
明るさを変えてしまうと――人の行く末に影響を及ぼしてしまいます。
さきほど天文データの記録を公開しているサイトを確認しましたが――
兵藤様が呪いの動画をご覧になったまさにその日――
羅塵星は最も明るくなっていました。
兵藤氏は――目を見開きながら言った。
それでは――私の家に起こった怪異は――
私と――
そう、兵藤様の思い込みと羅塵星の輝きの――いわば複合物、と言えるでしょう――
8.
言いたいことは渋滞していたが――
晴れやかな顔で帰って行く兵藤氏の顔を見ると、やはり私はほっとしたのだった。
しかし――
いやあ、上手くいったなぁ――
友人ののんびりした声が聞こえると、私は我に返って天元の方へ向き直った。
一緒にやるんなら、先に説明しろよ。
急に振るからおまえ、おまえ――
やはり、言いたいことが渋滞している。
素でやったほうが上手く行くんだよこういうのは。
実際上手くいったじゃあないか。
これで――兵藤さんの家には何も出なくなったぜ。
元から何もいないんだけどな――
悪びれもせずそう言う天元に、私は半ば呆れながら愚痴をこぼす。
なにが上手くいっただ、じゃ――ええとなんだっけ、蛇螺鈍公か、それに狙われてはいないから安心って話だけじゃなかったのか。
私と天元は、地図上で事故物件を示す点を繋いで――災いを喰うという蛇神を設定したのだ。
それが――兵藤氏の自宅には向かっていないというストーリーだったのだが――
いやお前な、いくら怯えていてもだ、いい大人が蛇螺鈍公みたいなので納得するわけないだろ。
言い伝えって設定だがな、効いてんのか効いてないのか判らん蛇神の話を聞いたって――今度は疑心暗鬼になるだけだろ、ほんとに大丈夫なのかって――
まあ、それは――そうなのだが。
じゃらどんは、ただのマクラだ。
昔からそんな言い伝えがある、事故物件なんて、そんな概念はよくある――
そう納得してもらうための、前座だよ。
本命は――こっちだ。
天元は、占星術の紙片をひらひらと靡かせる。
怪異の原因はただの気の迷い、脳みその勘違いだって言ってもな、怖いもんは怖いんだよ。
いくら言い聞かせたって、本人が納得しなけりゃ事実なんて無力だぜ。
兵藤氏の恐怖は、気の迷いは――
アルゴルの輝きが齎したんだとすれば、辻褄が合う――ように見えるだろ。
天元はぱしん、と羅塵星の印を爪弾いた。
見えるだけ――そう、見えるだけなのだ。
そもそもが、兵藤氏の自宅には怪異の原因はない。
というより、原因となるような出来事があったとしても何も起こらないはずだ。
だが、兵藤氏は――呪いの動画を見ることで――
自分で自分を呪っていた。
そんなものなどない、と言うだけでは――呪いは解けない。
蛇螺鈍公という言い伝えができるほど、昔から事故物件のようなものは存在していた――と設定する。
そこでは、非業の死を遂げた人によって様々な怪異が起こる――ように見える。
それは錯覚や誤認の産物だが――それを引き起こすのは羅塵星の輝きのせいであるとすると――説明する。
すると――そう考えると確かに、家に蔓延る霊などが入り込む余地はなくなった――ように見える。
見えるだけで充分だ――天元はそう言った。
本人がそれで納得したんなら、もう悪霊の出番はないよ。
今夜からは隣の家の音とか、建材の軋みが気になるだろうけどな――
そうか、だからお前、兵藤さんにあんな事を――
天元は兵藤氏にこう言ったのだ。
眠るときに、小さな音で音楽をかけなさいと。
時間の経過と共に羅塵星の影響は無くなっていきますが、脳は簡単に錯覚を起こしますから――最初から音を入力し続ければいいんです、と――
まあな、物理的に音を立てときゃ、さらに盤石だろ。
だいたいおまえ、霊的なもんがいたとしてだな、家賃も払わんような奴になんで怯えなきゃいけないんだ。
そもそも兵藤さんの家だろうがよ。
自分の家も判らんような阿呆な霊は――音楽でもかけて追っ払えばいいのさ。
そう言って、天元は椅子の上で大きく伸びをした。
まあそりゃそうだがな、気味が悪いって人の気持ちも解るだろ。
そう言いながら私も椅子に腰を下ろそうとした。
人死にがあった物件に居ることになったら、私だって――
何言ってんだお前まで。
そんなこと言ったら――
ここだってそうだぜ。
天元の言葉に――
私は腰を下ろす途中の姿勢で固まった。
ここも、そうって――
あれ、言ってなかったか。
ここな、前は理髪店だったんだよ。
おじいさんが一人でやっててな、営業時間終わって店閉めた所で――倒れられたそうなんだ。
ちょうど、今お前のいる辺りかな。
運悪く連休に入ってな、発見がずいぶん遅れたと――
待て、もういい、もう話すなと――私は言った。
そういうことは――早く言え。
しっかりしろよ、人が暮らしてりゃ、其処で亡くなることだってあるだろうさ。
無駄に怖がる前によ――
長い間の散髪、ご苦労様でしたって思えばいいじゃねえか――
天元の言葉は、腹立たしいほどに――
すんなりと私の腑に落ちたのだった。
9.
いやあ、お前の言うとおりだったよ。
あの陽山先生ってのは掛け値なしの名医だな――
すっかり血色の良くなった友人は、そう言いながら猪口を酒で満たす。
やはり思ったとおり――医者で正解だった。
神社仏閣などでは――下手をすれば拗らせたかもしれぬ。
まあ、あれだ、その分お銭もかかったけどな。
命には換えられねえからよ――
そう言って猪口を空にする友人に、私は徳利を手にして言った。
まあ、快気祝いみたいなものだ。
何の快気か解らぬが、今日は好きなだけ呑め。
その代わり――
分かってるよ、もう行かねえよ――
弥吉に酒を注ぎながら、ふと気付く。
あの日感じた畏怖さは――
すっかり消えてしまっていた。