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調査レポート〇三 鬼・狐・魚・「わたしきれいの怪」


「やほやほ~」

 僕がオカルトサークルの部室に入ると同時に、三浦(みうら)華陽(はなよ)先輩の声が聞こえた。

 今日の講義を全て終え、出されたレポートの作成でもしようかと訪れた部室で――狐火の如く電灯がチカチカと点滅し、ポルターガイストの如く食器や家具がガタガタと音を立てるのと同時に――その可愛らしい声が鳴り響いた。否、そんな可愛らしいなどと呑気なことは言っていられない。僕は、部室の中を見回しながら、

「華陽先輩、早く出て来てください。僕は、もうどんなことでも驚きませんから」

 と、何度目になるのかわからない台詞を云った。

 髪を切られた花子さんの依頼から二~三週間は経っただろうか。僕は、華陽先輩――下の名前呼びなのは彼女の篤い要望故である――と親交を深めていた。何でも、二か月ほど追っていた重要な案件がひと段落したらしく、部室にも頻繁に顔を出せるようになったとのことである。三年生の先輩ともなると、そんな大変な依頼も熟すのかと尊敬すると同時に、将来的に自分にもできるのだろうかと不安にもなる。

 しかし、もう一人いる三年生の宇久(うく)(じま)深海(ふかみ)先輩とは、やはり入学式の日以来会っていなかった。どうやら、その依頼は華陽・宇久島両先輩で行っていたらしいが……。ちなみに聞いた話によると、彼女達二人は同棲しているらしい。まぁ、今流行りの大学生同士のルームシェアといったところで、特に珍しくもないのか。

「へ~、そんなこと言っていいんだ~。じゃあ、こっちも本気出しちゃおっかな~」

 華陽先輩は、これまた何度目になるのかわからない台詞を云った。やっぱり可愛らしい声だったが、その口調は意地悪だ。

 僕は、その声を聞きつつ部室の中へと進み、テーブルやソファの下、テレビの裏に、ほとんど隙間のない食器棚の裏まで確認する。一体何を確認しているのかというと、彼女を、である。

「だから、そんなとこには隠れないって、真榎君」

 からかう声が聞こえる。まぁ、僕も無駄だとは最初からわかっているのだ。事実、彼女がこんなところに隠れていたことは今まで一度もない。だから、これは準備運動みたいなものである――そう、本命の隠し場所を見つけるための。今日の僕は、今までのやられっぱなしの僕とは違うのだ。驚かないと見栄を張りつつ、毎回予想外の場所から現れる先輩に翻弄される、いつもの僕とは違うのだ。

 僕は、ホワイトボードと壁の隙間を確認しようとしたところで、フェイントをかけるよう急に踵を返した。その勢いのまま、ソファの上に置いてある黄色のクッションを持ち上げ、それを指差して、

「華陽先輩、見っけ!」

 と僕は、ドヤ顔で云った。――遂に勝った。

「ばぁ」

「うわぁ」

「わ~い、引っかかった、引っかかった~」

 また負けてしまった僕は、彼女の勝ち誇った声を両耳に受けていた。

「ど、どこにいるんですか? 先輩、出てきてください」

 敗北宣言である。声は、下の方から聞こえたような気もしたが……。

「今回はここでした~」と云った彼女の声は、やはり僕の脚元から上がってきた。

 フローリングに敷かれた薄いカーペットの生地が、まるで粘土のように段々と人の形になっていく――そうして、三浦華陽先輩はその姿を現した。

 ポニーテールに縛られた朝日のように輝く金髪が、僕の目を照らした。その下方に目を降ろせば、これまた黄金に光るテールが見える。その二本の尻尾は、どちらもボリューミーでありながら綺麗に整えられた毛並みで、海底に生える藻のようにユラユラと優雅に揺れていた。

 カーペットに化けていた彼女は、僕の正面でからかうような上目遣いで微笑んでいる。全く、このサークルの女性達は人を誑かすのが大好きらしい。もうだいぶ暑くなってきた、六月の気温に合わせた今日の彼女のファッションは、ベージュのキャミソールワンピースだった。清涼感はあるが、目のやり場に困った僕は、咄嗟に顔を逸らす。

 ――が、何となくムカついてきた。何だか一遍に二回も負けたような気がしたから。僕は、彼女を捕まえようと追いかけた。今日の僕は、いつものやられっぱなしの僕とは違うのだ。

「うわっ!? 隠れ鬼ってこと~?」

 華陽先輩は、そんな僕から逃れるために、広いリビングを子どものようにはしゃぎながら走り出した。黙っていれば、そのファッションや容姿も相まって大人びて見えるのに、喋り出せば途端に幼く見える。彼女の子どもっぽさは、能登さんのそれとはまた別だ。そんなことを考えながら先輩を追い回す僕であったが、僕自身も子どもだったことに、はっと気づく。

 先程、ムカついたと言ったが訂正しよう――否、訂正するほど間違ってはいないか。人間の感情というのは不思議なものである。確かに、彼女のからかいにはムカつく。でも、楽しいのだ。そんな相反する気持ちがごちゃ混ぜになって割り切れない。ワンピースの裾を少し持ち上げながら靡く狐の尾を、僕はまるで犬のように追いかけ回しながら、楽しいと感じている。それは、僕が女性にからかわれるのが「癖」だからというわけではない、決して。

 遂にその尻尾を掴んだ、と思ったら――ぼふん、と消失してしまった。突然消えたもんだから、僕は走っていたことも相まってバランスを崩す。先輩の背中を伴って、躓くよう前のめりに倒れ込んだ。一方の彼女はというと、倒れる刹那の際に身体をひらりと翻した。

 ――よかった。幸い、その倒れ込んだ先は、大きなソファだった。加えて、先程化けていると間違えた、新品の黄色いクッションが彼女の頭の辺りで緩衝材となる。

 僕の鼻には、華陽先輩の甘い香水の匂いが漂う。僕の目には、彼女のあどけない顔が映る。色素の薄いブラウンの大きな瞳が、僕の顔を捉えている。一瞬の沈黙の後、二人は離れた。

 先輩は、ズレ落ちたキャミワンピの肩紐を直しながらソファに座り直した。

「いやぁ、真榎君を騙すために買っといたクッションがあってよかったよ~」

 彼女は、少し気不味くなってしまった空間を和めるように云ってくれた。僕もそれを受けて、

「せ、先輩、すいませんでした……」と、謝罪の言葉をようやっと口にした。

 多分、ここいらで例のからかいがくるはずである。今はそれが待ち遠しい……。でも、僕のそんな予想は外れて、

「う、うん、私もごめんね……」と、彼女も謝罪の言葉を口にした。光沢ある狐の尻尾を細長い指で撫でつけながら。

 僕は、そんな華陽先輩の姿を見て、美しい、とただ純粋に思った。



「美しい、美しいって、あんまり言うんもんじゃないよ。小野寺君」

「え」

 能登さんの言ったことが、僕にはよくわからなかった。「美しい」なんて言葉は、言えば言うほどいいもんだと思うのだが……。褒めているのだから、言った方も言われた方も少なくとも悪い気はしないはずである。

 ちなみに、今僕達がいる場所は大学内にある……って、ここはどこだ?

「自習室兼休憩室ってとこかな? 私もよくわかんないや」

 なるほど、やっぱりこの大学は迷宮のようだ。通路はもちろん、館の中の部屋まで惑わしてくる。ガラス張りになっているこの小さな部屋は、階段下のデッドスペースに設けられていた。彼女に案内されて付いてきた僕は、ここが何館の何階の何番目の部屋なのかもわからない。果たして、卒業までにこの大学の全貌を把握できるのだろうか。

「私も小野寺君に倣って、人が来ない場所探してたんだ。それより――」

 そんなことを倣われても困るのだが、彼女の関心は、僕がここへ来るまでに持ち掛けた雑談の内容にあるようだった。

「いくら華陽先輩が可愛くて綺麗で美しいからといって、先輩の見た目をあれこれ言うのはよくないよ」

 例えそれがポジティブな意味だとしても、と能登さんは穏やかな表情ではあるが僕の発言を諫めるように云った。

「否、流石に先輩に面と向かっては言ってないよ。でも……」

 やっぱり、能登さんが言っていることは理解できなかった。昨今の風潮として、人の見た目に言及することは、その内容の良し悪しに限らず憚れるということは流石の僕も理解しているつもりだ。しかし、僕と華陽先輩の関係値だったら、そこまでデリケートに扱わなくてもいいのにと思ってしまうが……。

「私が言っているのは、そういうことじゃないよ。あんまり言い過ぎると、華陽先輩に――化かされちゃうよってこと」

「化かされる? まぁ確かに僕は先輩に何度も騙されて、馬鹿にされてるけど」

 僕は、エナジードリンクのメンスターのプルタブを開けて、一口飲んだ。

「メ? モでしょ。てか、そういうことでもなくて、九尾の狐の話、知らないの?」

 能登さんは、コアラの絵がプリントされたチョコレート菓子を食べながら云った。昼休みなのだが、お互い不健康極まりない昼食だった。

「あぁ。犬養部長に勧められて、あの書斎で調べたよ。『(たま)()草子(ぞうし)』だっけ」

 この活動を行っていく上で、過去に現れた化け物達を調べ、把握していくのは重要なことである。否、どんな事象や問題を考える際にも、過去の文献を漁るのは基本だ。それは、まず大学で教わる科学的態度の一歩といったところだろう。

「うん。――やっぱり、本人には直接聞きにくいからさ」

 サークル内のメンバーに関する情報を知っておくことは、これまた活動を行っていく上で重要なことである。それは、言うまでもなく、怪異と対峙した際に味方の能力を把握しておくことに越したことはないからだ。でも、その過去については、一種のタブーとされている。もちろん、同じサークルの部員と言っても、他人である限りプライバシーは保護されるべきである――が、ここに所属する人達にとっては、それは可能な限り語りたくないものなのだ。

「能登さんも、華陽先輩の過去については聞いてないんだ」

 そう、本人から直接語ってもらうというパターンでしか、メンバーの過去については口外しないことになっている。そんな明文化されたルールがあるわけではないが、暗黙の了解というやつだ。僕の過去も――僕があの夏、鬼になった過去も、彼女達が話してくれたお返しをするように、その時にしている。

「華陽先輩もだし、宇久島先輩のことも詳しくは知らないよ。三年生の二人は忙しそうで、会う機会も少ないしね」

 この口振りから察するに、能登さんは宇久島先輩とも頻度こそ少ないけれど普通に接しているっぽいな。僕は、入学式の日、宇久島先輩に出会った時の素っ気ない態度がフラッシュバックした。う~ん、やっぱり僕は彼女から避けられているのだろうか。

「それで、九尾の狐がどうしたっていうの?」と、僕はズレてしまった話を修正する。

「え? だから、華陽先輩が九尾の狐の末裔って話でしょ」

 彼女の丸い眼鏡の奥の瞳が、僕の間抜けな顔を映している。別に話はズレていなかったのだ。とことん察しの悪い僕は、部長が何故「(たま)藻前(ものまえ)」について調べるよう言ったのかをようやく把握する。――犬養部長は、とことん優しくて配慮のできる人だ。

 ――僕が調査した、九尾の狐こと玉藻前の伝承は以下の通り。


 久寿元(一一五四)年の春、院政を敷く鳥羽上皇の御所に来歴不明の美しい一人の女性が現れた。その女性は、自身を「()性前(しょうのまえ)」と名乗り、すぐに鳥羽院の寵愛を受けることになる。

 化性前は、その美しさだけでなく、中国の四書五経などに通じている才覚を持っていたのに加えて、貴族達に故事来歴を問われると直ぐに答えられる才女でもあった。

 そんなある日、詩歌管弦の夕べが催されたところ、その最中に嵐が吹き荒れ、灯火が消滅し暗闇となってしまった。しかしその時、鳥羽院の側にいた化性前の身体から朝日のような光が放たれ、殿中は明るさを取り戻したという。この事実に大臣公家が怪しむ一方、鳥羽院だけは感激し、彼女の名を「玉藻前」と改めさせることになった。

 こうして、その美貌と才覚に惹かれた鳥羽院は、遂に玉藻前と夫婦の契りを結ぶことになったのだが、ほどなくして院が病に侵されてしまう。至急招かれた医者によって、その原因は邪気の仕業によるものだと診断された――つまり、彼は、玉藻前と交わる度にその精気を吸い取られていたのだ。

 そうとは知らない鳥羽院はじめ大臣公家は、今度は陰陽頭の安倍(あべの)(やす)(なり)を召して、その邪気の正体を占わせた。すると彼は、病の原因を化女玉藻前の仕業であると見事占い当て――玉藻前とは、下野国那須野に棲む八百歳を経た、尻尾が九つに分かれている大狐であると明かす。

 泰成は、続けてこう説いた――。

 この老狐の誕生の地は、天竺であった。その地で千人の王の首を自身に供えさせようとして追い出され、今度は中国に渡り王の后となると、その命を奪って追い出された。そして、再三、日本で王の命を奪ってこの国の女王になろうとしているのである、と。

 しかし、才色兼備の妖女にすっかり惑わされている鳥羽院は、この話を全く信じようとはしなかった。そうして、大臣公家が院の平癒せず重くなる病をついに見かねた結果、邪気退散、妖怪調伏の儀式――泰山府(たいざんふ)(くん)(さい)が執り行われることになる。

 この陰陽道の奥義を執行するのは、もちろん泰成であった。――この祭りにより、遂にその正体を現出した玉藻前は、消失するように棲み処である下野国那須野へと逃れ去っていく。

 この逃走した妖狐退治の院宣が、東国の上総(かずさの)(すけ)三浦(みうらの)(すけ)両武将に下った。

 両将は、早速配下の者を引き連れて那須野に赴くと、この地に逃げた玉藻前を探し回った。すると、叢から九つの尻尾を生やした巨大な狐が出現した。両将及び配下の者は素早く弓を射ったが、自由自在に変化する妖狐には一発も当たらず、またも逃げられることになった。両将は、この失敗を受けて国元に引き返し、弓矢の訓練を行ってから再び征討へ赴くことになる。

 上総介は、走る馬にまりを付けて引かせ、それを射る訓練。一方の三浦介は、狐を犬に見立て、自由に走らせたそれを射る訓練を、各々重ねた。

 そうして、再度退治に向かった三浦介は、配下の者とまだ夜も明けぬ頃から狩り回り――遂に朝日が昇る頃、野から山へと走り抜ける、九尾の狐玉藻前を射殺した。

 しかし、これにより、三浦介の子孫は、その後代々妖狐の死霊へ祟られることになったという。

 また後日談として、退治された玉藻前の執念怨霊が一つの大石と化し、人間だけでなく動物にも災厄をもたらす存在になった――このことから、この石の名を「殺生(せっしょう)(せき)」という。

 

「ちなみに、三浦介が行った狐を犬に見立てて弓を射る訓練が、日本史で習った犬追物の起源らしいよ」

「いやそんなことより、だから、小野寺君も華陽先輩に精気を吸い取られちゃってるんじゃないかって」

 ポジティブな意味だからこそ、先輩の容姿には言及しない方がいいんじゃない? と能登さんは云った。

 僕は、心配してくれている事実に感謝しつつも、彼女の意図がそれだけじゃないことに気づいていた。これは、僕が天邪鬼だからというわけではないだろう。何となく男だったらわかる感覚だと思う。

 ――嫉妬。

 僕は、そう邪推せずにはいられなかった。


 僕と能登さんは、民俗学の講義を一緒に受けた後解散した。彼女は、これから大学の友達と一緒に遊びへ出かけるらしい。確かに、東京は遊ぶところが多い……ってそうじゃない。友達は同じ学部の女子数人らしい……ってそうじゃない。――僕は、一抹の寂しさを覚えていた。

