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調査レポート〇四 鬼・探偵・鬼


「簡単さ。人を喰らえば、人間に戻れる」

 探偵は、犬養部長の質問にそう答えた。

「え、えっと……人を喰らえばって、人間のお肉を食べるってことですか……」

「それ以外に、どんな解釈がある。まぁ正確には、人を殺して喰らう、という意味だがな」

 歯切れの悪い部長に対して、探偵は明解に云った。

 僕達二人が訪れた私立探偵事務所は(外には小さく、「雨月(うげつ)探偵社」と看板が出ていた)、本の街、神田神保町にある雑居ビルの二階に存在していた。一階には「ホームラン」という名の喫茶店が入っており、如何にもミステリー小説に出てきそうな並びになっている。

 しかし、ここも僕達の部室と同様に異空間であるらしい。そこまで大きくもない二階建てビルなのに、どこにこんな面積があるのだろうかというほどの広い空間である。否、広いというのは正確ではない――縦奥に長いのだ。

 探偵が鎮座している前には、ごく一般的な茶色い事務用の長机が置かれている。その背後の空間は、最奥が見えないほど長く伸びており、それは僕達二人の背後も同様である。この真っ白な空間には、僕達が入ってきた出入口であろう扉が一つあるだけで、天井には、等間隔に置かれた正方形の電灯が青白く光り連なっている。

「ようこそおいでくださいました。どうぞ、お座りください」

 一人の少年――貂君がそう云って、唯一の扉を開けこの異界に入ってきた。両手にはお盆を持っており、上にはお茶の入ったコップが二つ並んでいる。僕は、その姿から以前何かの本で見た、江戸時代の(オート)繰り(マタ)である茶運び人形を思い出した。

 その言葉を受けて立ちっぱなしだったことに気づいた僕達は、背後の椅子に腰を下ろす。目の前に座っている探偵とほとんど同じ目線になった。真っ黒いスーツを着用した神経質そうな男が、この真っ白い異境の中に、くっきりと輪郭が浮いているように見える。

「あ、ありがとうございます……」

 貂君が椅子に付属したサイドテーブルへコップを置いてくれたので、僕はお礼を云った。

「それで、今日は何の用で来たのだ、犬の娘」

 探偵は、デスクの上で頬杖を突きながら云った。両手には、やはり白い手袋を嵌めているが、五芒星の文様は見当たらなかった。

「先日の口裂け女の件で、うちの華陽と深海を助けてもらったお礼に……」

 部長はそう云うと、肩に掛けていたボディーバッグから茶封筒を取り出した。探偵は、それを見た瞬間輝いたような目になり、お盆を抱えたまま横に立っている貂君へ受け取るよう促した。

「いえ。犬養さん、結構ですよ。元はといえば旦那が遅刻したせいで、彼女らは、あれほどまでの被害にあってしまったわけですから」

「おい、貂! なに勝手なこと言ってるんだ」

「だって、そうじゃないですか。旦那のボクシング練習が予定より長引いたあげく、いつまでも呑気に準備してるせいで、時間に遅れたんですから。いわば、彼女達は旦那の被害者ですよ、僕達が謝罪としてお金を払わないといけないくらいです」

 あの夜――僕が、先輩達二人が傷ついていくのを見ていることしかできなかった夜――助けに来てくれた探偵と、その助手であろう少年は激しく言い合っている。

「あっ、確かに自己紹介がまだでしたね。僕は、貂という――見ての通り、化物(ばけもの)です」

 強引に言い合いを中断させた彼は云いながら、自身の姿を獣のものへと変化させた。人間でないことはあの夜からわかっていたが、こう面と向かって化け物と名乗られると閉口してしまう。とにかく、この鼬みたいな動物形が本来の姿なのだろう。

 しかし、彼も僕達と同様半人半妖の存在ということなのだろうか。それにしては、サークルのメンバーの雰囲気とは、どことなく違和感を覚える。

「そして、こちらが怪奇事件専門の探偵――安倍(あべの)(あき)(なり)の旦那です」

 人間体に再び化けた貂君は、そんな僕の違和感など知る由もなく、続けて探偵の男を紹介した。名を紹介された探偵は、不貞腐れたように依然頬杖を突いている。

 僕に向けられた二人の自己紹介を受けて、

「ぼ、僕は、新しくオカルトサークルに所属した一年の小野寺真榎と言います。よ、よろしくお願いします……」

 と、素性を名乗った。やはり初対面の人に対する時は緊張してしまうし、そこら辺もこの活動を通して少しは成長したと思っていたが、全く変わっていない自分にも気づいて情けなくなる(まぁ正確には、初対面でもないし、貂君は純粋な人間ですらないのだけど)。

「でも、よかったですね、彼女達二人とも何ともなくて。それに、小野寺さんも元気そうで何よりです。あの強い雨の中、自転車での帰りは辛かったでしょう、お疲れ様でした」

 僕と同じで純粋な人間ではない彼は、そう云って労ってくれた。

「当たり前だろう、九尾の狐と不老不死の人魚だぞ。――そして、貴様は、鬼じゃないか」

 僕が貂君の言葉にお礼を言おうとした前に、探偵は僕の顔を睨めつけるように見て云った。

「あの、そのことなんですが……。今日は、小野寺君のこともお伺いに来たのです」

 先程から黙っていた犬養部長が、受け取られなかった茶封筒を手にしたまま云った。

「何をわざわざ聞きに来たというのだ。人間に戻る方法なら、さっき教えたろう」

 人間を喰らう――それが、この事務所に入ってきた際、彼女が雑談混じりに探偵へ聞いた質問の返答だった。

「いえ、それも聞きたかったのですが、もっと詳しく知りたいんです。彼、小野寺君が、どうして鬼にならなければいけなかったのかを――」

「ふん、それは依頼か? だったら、正式に受けるためにも、まずはその封筒の中身をよこしてもらおうか」

 探偵は頬杖を外すと、部長の手元を指差しながら云った。

「ですから旦那、いくら何でもがめついですよ」

「貴様こそしつこいぞ、貂。僕は、今こうしてこの椅子に、探偵として座っているのだ。仕事をしているのだよ、仕事を。報酬を貰わない労働などあってたまるか」

「もちろん、依頼料は払います。ですから、陰陽師の秋成さんが知っていることについて全て聞かせてほしいんです」

 再び言い合う二人を制するように、部長ははっきりとした口調で云った。その顔は、実に真剣な表情だった。

 愚鈍な僕は、そこでようやく、彼女がこの場所に僕を連れてきた理由を理解した。と同時に、彼女の優しさを改めて噛み締める。

「よし、流石は誇り高き天狗の末裔だな、話をわかってる。おい、貂。貴様は、さっさと僕の分のコーヒーを淹れてこい」

 探偵は嬉しそうに云うと、部長から茶封筒を直接受け取った。一方の命令された貂君は、

「はいはい。でも、何度も言っていますが、僕はあなたに仕えている(しき)(がみ)ではないことをお忘れなく」

 と捨てるように云って、扉を開けて出ていった。その先は本来ならば外に繋がっているはずだが、異空間であるこの場所ではそんな常識は通用しないので、深く考えることは止めた。

 しかし、陰陽師だの式神だのという単語は気になった。僕は、横に座っている彼女に小声で聞いてみる。

「あぁ、そうだよね、気になるよね。秋成さんは、平安時代に活躍した陰陽師の安倍氏――安倍泰成の子孫なんだ。何でも、あの玉藻前を退治したとかいう――」

 犬養部長は、嬉しそうに茶封筒の中身を数える守銭奴探偵のことは気にせず、通常の音量で答えた。だから、

「否、正確には、退治したのは武士だ。僕の祖先は、その手助けをしたまでに過ぎん」

 と探偵は、お札を数え終えたのだろう、封筒に戻しながら訂正を挟んだ。

 それは、僕が部室の書斎で調べた知識と一致していた。そんな歴史上の人物の子孫に出会えることも驚きだが、陰陽師が現代に存在していることも吃驚だった。

「ふん、貴様は今まで何を見てきたのだ。いちいちそんなことで驚愕してどうする」

 探偵は、再び頬杖を突きながら云った。確かに、その指摘はごもっともだ。

「そんな嫌味を言ってないで、依頼料を頂いたからには、ちゃんと説明してあげてくださいよ」

 茶運び人形がコーヒーカップの乗ったお盆を持って、再び異境へと入ってきた。

「そう急かすな。物事には、順序というものがあるのだ」

 探偵は、デスクに置かれた湯気の立つコーヒーの匂いを嗅いだ後、ごく一口だけ飲んだようだった。もう夏だというのに、エアコンが効いているのか肌寒いくらいの空間に、ミルクとシュガーが混ざったコーヒーの香ばしい匂いが立ち込めた。