 僕にはおよそ友達と呼べる人は能登さんしかいないのに、彼女にとって僕は数いる友達の内の一人に過ぎないのだ。僕にも、犬養部長や東松先輩に華陽先輩がいる――でも、彼女達はあくまでもサークルの先輩であって、決して対等な関係ではない。否、そんな風に思っているのは僕だけで、人がいい彼女達は後輩ではなく、友達と思ってくれているかもしれない。それでも、人がいい彼女達には、やっぱり友達が多くいるのだ。

 何てことをごちゃごちゃ考えたが、寂しいという感情は、どこか微妙に違っている気がした。

 ――嫉妬。

 やっぱり、人間の感情というものは、割り切れないものだ。

 僕は、そんな脳内をいつまでも回り続ける感情を遮断するために部室へと向かった。誰かと喋りたかったのだ。全く、高校生までの僕が今の僕を見たら何て言うだろうか。あんなに孤独を愛していたのに――僕の脳内に、菊池彩音の顔が浮かんだ。

 部室の扉を開けると、中は真っ暗だった。話し相手になってくれる人は、いないらしい。僕は、一応室内を一通り見回した――華陽先輩は本当にいないらしい。というのも、このパターンで何度か騙されて背後から驚かされているのだ。

 次に、バスルームの方へ向かった。無音のため、ここにも本当にいないらしい。というのも、リビングの電灯は点いていなかったが、部長が入浴中だったことがあったのだ。それも無理はなく、ここは彼女の自宅でもある。自宅兼「部室」なのだ。

 そういえば、以前部長は言っていた、自由にバスルームを使用していいと。話し相手になってくれる人がいないのなら、強制的に脳内をシャットダウンするため、熱いシャワーを頭から浴びるのもいいだろう。

 僕は、バスルームの明かりを点け、扉を閉めた。脱衣場で服を脱いで、籠の中に入れる。室内には、洗面所に加えて、洗濯機も設置されている。脱いだ衣類を入れる籠も数個並んでいるので、これは本当に利用していいということだろう。ここからも、彼女の優しさと配慮が伺える。

 バスタオルは……流石に借りるわけにはいかないか。いくら部長の配慮といっても、それは同じ女性に対するものなのだ。僕が入部してくるまでは女性の部員しかいなかったわけだし。彼女は優しいから、僕に対しても自由に利用していいと言ってくれたけど、それを額面通り受け取るわけにはいかない。そこは、僕の配慮するところだ。

 やったことこそないけど、鬼の力で自然乾燥くらいできるだろう。――あれだけ忌み嫌っていた能力を、そんな便利な解釈で使用しようとしていることに気づいてはいるが、ここは敢えて気づいていない振りをしよう。

 裸になった僕は、バスルーム内の扉を開けた。

「……えっ」

 刹那の絶句の後、思わず声が出てしまった。

「何だこれ……」

 普段独り言なんてめったに言わない僕でも、これは心の声が漏れ出てしまう。

 ――異空間。忘れていた、ここは本来存在していい場所じゃないのだ。大学内の部室の中にある「家」。そんな意味不明な空間内に、もっと意味不明な場所があるのだ――書斎と、もう一つ、このバスルーム。

 僕の眼前に広がる空間は、大浴場、だった。否、その単語が合っているかも疑わしいほどの広大で豪華な空間だった。今立っている入口からは、全体像が全く把握できない。普通の家庭用のバスルーム扉を開けて、こんな光景が目に入ってくるとは誰が思うだろうか。

 とりあえず、中に一歩足を踏み出してみる。恐らく大理石で造られているだろう床がひんやりとしていて心地いい。この光景に見惚れるように数歩進んだ僕は、はっと気づくように後ろを振り返る。――よかった、扉はちゃんと存在していた。相変わらず見慣れた家庭用の扉だったし、この空間にはアンバランスだったが、凄く安心した。

 空間の真ん中には、存在感を放ちながら堂々と鎮座する大きな丸い浴槽がある。その真上の天井には、浴槽と同じく大きな丸いステンドグラスが嵌っている。そんな洋風造りの浴場は、しんと静まりかえっていて、ただ水の流れる音だけが鳴り響いている。

 さらに、僕の両目の端には、階段が見えている。左端に見える階段は上り、右端に見える階段は下りである。だから、計三フロアに分かれているということだろうか。やはりこの場所からは全体が見えないため推測するしかないが、それ以上広かったら……なんてことはもう考えたくない。この期に及んで、「わ~い、こんな広い浴場を貸し切りだ~」とはしゃぐ余裕は僕にはないのだ。

 目の前の、容量一杯に注がれたまるで公園にある噴水のような浴槽を眺めつつ、こんな量のお湯を垂れ流してたら水道代半端ないだろうな、と実に庶民的なことを思った。

 ――僕は、シャワーブースを探す。そう、当初からの予定は、熱いシャワーを頭から浴びることだったのだ。

 階段を上ってみると(階段に到着するまでも、何個か大小の浴槽が設置されていた)、ここが求めていたシャワーブースらしい。果たしてこんなに必要なのか、というぐらい横に並んでいるブースの一番手前に座る。右横には、床と同じ大理石の壁があり、左横には、隣のブースとを隔てる衝立が設けられている。

 僕は、何だか怖くなってきた。この夥しいほど広く静かな空間に裸一貫一人でいるという状況もあるが、それより本当に利用してよかったのだろうかという不安が襲ってくる。もしかして、莫大な使用料を取られたり、事前に使用許可を取らないとダメだったんじゃなかろうかなどと、ここにきて色々な憂いが生じてきた。せっかく頭の中をスッキリさせようと訪れたのに、これじゃあ本末転倒である。

 ――ええい、ままよとシャワーの蛇口をひねり、熱いシャワーを頭頂部から浴びる。頭から肩、上半身から下半身へと身体全体にお湯が行き渡ると、もう全てのことがどうでもよくなった。

 心地いい温度の水流を受けつつ、備え付けのシャンプーで髪を洗う。身体もボディーソープで洗い、その身全体に付着した泡を一気に流し落とす。

「ふ~……」と、今度はあまりの心地よさから声が漏れ出る。

 すっかり脳内もリセットされ気分がスッキリした僕は、階段を下り、中心の巨大な浴槽へと入った。「わ~い、こんな広い浴場を貸し切りだ~」と思った、というか云った。

 湯船の縁にもたれつつ、ふと顔を上げる。この船に呼応するように造れたステンドグラスが、美しくキラキラと輝いていた。目線を下げる。――水面にも、鮮やかなステンドグラスが映っていた。


「やっほ~、今日蒸し暑かったよね~」

 僕は、突然そう聞こえた方向を反射的に見る。

 そこには――身体を白いタオルで覆った、一匹の黒猫が立っていた。


 開けっ放しにしてしまっていた扉の前には、東松先輩が立っており、その手には化粧落としというのかスキンケアというのか僕にはわからないが、を持っていた。身体を覆う真っ白なタオルから伺える細長い手足は、血管が透けて見えるほど薄い肌で、綺麗な黒髪を後頭部の高いところで巻き上げていた――トイレの花子さんとの戦闘時に切り落としたため、サイドテールとなっていた髪を。

 僕は、そこでようやく事の重大さに気づき、咄嗟に水中へと頭を沈めた。あまりに急に勢いよく入水したから、目や鼻、耳に熱いお湯が流れ込む。

 そうだ、自由に利用していいということは、他の部員だって例外じゃないのだ。むしろ例外なのは、今年入部してきた唯一の男性である僕の方なのだ。だから、東松先輩も僕以外の女性が入っていると思って、浴場に入ってきたのだ。それは、その際の台詞からも十分に伺える。

「あれ、誰がいるの? 部長? 華陽先輩? 宇久島先輩? それとも雫ちゃん?」

 水中にいるが、確かに東松先輩の声が聞こえた。その目で確認するために、大理石の床をペタペタと足音を鳴らしながら、僕の潜っている湯船へと近づいてくる。水の中だというのに、やけに音が大きく、さらに反響して聞こえた。

 どうやら、浴場の入口と中央の浴槽との長い距離によって、先輩は僕を視認できていなかったらしい。僕は、鬼の視力で確認できたが、とにかくこの広大な面積を誇る大浴場に助けられた。

「お~い、そんなに長く潜水してたら溺れちゃいますぜ」

 彼女は、誰かしらの上級生がいると思ったのだろう、そう云いながら歩いてくる。助けられたといっても、このピンチは一切解決していないわけで、今は反ってこの広大な面積故の距離が憎たらしく思えた。

 もうこうなってしまっては、僕にはどうすることもできない。否、最初から詰んでいたのだ。ちなみに、僕は先輩のようにタオルなど巻いておらず、正真正銘の裸一貫である。

 僕を断罪するための足音は、その長い距離を渡り切り、もうすぐそこまで来ていた。広いといっても事実そこまで長い時間はかかっていないし、鬼の力で呼吸は苦しくなどなかったが、この刹那の間が永遠に、そして溺れそうなほどに息苦しかった。

「まぁいいや。シャワー浴びよっと」

 そんな僕のことなんてつゆ知らず、東松先輩は階段の方へと歩いていったようである。

 助かった――とはまだ言えない。とにかく、早くこの場から脱出しなければ。僕は、なるべく水の音を立てないように、そーっと頭を外に出す。水面へ映るやっぱり美しいステンドグラスに、一瞬の間見惚れてしまった。

「あっ! もしかして、小野寺君?」

 その声を聞いて、僕は心臓が飛び出そうなほど驚いた。事実驚きのあまり身体が大きくびくつき、その衝撃で水音を立てると同時に水面を揺らした。――ステンドグラスもユラユラと揺れたが、今はそんな幻想的な光景に感心している暇はない。

「やっぱりその反応からして、小野寺君でしょ。髪の長さ的にもかな」

 東松先輩は、確かに僕の方を見ながら云っている。階段を昇り切って、上のフロアの大理石でできたフェンスのような壁に両肘をつきながら、まるでマンションかなんかのベランダから呼びかけるように。

 僕は、そんな先輩の細める目を見て察した。今の彼女は裸眼であるが故に、よく見えていないのだ。会う度に、違う色のカラーコンタクトを嵌めている彼女は、ファッションのためもあるが実用的な面もあったのだ。猫は夜目が利くというが、明かりの下では役に立たないらしい。

「お~い、なんか言ってよ~」

 大理石の空間にその声はやけに大きく反響したが、僕は返事をするわけにはいかない。鬼の脚力なら入口まで二~三秒で辿り着けるだろう。とりあえず、ここから無事に脱出した後で先輩に諸々謝罪すればいい。

 僕は、意を決して身体に力を込める――。

「もし小野寺君だったら、他のみんなに私の裸見たって言いふらすから」

「は」

 何でだよ。いくら鬼の目といっても、透視能力なんてないよ……。

「あっ! その声やっぱり小野寺君じゃん」

 目こそ細めているけれど(本当に猫みたいだ)、その口調はいつものからかうようなものだった。

「私がシャワー浴びるまで、そこで待っててよ。鬼だからのぼせたりしないでしょ」

 笑いながら云った東松先輩は、フェンス壁の後ろにあるシャワーブースへと向かった。

 彼女の目的が一体何なのかわからない僕は、ビクビク震えながらお湯に浸かっていた。おかげで、のぼせるどころか風邪を引きそうだった。

 しばらくして、シャワーの流れる音が止むと、先輩は先程のように大理石のフェンス壁に両肘をついて、

「今からそっち行くから」と、意地悪そうに云った。

 僕は、その台詞を聞いて、またしても水中に身を沈めた。今度はゆっくりと潜水したため、穴の中に水が流れ込むことはなかった。

 ――しかし、先輩は階段をさらに降りて、下のフロアに行ったらしい。僕は、そのフロアにどんな設備があるのか未確認だから、彼女の目的がより不明で、一層不安になった。

 でも、そんなものは杞憂に過ぎなかったようで、

「はぁ~……極楽だねぇ~……」

 という漏れ出る声と共に、お湯の溢れ出る音が聞こえた。

「小野寺君、もうこっちのお風呂は入った? こっちにはね、色んな種類のお風呂があるんだよ。今私が浸かってるのは、五右衛門風呂」

 下から反響する楽しそうな声が届いた。流石に少し声は張っているようだが、二人しかいない空間には十分なほど響いていた。しかし、女性と混浴なんて妹ともしたことないぜ……。

「小野寺君、妹いたんだ」

「き、今日初めて使わせてもらいましたので……。だから、初め見た時は吃驚しましたよ」

 僕は、頭を出して、湯船の縁にもたれながら答えた。水温は変わっていないはずなのに、凄く温かく感じた。――どうやら、東松先輩も誰かと喋りたかったらしい。僕は、またも忘れていた当初からの目的をようやっと思い出したのだった。

「温泉じゃないにしてもさ、なんか美肌効果あるような気しちゃうよねぇ~」

 心地よさそうに間延びした彼女の声を聞いて、ふと能登さんとの会話を思い出した。

「東松先輩、先輩は他人から美しいとか綺麗って言われるの嫌だったりしますか」

「え~? そんなの嬉しいに決まってるじゃん。褒めてくれてるんでしょ、当然嫌な気持ちはしないぜ。……否、言われる人にもよるか? まぁでも――」

 美しくなるために、日々努力してるわけだしな、と先輩はより声を張り上げて云った。

「努力かぁ……」と独り言のように云った僕の声は思ったよりも響いたらしく、誰の為でもなく自分のために努力している彼女の耳まで届いたようだった。

「うん。スタイル維持のダイエットだったり小顔マッサージだったり、化粧の勉強だったり、今脱毛にも通ってる最中だよ、私」

「先輩ほどにしても、そんな色々やっていたんですね」

 と言い切って、配慮のない失言だったことに気づく。当然、この発言も壁や床を反射して彼女まで到達する。一度口から発せられた言葉は、掴み戻すことは不可能なのだ。

「あれ? それもしかして褒めてくれてる感じ? でもそうだよ、コンプレックスの塊だからさ私。……その、特に、目とかさ」

 東松先輩は、僕の愚かで失礼な発言を良い方に捉えてくれたらしかったが、僕は酷く反省した。――どんな人間だって自分の容姿に、その程度こそ異なれ、劣等感を持っているものなのだ。そして、それを様々な方法で乗り越えようとしている。だから、それを知らない他人が容易く言及することは、やっぱり避けなければならないのだ。

「今でこそ、自分の一重の目が好きになってきたけど、高校生の時は大っ嫌いだったからさ、二重整形するつもりだったよ」

 ――僕は、そんな彼女の言葉には特に返答しなかった。もちろん、整形に対する嫌悪感なんてものを覚えているわけでは一切ないし、それは当然悪い事でもなければ、今時珍しいことでもない。個人の自由というか、選択肢の一つというだけのことである。ただ僕は、何故かつい最近まで忘れてしまっていた――人と関わることの、言葉選びの、難しさを思い出していた。

 そんな複雑でしかも答えのない、それこそ選択肢が無数にある駆け引きの場から、僕は早々にリタイアしていたのだ。そうして独りでいれば、煩わしい縛りに囚われることもない。僕のような人間には、それによって得られるメリットより、デメリットの方が大きく思えてならなかったのだ。――しかし僕も、高校生の時は大嫌いだったのだ、そんな自分が。

「お~い、小野寺君? まさか、ほんとにのぼせちゃったの~?」

 いつまでも黙っている僕に、心配の声をかけてくれた東松先輩。思えば、彼女は先客が僕だと認識しても初めから全く動揺するような素振りを見せなかった。――何だか、自分ばかりが変に意識して動揺しているようで、酷く情けなかった。

「先輩、そろそろ僕上がりますね」

 努めて平静を装って云ったが、空間に響くその声色は明らかに暗かった。第一、こんなところ他のみんなに見られたらどう言い訳すればいいのだ、特に部長に見つかった日にはそれこそ僕は動揺を隠せないだろう。今更ながら、この状況の可笑しさに気づき、僕は冷水を頭から浴びたように冷めた。