 貂君が言った、式神云々の詳細も気になるところだったが、それも追々説明してくれるのだろうか。とにかく、僕は、ひとまず黙って探偵――陰陽師の話を拝聴することにした。

「貴様が、幼少期に体験したという神隠し。その際、出逢ったという謎の老人。そして、その手によって、天邪鬼へ化かされた、と」

 陰陽師は、再三頬杖を突きながら云った。どうやら、僕の過去に関するある程度の詳細は、事前に部長から聞かされていたらしい。

「は、はい。小学五年生の夏休み、祖母の家がある長野県に訪れた際の出来事です。それから、僕は――」

 自身の右手に視線を落とす。それは、何ら変哲もない人間のものだ。しかし、ふと頭の中の意識を傾ければ、この手は、鬼のものへと化す。

「それだ。貴様、可笑しいと思わんのか」

 陰陽師は、その真っ白い指先で僕の鬼の手を差した。手袋が、この白く光る異世界と同化するような錯覚に陥った。

「お、可笑しい……ですか? そりゃあ、可笑しいといえば、全てが可笑しいとは思いますけど……」

 僕の返答を受けて、次に陰陽師は、犬養部長に視線を移した。しかし、彼女も彼が満足するような回答は持ち合わせていないようだった。

「では、何故貴様らは、天邪鬼だと断言できるのだ。僕や警察、貴様らが日々必死に作成している妖怪及び怪異事典に、そんな性質の天邪鬼は載っていないぞ」

 ――僕達オカルトサークルの活動の一環、否本来ならばメインとなる活動は、過去と現在に現れた怪異の噂などをレポート作成し、対策課と共有することである。

「そう、未知の不可思議な存在や現象を蒐集し名付け、並列する。――それが人間の理性だ」

 呟くよう云った陰陽師は、一瞬だが脱線したらしい話を戻すように続けた。

「まぁ、犬の娘はそう本人に聞かされたから信じ込んだとして、貴様は、何故自分が天邪鬼であると断言できる」

 これまた、ごもっともな指摘だった。確かに、何で僕は、自分が天邪鬼だなんて思い込んでいるんだ?

「貴様は、人より思い込みが強いタイプのようだな。だから、そんな見当違いの勘違いを長年続けることになった」

「ど、どういうことですか」

 陰陽師の台詞に、僕より先に疑問を投げかけたのは部長の方だった。

「どういうことも何もない、言葉通りの意味だ。小野寺真榎は、自身のことを天邪鬼だと思い込んでいた。本当は、異なっているというのに。――だって、逆だろう? いくら天狗の能力によって力を制御できるようになったといっても、本物の天邪鬼ならば、心の中で思っていることとは反対の結果が身体に現れるはずじゃないか」

 僕と部長は、それを聞いてしばし納得するように沈黙しながら、陰陽師の次の言葉を待った。

「――貴様らは、聖痕というものを聞いたことがあるか」

 無知な僕は当然知らなかったのでそのまま黙っていたが、流石の部長は知っているようで、

「敬虔なキリスト教信者の手の平に、イエス様が磔にされた時同様の痣ができることですよね」と、返答した。

「そうだ。しかし、近年の科学的知見によって手の平では自重を支えられないことがわかると、手首の腱に釘を刺されたとするのが定説となった。その結果、信者の聖痕も、手首の腱に現れるようになる。――つまり、思い込みだ」

「となると、ある種の自己暗示みたいなものでしょうか」

 犬養部長は、すぐに理解した様子で云った。

「ああ。その思い込みが強い故に、貴様は、全く鬼の力を使いこなせていない。だから、僕はあの夜に問うたのだ、ただ見ているだけか、と。貴様が、口裂け女に力を与えた小学生男児のように、もっと自由に空想力を働かせて戦っていれば、魚も狐もあんな目に遭わずに済んだのだ」

「……」

 やはり僕は、依然沈黙していることしかできなかった。

「いいか。人間は、空想力があったからこそ、ここまで進歩してきたのだ。そして鬼は、如意自在に、それをすぐ現実のものにすることができる。――例えば、髪の毛を針のように立て敵の位置を把握したり、またその針を飛ばしたり。例えば、口から火を吹いたり。例えば、舌をカメレオンのように伸ばしたり巻きつけたり。例えば、手をその首から外して便利な操り道具としたり。例えば、指を弾丸のように飛ばして鉄砲にしたり。例えば、胃の中に蛇を飼ってピンチの時に助けてもらったり」

 そう陰陽師は、よくわからない例を並び立てた。

「し、しかし、小野寺君が天邪鬼でないとしたら、一体何だって言うんですか」

 また彼女の方が先に反応したが、一方の当事者である僕は、何故か他人事のような傍観者の気分になっていた。

「酒呑童子だ」

 陰陽師は、特に声色も態度も変えないまま淡々と云った。

 酒吞童子――その鬼の名前を聞いて、僕はいつか見た夢の記憶がフラッシュバックした。

「酒を呑んだことがトリガーとなって、身体の中に宿る古の記憶が蘇ったのだろうな。――平安朝の頃、陰陽師安倍晴明と源頼光ら武士、それと神々から授けられた神変鬼毒(しんぺんきどく)(さけ)によって退治されたという、史上最強の鬼」

 それが貴様の正体だ、と陰陽師は僕を両目で睨めつけながら云った。その鋭く刺さるような眼光は、夢で見た武将頼光のものを想起させた。

「大江山の酒吞童子。日本史上最強のこの鬼が、安倍晴明、頼光と保昌及び四天王に退治されてからだ。この国で、貴様のような人が、鬼と化すようになったのは――」

 陰陽師は、僕を見据えるように睨んだまま続けた。

「き、貴様のような人って……、それじゃあ、何で小野寺君が酒呑童子なんかにならなきゃいけなかったんですか」

 彼女が僕の疑問を全て代弁してくれている。最も、今の僕はそんな事実を聞かされてもなお、他人事のように思えてならなかった。

「――臆病な自尊心と尊大な羞恥心、だったか。やはり近代を代表する文学者の一人ともなると、実に文芸的で適格な表現をするものだ」

「はぁ? す、すいません、ちょっと意味が……」

 犬養部長は、困惑した様子で返した。

「犬の娘、貴様や狐魚猫に、新しくあの化け物屋敷に入ってきたのは猿だったか獺だったか? 貴様らが、忌まわしい妖怪を()()()()宿すことになったのは何故だ」

「そ、それは、生まれつきといいますか、何といいますか――」

「そうだ。貴様らは、自分ではどうしようもない理由で妖怪と身を分かつことになった、それこそ哀れな被害者だ。つまり、先天的なのだ」

 陰陽師は、部長の回答を途中で遮ると、語気を強めて云った。

「まぁ、私達はそういうことになりますけど……」

「それに比べて、どうだ、小野寺真榎。貴様は、後天的に鬼へと堕ちたのだ。――本当は、自分でとっくに気がついているのだろう?」

 陰陽師の両手に嵌められた甲に、五芒星の文様が妖しく光って――僕の目には映った。

 僕は、急激に不安定になる。心がグラグラと揺れて、気持ちが悪い。でも、依然としてそれを俯瞰的に見ている自分もいる。

「――小野寺君! しっかりして」

 犬養部長がそう云って、僕の両肩を揺らしてくれたおかげで何とか正気を取り戻すことができた。

「やはり思い込みが激しい故に、無意識に気づいていない振りをしていたのだろう。いいか、酒呑童子をはじめ鬼というものは、人間の心に巣くう――闇だ」

「で、でも、小野寺君が出逢ったという謎の老人は何だっていうんですか!? その人に頭を触られたから、小野寺君は鬼になっちゃったんですよ!」

 犬養部長は、まくし立てるように陰陽師を問い質した。

「だから、そう急かすな。言ったろう、物事には順序というものがあると」

 陰陽師は、興奮気味の彼女を制すと、コーヒーカップに再び口をつけた。

「次は、妖怪について話そう。犬の娘も、これからこの世界に関わっていく以上、補足のためにも黙って聞いていろ」

 部長は、先程貂君が用意してくれたお茶を一気に飲み干すと、両肩を少しすぼめた。

 

 「妖怪」

 陰陽師曰く、それは、意味を求めるものとして生まれたという。

 つまり、言い換えれば、人間の理性によって誕生したのだ。それは、人の善あるいは正の働きの結果といえる。

 そして、それらは、主に動物霊の姿でこの世に現れる。


「しかし、貴様らが今まで対峙してきた現代の怪異は、これに当てはまらない」

 

 「怪異」

 陰陽師曰く、それは、意味を求めないものとして生まれたという。

 つまり、言い換えれば、人間の野性によって誕生したのだ。それは、人の悪あるいは負の働きの結果といえる。

 そして、それらは、主に幽霊の姿でこの世に現れる。

 

「これが、この世界における妖怪と怪異の定義だ。犬の娘をはじめとしたサークルの奴らは、この妖怪と人間の狭間にいる存在、妖怪人間といったところだな。まぁ、そんなどこにも分類できない中途半端な存在だからこそ、()()()()()()()()()()()()を受けているのだ」

 パン? パンとはあの小麦で作る発酵食品のことか? ――僕は、疑問に思ったが、話は前進を続けるようなので口を挟むのを止めた。しかし、部長はそんなことお構いなしに、

「怪異は、そうやって人の感情によって、いわば自然発生するものですよね? でも、今回の口裂け女も前回のトイレの花子さんも――」

 そんな疑問を口に挟んだが、やはり途中で制された。どうやら、この陰陽師は、自身の話を途中で遮られるのが酷く不快らしい。

「デザインされた怪異、だったか? ここ最近出現するようになった貴様らがそう呼んでいる怪異は、確かにこの定義からやや外れる。そして、デザインされた、というぐらいだからそれを行った主体がいるはずだな。そう、その主体こそが、謎の老人こと――ぬらりひょん、だ」

「ぼ、僕があの時出逢った老人は、た、確かに異様に頭部が伸びていました!」

 僕は、興奮のあまり思わず口を挟んでしまった。書斎で見た『画図百鬼夜行』という古い書物、そこに描かれた「ぬらりひょん」という妖怪に何故か見覚えがあったのだ。僕は、点と点が繋がってくる予感に胸の鼓動が高まった。

「そうだ。次は、その妖怪の総大将と謳われる、ぬらりひょんについてだ」

 丁度話の転換点だったようで、僕の相槌が特に咎められることはなかった。


 「ぬらりひょん」

 それは、人間の上位存在。とりわけ、人の悪という概念により生み出されたものである。


「上位存在だの、概念だのって何なんですか。妖怪や怪異とどう違うのです? その説明じゃあ、あまりにも抽象的過ぎて、いまいちよくわかりません」

 犬養部長もその存在を知らなかったらしく、動揺しているのか早口で云った。

「そう、抽象的というところが肝心なのだ。ぬらりくらりと捉えどころのない厄介な存在で、警察も僕も手を焼いている。と言っても、納得しないだろうから、もっとわかりやすい言葉で表すならば、そうだな――」

 「神」という表現が最も適当だろうな、それも荒神や邪神といったな、と陰陽師は云った。

「そ、そんな……それじゃあ、まるで、セイ――」

 陰陽師は、右手の人差し指と中指を唇の前に上げ、部長に言葉を中断するよう合図した。

「貴様らサークルの連中は、あくまでも彼女の監視対象だということを忘れるな」

 犬養部長が続けようとした言葉も、陰陽師の制止した理由も台詞の意味も、全く僕の知るところではなかった。

「わ、わかりました、気をつけます……。しかし、その神様が何で小野寺君を鬼にして、怪異をデザインなんかしてるんです? 目的が一切不明ですよ」

「目的なんてものは、僕に聞かれても知らん。第一、人間なんかに神の御心など理解できるものか。――まぁ、神故に直接手出しできないのか、正確には配下の者が働いているようだがな。次は、そいつについても話さねばならん」

 また違う話題へ移っていくことに、僕は戸惑った。先程の予感は、勘違いだったのだろうか。

「いいや、勘違いなどではないぞ。――貴様が最初に出逢った怪異、菊池彩音。その原因となるチェーンメールを流した犯人――鬼女紅葉(もみじ)、それが配下の名だ」

 

 「紅葉」

 本名を花田(はなだ)(くれ)()という、一人の女子高生が一連の「デザイン怪異事件」の実行犯である。

 都内の某高校に通う彼女は、僕と同じ――半人半妖の「鬼」。

 彼女は、都内の学生達を標的に負の感情を煽るような噂話を流し、意図的に怪異譚を流行らせた。その結果、生まれたのが僕達の出逢ってきた「デザインされた怪異」である。


「警察も特定するのに時間がかかったようだが、それも無理はない。都内の高校に確かに通っているにも関わらず、この鬼の娘に関する書類などの情報は、一切合切残っていないようだからな。半分は、この日本社会に生きる人間と同じ血が流れているというのに」

 僕は、そんな子細を聞いて、彼女が酷く寂しく感じられた。しかし、僕達をはじめとした彼女の手による被害者が出ている以上、そんな呑気なことも言っていられないだろう。とにかく、その情報は、僕が今まで見聞きしてきたことと一致していた。

 最初の事件である「チェーンメールの怪」で、発端となったショート動画に移っていた女性は、制服を着用しており女子高生と思われた。二つ目の事件である「トイレの怪」では、生徒達へリアルタイムに噂を流している者の存在が見えた。三つ目の事件である「わたしきれいの怪」でも、小学生や女子大生の証言から女子高生らしい人物の姿が伺えた。

 確かに、僕の予感は勘違いではなかったようで、連鎖するように、最初の事件から全てが芋ずる式に繋がっていたのだ。

「まぁ、もうじき罠にかかる頃だろう。ぬらりひょんと違って、鬼の娘は、貴様ら同様の中途半端な存在だからな」

 陰陽師は云い終ると、再三コーヒーカップに口をつけた。

「……そ、それで、何で小野寺君は鬼になっちゃったんですか? ぬらりひょんの目的はわからないにも、さっきの言い振りだと何か他にも原因があるんですよね」

 犬養部長は、追及するような口振りで云った。それは、安くない依頼料を払っているためだけではないことを、流石の僕も理解している。

 陰陽師は、そんな彼女の質問を受けて、軽く溜息を吐いた。その後、何か覚悟を決めたような何か堪忍したような、再度睨めつけるような目で僕の顔を見て、話を続行させた。

「貴様は、自身の体のことを天邪鬼だと勘違いしていたようだが、敢えて天邪鬼という言葉で言い表すならば――心が、天邪鬼なのだ」

「いいか、鬼子。貴様は、それを欠いたから鬼にされたのだ。ぬらりひょんは探していたのだろうな。酒呑童子の誕生地である長野県は戸隠山に舞い戻った、今なお強く残る彼の怨霊を、()()()()宿すに相応しい人物を。――先天性と後天性。あとは、もう言わなくてもわかるな?」

 陰陽師は僕へ向かって静かに云うと、神経質そうに腕を組んで、睨んだ目をコーヒーカップの中に落とした。

「……」

 ――そうだ。僕は、最初からわかっていたんだ、気づいていたんだ。それを必死に忘却しようとしていた。否、必死に気づかない振りをしていた。

「……」

 ――僕は、恵まれていたんだ。最初から、ずっと。それなのに、僕は、僕は、僕は――。

「貴様は、他人の曖昧さが許せなかった。物事に白黒つけることでしか、理解しようとしなかった。そうして、人間を嫌い、軽蔑していた。自分の抱える曖昧さなど、棚上げにしてな」

 陰陽師の目線が僕の方に戻っている。それは、依然迫力のある力強いものだったが、どこか哀愁も同時に感じさせた。

「それだけじゃないぞ。貴様は、そんな自分に酔ってもいた。そして、それを他人からも自分自身からも隠すように、人間が嫌いだの怖いだのと言って正当化していた。そんなものは、己が傷つきたくないから、己が可愛いから故だというのに」

「ちょっと! 急にどうしたんですか、旦那。いくら何でも言い過ぎですよ」

 貂君が僕を庇うように、話に割って入った。

「いいや、言い過ぎでも何でもないぞ、貂。こいつはな、それでいて自分が孤独だと宣って快感に浸っているのだ。いいか、貴様はな、そんな風に性根が腐っているから、そこにつけ込まれたのだ。つまり、自業自得なんだよ」

「秋成さん! そんな言い方ってないんじゃないですか」

 今度は、犬養部長が庇ってくれた。

「ふん。犬の娘、貴様らも、そうやって甘やかすから悪いんじゃないか? 第一、怒りの念が湧いてこないのか? こいつは、他のサークルの奴らと違って、自分自身による原因で半人半妖となったのだぞ。しかも、今やそれをいい事に、鬼の能力を都合よく好き勝手使ってさえいる。僕からしたら、全く羨ましい限りだ」

「ち、違います! 小野寺君は、私やみんなを守るために、仕方なく鬼の力を使っているだけで――」

 犬養部長は、制されることなく今度は自身によって、途中で言葉を詰まらせた。

「まぁ、貴様らがどう思おうと何でもいいがな。僕は、精神科医でもカウンセラーでも心理学者でもないからな、だから好き勝手――」

 対等な立場で言わせてもらう、と陰陽師は呟くよう云った。

「……」

 ――そう、その通りなんだ。庇護してくれた犬養部長や貂君には申し訳ないけど、僕はそういう奴なんだ。そんなことは、自分自身が一番よくわかっているんだ。

 空間に、しばしの沈黙があった後、誰かのスマホの着信音が鳴った。

「もしもし、貂です。はい、はい……、え!? 本当ですか」

 彼に届いた連絡だったようで、場をはばからず応答している。陰陽師――探偵はというと、その様子を横目で伺いつつ、相変わらず少量のコーヒーを口に含んだようだった。

 しばらく、スマホの向こうの相手とやり取りを交わした後、貂君は電話を切った。

「旦那! 遂に蛇の尻尾を捕えたようですよ」

「なに、本当か!? よし早速、紅葉狩りに向かうぞ。で、場所は――」

 探偵は、椅子から立ち上がり彼に事の子細を聞いているようだったが、僕の耳には、それ以降は何も入ってこなかった。

 突然解散になった場を、僕は、犬養部長とも口を利かず一人で逃げるように立ち去った。夜になると「再会」という名のバーに変貌するらしい一階横の、小さな駐車スペースに停めておいたロードバイクに跨ると、一目散に漕ぎ出した。