「あ、そう? 悪いね、私の我儘に付き合ってもらっちゃって」

 やっぱり先輩は何も気にしている様子はなく、そう云った。先日の、髪を切られた花子さんと対峙した時にも思ったが、彼女は本当に強い人だ。部長や能登さんとはまた別の強さを感じる。――だから、このサークルで弱いのは、僕だけだ。

「それと混浴したのは、小野寺君だからだよ。特別だぜ」

 ――しかし、これが裸の付き合いというものか、弱い僕と強い彼女との距離が少し縮まったような気もした。

 僕が出入り口の扉を開けると、

「んにゃあ~、溶けりゅう~」

 と、今まで先輩の口から聞いたこともない声が聞こえてきた。まさに漏れ出るように響いてきた、その心底心地よさそうな声色は、僕が既に出て行ったと思って発せられたものだと察する。

 ――否、こんな声色は、いつだったか一度だけ聞いたことがある。そう、彼女がデレた時のものだ。

 僕は、彼女が液体のような猫みたいに溶けていく様を想像して、可笑しくなった。



「一体何をしていたのかな? 小野寺君」

 脱衣場に用意されていた新品のもと思われるバスタオルで身体を拭き終わり、服を着終えた時点で、僕の人生は終わりを告げたようだった。しかし、そんな悪魔の囁き声は、実に綺麗なものでもあった。

「お話がありますので、リビングに来てもらいます」

 悪魔の声色は明るいし、表情も笑顔だ。でも、逆にそれが恐怖と不安を煽りに煽る。何故か敬語なのも、それに拍車をかける。

 僕の腕を掴んで強引に脱衣場から引き出した悪魔――ではなく、もう夏が近いからかノースリーブシャツにショートパンツの部屋着姿である犬養部長のその手は、若干汗で湿っており温かくもあった。そんな犬のように体温が高い彼女は、僕をリードするようにしてリビングのソファに座らせる。――訂正しよう、犬は僕の方だ。

 僕は、ソファの上だというのに正座をして、目の前へ仁王のように立つ部長の膝辺りを見ている。決して、その目線を合わせることなどできない。――訂正しよう、僕は借りてきた猫のようにじっと固まっていた。

 新品のバスタオルが用意されていた時点で、この状況は何となく察していたのだ……。

「あれは来客用に準備していたものだから、そこら辺は気にしなくて結構です。そんなことより――」

 果たしてこの部室に来客があって、さらに風呂を借りるような状況があるのかは不明だったが(しかし流石は配慮の部長だ)、この地獄のような状況は今事実として起きている。しかも、まだ敬語だ。

 こうなったら、先手必勝。プライドも守るものも何もない、僕だからこそできる超必殺技。先手であり、最終手段――。

「すいませんでしたっ」

 僕は、ソファの上に頭を擦り付け、土下座をした。それは、傍から見たら随分とこぢんまりとした格好になったと思う。

 ――あれ? 反応がない。僕は、これ以上奥の手はないから、どうすることもできなくなって恐る恐る顔を上げていく。そうして映った鬼の顔は、驚いているような表情だった。否、困惑していると言った方が正しいかもしれない。

「小野寺君、ちょっとそれはズルいよ」

 犬養部長は、そう云って僕の顔を見下ろした。

 僕には、プライドも守るものもなかったけど、失うものはあったのだ。それは、部長からの信頼。僕は、一番失ってはいけない大切なものに気づいていなかったのである。

「ズルい、ズルいよ! そんな風に天邪鬼の力を使っちゃったりして」

 何故か、やけに楽しそうな声である。てか、鬼の能力なんて使った覚えはないが……。

 僕は、目線を再度落とすと、自分の揃った両手が見えた。それも随分と小さな、子どものようなものが。不思議に思いつつ、上半身を起こすと、着ていた衣服がダボっとずり落ちた。

「早く元の姿に戻りなさい!」

 まるで小さい子を叱るように云った彼女の顔を見上げると、さっきは気づかなかったが、かなり目線より高いところにあるようだった。

 ――今の僕の年齢は、恐らく五、六歳であろうか。全く、つくづく僕の身体は、天邪鬼だ。確かに、こんな幼い子どもが土下座なんてするはずがないし、見たくもない。――訂正しよう、鬼は僕の方だった。

 しかし、それにしてもあまりに部長の態度が急変している。いくら見た目が縮んだからといっても(だから急変したのは僕もなのだが)、僕は僕だし、元から低い精神年齢の方はそのままだ。

「ねぇねぇ、ほっぺたプニプニしてもいい~?」

 やはり小さい子と接するような口調で彼女は云うと、僕の隣に腰を下ろした。

「えっと……部長……?」

 僕は彼女の態度に困惑して云ったが、その口から発せられた声色は変声期前の男児のものだった。反射的に喉ぼとけのあった辺りを指で確認しようとした時、

「え~い! 触っちゃえ」

 犬養部長は、僕の両頬を指でこねくり回すように触り始めた。その顔は、今まで見たことないくらい楽しそうである。

「すっご~、柔らか~」

 必然的に彼女と距離が近くなるから、その甘い匂いが鼻先を掠める。今日は暑いせいか、つけている制汗剤の清涼感ある香りも漂ってきた。

「お風呂上りってのもあるだろうけど、若いから肌スベスベだね~。羨ま~」

 僕の頬を触り続けながら、部長は云った。まぁ、若いというか幼いだけだ。

「これなら写真撮るときも、加工いらずだね~」

 相変わらずの態度で、僕に話しかける部長。――どうやら、彼女は小さい男の子が好きらしい。それも、多分特別な感情の籠ったものだろう。

 またも、意外な側面を知ってしまった。犬養部長ほどの人格者でも、そういった感情というものがちゃんとあるのだなと思って、僕は何だか安心した。人には色々な「癖」というものがあることを実感しつつ、改めてその感情が割り切れないことを確信する。

 まだまだ僕の知らない部長の側面を見たい――でも、彼女に残された時間は、残り少ないのだ。

「あら~どうしたの? 急にそんな暗い顔しちゃって~」

 当の本人は、そんなこと気にしていないという風で僕を猫可愛がりする。やっぱり、犬養部長も強い人だ。

 というか、そろそろ元の姿に戻りたいのに(男児化したことで、何だか許してもらえたみたいだし)、身体が言うことを聞かない。花子さんと対峙した時とは、また違った感覚だ。最近は、力を上手く制御できていると思ってたのに……。

「あれ~言ってなかったけ~? 小野寺君の天邪鬼の力は、私の天狗の力である程度コントロールしてるって~」

 流石に何となくは感づいていたが、説明は受けていない。東松先輩の言う通り、彼女はどこか抜けているところがある。――あの日、菊池彩音と対峙した時、部長に頭を撫でられてから、僕は天邪鬼の能力を制御できるようになったのだ。

「流石に鬼ともなると、天狗と同格かそれ以上だからね、完璧にはコントロールできないけど。でも、今は小野寺君――」

 お子様だもんね! と部長はからかうように云って笑った。

 さらに彼女は、僕の身体を軽々持ち上げて(五、六歳の体重はそれなりにあるはずだが天狗には関係ないらしい)、膝の上に座らせた。

「華陽もね、九尾の狐だから完璧には私の制御下に置けないけど、君と一緒である程度力をコントロールできるようになったんだよ」

 部長は、僕の頭をゆっくりと撫でつけながら得意げに云った。

 彼女の右手が僕の頭髪へ触れる度に、何だか思考が鈍くなっていく感覚に陥る。自分が自分ではなくなっていく感覚――それは、女性化した際にも覚えていたものだった。

 ――多分、身体の方に精神が追いつくように変化しているのだと思う。

 段々と微睡んできた僕は、鬼も狐も支配下に置いてしまうお姫様の胸にもたれかかった。一定のリズムで繰り返される頭頂部への運動と、背中に感じる温かい体温。丁度首の辺りにある胸がネックピローのように嵌って心地いい。今日は使っているシャンプーが同じだから、僕の濡れ髪の匂いが彼女の香りと同化する。

 耳からは、優しい声の子守唄が聴こえてきた。それは聴いた記憶がないのに懐かしく、また酷く安心できた。――このお姫様に、まるで時間も空間も支配されているようだった。永遠にこんな時間が続けばいいのに、と思った。

 しかし、そんな空間に、一匹の野良猫が突然飛び込んできた。

「な、何してるんですか!? 部長」

 僕と犬養部長の姿を見るなり、東松先輩は大声でそう叫んだ。

 部長はというと、一瞬身体をびくつかせた後、誤魔化すように僕の身体を持ち上げ、ちょこんと隣に置いた。

 ――東松先輩が大声を上げるのも無理はない、と急に冷静になってみたところで、ようやく僕の身体は元に戻り始めた。例の如く追いつくように精神も戻ってきたから、さっきまでの状況が気まずくて仕方ない。

「ま、摩伊……。ち、違うの、魔が差したというか、何というか……」

 珍しく動揺して歯切れの悪い彼女。お姫様といっても、このやんちゃで猫被りなどしない野良猫は飼い馴らせないようだ。部長は、先輩の責任ということで、混浴していたことは東松先輩に問い質すつもりだったらしいが、今や叱られているのは彼女自身の方である。

 事情を問い質す野良猫の迫力に、僕は借りてきた家猫のようにじっと固まっていることしかできなかった――でも、東松先輩がそこまで怒る理由が僕にはよくわからなかった。



「カシマさんって知ってる?」

 僕は、都内のとある公園で小学生達にそう声をかけた。

「……うん、知ってるけど。てか、君誰?」

 五、六人いる男子小学生の内一人が答えた。その際、少年達が小さく身震いしたのを僕は見逃さなかった。

「い、いや、まぁそんなのはいいじゃん。それより、カシマさんの噂について聞かせてよ」

 僕は、小学生相手に挙動不審になりながらも、話を強行した。といっても、今の僕も小学五年生くらいの年齢である。だから、早く調査を済まして元に戻らないと、精神年齢が引きずられて調査どころじゃなくなってしまう。もうだいぶ落ちた微かな夕日でさえ、僕の肌を強く刺激する。それは、鬼の力を存分に使っているせいであろう。――やはり早く済ませなければ。

「知らないやつに、そんな簡単に教えられるかよ。お前、ここら辺じゃ見かけない顔だけど」

 小太りの少年が云うと、周りの少年達もそれに同調するような態度を示した。

「ク、クソガキめぇ……」と、僕は心の中で悪態をつく。こっちの事情など微塵も知らないキッズ達は、生意気な態度をとるばかりだった。調査がスムーズに進むと思って、同級生に変化したのが完全に裏目に出た。くそ、こうなったらいっそ中年のおっさんにでもなって出直すか?

「カシマさんの話は、聞いてしまったら危険なんだよ」

 眼鏡をかけた小柄な少年が、ぽつりと呟くように云った。どうやら、僕を心配してくれているらしい。

「そうだ。とにかく、お前のような見知らぬ奴に簡単に教えられるもんじゃないんだ」

 また小太りの少年が云うと、皆背を向けて立ち去ろうとした。――この異様に排他的な態度から察するに、この子達及びその通う学校では一種のタブーとなっているのだろう。こうなったら、奥の手を使うしかなさそうだ。

「待ってくれ。僕は、そのカシマさんを退治しにきたんだ」

 なるべく格好をつけて云ったつもりだったが、生意気な少年達の反応は薄かった。振り返り、怪訝な目で僕を見ている。全く、マセたガキ共だぜ、とやはり心の中で悪態をつきつつも、この白けた反応を予想はしていた。だから、

 僕は、近くに落ちていた石ころを持ち上げ、軽く投擲してみせた。その放たれた弾丸は、公園内に設置された玉当ての壁に勢いよくめり込んだ(もちろん、安全には十分に配慮した上である)。朝日の光を受ければ、何事もなかったように復元されるから器物破損などでもない。

「す、すげぇ~……バケモンじゃねぇか……」

 少年達の感嘆の声が上がる。マセているといっても、所詮ガキはガキなのだ。こんな超パワーを見せられて興奮しない、このぐらいの年頃の男児はいない。全く、単純なガキ共だぜ、とまたも心の中で悪態をつきつつ、再度噂を聞き質した。

「お前、凄いな! そんな馬鹿力持ってるんだったら、本当にあのカシマさんを退治できるかもしれねぇ」

 小太りの少年が興奮気味に云う。他の少年達も目を輝かせながら僕のことを見ている。――悪い気がしない僕は、さらにその場でジャンプしてみせた。その高度は、公園内で一番背の高いジャングルジムを優に超えている。

「す、すげぇ~……」と、またも少年達の感嘆の声。

 全く、単純なガキは僕もだぜ。

 とにかく、その人間離れした身体能力の説得力により、少年達は最近流行り出した噂話について語ってくれた。それは、この子達の通う小学校だけでなく、この街周辺の小学校を中心に広がっている噂らしい。

 ――その怪異譚の詳細は、以下の通り。


 「カシマさん」

 この怪異譚の記されたラインのメッセージを受け取った人の元に、夜中寝ていると、カシマさんという腰から下の下半身を全て欠損した上半身だけの女性の幽霊が現れるという。

 そして、その際にある要求をされる――「右足をよこせ」、「左足をよこせ」と。さらに最後には、「この話誰から聞いた?」と質問をされる。

 この問いに答えられない、または「友達に聞いた」などと答えると、彼女の要求通り両脚をもぎ取られ、殺されるという。

 しかし、彼女を撃退する方法も存在する。それは、最後の質問の返答に、「カは仮面のカ、シは死人のシ、マは悪魔のマ」と、ある種の呪文を唱えれば撃退できるらしい。

 また、そもそも出逢わないという回避方法も伝わっており、その送られてきたメッセージの内容をコピペして、三日以内に三人に送信すればいいらしい。――つまり、チェーンメールである。

 また、カシマさんが悪霊となった誕生譚もメッセージ内では語られている。――ある雪の降る日、自身の容姿の醜さを苦に、鉄道の踏切に立ち入って自殺した若い女性がいた。列車によりその上半身と下半身が真っ二つに割れるよう轢断された女性は、驚くことに、上半身だけで肘を使って這うように動いていたという。これは、寒さ故に傷口が凍って塞がったためであるらしい。しかし、その後流石に息絶えた彼女――上半身だけの幽霊は、失った下半身を探すべく、この世を彷徨っているという。


「ありがとう、助かったよ」

 僕は、その恐怖故か微かに震えながら語ってくれた少年達に感謝の意を示した。

「おい。この話はラインじゃなくても口頭で聞いたって、カシマさんはやってくるんだぞ」

 まだ僕のことを心配してくれているらしい。なんだ、優しい子達じゃないか。

「大丈夫、大丈夫。明日には、もうカシマさんは現れなくなってるよ」

 僕は、再度格好をつけて云うと、少年達に背を向けて立ち去ろうとした。

 ――よし、華陽先輩から聞いた内容と相違はない。彼女達が二か月間も調査した怪異譚と。彼女達が操作するように後から加え流した撃退方法も、しっかり組み込まれている。だから、後は華陽先輩達と合流して、カシマさんを退治するだけだ。

「ま、待って! まだこの話には続きがあるの」

「え」

 先程の眼鏡をかけた小柄な子がそう云って、僕を引き留めた。――どうやら、華陽先輩達の危惧していたことが起こってしまったようだ。まぁそれを確認するために、僕はこうしてわざわざ調査へ赴いたのだ。

「わかった。それについても聞かせてくれ」


 「テケテケさん・カツカツさん」

 テケテケさんとは上半身のみの怪異で、カツカツさんとは下半身のみの怪異である。

 二体の怪異は、深夜この地域一帯の小学校に代わる代わる出現しては、お互いを探し求め彷徨っているという。

 その名前の由来は、テケテケという肘だけで歩く音、カツカツという脚だけで歩く音である。しかし、上半身だけ下半身だけにも関わらず、その身体能力は異様に高く、もし見つかってしまうと物凄い速さで追いかけてくるという。その結果、テケテケさんの場合には下半身を、カツカツさんの場合には上半身をもぎ取られ、殺されてしまう。