 ――夏の強い夕日は、立ち並ぶビルの背後に隠れて、少しも射し込んでこなかった。



 ロードバイクを引いて歩く僕の目の前に、一つの果実が転がってきた。

「……リンゴ?」

 その赤い果物は、高層ビルの隙間から射し込む夕日の光を受けて、妖しくも艶やかに輝いていた。僕は、自転車を歩道の脇に停め、それを拾い上げる。が、それはリンゴではなく、

「私のイチジク拾ってくれて、ありがとうございます~」

 僕の右耳に聞こえてきた、()()()()()()()()()()()()()()()()の方へ視線を遣ると、細い路地裏のようなものがあった。建物と建物の間に小さく口を開けているその先は、真っ暗闇で何も見えない。僕は、手にしたイチジクを落とし主に返還するため、闇の中へと誘われていった。

「わぁ~イケメンのお兄さんだ~! やっぱり、優しくて親切な人って、カッコいい男の人ばっかりだな~」

 僕の姿を見るなり、そんなことを云った落とし主であろう彼女は、色とりどりの果物が入った袋を抱えたまま――宙に吊られていた。暗闇を形成する左右のビルから伸びたワイヤーのようなもので空に浮く彼女は、柔軟なため平気なのだろう、身体のあらゆる部位を色んな方向に曲げられた形で固定されていた。

「どうしたんですか? そんな風に縛り上げられて」

 僕は、この意味不明な光景を見ても何故か冷静でいた。

「そうなんです~。意地悪な大人達にいじめられてるんです、私。よかったら、お兄さん、ついでに助けてくれませんか~」

 お礼に、そのイチジクあげますから、と彼女はクスクス笑いながら云った。

 辺りは闇に支配されている故、空中に浮かぶ彼女の容姿はよく確認できないが、若い――というか子どもであろうことは、その聞き覚えるのある声色でわかった。

「うん、もちろん。いじめはよくないからね、しかも大人が子どもにするなんて言語道断、到底許されることではないよ」

 僕は、彼女の身体を縛り上げるように纏わりついているワイヤー……ではなく、蛇腹の――お札、のようなものを一つ一つ手で引き千切っていった。意味のわからない漢字のようなものが書かれていること以外に特徴のない紙切れで、女子とはいえよくこんなもので体重を支えられたものだ。

「でも、よかったよ。僕の手の届く高さで固定されていて。よし、これでもう大丈夫――」

 最後の一枚を破いた瞬間、彼女は、僕の胸へと覆い被さるよう落下してきた。

「ありがとうございます~! やっぱり、イケメンのお兄さんって頼りになるな~。でも、何で――鬼の力を使わなかったんですか」

 と、解放された彼女は、必然僕の目前で云った。

 路地裏の暗闇に慣れてきた僕の両目には、見覚えのない制服姿の女子が映った。

「いいえ、違いますよ。今あなたは、鬼の目で私を見ているからです。それに、お馬鹿な私でも流石に通ってる高校の制服でウロチョロはしませんよ。でも、色んな学校の可愛い制服が着れて楽しかったな~」

 彼女の両腕両脚が、僕の身体全体を器用に縛り上げるよう纏わりつくよう固定する。いち女子高生が発揮できる力強さではない。

「鬼が出るか蛇が出るかっ、正解は私でした~! なんつって」

「き、君は、花田呉葉ちゃん、だな……? 君達の目的は何だって言うんだ」

 僕は云いながら抵抗しているが、磔にされた身体はびくともしなかった。

「えへ、私のこと本名で呼んでくれるなんてオニ嬉しい~。でも、先に私の質問に答えてくださいよ? 今だって、本気出せば余裕なのに何でそのまま私に捕らわれてるんですか~?」

 またも楽しそうにクスクス笑い出した、彼女の尖った八重歯が見えた。それと対照的に、ブロンズ色に染められたボブ髪の頂点に生えた丸い団子のような毛束が二つ立っている。それを見て、形こそ違うが同じツインテールだった東松先輩が脳裏をよぎった。

「今、他の女――しかも、猫の話はしないでください」

 彼女は、急に笑い止んで僕の顔を睨めつけると、より力を込めたようだった。その作用に反射するよう、僕の意識とは反対に抵抗する力が強まる。

「そうそう、その意気ですよ――センパイ。本能のままに従えばいいんです。自由に、野性に、欲望のままに――」

 僕の鬼の力が、彼女の鬼の力を上回りつつあるようだった。僕の上半身が浮くのに乗じて、それに跨る彼女の身体も持ち上がる。その瞬間だった――彼女が履いているスカートのプリーツ一つ一つが、一匹一匹の蛇となって襲ってきたのは。

「私の可愛い蛇帯(じゃたい)ちゃんの力を借りると、おパンツが丸見えになってオニ恥ずかしいので、あまり使いたくなかったのですが……」

 そんなことを云っているが、堂々とした姿で跨り続ける鬼女――蛇によって、僕は再び拘束されてしまった。剝き出しになった黒色のショーツが、無数の蛇に身体を巻きつかれている僕の目の前に、暗闇と同化するよう映る。

「あははは。やっぱり、鬼の目で見てるじゃないですか~! 人間の目だったらこんな暗いところで、私のブラックのおパンツなんて、ちゃんと見えるはずないですもんね~。ほんと、男の人って本能には逆らえないんですね。でも、私、そういう人――」

 嫌いじゃないですよ、と彼女は僕の耳元に寄って囁いた。

 

「まあまあ。彼を誑かすのはその辺にしておいてあげなさい、紅葉」

 路地裏の更に奥から、色の低い、しかしよく響く男の声が聞こえた。

「は~い、ぬら様」

 そう答えた彼女の背後から姿を現したのは、

「お、お前が、ぬらりひょん……」

 ――百鬼夜行の最後尾の闇。神の化身。悪の権化。そして、僕を忌まわしい鬼へと化した()()

「お久しぶりです、小野寺真榎君。しかし、そんな言い方はないじゃないですか。元はといえば、あなた方人間の心が、僕を生んだのですよ。この姿だって、人々が求めたものなのですから」

 それに、あなた方人間が悪や敵を仮想したがるのは勝手ですが、果たして対象は本当に僕で合っているのでしょうか、と登場したぬらりひょんは宣った。

 僕が出逢った時とは、年齢も服装もだいぶ異なっている。忘れたくとも忘れることのできない、忌々しい記憶に残る彼は、着物姿の杖を突いた老人だった。

「今の世は、年老いたり、醜い姿は嫌われますからねぇ。僕も、そんな風潮の影響を多分に受けていますよ」

 そう云ったぬらりひょんは、三十歳前後に見えるスーツ姿で、まるでこの大都会東京で働くエリートビジネスマンのような出で立ちであった。その首元には、探偵の男と同じ、路地裏の闇と呼応するような漆黒のネクタイを身に付けている。杖など握っていない右手は、代わりに左腰へ差した刀に置かれている。そして、あの特徴的な背後に伸びた瓢箪のような禿頭は、背中まで伸びた美しい銀髪に変わっていた。

「そんなことは、どうだっていい。お前の目的は何なんだ! 僕を人間に戻せ」

「目的? そんなものは、僕にはありませんよ。それを持っているのは、人間だけです」

 鬼女が僕の身体からようやく離れると、ぬらりひょんが見下ろすように立っているのがはっきりと映った。

「そうか、そうだったな。神様の意思など人にはわからないんだったな。それじゃあ、呉葉ちゃん。君は何で、怪異の噂なんかを流しているんだ」

 僕は、片膝を立て座る格好になりながら云った。

「私ですか? それはもちろん、ぬら様のご命令だからです。……ん~、でも、友達が欲しかったからですかね~。だから、私も、センパイ達みたく足を使って()()を流したんですよ。いわゆる、フィールドワークってやつ? センパイ達との鬼ごっこみたいで、オニ楽しかったな~」

 彼女は、ぬらりひょんの右腕に自分の腕を組ませて云った。

「友達が欲しかった? 君がやっていることは、その真逆の行為じゃないか。人々に危害を加えて、そんなんじゃあ、友達なんて――」

「いえ、私が欲しいのは、人間の友達なんかじゃありませんよ。私が欲しいのは、怪異の友達です」

 と彼女は、僕の言葉を遮って云った。

「は」

「センパイ、あなたと一緒ですよ。私は、人間が嫌いなんです、オニ嫌いなんです。だから、怪異の友達をつくって、ドッジボールなんかして一緒に遊ぼうと思ったのに」

 あなた達が全員、魔女狩りの如く殺しちゃったじゃないですか、と彼女は再び僕を睨めつけて云った。

「退治しなければ、僕達が殺されていたんだ」

 それに、元々血が通っていない怪異を殺すも何もないだろう。

「その通りです。菊池彩音、トイレの花子さん、口裂け女。彼女達遊び相手は、あなた方オカルトサークルの面々を――殺すために創ったのですから」

 獺君だけは情報不足故、やむなく除外させていただきましたが、とぬらりひょんは座っている僕の前に一歩近づいて云った。

「それが、お前達の目的か? だったら、残念だったな。僕はともかく、他の皆はそう簡単に殺すことなどできない」

「ええ、今回の一連の件でそれを十分に実感しましたよ。やはりあなた方は、邪魔者であると」

「相変わらず、意味がわからないな」

「人間が心の底で望む世界を創るために、あなた方のような半端者は邪魔だということです」

「はぁ?」

 人間が望む世界? いよいよ、こいつは何を言っているんだ。

()()()()()()()()。彼女達怪異は、あなた方の写し鏡でした。言い方を変えれば、あなた方を殺すため専用の怪異でした。ですから、もし、()()()()()()()()()、あなた方は見事、怪異に殺されていたはずだったんです」