 そして、その()()は――「カシマさん」である。

 

「これも、後から付加するように流された噂か……」

 僕のそんな独り言を耳聡く聞き取った、周りよりやや長身の少年が云った。

「俺の通う塾の友達の友達が、その噂を教えてくれた人に会ったらしいぜ」

 なに、これは願ってもない収穫だ。僕は、それに飛びつく。

「その話もっと詳しく」

「お、おう。何でも、その子が放課後この公園で友達と遊んでたら、高校生くらいのお姉さんが話してくれたんだって」

「そ、そのお姉さんの制服ってわかるか」

 僕は、はやる気持ちから早口になる。菊池彩音のチェーンメールの発端となったショート動画、そこに映っていた例の女子と同じ制服なら特定が進む。

「いや~、俺も聞いただけの話だし……」

 長身の少年は、困ったような表情で云った。それも無理はないか、そう簡単に尻尾を掴ませてくれたら苦労はしない。しかも、塾の友達の友達って……、信憑性も期待できそうにないか。それこそ、まさに風の噂というやつだ。

 僕は、今度こそ少年達にお礼と別れを告げて、公園のトイレで元の年齢に戻り着替えると、外に停めておいたロードバイクに跨る。

 ――空に映る夕焼けは不気味なほどに真っ赤で、これから先に対する僕の不安を増長させた。



 今より少し昔、とある漁村でのお話。

 そこには、一匹の、否、一人の美しい人魚の言い伝えがありました。

 村の人達は、この人魚が現れると豊漁になるものだから、彼女が見えた日には大いに喜びました。また、彼女は、人間に予言を伝える存在としても知られていました。不漁に疫病、津波などの災害を事前に村の者へと知らせてくれたのです。

 そのため、この村はそれらの災厄を回避することができ、この人魚を神様のように崇めました。村の家々で、彼女を描いた札を張り付けて、災難避けにするようになったのです。

 しかし、欲深い人間の中には悪いことを考える者もいるものです。否、この小さな村の場合、村民全員がそのように考えたのでした。人間、一度手にした幸福は中々手放せないどころか、もっと欲しくなるものです。

 村の漁師達は、協力してこの人魚を捕獲しようとしました。それこそ、いつも獲っている魚のように。

 純粋で穢れを知らない美しい彼女は、いとも簡単に罠にかかってしまいました。その仕掛けられた罠というのは、村一番の美男子を餌としたものでした。

 純粋で穢れを知らないけれど、彼女にも欲望はあったのです。

 こうして、生け簀に捕らえた人魚を持つこの村は、漁に出れば大漁、災厄も一切ない幸せで裕福な村となりました。

 しかし、人間の欲望というのは底がないからこそ恐ろしいのです。

 漁村の男達は、何年経っても綺麗で美しいままである彼女の肉体が欲しくなりました。

 それから男達は、毎夜代わる代わる彼女と交わりました。

 囚われの身に加え、そんな地獄のような毎日が続いたからでしょうか、不老不死で知られる人魚の身体が急激に老いていったのは。

 この事態に焦ったのは、村人の方でした。繰り返しになりますが、人間、一度手に入れた幸福は手放せないのです。

 追い詰められた人間は、さらに恐ろしいことを考えつきます。

 半身は人間なのだからという乱暴な理論で、人魚の子孫を継ごうとしたのです。

 そうして生まれた人と魚の合いの子は、すぐに次々と死んでいきました。手足の過剰や欠損、頭に大きなコブのようなものが二本生え出ていたり、その容姿は酷く醜い者ばかりでした。

 もちろん男達は、執念深く諦めません。

 最後に――というのも人魚が男の相手に疲れて遂に死んでしまったわけで――生まれた子どもは、生き延びました。例の餌にされた美男子との子です。

 とにかく、次の犠牲者は、この子になりました。

 一方、死んだ人魚の亡骸は、天日干しにされました。それこそ、いつも獲っている魚のように。その木乃伊のような姿には、あの美しかった人魚の面影はどこにも見出せません。

 肉欲を満たした村の男達は、今度は食欲を満たそうとしたのです。何しろ、人魚の肉を喰らえば、不老不死になれるのですから。

 しかし、幸福には必ず揺り戻しがあるものです。この村の場合は、欲望に溺れたことに対する神様の罰でしょうか。否、人魚による祟りでしょう。

 人魚の肉を食べた村人全員、女子どもも含めて、全滅しました。

 唯一生き残ったのは、肉を、母親の肉を食べなかった人魚の子だけでした。

 地下深くにある暗くて汚い生け簀から、その囚われの身がとある女性によって解放されたのは、それからすぐのことでした。

 彼女は、十八歳の、母親に似た美しい女性に育っていました。




「お~い、深海~。ぼ~っとして、どうしちゃったの~?」

 華陽ちゃんの呼びかける声で、いつも私は戻って来られる。もう過ぎ去ってしまったはずの、囚われた過去から。

「ごめんごめん。私、また考えごとしちゃってたみたい。ごめんね――」

 私の喋りを静止させるように、華陽ちゃんの右人差し指が唇に添えられる。左手では、彼女の好物である、食べかけの昆布おにぎりを持っている。一方の私は、食事というものが苦手だから、エネルギー補給用のゼリー飲料を飲み終わって、電子タバコをふかしている途中だった。彼女が健康によくないからと紙タバコを咎めたため、最近移行したばかりの――。

 でも、そんな心配は無用であることを華陽ちゃんも私も十分に承知している。何故なら、私は、私達は、人間ではないから。だから、タバコなんかで健康を害することなどないし、私は嫌いな食事だって一切取らなくても何ら問題ないのだ。

「もう、謝るの禁止って何度も言ってるじゃん。……また昔のこと? あんまり、考え過ぎもよくないよ」

 私のことを注意しながらも、その口調は優しく、また心配してくれていた。――いつもそうだ、私は彼女に心配をかけないようしているけれど、すぐに暗い顔をしてしまう。

「深海。私、暗い顔しないでなんて言ってないよ。それに、心配かけさしてよ――」

 友達なんだからさ、と華陽ちゃんは笑顔で云った。云ってくれた。

「うん。ごめ……じゃなくて、ありがと」

「はい、よくできました。……あと私、深海の暗い顔もクールでカッコよくて好きだよ」

 彼女は、私より少し背が低いから、自然と上目遣いになる。この子は、こんな調子で私をからかってくるのだ。――でも、私はそんなやりとりが好きだったりする。

 好きかぁ……。華陽ちゃんは、頻繁に私へ言ってくれるけど、まだ私からは一度も言えたことがない。否、口が裂けても言えない。一方彼女は、彼女のことだから、その幅広い交友関係の女子みんなに軽々しく言っているのかもしれない。

 できることなら、華陽ちゃんを私だけのものにしたい。その笑顔も、上目遣いも、からかってくれるのも全部私一人が独占したい。もちろん、そんなことは叶わないとわかっている。だって、彼女は、朝日のように眩しいから――太陽の光は誰にでも平等に降り注ぐものなのだ。

 ――でも、私には、華陽ちゃんしかいない。

「ほら、それじゃあ、ちゃっちゃっと女子大の潜入調査に行くよ」

 おにぎりを食べ終えた華陽ちゃんは、タバコをふかし終えた私の右手を握ると、喫煙所から広場の方へと歩き出した。その歩幅は、小さくゆっくりである。

「やっぱり、みんなの視線感じるね」

 私は、なるべく少ない動作で辺りを見回しながら云った。

「そう? 気にし過ぎだと思うけど。でも、私からしたら、みんなに見てもらいたいからいいけどね~」

 色鮮やかな浴衣を身に纏った華陽ちゃんは、心底楽しそうに云った。そんなはしゃぐ彼女とは裏腹に、下駄の音がコンクリートに当たって、カツカツと静かに虚しい音を立てる。

「カツカツ? 下駄の音といったら、カランコロンでしょ」

 またも楽しそうに云った華陽ちゃんは、さっきとは打って変わって大幅に歩き出した。手を握られているから、私もそれに釣られる。

「浴衣着てるんだから、そんな大股で歩いちゃダメでしょ、華陽ちゃん」

「もう~、深海はすぐそうやって怒る~」

 立ち止まって、また上目遣いで私を見つめる。カラコンでもしているかのような綺麗なブラウンの瞳の中に、私の顔がぼんやりと映っている。

「早く済ませないと、小野寺君との待ち合わせに遅れちゃうから行くよ」

 華陽ちゃんは私を急かすように云って、また歩き出した。立ち止まったのは彼女の方だったが、まぁこれが彼女の性格なのだ。

 私の手を引っ張る小さな左手が可愛らしい。ちょっと汗ばんでいるのも愛おしい。先を行く彼女の浴衣から伺える、白いうなじが透き通るほどに美しい。

 いつもより高いところで留めたポニーテールが、フワフワと浮いているようで思わず触れたくなる。その美しい金髪の下に目を落とせば、藍色をベースに白色の百合の花が咲き乱れている。その帯は、鮮やかな輝くような黄色で締められている。さらに下に目を遣れば、黒色の下駄が全体をまとめさせ、鼻緒の黄色が帯と呼応するように、これまた輝いている。

 ――美しい、とただ純粋に思った。

 反対に私の服装に目を向ければ、スウェットパーカーとショーパンに、脚を露出したくないから季節外れの――、

「え~何~? この浴衣何回か見たことあるでしょ? もしかして、私の可愛さに見惚れちゃってんの?」

 私の視線に気づいた華陽ちゃんは振り返ると、意地悪そうに云った(浴衣は所謂彼女の戦闘服で、依頼ごと、というかその日の気分ごと何着かある中から選択しているのだ)。そして、続けて、

「大丈夫。深海も、すっごく可愛いから」と云った。云ってくれた。

「あ、ありがと……」

 とお礼を云った私の顔に、華陽ちゃんは急に近づき耳元で、「今日も着てるんでしょ? しかも今日は黒タイツ履いちゃってるじゃん――えっちだね」と囁いた。その瞬間、甘い香水と日焼け止めの混ざった匂いが、私の鼻先を包み込むように香った。彼女の柔らかくて薄くて、妖魔を纏った肌は、少しの日光でも焼けてしまうのだ。

「は、早く行かないと……! も、もう陽が落ちちゃうよ……」

 こうして、いつもからかわれているのに、一向に動揺を隠せない私。――でも、やっぱりこのやりとり、この時間が大好きだったりする。


 この女子大で流布していたカシマさんの噂に変化は見られなかった――と思ったのだが、微妙に要素が付け加えられているようだった。だから、最初私は、華陽ちゃんが指摘するまでスルーしてしまっていた。一応事前にSNSなどをネットサーフィンして、そこら辺のことは調べておいたのだが。

 カシマさんの話を聞いてしまった、もしくは、ラインが送られてきた人の元に現れる彼女は、夜中に両足を奪ってくるとされる。その際の台詞として「右足をよこせ」「左足をよこせ」と要求し、最後に「この話誰から聞いた?」と質問してくる。

 しかし、()()()()()()()()()()、一つ質問されるとのことである。

「わたしきれい? って……それじゃあ、まるで口裂け女じゃない」

 華陽ちゃんは、調査に協力してくれた女子大生二人に対して云った。

 ちなみに、こうして小中高や大学などで噂の調査をする際は変に装わず、大学でオカルト研究していることを素直に伝えている。その内容が内容だけに、こちらの素性を隠蔽しない方が相手も警戒心を解きやすいのだ。それに、

「そうそう、口裂け女。整形手術に失敗してっていうあの。……てか、その浴衣めっちゃ可愛いね。私もこの夏、浴衣着てお祭りとか行きたいな~」

 一人の子が楽しそうに云った。そう、華陽ちゃんの容姿とコミュニケーション能力をもって話を聞けなかったことは一度もないし、特に今回は同年代の同性だから、その力が遺憾なく発揮されている。ここで少し意地悪な言い方をしてしまえば、彼女は、自分が可愛いことを知っているし、それをふんだんに利用してもいるのだ。

 一方の私は、その隣に立っての書記係である。でも、これもある種の相手の警戒心を解く一つのパフォーマンスみたいなもので、とんでもなく記憶力のいい華陽ちゃんにとっては内容の筆記など必要ないのだ。――だから、私は別に必要ないし、むしろ足手まといなのだ。

「ほんとに可愛いねぇ~、柄も色も素敵だし。あのさ、よかったら一緒に写真撮ってもらってもいいかな」

 もう一人の子も楽しそうに云った。二人とも都会の女子大生らしく、凄くお洒落だ。

「あっ、よかったらあなたも一緒に撮りましょ」

 二人のファッショナブルな女子は、私に気を遣ってくれたみたいである。こういう展開はしばしばあるのだ、だから、やっぱり私は足手まといなのだろう。

「うん! 深海も一緒に入ろ」

 華陽ちゃんは、私を手招きした。こんな時には、いつもこうやって私を呼んでくれる。彼女も私に気を遣ってのことだろう。

「一緒に撮ろ、撮ろ。……そういえば、二人の名前も聞いてなかったし、私達も言ってなかったね」

 と、三人の気を遣ってくれた女子達は笑い合っていた。私もその中に入って、一緒に笑う。目だけで。こういう時、マスクは便利だ。口は笑っていなくても、目の筋肉だけ少し動かせば誤魔化せる。私は、華陽ちゃんをはじめとした部員のみんなの前以外では、マスクを外さない。特に、こういった知らない人と対峙する調査の際には必須である。何だか守られているようで安心するのだ。

「華陽ちゃん、これ、インスタに上げてもいいかな」

「うん、いいよ~。私も上げるね、さゆりちゃん」

 などと三人は会話しつつ、SNSの交換もしているようだった。それにしても凄いコミュニケーション能力の人達だ、もうお互いを下の名前で呼び合っている。

「それでさ、その噂の内容もう少し詳しく聞かせてよ」

 ひと段落ついた後で、華陽ちゃんは話を戻した。この一連の流れは、彼女の調査テクニックの一つでもあったのだ。

「詳しくっていっても、私も人から聞いた話なんだけど――」

 カシマさんが最初にしてくるようになった「わたしきれい?」との質問に肯定すると、長髪で隠れていた醜い顔を晒した後、「右足をよこせ」「左足をよこせ」と要求されるらしい。しかし、否定及び答えられない場合にも同様の結果になるというから、質が悪いし無意味な問いかけである。また、彼女が醜い顔になった所以として、整形手術に失敗したからと付け足されていた。

「まぁ、撃退方法も回避方法もあるから怖くないけどね~」

 と、さゆり――ちゃんは、半ば茶化すような態度で笑って云った。大学生ともなれば、本気で信じているわけじゃないのだろう。それより、私達の流した撃退方法がしっかり伝わっているようで安心した。

「オッケ~、ありがとね。すみれちゃんは、他になんか知ってる?」

 そろそろ切り上げようとしている華陽ちゃんは、一応もう一人の子に話を振ったようだった。私も筆記用具をポケットにしまい、撤収の準備を進める。

「あっ。そういえば、私も聞いた話なんだけど。何でもそのカシマさん、夕方頃街に出て、人面犬の散歩してるんだって」

 すみれ――ちゃんも、茶化すような態度で笑いながら云った。

「それ、私も誰かから聞いたかも。すっごい不細工なおじさんの顔してるんでしょ?」

 キモいよね~、と二人は笑い合っている。

 今はそんな容姿の問題など、どうでもいい。人面犬なんてものは、総じて気持ちの悪いものなのだ。醜い男の、しかもさらに醜い中年のおっさんなのだ。

「さっきのカシマさんの話もそうなんだけど、その人面犬の話って誰から聞いたかわからないよね?」

 華陽ちゃんは、二人とは打って変わって真剣な態度で云った。

 そう、これは明らか人為的にデザインされているのだ。私達の危惧していたことが起きてしまっている。そして、その犯人は――、

「……う~ん。……あっ、思い出したかも。確か、私の友達の友達が直接聞いたらしいんだけど」

 ――女子高生。この女子大で、カシマさんの噂に「口裂け女」と「人面犬」の要素を付加させた人物。ここ最近起きた、一連の「デザイン怪異事件」の首謀者。

「ビンゴだね」

 華陽ちゃんは、私の方に振り向いて云った。その表情は笑顔だったが、どこか不安そうでもあった。

 私達と――探偵との合同調査で尻尾を掴んだ存在。だからこそ、カシマさんを退治せず、ここまで泳がせていたのだ。そうしたら、見事調子に乗って、どんどん尾ひれを付けてくれちゃって。

「でも、カシマさんって、どんな顔してるのかね。整形に失敗したっていうけど、私も鼻とかしたいと思ってたから、なんか怖いなぁ」

 さゆりちゃんは、すみれちゃんに向かって云った。こちらも、その表情こそ笑っていたが、どこか不安そうでもあった。

「だよね。私も一重だからさ、二重の切開したいんだけど、やっぱりちょっと怖いよ」

 そう答えたすみれちゃんも、同様の顔である。

「その点、華陽ちゃんは、見た目のコンプレックスなさそうで羨ましいなぁ。すっごい美人って感じ」

「美人は美人でも、可愛い系だよね」

 二人は、華陽ちゃんの顔面や身体を舐め回すように見ながら、楽しそうに続ける。

「肌も凄い綺麗だし、ムダ毛一つないじゃん。やっぱ脱毛とかしてるの?」

「メイクも薄いし、綺麗な二重だし……ってそれカラコンじゃないんだ。顔も小っちゃくていいな~」

「細くてスタイル良くないと、浴衣とか似合わないよね。オススメのダイエット方法とかあったら教えてよ」

「てか、彼氏いるの? 私もイケメンの彼氏欲しいな~」

 二人の質問攻めに遭っている華陽ちゃんは、一切動じず、何か考え事をしている様だった。品評会をしていた二人も、別に返答を本気で求めていたわけではないらしく、特に気しない様子で、

「カシマ――レイコさんも、華陽ちゃんみたいに綺麗な顔に整形してもらってたら、そんな悪さする幽霊にならずに済んだろうね」

「え? 今なんて」

 華陽ちゃんは、そこでようやっと彼女達の会話に反応した。私も聞き逃さなかった。

「え、だから、華陽ちゃんみたいに綺麗な顔に――」

「そこじゃなくて、その前」

「カシマレイコさんも……ってとこ?」

 ――「カシマレイコ」。それは、あの有名な口裂け女の本名である。

「これは思ってたより、まずい状況かもね」

 華陽ちゃんは、私に向かって云った。

「うん、急ごう」

 私も、それに答える。

 ――私達は、さゆりちゃんとすみれちゃんにお礼を云って、その場を後にした。次に向かうは、

「小野寺君達が待ってる小学校へ急ごう」

 華陽ちゃんは、浴衣と下駄とは思えないスピードで歩きながら云った。

 ――小野寺真榎。私は、新しく入ってきた彼のことが、男性である彼のことが――大嫌いだった。



「はくしょんっ」

 と、僕は大きなくしゃみをした。どうやら、誰か僕の噂をしているらしい。何てことを考えている暇はなくて、早く集合場所の小学校に急がなければ。

 そこで、夜中に現れたカシマさんを退治するという段取りだ。今日のために三年生の二人は、カシマさんに出逢うための条件をあらかじめ満たしている。それに、この事件を彼女達と協力調査していた「探偵」なる人も現地に来るらしい。その人物についての詳細は聞かされていないが、もちろん怪異事件に精通した者である。犬養部長との知り合いらしく、今回のように合同で調査していることも多々あるらしい。だから、僕の役目なんて、前回の案件以上にないと思っていた。

 でも、そんな僕に任された(天邪鬼の能力で年齢操作できるからと任された)小学生達への調査結果は、華陽先輩が危惧していたものだった。

 ――何者かによって、噂が付加されていた。

 例によって、僕は詳細を聞かされていないのだけど(なるべく秘密裏に進めたいのだろう)、その何者かの目星がついたとのことで、今回の案件解決に踏み切ったらしい。――泳がせておいて、尻尾を出す機会を待っていたのだろう。

 そんな犯人は、懲りずにまたも意図的に噂を流し、怪異に尾ひれを付け加えていたのだ。自身の尻尾が掴まれているとも知らずに。

 とにかく、集合場所に行って、彼女達に事の子細を伝えなければ――僕は、安全運転を意識しつつロードバイクを急がした。くそ、街中に人がいなければ、鬼の脚力で飛ばしていけるのに。

 ――って、あれ?

 僕は、急ブレーキを踏んで、その異様な空間を見回す。いつからだ? 周りに人なんか一人もいないじゃないか。おいおい、都内の夕暮れの住宅街だぞ。こんな家宅が密集して、その網目を縫うように張り巡らされた道路で、人がいないなんてことあり得るか?

 僕は、先程のくしゃみがやけに大きく反響したことに、ようやっと違和感を覚えた。随分と前から、異空間に紛れ込んでしまっていたらしい。

 ピコン、とラインの通知音が鳴る。よかった、圏外ではないようだ。

 スマホをポケットから取り出して、内容を確認する。

「小野寺君、これ見て!」と、能登さんからである。

 ピコン、とURLが続けて添付される。それを開く。

 ――犬の動画? 何でこんな忙しい時に、彼女はこんなものを送ってくるんだ。僕がフィールドワーク中だということは、部員全体に共有されているはずだが……。

「うわぁ」

 僕は、スマホを危うく落としそうになった。

「じ、人面犬……」

 ピコン、と通知音が何回か連続で鳴る。それらは全て、人面犬の目撃情報だった。動画や画像が、呟き型SNSのTに投稿されていた。

「T? Xでしょ」

 時間や日付を確認すると、リアルタイムに投稿されているらしい。それを、能登さんがわざわざ僕に送ってくれた理由は――、

「場所は、この街だ」

 僕は、先程通ってきた景色と画面内の景色とを照合させた。とすると、この異様な雰囲気に包まれた空間は、こいつの仕業である可能性が高い。それにしても、

「気持ち悪いし、不細工だなぁ」

 僕は、画面内に映ったおっさんの顔を見ながら、思わず呟いた。犬養部長のシロとクロは、同じ犬でもあんなに可愛かったのに。というか、投稿された内容も、ほとんど見た目の醜さに対する悪口ばかりである。目撃した人達は人面犬だとはしゃぎつつ、その実ただの不細工な犬だと思っているのだろう。

「うるせぇんだよ」

「え」

 僕は反射的に云って、生暖かい風が吹いた方、声のした方――下の方を見る。

 ――人面犬。

 スマホの画面内に映る姿と同じ、人間の顔をした犬。詳しくない僕は犬種なんかわからないが、大型犬でないことはその体躯から見てわかる。毛並みはボサボサで汚く、土やゴミのカスが付着している。そんな獣の身体なのに吻はなく、顔面だけは人間である――しかも、中年のおっさんの。

「ほっといてくれよ」

 人面犬はそう云って、僕を見上げながら睨めつける。その声は、やはり人間のもので、大人の男性にしては少し甲高いものだった。一瞬の間見えた口内の歯並びはガタガタで所々抜け落ちていたが、人間離れした、鋭く尖った四本の犬歯だけは異様に綺麗だった。

「勝手だろ」

 彼は続けて云ったが、その口調や表情は怒っているようだった。僕は、その姿を見て、初めて気持ち悪いや不細工という以外の感情が芽生えた。

 ――恐怖。

 急いでスマホをポケットにしまい、ペダルに足をかける。逃げるように勢いよく発進した僕の、すぐ隣に――人面犬は並んでいた。

 おいおい、嘘だろ。こっちは鬼の脚力で漕いでるんだぞ。僕は、この異界をいいことに、安全運転など全く考慮せず全速力でロードバイクを走らせていた。時速で言ったら、およそ百キロは出ているスピードだ。

「……くそっ」

 僕は、ハンドルを握ったまま上半身を大きく反って、鋭い牙を剥き出し突撃してきた汚い身体を避ける。――人面犬に噛みつかれた箇所は腐敗し、その人間は同じように醜い人面犬と化すという。

「ゾンビか吸血鬼かよ」

 僕は、SNSの目撃情報に添えられた、そんな文章を思い出して云った。一体こいつは、どこから湧いた怪異なんだ。僕達の普段の調査では、蒐集できていなかった噂なのか? それとも、こいつも――。

 鱗雲が一面を覆い、真っ赤に染まる不気味な空の下、僕は人面犬とカーチェイスを繰り広げていた。

「お前は、いいよなぁ? そんなイケメンに生んでもらって」

 彼は、僕のロードバイクと並走しながら云った。その長く汚れた赤黒い舌を「はぁはぁ」と出し、口角泡を飛ばしながら。

「はぁ? 僕はそんなんじゃない」

 僕も「はぁはぁ」と息を切らしながら、返答する。というか、こいつは会話できるのか?菊池彩音に花子さん、僕が出逢った二体の怪異は、およそ意思の疎通などできなかった。よりによって、一番人間とかけ離れた姿のこいつが喋れるとは。

「だから、うるせぇんだよ」

 人面犬は、臭そうな涎をまき散らしながらまたも飛びかかってくる。こいつ、こんな見た目のくせして、一丁前に容姿にコンプレックスを抱いてるのか? くそ、だったらまずは、歯の矯正でもしたらどうだ――僕はそれをまたしても避けるが、何しろ自転車上だからバランスを崩す。

「うわっ! ……とっ」

 何とか体勢を保ち、曲がり角へ折れ込むように入る。転倒することは免れたが、スピードはだいぶ落ちた。追撃が来る前に、加速しなければ。

「……あれ?」

 僕は、鬼の脚に力を入れつつ、後ろを振り返った。そこには、あの不細工な人面犬の顔などどこにも見当たらなかった。

 ――僕はそこでようやく、あの怪異の縛りに気づく。あいつは、曲がれないのだ。もっと早くに気づくべきだった、こんな住宅街の迷路のような道で直線ばかりなはずがないじゃないか。

 彼の用意した異境から脱出した僕の視界には、既に陽が落ち切った真っ暗闇の空が広がっていた。


 人面犬とのカーチェイスを終えた僕は、何とか遅刻せずに小学校へ到着することができた。

 校門前に自転車を停めて、閉まっている門を飛び越え、相変わらず慣れない夜の学校へと侵入したが――辺りを見回しても人の気配はなかった。まぁ、それも当然か。今の時刻は、二十時を少し過ぎた頃である。高校ならともかく、この時間に小学校に児童がいるわけもないし、連絡が入っているはずだから教員もいないのだ。――この都内の某小学校から広まったという噂、その怪異譚に登場するカシマさんを()()するという連絡が。

 それにしても、集合時間の二十時を過ぎているというのに、三年生の二人や探偵とかいう人の姿も見えないのは予想外だった。探偵は置いといて、三年生の二人は何等かの公共交通機関を利用して来ると思うから、自転車が停まっていなかったのは不思議ではない。まさか、駐車場に自動車で来ているということもないだろう。免許は持っていたとしても、マイカーまで持っているとは思えないし、わざわざレンタカーを借りたとも思えない。東京だから交通の便は悪くないし、都内でマイカーを持つのは凄くハードルが高いことなのだ。否、あるいは、この活動の莫大な報酬額から考えるに、二人は大学生で既にマイカー所持者なのかもしれない。

 そんなくだらないことを考えながら、僕は校舎の方へと向かう。カシマさんには細かい時間指定は存在しないため、昔使われていたという用務員室で布団を敷いて狸寝入りする作戦である。

 ――カシマさんは夜中に現れる。しかも、眠っている時に。それは、夜という暗闇の支配する時間と、布団から脚を出して寝ている時の恐怖心と不安感から生まれたルールだと思う。無防備に晒されている両足を奪いに来る女の幽霊。それが、自身の醜さ故に自殺し、その際に下半身――両足を失ったカシマさんという怪異なのだ。

 そこで、僕は誰かの視線を感じた。その方向を探す。夜の真っ暗な校庭に立っていると、いくら鬼の目といってもすぐには見つけることができないのだ。しかも、今は曇り空である。先程の不気味な色の鱗雲は、厚い大きな雲に覆い隠されてしまったようだ。

 そんな電灯はおろか月明かりすらない校庭から、校舎の方に目を遣る。それを下から順番に見上げていくと、一つの人影が見えた。視線の正体は、この人物らしい。

 僕は、校舎三階教室のベランダから見下ろしている者の正体を確かめようと、鬼の目を凝視させる。

 ベランダのフェンスに両肘をついて、こちらを見ているのは、どうやら女性であるらしい。なんだ、三年生の二人はもう着いていたのか、彼女達は集合時間に少しも遅れていなかったのだ。

 背後の教室の電気すら点けていないのを見ると、僕を脅かそうとしている華陽先輩だろう。だが、その手には乗らないぜ。僕は、人の視線には敏感なんだ。先手必勝、逆にこちら側から話しかけてやろう。

「お~い、降りてきなよ~」

 そんな大きい声で云ったつもりはなかったが、この静寂な空間にやけに反響して聞こえた。これで少しは、先輩を見返せたであろう。僕は、勝ち誇ったようにしてもう一度彼女の方を見上げた。フェンスに両肘をついていたと思っていたのは、よく見ると腕組みをしているらしかった。

 そんなどうでもいいことに気づいた瞬間、彼女は、首を縦に振り頷いたようだった。

「え」

 彼女は、ベランダのフェンスから、飛び降りた。

 否、それは、落ちた、と言った方が正しい運動だった。

 生暖かい風が吹くのと同時に落下してくる刹那、僕の目は見逃さなかった――彼女の下半身がないことを。彼女は、華陽先輩なんかじゃなかった。否、人間ですらなかった。

 落ちてきた上半身だけのそれは、まるで衝撃を吸収するように、地面に両肘をついて着地した。そもそも、何で僕は先輩だと思っていた人物に対して「降りてこい」などと呼びかけたのだ。もうあの瞬間から、僕もこのフィールドも支配されていたんだ。

 目の前に現れた()()と対面して、僕は本能的に逃げる体勢をとる。その本能の正体はもちろん、恐怖、である。後退りするように逃避の準備を進める僕と、()()の見上げる目線が合った。ようやっと目視できた、顔面を覆う長い黒髪からごく僅かに伺える表情は、微笑んでいるようだった。

 僕は、その不気味な上目遣いを見て、脚に目一杯の力を込めて走り出す。理性ではなく、野性の本能で走る。人間の脳には猿の時からインプットされているのだ、化け物に出逢ったら逃げろ、と。

 体裁など気にせず校庭を猛スピードで走る僕の背中に、ある音が迫ってきた。

 テケテケ。テケテケ。テケテケ――。

 両肘が地面を突くことで鳴っているのであろう、その音が段々とはっきり耳に入ってくる。静寂な夜の学校という空間には、もはやその怪音しか響いてこない。

 おいおい、嘘だろ。さっきの人面犬といい、何でどいつもこいつも鬼の僕に追いつけるんだ。

 すぐ背後に、その忌まわしい音が轟く。僕の最も身近である体内で鳴り響く、恐怖と運動による脈拍より早く大きい音で。

 うるさい。うるさい。うるさい――。

 そんな僕の感情など無視して、僕を捕えようとする恐ろしい足音――否、手音がさらに近づいて、一定のリズムを刻みながら聞こえてくる。


テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。テケテケ。


 ()()()()()()()撃退方法は、あの小学生達の間では伝わっていなかった。でも――。

 僕は、テケテケさんの手音が止まった刹那、方向転換した。いくら間抜けな僕でも、出鱈目に広い校庭を走り回っていたわけではない。

 僕が急カーブして、校舎の方へと走っていくと、恐らく両手を伸ばして背中に飛びつこうとしたテケテケさんは、そのままの勢いで校庭の隅まで吹っ飛んでいった。その先にあったグランドと体育館を仕切るフェンスのような壁へ、物凄い爆音を立てて激突したようである。