 ドッペルゲンガーだと? それは、自分にそっくりな人間を見てしまうという怪異ではなかったか。

「あなたは、彼女、そして彼と対峙して、何かに気づいたのでしょう?」

 菊池彩音と人面犬と出逢って、とぬらりひょんは云った。

「……あっ」

 ――そうだ。僕が相対したその二体の怪異は、最終的に目の前から消失したのだ。だから、やはり殺してなどいない。そして、どちらも消える直前、僕は二人に同情していた。否、同じ穴の貉だったことに気づいたのだ。彼女達は、悪でも敵でもないことに気づいたのだ。

「罪と罰。あなた方、()()()()半人半妖の存在は、代償を払わされるのです――弱者、すなわち社会から弾かれた存在によって。これも、本当はとっくに気づいているのでしょう? あなた方のドッペルゲンガーである彼女らは、仮面(ペルソナ)を被って物語を演じていた舞台役者だったのです。つまり、あなた方は、自分自身の(シャドウ)と自問自答していただけなのですよ」

「……」

 沈黙する僕一人を聴衆に、ぬらりひょんのよく滑る舌が、ゆっくりとその演説を開始させた。

「怪異とは、人の感情から生まれます。人の心――それは未知のブラックボックスなのです。人間は、万物の霊長だと宣い、自然を制御したようにおごり高ぶっていますが、最も身近な自分達の心すらも満足に支配できていないのです。野暮と化物は箱根から先? 全く、人間は笑わせてくれますねぇ。ふふふふ」

「ともかく、そうした傲慢な勘違いによって、人間が畏怖する対象は、自然から人間自身へと変遷していきました。それは怖いですよねぇ。自分の心すらもまともに把握できていないのに、他人のそれなぞ、到底理解できるものではないのですから。そして、その未知の領域であるブラックボックスから生まれたのが、怪異です。必然その姿は、自然――動物霊ではなく、人間――幽霊となって、この世に現れるのです」

「それによって散々怖い目に遭ってきたあなたは、所詮子どもが考えたものだろうと馬鹿にはしないでしょう。そう、子どもの好奇心と空想力を舐めてはいけないのです。そこに付加される若い女性を中心とした恐怖心や不安感、そして欲望。それによって生み出された怪異が、噂や都市伝説、学校の怪談として流行していくのですよ。その過程で――おっと、それについては、もはや経験してきたあなたの方が詳しいでしょう。ふふふふ」

「ですが、これまたあなたが散々見てきたように、怪異にもルールが存在するのです。子どもといっても、理由や矛盾には敏感ですからねぇ。いやいや、子どもを舐めてはいけませんでしたね、子どもだからこそ、気づくのでしょう。とにかく、怪異の縛りは、人間の最後の理性的働きとして、理由や矛盾を補うように付け加えられていくのです。が、しかし、作為的に意図的に、そうすればするほどより混沌としていくのです。そうして、出来上がったのが怪異の上位存在としての――悪魔です」

「……」

 唯一の聴衆である僕は、黙って話を聞き続けている。

「あなたが所属するのは、オカルトサークル、でしたか。では、あなた方面々は、どういった定義でオカルトという単語をそこに冠しているのですか? ――未知で不可思議なものに対する恐怖や不安を克服するように、人間は科学という武器を手に入れました。その結果、依然未知であるものは、全てオカルトという名のブラックボックスへと放り投げるようになったのではありませんか? 人間、曖昧なものをそのままにしておくのは座りが悪いですからねぇ。サイエンスかオカルトか、こう真っ二つに分断するよう、すぐたった二項に分類したがるのです」

「オカルト。この隠されたものの中に――例えば、妖怪。例えば、怪異。例えば、幽霊。例えば、UMA。例えば、UFO。例えば、宇宙人(エイリアン)。例えば、悪魔。例えば、神様――僕達は、()()のですよ」

「……」

「そんな人間は、神様さえ、欲望を満たすため利用するようになりました。てるてる坊主の例一つとっても、わかりますね。人間は、己が願望を叶えるために、神仏をも脅迫するようになったのです」

「しかし、僕は、人間のそれを否定しません。欲望――この限度なきエネルギーがあったからこそ、人間はここまで発展してきたのです。見てください、この周りに聳え建つ高いビルの数々を。見てください、あの天空に浮く月を――人間は知的欲望によって、宇宙にまで進出したのです。ただでさえ、こんな人工物だらけの都市に住んでいては、自然など制御したと思い上がるのも無理はありませんね」

「でも、どうです? この中身の見えないビル、その中にいる人間、その中にある心。あぁ、恐い、怖い。ビルの中の人々は、どのような思いで日々働いているのでしょうか。上司や御客に遜っている笑顔の仮面の裏で、何を考えているのでしょうか、何を抱えているのでしょうか。僕は、想像しただけでも、恐ろしくて怖くて、震えが止まりません」

「そんな抑圧された生活の上に、さらに世の中のルールが乗っかっているのです。これじゃあ、息苦しくて堪りませんね。心の内に、負の感情が蓄積していくのも理解できます。そう、唯一何事にも縛られていないのは、個々の心なのです。そこでは、自由に空想を遊ばせることができるのです。――僕達は、そこから()()()()のですよ。ふふふふ」

「そして、この秩序なき世界を現実にも実現させようというのが、僕――否、()()()目的です。この大都市東京に住む日本人達の目的なのです。そもそも、日本人は実に奇妙な民族ですよ。腹の底で考えていることと、口から発せられる言葉、それと行動――これらが真逆なことは日常茶飯事ではないですか。しかしその代わり、芸術――虚構の創作世界では、実に大胆に自由に己の心を表現しています。あともう一つ、ごく最近この世に誕生したばかりのインターネット世界でも、ですか」

「まぁ、いずれにせよ、そんな日本人によって僕は誕生させられ存在させられているわけですから、その目的を果たすために微力ながら尽力させていただきますよ――神様として、ね。ふふふふ、それにしても嬉しいです。まだこの民族が神様を必要としてくれているとは。元来、この国にはルールに縛られた教えなどなかったのです。自然界が物理によって支配されているのと同様に、現代の人間界は法律というルールに支配されていますよね? その上、明文化されていない倫理や道徳、マナーというものも求められます。そうした抑圧され、秩序立った世界の行き着く先がどこだかわかりますか」

「――虚無ですよ。そんな世界、本当は誰も望んでいないのです。あなた方人間が腹の底の本心で望んでいるのは――混沌です。だから再度、人間の――否、僕の目的と言わせていただければそれは、この世をコスモスなき、欲望渦巻くカオスの闇に染めることです」

 ぬらりひょんの――否、「悪」のスピーチは、そこで一区切りついたようだった。

「ふん、そんな秩序のない無法世界じゃあ、欲望を満たすどころか命だって危ういじゃないか。せいぜい欲望を満足させられるのは、悪人や強者だけだね。そんな弱肉強食を、本当に人間が望んでいるとでも思ってるのか? 希望どころか絶望の世界だね」

「いいえ、違います。希望も絶望も()()のです。それに、今の欺瞞に満ち溢れた世が弱肉強食ではないと、あなたは言うのですか? そんな社会を、暴れ回る怪獣のように滅茶苦茶にしたいと思っていたのではありませんか? 小野寺真榎君、あなたは自身のことを弱いと思っているみたいですが、鬼であるあなたの()()()、十分に強いじゃありませんか。それなのに弱小だと思っているのは、今の自分が昔みたく孤独ではないからじゃないですか。もし本当に強くないのであれば、あなたが散々嫌悪してきた、くだらない人間との関わりで弱体化したのでしょうね」

「しかし、そんな強いあなたにとって、このままの世界ではさぞかし生きづらいでしょう?だったら、魑魅魍魎が跳梁跋扈する魔界に創り変えて、欲望という美酒に酔いしれようではありませんか」

 ――そうだ、人間、何かに酔ってないと生きていけないんだ。第一、まともな人間なんて、どこにもいないじゃないか。それは、散々見聞きして、体験してきた事実じゃないか。だったら、いっそ欲望のままに、暴力のままに、悪人として生きるか――。


現世(うつしよ)は夢となり、夢は現世となる――」


 僕の脳内には、そう呟いた目の前の男によって鬼にされた忌まわしい記憶と共に、さっき受けた一連の探偵の言葉も追いかけるようにフラッシュバックした。

 僕の腹の底に、心の中に、何かどす黒いものが溜まっていく感覚がする。言葉では言い表せない感情。曖昧で割り切れなくて不条理なもの。敢えて最も近しい言葉で例えるのならば――これが闇、か。