 僕もそのままの勢いで、校舎の中へと入り、急いで階段を駆け上がる。まさか、さっきの人面犬との競争経験がこんなところで役に立つなんて――否、違う。僕は今更、テケテケさんと人面犬との共通点に気づく。嫌な予感はビンビン感じているが、今は目の前のことだけに集中しよう。

 校舎内に入り、階段を上ったのにはわけがある。この依頼を熟すにあたって、情報の海に溺れそうになりながらも書斎で過去の活動レポートを調べておいてよかった。その記録の中からピックアップした「上半身の怪」という類型には、共通して階段を上れないという縛りがあった。

 こんなところからも、先人達の知恵の偉大さをつくづく思い知る僕は、三階教室のベランダへと出る。そこから、まるで先程のテケテケさんのように、校庭を見下ろす。

「い、いない……」

 思わず呟いた僕は、鬼の目をフル稼働してグランドを見回す。体育館との境界にある壁には、人間の上半身だけの激突跡が生々しく残っていた。――また、視線を感じる。その方向は、今度は下にあった。例に漏れず階段を上れないのであろうテケテケさんは、まるでゴキブリみたく校舎の壁をよじ登り、ベランダに立つ僕をすぐ真下から微笑んで見上げていた。

「ひっ」

 と、短い悲鳴を上げた後、僕はさらに階段を上るべく教室内へと急いで引き返す。

 ――屋上だ。上半身の怪の弱点として、高所が苦手というものもあった。

 またも階段を駆け上がり、屋上へと出る。そのだだっ広い空間には、室外機や排気管が無機質に設置されているだけで、他には何もなかった。

 ここら辺で最も空に近い高さだというのに、厚い曇に覆われているせいで、やはり月の明かりは微塵も射していない。

 テケテケ。

「えっ」

 僕の目には、その隠された美しい月の代わりに、醜いカシマさんの姿が映った。

 自身の容姿を苦に自殺した彼女――やはり漆黒の夥しい毛量によって、顔面の全体像は把握できない。そのあったはずの下半身と、上半身の境界は止血するように赤黒く凍っている。

 ――醜い。という以外の言葉では表わせられない。

 這うような格好をとった上半身だけの身体には、赤いコートのようなものを身に纏っているが、下半身に当たる部分は、その両足とともに千切れてなくなっている。

 ようやく、その姿をしっかりと視認した僕は、またも背中を向ける。その背筋に、凍えるような寒さを感じて鳥肌が立つ。

 ――怖い。という以外の言葉では表わせられない。

 しかし、もうこれ以上、上へは上れない。

 だから、僕は下を見た。見るしかなかった。――そこには、真夜中のプールがその大きな闇を口のように広げて横たわっていた。真っ黒な夥しい量の水の塊は、さらに恐怖心を増大させる。これが人工的なプールではなく自然の海だったならば、さらにどれほどの不安感を煽られただろうか。

 このカシマさんは、他の上半身の怪とは違って、高所は弱点ではない。それもそのはずだ、だって彼女は、最初から三階という高所にいたじゃないか。

 恐怖に感情も思考も支配されていた僕は、今更そんな当たり前のことに気づいた。でも、気づいたところでもう遅い。

 それに、恐怖の支配から解き放たれたわけでもない。そんな僕は、上がダメなら下だと言わんばかりの愚かさで、奈落へと飛び込んだ。否、自暴自棄になって落下しただけだった。

 落ちていく刹那に、漆黒の水面に映る――満月が見えた。それは、いつか見たステンドグラスのように美しく輝いていた。

 どぶん。

 と、音を立てて沈み込む僕。結構な高さから落ちたといっても、この程度なら鬼は痛みさえ感じない。ただ、沈んでいくだけだ。

 どぶん。

 と、音を立てて沈み込むカシマさん。当然、水が苦手なわけでもないようだ。

 うつ伏せに沈んだ僕の背中を、彼女はその両手で捕える。

 必死にもがいて抵抗するが、ただ大量の水泡が虚しく巻き上がるだけである。僕の背中を掴んで無理やり仰向けに反転させた彼女は、裂けたような口から泡を出しながら云った。

「わたし、きれい」

 は? 聞いていた話と違うじゃないか。水中を不気味に振動させて、妖しくもどこか艶やかな女の声で発せられた、予想外の質問に僕が戸惑っていると――沈みゆく重力とその水流によって、隠されていた顔面が明らかにされた。それは、まるで整形手術にでも失敗したかのような酷い様相。この世のものとは思えない顔。否、そうなのだ、もう彼女はこの世の者ではないのだ。

「右足をよこせ」

「左足をよこせ」

「この話誰から聞いた」

「カは仮面のカ、シは死人のシ――」

 闇のような水中でもがき苦しむ僕の、必死の呪文は最後まで唱えられなかった。でも、どうせ無駄だったろう。だって、彼女は――。

 両手は、僕の下半身の方へと移動する。

 女性の細い手とは思えない怪力で、僕の右足をもぎ取る、僕の左足をもぎ取る。

 溢れ出した大量の血液によって、視界は赤黒く染まった。

「コレモ、チガウ」

 ――どうやら、水に弱いのは、鬼の方だった。

 一向に回復しない下半身に走る激痛によって、意識が飛びそうになる。

 呼吸もできず、抵抗する力もなくなっていく。

 苦しい。苦しい。苦しい――。

 カシマさん、君も、こんなに苦しかったんだな。

 僕の脳内は恐怖という二字に代わって、死、という一字に支配された。

 僕は、最後の力を振り絞って、両腕を弱々しく掻いて水に混じった血液を散らした。

 どうせなら、最後に美しい月を見上げたかったのだ。

 しかし、そんな僕の目に映ったのは、やはりカシマさんの醜い顔だった。

 ――意識が遠退いていく。

 ――もう少しで、楽になれるのだ。そう思うと、幾分かマシに思えた気がした。

 どぶん。

 と、音を立てて沈み込む何か。

 耳に入ってきた美しい飛び込み音の次には、綺麗に色素が抜けたロングウェーブヘアーを靡かせる、美しい――人魚の姿が目に入った。

 美しい。美しい。美しい――。

 僕の脳内は、人魚の、月光に照らされて綺麗に輝く鱗の付いた尾ひれ――下半身に支配された。



 何で私は、この子を助けたんだろう。

 別にどうだっていいし、死んでも構わないはずなのに。否、むしろ死んでくれた方がマシなのに。

「あ、ありがとうございます……。ごほっ、ごほっ……」

 陸に上がったことで急速に回復した両足とは対照的に、口や鼻などの穴から体内へと侵入した大量の水で苦しそうだった。でも、お礼の方を彼は優先して言った。

 ――そうだ、私は、華陽ちゃんに言われたから彼を助けたんだ。これは、私の意思に従った行動ではない。

「小野寺さん、大丈夫ですか? 間一髪のところで助けられてよかったです」

 私は、彼の目から顔を逸らし、スク水に入った水分を穴から抜きながら云った。もちろん、これも私の意思による言葉ではない。ただの社交辞令だ。

「は、はい……。ほ、本当に助かりました……」

 まだ苦しそうにしながら云った、彼の赤い眼が私の横目に入る。プールの水で濡れていたわけではなく、涙を流していたらしい。男のくせに情けない。それに、この子は鬼なのだろう、水で溺れる鬼なんて聞いたこともない。

 彼の充血した目の先に気づく。その視線は、私の両足に向けられていた。濡れて、月に照らされて光沢を持った黒いタイツに。まだ視界も意識も朦朧としているようだから、ほとんど無意識のうちに見ているのだろう。所詮、この子も野性の本能に囚われた醜い男なのだ。

「す、すいません、僕のために服が……。よかったら、これを……」

 だいぶ落ち着いてきた様子の彼はそう云うと、自分の着ていたパーカーを脱いだ。

「え」

 反射的に彼の方を向いた私は、その行動の意図するところがわからなかった。上裸になると、脱いだパーカーに何やら力を込めたようである。

「これで乾いたので、着てください。いくら六月といっても、夜は冷えるので」

 彼は云って、パーカーを私に手渡した。そんなことできるのなら、それを口実に私の身体に直接触れて乾かせばいいのに(陸に上がったことで、私の肌――両足に接触しているタイツも元に戻るが、水分で濡れたのはそのままだ)。どうせ男の女に対する行動は、全て下心をもってなされるのだ、こんなことで紳士ぶられても困る。

「あ、ありがと……」

 私は、断るのも気まずい雰囲気になると思い、仕方なく濡れたスク水の上からそれを着た。そもそも、プールへ飛び込む前に濡れないよう脱ぎ捨てておいた自分の衣服があるのだけど(だから、靴も靴下も含めて脱ぎやすいような格好で依頼へ臨むようにしているのだ)、まぁ断ったら何をされるかわからないし。彼の露わになった、細身の見かけによらず筋肉が付いた上半身を見ながら、そう思った。

 夜のプールに二人きりの状況なのだ。女の私は、男の、しかも鬼である彼に対してあまりに無力で無防備である。飛び込む前に外したマスクが凄く恋しい。否、防備は彼が貸してくれたのか。――意外に着てみると暖かかった。

 ばしゃん。

 と、音を立ててプールから這い上がってきたのは、カシマさんだった。

 違う、二人きりなんかじゃない。今の私の敵は彼ではなく、彼女だ。私は、両足に力を込めて立ち上がった。元に戻った人間の両足で。カシマさんにはない両足で。

 私達のいる対岸のプールサイドに向かってこようとする彼女に対して、私が「カは仮面のカ、シは死人のシ――」と呪文を唱えている途中に、

「無駄です。彼女は、カシマさんであってカシマさんではないんです」

 と彼は云って、私の言葉を中断させた。

 一瞬その言葉の意味を図りかねたが、すぐに理解した。

「どんな怪異が付け加えられているんですか」

「それは――」

 今度は、彼の言葉が遮られた。でも、問題はなかった。

 テケテケ。テケテケ。テケテケ――。

 その奇妙な擬音とともに、彼女は濡れ髪を振り乱しながら器用に両肘を使って、対岸プールサイドにいる私達目がけて走ってきたのだ。そのスピードは、私の目では捉えることができなかった。

 ――標的は、私であるらしい。

 そのままの勢いで彼女に首根っこを強く締めるよう掴まれた私は、プールサイドへと押し倒される。身の危険を予知してか反射的に、下半身は魚の尻尾になっていた。そんな私の耳に、何か呟くような、呪文のような音が聞こえてきた。それは、どうやら、カシマさんの口から発せられているらしい。

 

ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。


 永遠と繰り返されるようなその単語に、頭が狂いそうになる。彼女の醜い顔は、単語が繰り返される度に、憤怒の表情へと変わっていく。別に、私は彼女に憎まれるような筋合いはないのだが。

 苦しい。苦しい。苦しい――。

 華陽ちゃん、私を助けてよ。

 華陽ちゃん。華陽ちゃん。華陽ちゃん――。

 私の脳内が、その単語で満たされたところで、意識は強制的にシャットダウンされた。


「先輩から、手ぇ離せって!」

 そう叫んだ彼は、ずっとカシマさんを後ろから羽交い締めにするよう引っ張っていたらしい。

 私の意識が戻った直後、彼女は私から強引に離された。――否、死んで、生き返った直後、か。

「お前なぁ! いい加減にしろよ。いくら生き返れるからって」

 死ぬのって、めっちゃ痛いし怖いんだぞ、と彼は再度叫びながらカシマさんをプールの中に投げ飛ばす。

 どぶん。

 と、音を立てて彼女は再度水の中へと落ちていった。

「だ、大丈夫ですか!? 宇久島先輩」

 彼は、私を心配して云った。男にしては長い髪の毛から水が滴っているし、半裸の上半身もまだビショビショに濡れている。だけど、ズボンだけは乾いている。衣服は乾かせるのに、変なの、と思った。

「うわぁ」

 どぶん。

 間抜けな声と水音と同時に、彼は私の視界から一瞬にして消えた。全く、他人の心配なんかして油断しているから。

 ともかく、カシマさんは標的を私から彼に戻したらしい。先に殺しやすい方から処理するのは当然だし、先程の様子から察するに、彼は鬼の癖に水中では息もできなければ、その力を発揮することも困難らしい。聞くところによると天邪鬼らしいから、それ故かも知れないが、何とも難儀な性質だ。

 だから、このまま放っておけば、彼女に殺されるだろう。能力が十分に使えない水中で死ねば、不死身の鬼でも生き返れないのかもしれない。

 私は、飛び込み台へと走った。プールサイドを両足で踏みしめて。

 何で彼を助けようとしているのかは、自分でもわからない。何で身体が、両足が動いているのかもわからない。――そうだ、私は華陽ちゃんに頼まれたんだ。だから、やっぱり私の意思ではない。今は、そういうことにしておく。

 飛び込み台の上から、プール全体を見渡す。狙いを定め、フォームを整え、いざ飛び込もうとしたその時、

「うそ……」

 私の目には、あり得ない光景が映った。――カシマさん?

 私は、水中にもう一度目を遣る。やはり、そこでは彼と彼女が格闘している。こいつ、まさか分裂したのか? こんな噂耳にしなかったぞ。

 対岸にいる彼女は、五十メートルプールを飛び越えて、私の方へと突撃してきた。さっきは、ちゃんと迂回してきたというのに。

 私は、その勢いのまま、もう一体のカシマさんによって背後のフェンスまで突き飛ばされる。彼女のとんでもない身体能力に、私の動体視力はやはり追いつけない。

 私の上半身に、カシマさんの上半身が乗っかった。一体、半分だけの彼女のどこにこんな質量があるかは知らないが、その重さによって一切身動きが取れない。その上、とてつもない怪力の両手が肩口を押さえつける。

 まるで金縛りにあったような私は、上半身の中で唯一自由な首を傾けた。――彼女の、醜い顔から目を逸らすように。

 いくら背けたといっても、彼女の呪いの言葉は先程より強さを増して聞こえてくる。耳は、耳だけは、自分の意思で閉じることはできないのだ。


ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。


 ――一体、私の何が「ズルい」と言うのだ。

 私は、生まれた時から今の今まで全くもって、人から羨まれることなんてない。そんなズルいズルい言うのだったら、私と変わってみろよ。

 ――あぁ、もう嫌だよ。何もかもが面倒くさい。何でこんなことしなきゃいけないの。何でこんな目に合わなきゃいけないの。私だけ。みんな――ズルいよ。

 ――華陽ちゃん、私を助けてよ。こんな不幸で惨めで可哀そうな私を助けてよ。

 私の脳内が華陽ちゃんの笑顔で覆い尽くされる。私は、いつも死ぬとき彼女のことを考えるのだ、考えるようにしているのだ。そうすれば、その苦痛が、恐怖が少しは和らぐような気がするから。

 でも、今は、私の脳内に、


ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。


「あぁ! もう、うるさいんだよ!」

 私は、叫んだ。今まで出したことのない大きくて、下品な声と言葉だった。

 ほとんど無意識に声を出してみて気づく、先程のように首を押さえつけられていないことに。

 ――確かに、私はズルいかもしれない。でも、それは、私が唯一人に誇れることだ。

「ほら、喰え! そんなに羨ましいんだったら、いくらでもくれてやる」

 私は、さらに首を横に傾けて、彼女に首筋を差し出すような格好になった。

「知らないのか? 人魚の肉を喰らえば、永遠の命と――美しい容姿が得られるんだぞ」

 怪異相手に会話や意思の疎通なんてできないことはわかっている。でも、私は、彼女のために――否、私自身のためにそう叫びたかった。

 カシマさんは、一瞬呪文を唱えるのを止めた。私は、その刹那の間を見逃さなかった。喉に意識を集中させる。

 ――私は、ずっと翼が欲しかったのだ。

 私の歌声を聴いた、もう一体のカシマさんは、水泡のように弾けて消滅した。

 

 彼は、まだ生きているだろうか。

 もし死んでしまっていたら、華陽ちゃんに合わせる顔がない。

 私は、吹き飛ばされた分の距離を助走でもつけるかのようにして走り、プールへと飛び込んだ。狙いやフォームなんて気にせず。

 右足を掴まれた、必死に抵抗しもがき苦しむ彼をカシマさんの手から取り返し、勢いそのまま陸へと打ち上がる。水中では、人魚である私の方が圧倒的に速く、強いのだ。

「ごほっ、ごほっ……」

 先程よりも苦しそうな様子から察するに、本当にギリギリだったらしい。彼の充血した赤い目が、またも私の下半身の方に向けられる。陸へと上がったが、まだ魚のままの半身に。

「あ、ありがとうございます。に、二度も……」

 またもお礼を云った彼の方は、陸に上がったことで鬼の力を取り戻し急速に元通りになっているようだった。

「僕、自分でも知らなかったんですけど、水の中苦手らしいです。宇久島先輩、今度泳ぎの練習付き合ってください……」

「は」

 私は、この状況かつ今の今まで死にかけていたというのに、そんな呑気なことを言った彼の真意が心底わからなかった。こいつ、私の水着が見たいとかか? 否、スク水が好きという特殊で気持ちの悪い「癖」の持ち主なのかもしれない。

 そこで、自分のビショビショに濡れた上半身を見て気づく、彼から借りたパーカーを着たまま飛び込んだことに。急いでいたから脱ぐのを忘れていたのだ。

「ごめんなさい――」

 私は、謝りつつ濡れたパーカーを脱ごうとした。

「宇久島先輩、鳥に見えました」

 彼は、私と合った目を見て笑顔で云った。この状況かつ今の今まで死にかけていたというのに、呑気に。

「月をバックに、まるで飛んでいるように見えました。凄く、カッコよかったです」

 その言葉を聞いて、反射的に空を見上げる。しかし、月なんか見えず、今にも雨が降り出しそうな厚い雲が広がっているだけだった。それもそのはずで、今は梅雨の季節である。

 ともかく、私が急いで助け出してあげたというのに、死にかけのこいつは、そんなどうでもいいことを水中で考えていたというのか。ここまでくると、呑気を通り越して、ただの馬鹿だ。

 そんな馬鹿と私の前に、カシマさんはプールから這い出てきた。相変わらず醜い顔に、憤怒の感情が一面に張りつけてある。私は、もう一度喉に力を込める。が、やはり彼女の身体能力は異常だった。

 私が瞬きした後には、もう目の前にいた。標的をさらに戻したらしい。しかし、一瞬私の目に映ったカシマさんは、次の瞬きの間には消えていた。

「二度も同じ手は、喰わないぜ」

 大丈夫ですか先輩、と彼は云って私の顔を見た。

 カシマさんが私へ飛びつく前に、殴り飛ばしたらしい。どちらの運動も、私の目では捉えきれない速度だった。

「あ、ありがと……うございます」

 私は、呆気にとられつつ云った。

 あまりにも間抜けな態度に忘れていたが、彼は鬼なのだ。陸上ではカシマさんの身体能力と同等なのかもしれない。

「宇久島先輩。僕が奴の動きを止めるので、さっきの歌、彼女にも聞かせてやってください」

 私の歌を水中でこれまた呑気に聴いていた様子の彼は、それが怪異に有効であることを理解しているらしい。

「わ、わかりました。気をつけて」

 ――は? 気をつけてだって? 私は、自分の口から発せられた言葉に驚いた。まぁでも、今はいい。今は、何も考えず、彼の作戦に乗っかろう。

 彼は、私が了承したのを確認すると、プールサイドのフェンスを飛び越えて校庭の方、殴り飛ばしたカシマさんの元へと走っていった。私は、その急速に遠ざかっていく背中を眺めつつ、気づいた。彼が――小野寺君が、華陽ちゃんに気に入られた理由に。

 私は、初めて自分の意思で誰かを助けたいと思った。

 多分、いくら鬼の脚力でもカシマさんを捕えるのは容易ではないだろう。それに、彼女を捕えたまま、私の歌声が聴こえる範疇に連れてくるのは至難の業だと思う。だったら、

 ――私から向かえばいいのだ。

 私は、プールの水に手を触れる。そして、力を込める。

「で、できたぁ! け、けどぉ――」

 イキってみたはいいものの、やるのは初めてだったのだ。私は、思ったよりも大きくなった水流に驚きつつも、その流れの中に身を投じる。

 夥しい量のプールの水は、フェンスをぶち破り、校庭の方へと波のように流れ出す。私は、その中で波乗りしながら水全体を操る。――校庭の隅に、二人の姿を見つけた。

 そこで留まろうとしたが、水の勢いは全くもって治まらなかった。

「小野寺君! 避けてください!」

 私の呼びかけと同時に、ようやくこの状況に気づいた彼は、慌てるような表情で見返した。

 無理もないし、避けることなんて不可能なのは私が一番よくわかっている。全く、慣れないことはするもんじゃない。

 そんな後悔などつゆ知らず、私が乗った高波は、その激流のまま二人を飲み込んだ。そして、勢いはそのままに、校舎へとぶつかっていき壁も窓ガラスも破壊した。――そうして、三人が漂着したのは、校舎の三階だった。

「あれ? そっちも終わったの、深海」

 声のした方には、浴衣姿の華陽ちゃんが立っていた。その両手には、下半身だけの化け物がぶら下がるように持ち上げられている。

 そんな混沌とした状況でも、彼女の美しさは全く衰えることなく、朝日のように光り輝いて見えた。



 何が起きたのか、わからなかった。

 僕は、カシマさんを捕えようと校庭の隅で彼女と対峙していたのだけど、いつの間にか校舎の三階に流れ着いていた。――そう、流されたのだ、宇久島先輩が乗っていた高波によって。

 波乗りする彼女の避難命令に従うことができず、カシマさん諸共激流にさらわれた僕は、ようやく状況を把握した。

「深海、真榎君のパーカーなんか着ちゃって。いつの間に、二人ともそんな仲良くなったの?」

 相変わらずからかうように、何故か浴衣を着ている華陽先輩は云って、宇久島先輩と僕の顔を順番に見渡した。その手には、人間の下半身だけの()()が握られている。

 ――カツカツさん。華陽先輩は、僕達二人がテケテケさん、もといカシマさんと戦っている時に、既に一人でその半身を倒してしまったらしい。

 しかし、なるほど、僕がカシマさんと対峙している時、到着した彼女達は二手に分かれて行動していたのだ。流石、三年生の先輩といったところで、僕のような新米一人では、カシマさん一体に殺されていた。

――否、元々一体のはずだったのだ。

「それで、真榎君。こいつの詳細は何だか知ってるかな」

 可愛らしい狐の耳と、空けられた浴衣の穴から尻尾を生やしている華陽先輩は、下半身を持ったまま僕に問う。それは、全く身動きせず、じっと固まっていた。足元には(足しかないのだが)、赤いハイヒールを履いており、千切れた赤いコートを全体(足しかないのだが)に纏っている。僕は、見覚えのあるそのコートを疑問に思いながら眺める――、

「お~い、真榎君。小学生達の間で何か語られてなかったの?」

 華陽先輩に急かされて、僕は慌てて答える。小学生男児の間で噂されていた、テケテケさんとカツカツさんについて――。

「ふ~ん、なるほどねぇ~。そっちはそっちで、別の要素が付け加えられていたわけだ」

「え」

 そっちはそっちで? となると、先輩達が調査に赴いた女子大の方でも何か別の怪異譚が流されていたのだろうか。しかし、僕のその疑問に、彼女は答えてはくれないようで、

「てか、二人ともビショ濡れじゃん。早く帰って着替えないと風邪引いちゃうよ……って、深海、大丈夫~?」

 僕の少し離れたところで横たわる宇久島先輩に向かって、華陽先輩は心配するように云った。まぁ、僕も彼女も鬼と人魚だから風邪とは無縁なことくらい先輩もわかってのことである。

「う、うん……ちょっと疲れちゃって。華陽ちゃんも無事でよかった」

 宇久島先輩は、心底ほっとしたような顔で云った。その表情は、言葉通り疲労感が伺えるが、どこか嬉しそうだった。彼女のこんな顔は初めて見る。そもそも先輩とは二回目の出会いだから当たり前なのだけど――そんな顔を向けてもらえる華陽先輩が少し羨ましかった。

「こんな能力あるなんて、私初めて知ったよ? 流石、人魚姫様だね~」

 華陽先輩なりの労い方なのだろう、さっきと同様のからかうような口調で云った。この二人の関係性もよくわからない。やっぱり、女子というものは不思議だ。

「う、うるさいなぁ。私、すっごく頑張ったんだから、その……褒めてよ」

 宇久島先輩は、ウェーブがかった濡れ髪の先端を指で弄びながら、またも見たことのない表情で云った。

 学校の廊下に打ち上げられた人魚姫は、濡れた床を魚である下半身の尾ひれでペタペタと叩いている。それと対面するのは、人間の下半身を持った、綺麗な浴衣姿の妖狐である。濡れた魚鱗が、窓から差し込む月光によって艶やかに輝いている。――美しい、と心の底から思った。

 刹那の間その光景に見惚れていた上裸の僕は、今更ながら気づく。

「そ、そうだ! カ、カシマさんは!? 一緒に流されて、それから……」

 鬼だからとかそういう問題じゃなくて、僕は馬鹿だから、馬鹿過ぎて風邪なんか引かないだろう。

 とにかく、あの醜い、下半身のない化け物はどこに流されたのだ。

「え? どこにって、そこにいるじゃん。もうしっかりしてよ、真榎君」

 華陽先輩は笑いながら云うと、僕の背後を指差した。

 廊下のずっと奥の突き当りの壁に、カシマさんは、十字の磔にされていた。否、やっぱり、その固定される下半身はないのだ。

「流れてきたから、ついでに捕まえといたよ」

 華陽先輩はいつもの調子で飄々と云ったが、今はその態度が末恐ろしく感じた。

 ――これが、三度も国を傾けた九尾の狐か。無様に磔にされたカシマさんの姿を見て、その力の強大さを畏怖せずにはいられなかった。

 僕達二人があれほどまで苦戦した彼女が、こうも無残に無力化されているのを見て、どこか可哀そうにも思った。彼女は、この時代の価値観が生んだ哀しい怪物なのだろう。この世は、醜いものに対して、酷く冷たいのだ。

 僕のそんな同情する目に答えるように、彼女の眠るように閉じていた眼が開いた――ように見えた。僕は、それを確認しようと、鬼の目を凝視させる。何しろ、距離が離れている上に、明かりが窓から射す月光しかないのだ。

「ヤット、ミツケタ」

 僕の目は、そう動いた口を見た。僕の耳は、そう呟いた声を聞いた。同時に、磔にされている上半身がピクピクと動き出す。

 その事実を二人に知らせようと、慌てて振り向く。彼女達は、談笑して気づいていないし、この距離では鬼の地獄耳でしか聞き取れないのだろう。

 振り向いた先で、華陽先輩が手にぶら下げている下半身が、まるで上半身と呼応するようにピクピクと動いているのを発見する。やっぱりそれにも、二人とも気づいていない。

 そもそも、退治したというのに、何故この二体の怪異は消滅しないのだ。今までの、菊池彩音や花子さんは消えてなくなったじゃないか。

 僕は、やっとそこで思い出す。やっぱり僕は、馬鹿だ、大馬鹿だ。小学生達が教えてくれたじゃないか。上半身と下半身、二体はお互いを探し彷徨っているって。

 だが、そう気づいた時にはもう遅かった。華陽先輩が持っていた下半身がその両手を離れて、物凄い速度で歩き出す。

 カツカツ。カツカツ。カツカツ――。

「は」

 流石の彼女も反応できなかったようで、茫然とする。それは、宇久島先輩も同じである。

 そんな呆気に取られて見ているだけの三人を無視して、下半身は磔にされた上半身へと到着する。そうだ、あの赤いコート――今更そんなことに重ねて気づいたが、もう何もかも遅い。

 曇り空が晴れてきたのか、月の明かりが大きく窓から入り込む。真っ暗な空間に、まるでスポットライトを浴びせるように、カシマさんを照らし出した。

 否、もう、カシマさんではない。

 上半身と下半身が合体する。華陽先輩によって拘束されていた上半身は、それと同時に解き放たれる。そうして生暖かい風と共に、文字通り一体となって現れたのは――、

「口裂け女……」

 華陽、宇久島両先輩は、口を揃えて云った。その身体は二人とも微かに震えていた。かく言う僕も、それは変わらない。――恐怖、とはまた違う別の感情。これは、さっき九尾の狐に対して抱いたものと同じだ――畏怖、それがこの感情を表す最も適当な言葉だった。

 しかし同時に、妖しい青白い月光を一身に受けて両足で堂々と立つ彼女の姿を見て、美しい、とも思った。その顔は、真っ白い大きなマスクで隠されているというのに。


「だから、うるせぇんだよ」

 水流によって割れた窓から、生暖かい風と共に侵入してきた一匹の野良犬が、僕を睨めつけながら云った。

 見覚えのある、相変わらず醜いその顔は、獣身であるにも関わらず人間のものだ。そんな人面獣身の小汚い野犬は、口裂け女の忠犬であるかのように、その隣に行儀よくお座りした。

 国の遺伝子研究所から脱走してきたという、人間と犬のキメラ。そんな陰謀論じみたこのUMAは、小学生達の好奇心と恐怖心から発生した噂なのだろう。

 夕刻こいつと相対した後、続けざまにカシマさんと対峙して覚えた僕の嫌な予感は的中していたようで、

「やっぱり、人面犬がペットだってことも付加されてるよねぇ……」

 と、華陽先輩は呟いた。その顔は微かに引きつっており、声も微妙に震えていた。三年生の彼女達にとってもまずい状況であるらしいことは、流石の鈍い僕でもわかった。

 だったら、僕ができることは一つだ。

「先輩、あの人面犬は僕がやります」

と、格好つけて云った瞬間だった――、

「お前はいいよなぁ!? こんな可愛い女子とイチャイチャできて」

 そう叫びながら突進してきた人面犬の身体が、僕の上裸の身体を吹き飛ばす。背後に伸びる長い廊下へ、人面犬諸共飛ばされる僕の耳に、

「じゃあ、そっちは任せたよ~!」

 と、努めていつもと変わらない口調で叫ぶ華陽先輩の声が聞こえた。こんな状況でも、僕に心配をかけまいとしてくれる彼女に誓って、やはりこいつは僕一人で何とかするしかない。

「僕だって何度も言ってるだろ! だから、僕はそんなんじゃないって」

 背中が突き当りの壁を破壊して、地面へと落下する。今日は落ちてばっかりだ。

 一方の人面犬は、僕の上半身をトランポリンのように利用して跳ねると、校舎の壁に垂直に着地し、そのまま走り落ちた。――こいつは、さっきも三階の窓から侵入してきたのだ、カシマさんと同様に異常な身体能力である。

 鬼である僕も負けてはいられない。僕は、空中で体勢を立て直し、両足で地面へと垂直に着陸した。再び月が雲で陰ったのか、辺りは真っ暗闇である。しかし、この落下地点は悪くない。だだっ広い校庭に比べて、いくつかの建物に囲まれたこの場所ならば、人面犬の弱点を用意につくことができる。