「ふふふふ。僕は、それを否定しませんよ、小野寺真榎君。紅葉もそう思いますでしょう」

「はい、もちろんです! 私達と一緒に、この世界を欲望に忠実な姿へ変えましょう。革命と恋愛に生きるのです。ほら、私達と共に来てください」

 ――センパイ、と呉葉ちゃんはまた僕に近づくと再度耳元で囁くように云った。

「あなたをあの日あの場所で鬼へと化したものの、中々僕達に心を開いてはくれなかったので、残念ながらそろそろ見限ろうとしていたのですよ。本来ならば天狗を抹殺しようと用意した菊池彩音も、あなたが退治してしまうし。ですが、失敬。謝罪と共に感謝いたしますよ、小野寺真榎君」

 ぬらりひょんは最後にそう云って、路地裏の暗闇と同化した。

 ――呉葉ちゃんによって再度仰向けに押し倒された僕の鼻腔に、彼女がその身に纏わせている香水の匂いが侵入してくる。先程覆い被された時は感じなかったが、今の鬼である僕の嗅覚には強く訴えてくる。しかし、どこか心地のいい安心するような、フルーツに似た甘い香りだった。

 そんな彼女の匂いに丸ごと包まれたような錯覚に陥った僕は、事実その身体を柔らかい感触に覆われていた。華奢な彼女ではあるが、男の僕とは明らかに異なり、柔和で女性らしい肌を直に感じる。さっきと格好としてはほとんど同じであるのに、無理やり力づくで押さえつけられるのとは全く違った感覚である。

「それは、センパイがようやく鬼の仮面を外して、素直に受け止める気持ちになってくれたからですよ。ねぇ、センパイ、私のことも、あの時の菊池彩音ちゃんみたく抱きしめてください。――私、実はこう見えて、男の人の身体こんなに大胆に触るの初めてなんですよ? 今の私は、野性の本能に忠実に、パブロフの犬のように、一つの欲望に支配されています。こういう感情をリビドー? って言うんでしたっけ。まぁ私にとって、そんな難しい言葉はどうでもいいのです」

 「チェーンメールの怪」事件の際に感じた視線の正体であった呉葉ちゃんは、横たわる僕の上に跨るよう座り直すと、僕の着ているパーカーをビリビリと破き始めた。

「わぁ~男の人の身体って、こんなに筋肉が付いてるんですね。クラスの女の子達は、それはもう経験豊富らしいんですけど、私って意外と恥ずかしがりなんです!」

 彼女は、そんな聞いてもいないことを嬉しそうに喋りながら、剥き出しになった僕の腹筋を指でゆっくりとなぞった。

 綺麗な細長い人差し指の先端に彩られたネイルが、闇の中で妖艶に輝いて見える。僕は、腹の中心にくすぐったい感触を覚えながらも、抵抗しなかった。

 暗い路地裏に倒れ込む無抵抗な僕に、呉葉ちゃんは再び蛇を纏わりつかせる。制服のスカートヒダが変化した、妖しく細長い数匹の爬虫類は、僕の――右脚と左脚、右腕と左腕、腰と腹――そして最後に首へと注連縄のように絡みついた。

「あははは。これでもう身動きはとれませんよ、センパイ」

 十字の格好で固定された僕の身体に馬乗りになっている彼女は、楽しそうに笑いながら云った。僕は、最初から抵抗なんてするつもりはないのに。

 目の前には、呉葉ちゃんの吸い込まれそうなほど真っ黒な瞳が闇を広げていた。その間も、僕の身体はキリキリと音を立てながら蛇によって破壊されては元に戻っていた。痛みを感じる暇もなく、蛇がとぐろを巻くように繰り返される破壊と創造。そうでなくても、今の僕は、彼女の暗黒のような両目に釘付けだった。

「べぇっ」

 そんな鬼の視線と蛇の視線が交わった瞬間、彼女は、どこか恥ずかしさを紛らわすような表情で、細く長い舌ベロを出した。その健康的な赤色の先端は、二又に裂けていた――まるで蛇のように。

 子どものようなあどけなさを残しつつも、背伸びするように薄っすらと化粧をした鬼女の顔を見て、僕は腹の底から――可愛いと思った。

 彼女になら、このまま殺されてもいい。絞め殺されてもいい。僕と同じ、鬼の彼女になら。――否、それは叶わないのだ。だって、僕達は、不死身の鬼なのだから。だったら、一緒に――。

 呉葉ちゃんは、パーカーを破いたように、今度は僕のスラックスに手をかけた。彼女が同時に上半身を倒したことで、僕との顔の距離は、数センチほどとなった。僕は依然、二つの闇を吸い込まれるように凝視していた。

 鬼の手によって、僕の下半身に纏った衣服が破かれ始める。それと同時に、蛇のような舌が僕のおでこを舐めた、瞬間――、

「痛ったぁ」

 呉葉ちゃんは、反射的にそう叫び声を上げると、僕の身体からこれまた反射するように飛び退いた。それによって、纏わりついていた蛇の群れも主人と共に引き離れる。

 僕はそんな彼女の様子を見て、我に返る。僕も反射的に手で、蛇に舐められた自身の額を指でなぞるよう確認する。

「……犬」

 僕は、額の中央で皮膚が浮かび上がるように描かれていた文字を読み取って、呟いた。

(ケン)なんて最悪最悪最悪! 猫の次は、よりによって私のオニ嫌いな犬ですか! ……それにセンパイの身体、よく嗅ぐと獣臭いし魚臭いし。やっぱり、小野寺真榎、あなたは裏切り者です」

 地団太を踏みながら悔しがる態度の呉葉ちゃんだったが、言っていることは理解できなかった。スカート皺の蛇も恨めしそうな目で僕を睨めつけているのだが、当のご主人はそれによって下着が丸見えなので、何だか間抜けな構図だった。

 僕は、ゆっくりと立ち上がった。ボロボロの衣服から、肉体についた蛇の鱗の跡が薄っすらと覗き見える。幸い、スラックスの方はほとんど無傷なので、僕の方は下着を晒さないで済んだ(特に今日は、ダサい虎柄のパンツを履いていたことを思い出して安堵する)。

「ぬら様、やっぱり彼を味方にするのは、()()無理そうですよ」

 一通り悔しがった彼女がそう云うと、闇へ消失したはずのぬらりひょんが再び漆黒から姿を現した。

「ほう――犬か。あさましくも、白児(しらちご)に堕ちたようですねぇ。やはり先に、尾の無い人狼、否、女天狗を始末しておくべきでした」

 ぬらりひょんは、不敵に笑って云った。

 ――天狗。理屈はわからないが、僕は犬養部長に助けられたようだった。

「紅葉、今回はこれくらいで勘弁してあげましょう。小野寺真榎君、それじゃあ――」

 ぬらりひょんがそう云って、呉葉ちゃん諸共、路地裏の奥の闇へと消え入りそうになった刹那、

「待てよ」

 反対の奥、つまり僕の背後から、そう制止する声が聞こえた。それは、記憶に新しい神経質そうな男の声色だった。

「秋成さん!」

 僕は、安堵の気持ちから振り返って叫んだ。

「これはこれは、陰陽師の安倍秋成君に、護法(ごほう)童子(どうじ)の貂君じゃないですか」

 ぬらりひょんは、依然不敵な笑みを浮かべながら云った。その隣では、呉葉ちゃんが両手の中指を立てながら、現れた二人を憎悪の籠った目で睨めつけていた。ちなみに、もうスカートは元通りになっているので、睨めつけているメドゥーサは本体の一匹のみである。

「貂、至急対策課に連絡しろ」

 くそ、こっちが分身妖術の本体だったか、と秋成さん――陰陽師は呟いた。

「ふふふふ。秋成君は、相変わらずお金という欲望に囚われているようですねぇ」

 ぬらりひょんは、挑発するように云った。

「ふん、ないのは金と化物なんでね」

 陰陽師も、同じような口調で返した。

「それと貂君、あなたのご主人――晴明さんはお元気にしていますか」

 ぬらりひょんの言葉を受けて、彼はスマホの操作を中断した。

「おい貂、奴の言葉に耳を貸すな」

「いえ、お元気ならそれでいいのですよ。なにせ、彼――否、今は彼女ですか――と僕は、一対の関係にあるのですから」

「おい、待て」

 陰陽師は叫ぶと同時に、スーツのジャケット裏から取り出した――見覚えのある、意味不明な漢字が書かれたお札のようなものを二人に向かって投げ飛ばした。

「ばぁ~か!」

 短くあかんべえをした呉葉ちゃんは、スカートのポケットから無数の釘が打ち付けられた真っ黒い金属バットを取り出して、大きく振りかぶると、陰陽師の投げた紙切れを見事に打ち返した。

 その球は、路地裏の暗闇を創る左右の建物の壁に何回か乱反射した後、陰陽師が立つ足元のコンクリート地面に勢いよくめり込んだ。

「――ガキめ」

 陰陽師は、自分の投げた札が無力化したのを見下ろして、呆れたような怒ったような複雑な表情で云った。

 その曖昧で割り切れない顔を見届けた瞬間、僕の右肩辺りに激痛が走った。

「……またボールかよぉ」

 身体の背後へ貫通した玉を振り返る。――心配はいらなかったようで、鬼の目でも捉えられなかったその小さな丸い物体を陰陽師は見事にキャッチしていた。

「飴玉」

 彼は、手に嵌めた五芒星の文様が甲に浮かぶ純白の手袋を開いて、それを確認して云った。

 再び路地裏の闇に目を遣ると、呉葉ちゃんがパチンコを右手で持っていた。左手には、今打ち放たれた弾丸――飴玉を複数弄んでいる。

「流石、欲望の魔都東京ですね~。欲求不満を解消するためのお店が、実にたくさんあります。これも、防犯用の武具店で買った物ですよ」

 満足げな表情で云い終った彼女は、左手の中から赤色の飴玉を一つ選んで口に放り投げた――色からして、リンゴ味だろうか。口に入れた瞬間から、バリバリと音を立てて嚙み始める。

 そんなどうでもいい無駄なことを考えていたから悪かったのだ。僕の視界は、そんな彼女の様子を最後にブラックアウトした。再度、激痛を伴って。

 恐らく風穴だらけであろう、犬死した僕の身体は、またも硬いコンクリートの地面に倒れた。微かに生き残っている聴覚が、壁や地面を破壊しながら乱反射する飴玉の奏でる轟音を感知する。左手に持っていた無数の弾丸を一気に打ち放ったのだろう。彼女が持っていた武器は、機関銃なんかじゃなく、いち遊び道具のパチンコだというのに何とも器用な子だ。

 またしても、そんなくだらないことを穴だらけの脳みそで考えていたから、視界が徐々に回復してきていた。倒れ込んだ姿勢で、路地裏の入り口に黒目を動かすと、陰陽師は結界のようなものを張って嵐のような弾丸を全て防いでいた。――目玉を貫かれた刹那に聞こえた指パッチンの音は、陰陽師の法術発動の合図だったらしい。

 回復してきた身体を起こすと、そこには、これまた丸い玉――爆弾のような物を持った呉葉ちゃんが映った。直後、彼女がそれを勢いよく地面にぶつけ投げた瞬間、黒い空間に白い煙が立ち込める。その微かに伺える煙幕の影には、今にも闇へ溶け込みそうな、仮面を被った二人の姿があった。呉葉ちゃんの方はピエロマスクを、ぬらりひょんの方はペストマスクをそれぞれ顔面に嵌めている。

「それじゃあ、またお会いしましょう。小野寺真榎君」

「ばいばい~、また遊ぼうね。センパイ」

 くぐもった声で云った二人は、今度こそ路地裏の暗闇と完全に同化した。

 無数の銃弾を喰らっても無傷だった僕達だったが、彼女の目的は、この場から立ち去ることにあったのだ。

 僕の完全に元通りになった聴覚は、ズボンのポケットから鳴るスマホの着信音を聞き取った。その内容を、背後で秋成さんと貂君が言い合うのを聞きながら確認する。

「小野寺君、どこにいるの? 早く部室に戻ってきて」

 犬養部長からの連絡だった。別に、探偵社を出た後は各々帰宅の予定だったのだが……。

 ――しかし、やっぱり、僕は、彼女の犬であるらしかった。



 大学に着いた時には、もう既に陽は完全に落ち切っていて、真っ暗な闇夜が空間を支配していた。

 相変わらず迷路のような構内を、もはや迷うことなく進んでいく。思い返せば、僕はずっと独りのはずだったのだ。それが入学式の日、あの異空間に誘われた時から狂い始めたのだ。

 否、違う。全て必然だったのだ。仕組まれていたのだ。犬養姫愛――彼女によって。

 僕は、もう何度目かの、神隠しにあったような気持ちで、部室の扉の前に立った。通い慣れたはずなのに、何故か緊張している自分がいることを認めながら、ゆっくりとドアノブに手をかける。

「ようこそ、オカルトサークルへ!」

 犬養部長の声と共に、爆音が部室内に轟いた……ように錯覚した。

 反射的に目をつむってしまった僕が次に視界を開けた時には、床に色とりどりのリボンのようなものが散らばっていた。それを見てその正体が、能登さんに配慮したのであろう、火薬不使用の静音クラッカーであったことを把握する。

「ど、どうしたんですか……? またこんなもので僕に悪戯をして……」

 相変わらず小心者の僕は、予想外の出来事を受けて心臓の鼓動が速まっていた。そんな痛む胸をおさえて挙動不審に云った目の前には、部長だけでなく、華陽先輩の姿もあった。

「またって、私は別に小野寺君に悪戯なんかしてないでしょうに」

 犬養部長が笑いながら云った。

「よく悪戯してるのは、私だよね~」

 華陽先輩がからかうように云った。

 部室の奥の方を見ると、ソファで楽しそうに談笑している東松先輩と能登さんの姿が見えた。さらに奥に目を遣ると、キッチンの換気扇の下で電子タバコをふかしている宇久島先輩がダイニングチェアに座っていた。その足元では、シロとクロが気持ちよさそうに目を閉じている。

「そういえばさ、まだ雫ちゃんと小野寺君の歓迎会してなかったなって思って」

 犬養部長は、使い終ったクラッカーを指で弄びながら云った。

「まぁ、もう入部してから三か月以上も経ってるけどね~。もうすぐ夏休みだし」

 華陽先輩は、相変わらず意地悪そうに部長に云った。

「だって、色々あって忙しかったしさ。華陽達だって、口裂け女にかかりっきりだったし」

 ――口裂け女。僕は、あの地獄のように凄惨だった夜のことを思い出す。

「華陽先輩、もう身体の方は大丈夫なんですか。それに、宇久島先輩も……」

 もちろん彼女達の安否は確認していたが、こうして顔を合わせるのは、あの時以来なのだ。

「大丈夫大丈夫。ほら、深海も呑気にタバコ吸ってるでしょ」

 華陽先輩は振り返って、奥にいる宇久島先輩を指差して云った。

「――やほ」

 それに気づいた彼女は、僕に向かってそう挨拶した。距離的にも声量的にも、普通の人間では聞き取れないものだったが、鬼の地獄耳にははっきりと聞こえた。

「私達も、普通の人間じゃないからね」

 華陽先輩は、背後で狐の尾をヒラヒラさせながら云った。

 そう、僕達は人間じゃないのだ。でも――、

 大学の入学式の日、天狗によって隠された僕は、未だその仙境の中を彷徨っている。でも――こっちの方が居心地がよかった。

「ほら、早く入りなよ。みんな、小野寺君が来るの待ってたんだよ」

 犬養部長はそう云って、僕を部室の奥へと招き入れた。

 僕は、足元に散乱するクラッカーの中身を避けながら、部室――異境へと再度誘われる。

「やっほ~」

 僕の入室に気づいた東松先輩と能登さんは、異口同音に云った。僕もそれに山彦が木霊するよう返す。

「やっほ」と。

 部長に招かれたダイニングテーブルには、既に豪華なパーティーの準備が整っていた。大きなオードブルやお寿司、色とりどりの野菜が盛られたサラダ、ハンバーガーに餃子や春巻きまで、和洋中とにかく何でも揃っていた。

「奮発して出前しちゃいました~! ちなみに、冷蔵庫にはケーキもあるからね」

 と、犬養部長は楽しそうに云った。果たして出前を頼む際の住所などはどうなっているのだろうかという疑問は、もはや気にならなかった。

「小野寺君が来るまで、おあずけくらってたんだから」

 華陽先輩は、僕を咎めるような口調で云ったが、その表情は嬉しそうに笑っていた。

「意外と全員揃っての食事は、初めてだよね」

 東松先輩がテーブルに着きながら云った。

「犬養部長に皆さん、こんなに用意してもらって本当にありがとうございます! 小野寺君、何から食べよっか」

 能登さんもその隣に座りながら、そうお礼を云った。

「す、すいません。わざわざ、こんなに準備してもらって……」

 僕も彼女に倣って、ダイニングチェアに腰を下ろしながら云った。

「倣うのは、お礼の言葉もでしょ? 謝罪じゃなくてさ、小野寺君」

 と云ったのは、タバコを吸い終えた宇久島先輩だった。その表情は、彼女の、僕が今まで見たことのない笑顔だった。

「は、はいっ。部長をはじめ先輩方、僕達のために、ありがとうございます」

 僕は、先輩達彼女の顔を見ながら云った。

「あははは。何そのかしこまった言い方。でも、どういたしまして~。てか、こちらこそ、歓迎会がこんなに遅くなってごめんね、二人とも」

 いつの間にか冷蔵庫の中を弄っていた犬養部長は、背を向けた体勢のまま云った。

「それより、深海と真榎君、前も聞いたけどいつの間にそんなに仲良くなったの? いい加減、詳しく教えてよ~」

 華陽先輩は、僕ではなく宇久島先輩に向けてからかうように云った。彼女のこういった態度は、後輩の僕だけではなく他の先輩方に対しても同様なのだが、宇久島先輩相手に限っては微妙に違うのを鈍感な僕なりに気づいてはいる。

「だから、詳しくも何も、別に何もないんだってば。ただ――」

 宇久島先輩はそう云うと、リビングの方のローテーブルに置いてあった紙袋を持ってきて、僕に手渡した。

「小野寺君、あの時パーカー貸してくれて、ありがと。返すの遅くなったけど、ちゃんと洗っておいたから」

 一瞬何のことかわからなかったが、袋の中身を見て思い出した。貸した当の本人は、すっかり忘却していたというのに、彼女は、わざわざ例の小学校まで回収しに行ってくれたのだ。

「こちらこそ、ありがとうございます。あの夜は、僕の方こそ本当に助けられました。華陽先輩も――」

 と僕が、今度はしっかり云えた感謝の言葉を彼女にも伝えようと、その顔を見ると、

「ぅえ~ん……。小野寺君、私の方こそ、ほんとにありがとうだよ~……」

 と、赤くなった目を擦りながら、何故か泣いていた。

 僕は、すっかりからかわれると思っていたから、酷く戸惑ってしまった。

「は、華陽先輩、どうしたんですか」

「は、華陽ちゃん、どうしたの」

 僕と宇久島先輩は、ほとんど同時に、ほとんど同様の台詞を云った。

「だって、だってぇ~……、深海が、深海が、男の子と……」

 泣きじゃくる彼女は、それ以上は言葉を詰まらせているため、遂に僕にはその心意がわからなかった。が、鈍い僕でも、悲しくて泣いているのではないことだけはわかった。その証拠に、

「小野寺君、ありがとぉ~……」と、どうやら心意を理解しているらしい宇久島先輩が困惑しながら慰めるのも効果なく、鼻水をすすりながらの泣き声で繰り返していたから。

 隣の能登さんも東松先輩も、それに特に気にする様子なく相変わらず談笑している。一方の部長も、これまた気にする様子なく未だ冷蔵庫の中身を物色している――その背中から、何故か楽しそうなことだけは伝わってくる。

 ――やっぱり僕には、心底、女子というものの気持ちがわからなかった。否、人間の、心というものがわからなかった。でも、それでいい。だから、面白いんだ。

「よしよし。やっぱり特別な日は、これだよね」

 どうやら何かを探していたらしい部長は、凄く嬉しそうな顔でようやくこちらに振り返った。この表情は、いつかの彼女と僕、能登さんを交えての焼肉パーティーの際と同じだ。その両手には、何やら難しい漢字が書かれているラベルが貼られた、日本酒らしい一升瓶を持っている。

「あっ! じゃあ、私は何飲もっかな~。深海は何にする? みんなも何にする? 私はやっぱり、はろ酔いにしよ、ミックスフルーツ味の」

「は? ほ、ですよ」と、能登さん。

 いつの間にか何事もなかったようにすっかり泣き止んでいる華陽先輩の問いかけに、宇久島先輩は、

「じゃあ、赤ワイン頂こうかな」と、色々慣れた様子で返答した。

「やっぱり大人だねぇ、宇久島先輩。私は、レモンサワーにしよっと、無糖のやつ。雫ちゃんと小野寺君もこっから選びなよ」

 東松先輩はそう云って、ダイニングテーブルに置かれているジュースや炭酸飲料のペットボトルを目の前に改めて並べてくれた。そうして、僕達が各々選んでいる間に、コップを食器棚から取ってきてくれた。

 というわけで――、

「それじゃあ、雫ちゃんと小野寺君の歓迎を祝して、乾杯~!」

 犬養部長の挨拶で、僕達新人二人を歓迎する宴会が開催された。


 ――そんな楽しいパーティーも終盤になったところで、大きなホールケーキがデザートとして用意された。

「わぁ~! 私、こんな大きいケーキ食べるの初めてです」

 イチゴのショートケーキを見た、甘党の能登さんは、眼鏡の奥の丸い目をさらに丸くして喜んでいる。

 だから、僕は、その中心に置かれた、自分と能登さんの名前が書かれているチョコレートプレートをあげるように提案した。

「えっ、いいの!? ……でもやっぱり、半分こにしよ」

 能登さんはそう云うと、プレートを真っ二つに割って、少し大きい方を僕にくれた。

「雫ちゃんは優しいねぇ~……。小野寺君もいい子だし~……、華陽に深海に摩伊もみんな大好きだよ~、私~……」

 相当酔っているらしい部長は、半分机に突っ伏しながら、据わった目を眠そうに擦りながら云った。

「ねぇ~深海~。私も眠くなっちゃったから、抱っこしてソファ連れてって~」

 こっちもかなり酔っ払っている様子の華陽先輩は、宇久島先輩にダル絡みをして困らせていた。

「小野寺君、ごめん、悪いけど部長をベッドに運んでやってくれないかな」

 僕には、そう云った東松先輩の頼みを断る理由などなかったから、脱力して無抵抗な犬養部長をお姫様抱っこすると、寝室へと向かった。

 部屋に入って、失礼ながら足で扉を閉めさせてもらうと、中は真っ暗闇になった。鬼の目に映った、寝室の面積の半分以上を占めるお姫様ベッドに彼女を寝かせる。この巨大なベッドを中心に部屋中に充満している彼女の甘い匂いによって、僕はクラクラと酩酊するような錯覚を起こした。

「待ってよぉ、小野寺君」

 犬養部長は、急いで立ち去ろうとした僕の右手を弱々しく握って制止させた。そうして、自身の横たわる身体に引きつけるように、ぐいっと力を入れた。

「ぶ、部長、今日はもうこのままお休みになってください」

 僕は、酔っぱらって、気持ちよさそうに微睡む彼女を寝かしつけるように云う。

「やだぁ、独りじゃ寂しいよぉ、怖いよぉ……」

 部長は、僕の右手にゆっくりと顔を擦りつけるようにして云った。その伝わる濡れた感触から、彼女が涙を流していることがわかった。いわゆる泣き上戸というものかと思い、見慣れない態度と相まって困惑した。――でも、違った。

「まだ死にたくないよぉ、まだみんなと一緒にいたいよぉ……」

 もっと、小野寺君のこと知りたいよぉ、と部長は泣きながら云った。

「私、心が強い君に出会えて、本当によかった。ううん、強いとか弱いとかじゃない。私やみんなのことに、()()()()()()()君に出会えて、幸せだった」

 ――彼女の言い放ったその祝いの言葉によって、僕を積年縛り付けていた憑き物が落ちたようだった。やっぱり、僕は、()()()()、恵まれている。

「それは、僕の方こそです。あなたの他人を思いやる気持ちが嬉しくて、憧れだったからなんです。僕も、部長ともっと一緒にいたいです。あなたから、もっと色んなことを学びたいんです。だから――」

 最後みたいに言わないでください、とは云えなかった。

「深海はね、自分の人魚の肉を食べてくださいって言ってくれるんだ。でもね、私は、どうしてもそれをする気にはなれないの。――私は、犬と天狗の罰によって死ぬ。深海は、魚の罰によって永遠に生き続ける。先天的な私達は、そういう物語なんだ。でも、君は、君だけは違う」

「だからさ、私が寿命で死ぬってなった時、小野寺君には私を食べてほしいの。中途半端な人間の私を食べても、元に戻れる保証なんてないのにね。流石に我儘で自分勝手過ぎかな。でも、それが私の一生のお願い。――小野寺君は、人間に戻って、普通の人生を送って」

 と、犬養部長は、姫カットの重たい前髪を左手で整えるように触りながら、呪いの言葉を吐いた。

 ――くそ、くそ、くそ。何で彼女みたいな人がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。そう、だからやっぱり、鈍感な、欲望の世界なんかにしちゃいけないんだ。

 泣きたくなんかないのに、天邪鬼な僕の身体から流れ出た涙は、その頬を伝って、寝ている彼女の顔へと数滴垂れ落ちた。

「あれ? 私のために、泣いてくれてるの? 小野寺君って、ほんとに優しいね。――その気持ちが、私だけに向けられたらいいのにな」

「――はい。僕は、あなたのために生きます。そのためだったら」

 人間なんかに戻らなくてもいい。

「あは、何それ、告白みたい」

 泣き疲れたことも相まって寝落ち寸前の彼女は、そう呟くよう云った。

 ――鬼は、人間の空想力そのものなんだろ。だったら、彼女が死ななくて済む方法を、僕が()()()()考え続ければいい。ただでさえ、あり得ない存在や現象を散々見てきたのだ。彼女が定められた物語から逃れられたって、何ら不思議ではないはずだ。僕が人を喰う以外に人間へ戻れる方法だってあるかもしれない。否、別に人間なんかに戻れなくたっていい。僕は、彼女のためなら鬼道を生きる覚悟はできている。

 ――それに、おばけはしなない、のだろう。

「そう受け取ってくれて構いません。僕は、犬養部長、あなたのことが――」

 好きです、と云って、眠り姫の唇へキスをした。

 まずは手始めに、不死身の鬼に流れる体液を、犬の彼女と交換した。これで明日の太陽が昇った時、何かその身に変化が起きているかもしれない。というのは、心の理性。

 しかし、僕の肉体は、欲望の犬だった。

 ――つくづく僕は、僕達は、天邪鬼だった。

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