 ――抜かったな、おっさん。所詮お前は、口裂け女の噛ませ犬だ。

 僕は、心の中でほくそ笑んだつもりだったが、どうやら表情に出てしまっていたらしい。

「お前もそんな顔できるのかぁ? じゃあ、俺と一緒だなぁ」

 小汚い野良犬は、甲高いダミ声で叫ぶと、またも僕目がけて突進してきた。その這うような姿勢は、カシマさんと同じ格好だった。

 彼が走り出したのを視認すると同時に、僕も走り出す。こいつの動きに、僕の動体視力は十分通用する。

 僕は、背中を見せて走るが、夕方のようにただ逃げているわけではない。校舎の角を曲がると、案の定、人面犬は不細工な身体をその勢いのまま直進に飛ばしていった。

 幸いこの小学校の造りは、横並びに教室が連なっているパターンではなく、理科室や家庭科室などが独立しており建物同士、廊下を橋のようにして繋いでいるのだ。それ故、人面犬の性質には最悪な条件となる。そもそも直進だらけの道など、そうそう存在しないのだ――夕刻みたく、異空間にでも誘われない限りは。

 しかし、どうする。あいつは噂によると、噛まれた場合同種にされてしまうという。弱点をついたといっても、逃げ回っているだけでは僕も勝利することはできないのだ。

 人面犬は、突っ走した先にあった校舎の壁を僕に照準を合わせるように移動すると、後ろ足で蹴り飛ばしてロケット発射した。壁面を蹴った力が加わったそのスピードは依然速かったが、僕はまたも建物の角をカーブした。

 ――こいつは、僕以上の馬鹿だ。所詮お前は、醜い負け犬だ。

 僕は、走りながら、またも心の中でほくそ笑んだ。

 そんな無意味な攻防が何回か繰り返された後に――馬鹿だったのは、やはり自分の方だったと気づいた。思い知った。

 誘導されていたのだ。愚かで鈍い僕は、そのゴールにまんまと誘き出されてから気づいたのだった。

 だだっ広いグランドに放り出された僕は、背後に迫る化け物の方に振り返る。――くそ、ほくそ笑んでやがる。

「お前はいいよなぁ!? そんなイケメンに生んでもらって」

 人間の、中年のおじさんの顔がこちらを睨んでいる。醜くて不細工で汚いその顔が。身体は毛並みもボサボサで砂や泥が付着した獣だというのに、顔は、顔だけは人間の、しかもおっさんである。僕は、心底――気持ちが悪いと思った。

 もはや、そのあり得ない容姿を見ても、恐怖など感じない。ただただ、嫌悪するのみである。

 校庭という先程とは異なり、彼に有利な空間へ誘われた僕は、無駄とわかっていながらも逃げるように走った。グランドの中を縦横無尽に走り回った。いくら走っても走っても――この異界から抜け出すことはできなかった。

 人面犬は、そんな逃げ回る僕の背中目がけて、口から火の玉を吐いた。小学生男児達の豊かな想像力が、僕をさらに追い詰める。

「くそっ! またボールかよぉ」

 その情けない叫び声は、深夜の無人グランドに虚しく響き渡った。――僕の脳内は走馬灯のように、『玉藻の草子』に描かれた犬追物の場面をフラッシュバックしていた。もちろん、今弓を射られんと追い回されているのは犬ではなく、鬼、である。

 遂に、狂犬の歪んだ口から吐き出された火球は、僕の逃げる背中に射るように命中した。僕は、熱く燃える炎を鎮火させようと裸の背を下にして、ゴロゴロと砂の地面に転がった。

 そうして、このゴールのないレースに勝利したのは、人面犬であった。否、最初からゴールは目の前にあったのだ、僕が捕らえられるという終着点が。嚙ませ犬も負け犬も、やっぱり自分の方だった。

 そんな絶望のゴールに止まった僕の、仰向けの上半身に、人面犬が覆い被さる。「はぁ、はぁ」と息を切らす不協和音が耳へと強制的に侵入してくる。鬼の力で退けようとも、小型犬サイズの身体のどこから発せられているのかわからない怪力で押さえ込まれる。

 まるで金縛りにあったように身動きできない僕の目には、醜い顔が視界一杯に広がる。何度目か、またも雲が晴れて月の光が垂れだしたようだったが、その美しい顔は僕の目に映ってはくれない。

 醜い犬は、まるで狼男か吸血鬼のように、満月の光を背中一杯受けて力がさらに増幅しているようだった。

「うるせぇんだよ」

 彼は、既に聞き飽きた決め台詞を吐いた。その歯並びが悪く汚くて臭そうな口は、人間のものであるのに、犬歯だけは磨かれたように美しく鋭く尖っている。

 この牙で噛まれたら、僕もこいつの仲間入りだ。否、こんな醜い姿になるくらいだったら、自ら命を断った方がはるかにマシだ。

 僕は、この残酷な現実から逃避するように、顔を背けた。必然的に首筋を差し出すような格好となる。その首へ、人面犬の長く伸びた牙が近づくのを感じる。目を逸らしていても、耳から入ってくる小汚らしい息遣いで彼の行動が容易に読み取れるのだ。

「……ぐぁっ」

 僕は、痛みから――否、気持ち悪さから声を漏らす。

 四本の犬歯が、僕の首筋の肉を喰らうように噛み進める。いよいよ、僕もこの化け物の仲間入りだ――思えば、こいつも可哀そうな奴じゃないか。醜いだの不細工だの汚いだの言って、ごめんな。それに、僕も年齢を重ねたら、いずれは中年のおっさんになるじゃないか。自分が同類になると思った瞬間、自分勝手で都合のいい僕は、彼に同情したのだった。

 しかし、覚悟を決めた僕の身体は、何の変化もしていなかった。

 ――そうだ、僕は元々、犬だったのだ。同じ中途半端な存在だったのだ。

 そんな当たり前の事実にようやく気づいた僕の目に、人面犬の顔は映らなかった――代わりに、美しい満月が真っ赤に輝いていた。



 真っ赤なトレンチコートを着た女性が、こちらを睨めつけている。背中まで伸び切った真っ黒な髪と対照的に、いつの間にか口元には真っ白で大きなマスクを着けている。足元にはコートと同様真っ赤なハイヒールを身に付けているから、その背丈は細長い体躯も相まってかなり高く見える。

 当時の小学生達を恐怖のどん底へと叩き堕とした彼女の噂は、新聞や女性向け雑誌などのメディアを通じて、瞬く間に全国へ流布していった。そんな彼女を形作っていたのは、女性の醜形恐怖と男児の空想力だろう。今こうして現代に出現した彼女は、今度はインターネットという情報、言葉の海――主にSNSによって拡散され、そこを漂う怒りや憎悪、復讐心といった負の感情を喰らい一層強大さを増しているように見える。

 廊下の最奥に棒立ちしている彼女と私達の間にはそれなりに距離があるというのに、圧迫感というか妙な緊張感を間近に覚える。その証拠に、私の身体は先程から微かに震えて鳥肌も立っている。もちろん、これは自分の意志によるものではない。

 ――小野寺君は、大丈夫だろうか。

 物凄いスピードで走ってきた人面犬に反対の奥まで飛ばされた彼は、その壁を突き破って落下していったようである。その一連の運動は、やはり私の動体視力では捉え切れなかった。

 そんなことを考えていた刹那の間だった――、

「ふ、深海っ、危な――」

 華陽ちゃんの声が聞こえたかと思うと、私の目前には、彼女、現代怪異の女王――口裂け女――の姿があった。

「は」

 当然のように私の視力では捕捉できなかったそのスピードは、もはや速いとかいう次元ではなくテレポートのようだった。文字通り間近に受ける威圧感は、私の身体を硬直させるのに十分だった。

「わたし、きれい」

 未だ事態を把握しきれず、魚の脚のまま横たわる私に向かって、口裂け女はお決まりの台詞を投げかけた。

「……ポ、ポマ――」

 私が震える声で絞り出した言葉は、その全てを云い終る前に強制終了させられた。

「ふ、深海っ」

 華陽ちゃんの私の名前を叫ぶ声が、随分と遠くから耳に届いた。自身が蹴飛ばされたのに気づいたのは、その後だった。

 教室の閉まっていた扉を貫通して、私は黒板前の教卓に激突したようである。その貫通した穴から、口裂け女の細長い脚と、華陽ちゃんの浴衣の裾と下駄が見えた。

 後頭部を強く打ったせいだろうか、視界も思考も朦朧として暗転しそうに――なったが、人魚の再生力がそれを上回った。幸いなことに、まだプールの水で身体が濡れていたおかげで、能力が上昇していたのである。

 私は、ようやく両足を人間のものに戻し、ゆっくりと立ち上がる。身体は全回復しているのに、まだふらつく。これは、恐怖故の震えだろう――いくら肉体の方が元に戻っても、精神に追った傷が癒えることはない。

「わたし、きれい」

 今度は華陽ちゃんに向かって、決め台詞を唱える口裂け女。いくら現代怪異最強格の彼女でも、ルールには縛られているのだ。その証拠に、撃退呪文である「ポマード」を私に唱えさせなかった。そして、彼女のこの台詞に――、

「ふ、普通かな」

 華陽ちゃんは、声こそ微かに震えているが、はっきりとした口調で答えた。そう、口裂け女は、その能力が肥大化しすぎた故に、弱点の方も帳尻を合わせるように多く語られているのだ。この質問に肯定でも否定でもない返答をすると、彼女の方はそれに対する返しを用意していないようで、その間に逃げられるという。

 しかし、華陽ちゃんは逃げるためなんかに唱えたのではない。口裂け女、今お前が相手にしているのは、妖怪の女王――玉藻前だ。

 例に漏れず一瞬怯んだ口裂け女は、彼女の術――尻尾を上下左右に振った後、狐の形にした両指先から放たれた朝日のような光線(ビーム)――によって再び磔にされた。合体した上半身と下半身を、十字の形にさせられて。

 私は、それを見て安堵すると、貫通した大きな穴から這い出て、

「ご、ごめんね……華陽ちゃん」

 と、謝罪の言葉を口にした。やっぱり今回も足を引っ張ってしかない。

「だから、謝るの禁止って言ったでしょ。とにかく、部長や探偵さんに知らせなきゃ」

 そうだ、あの探偵がまだ来ていないじゃないか。元々は、私達は彼の手伝い程度の予定だったのだ。それが、予想外のことが立て続けに起きてこんなことに……。

「うん、まさか二体の怪異が合体して一つの怪異になるなんて……。先に探偵さんに連絡するね」

 華陽ちゃんは、浴衣の帯からスマホを取り出して、絶賛遅刻中の探偵に電話をかけたようだった。

 しかし、予想外といえば予想外だが、噂が付加されているのは想定済みだったのだ。まさか、怪異が合わさりまた別の、さらに口裂け女になろうとは。

 私は、教室の外壁に縛り付けられた、哀れな彼女を見た――と同時に蹴飛ばされたのは、華陽ちゃんの方だった。

「わたし、きれい」

 その怪力によって磔を破壊し解放された口裂け女は、私に向かって再度問い質した。私は、フラフラと下半身から倒れ込み、床に座り込んだ。腰が抜けてしまったのだ。逃げようと逃げようと、両足に力を込めても一向に立ち上がることはできなかった。

 返答を待つ彼女の鋭く尖った両目が、私の顔を睨めつけるよう見下ろしている。私は、恐怖のあまり、つい――、

 首を横に振ってしまった。

 だって、きれいじゃなかったんだもん。きれいっていうのは、きれいっていうのは、きれいっていうのは――、

 その返答を受けて彼女は、真っ白い大きなマスクに指をかけ、ゆっくりと外した。露出した口元は、自身の名を体現するかのように、顔の耳元から耳元まで、大きく裂けていた。

「これでも、きれい」

 抑揚のないその質問が発せられた、痛々しく裂けた口から伺える牙のような歯を見ながら、私はある事実に気づいた。――彼女は、肯定していたのだ、「わたし、きれい」と。

 微笑んだ口裂け女は、私の頭を左手で鷲掴みにして持ち上げると、右手をロングコートのポケットに入れて何かを取り出した。

 それは――ハサミだった。私が最後に見た光景は、彼女の裂けた口、そこから覗く牙と同じくらい鋭利な刃物だった。巨大な剪定バサミのようなものを片手で器用に扱い、私の顔面を――額も眉も瞼も目も鼻も耳も頬も顎も唇も口も――ズタズタにグチャグチャに切り裂いた。零れ落ちそうな片目に見える窓ガラスには、彼女、口裂け女とお揃いの顔に整形された私が映っていた。

 意識が途絶え、生命が途絶えた瞬間、生き返る。また切り裂かれて、殺される。

 怖い、痛い、辛い、苦しい――。私の感情は、これの繰り返し。

 「わたし、きれい」――。口裂け女の台詞は、これの繰り返し。

 何度この無意味な輪廻が繰り返されたか、わからない。ただ、機械のように彼女は、私の顔を壊し続けるだけだった。まぁ、機械は私も同じか――。

 何で私がこんな酷い目に合わなきゃいけないの。もう私は十分酷い目にあったよ。何で私だけが。何で私達だけが――人と違うんだろう。

 華陽ちゃん、私を助けてよ。

 華陽ちゃん、華陽ちゃん、華陽ちゃん――。

 

「お、おりゃああああああ」

 死んで生き返ってを繰り返す私の耳に、そう叫ぶ声が途切れ途切れに入ってきた。

 その聞き慣れない台詞の聞き慣れた声が、耳元で聞こえた瞬間、顔への斬撃が止んだ。

「だ、大丈夫!? 深海」

 そう心配してくれている華陽ちゃんの方が、はるかにボロボロで傷だらけだった。浴衣は所々破れており、帯は解れかかっている。下駄も脱ぎ捨てたのだろう、裸の足が剝き出しになっている。頭や腕、脚の傷からは血が流れ出している。可愛らしい顔の中心にある、綺麗で整った鼻からも真っ赤な血が垂れ出ている。――鬼や人魚と違って、狐には再生能力がないのだ。

「は、華陽ちゃん……ごめ、ごめ……あ、ああ、あああ――」

 私は、初めて彼女のこんな姿を見て、酷く動揺してしまった。その後には、心臓を縛り上げるような後悔が襲ってきた。

 私が守らなくちゃいけなかったのだ。いくら傷ついても死んでも、元に戻る私が身代わりにならなくちゃいけなかったのだ。私が彼女を助けなければいけなかったのだ。それなのに、私は……私は……。

「あああ、ありがとう、だよね? 続く言葉は。よし、よくできました」

 そんな私の頭を、華陽ちゃんは撫でてくれた。傷だらけの流血する右手で、優しくゆっくり撫でてくれた。そうしてそのまま、右手を私の顔までもってくると、指先で私の目元を拭った。

「あれ? プールの水かと思ったら、なに? 泣いてたの~」

 その涙を拭った指を舐めた華陽ちゃんは、いつものからかう調子で云った。

 彼女の身体は、みるみるうちに回復していった。人魚の体内を流れる液体には、その再生能力が刻み込まれているのだ。

「流石、お肉を食べたら不老不死になるだけあるね。もう元通りになっちゃったよ」

 深海、ありがと、と華陽ちゃんは笑顔で云った。いつもの、私の大好きな顔で云ってくれた。それを見て、ようやく私の精神は安定を取り戻した。

 ――しかし、事態は何も変わっていないのだ。

 華陽ちゃんの体当たりによって、私が空けた扉の穴に突き飛ばされた口裂け女は、のそのそと立ち上がった。先程までとは打って変わってゆっくりとした動きが、一層不気味に見えた。

 今度こそ、私が華陽ちゃんを助けないと。じゃないと、このままでは本当に足手まといなだけだ。でも、どうする。口裂け女のスピードには、私も華陽ちゃんも対応できない。くそ、私も小野寺君のように、鬼のように、身体能力が高ければ――。

 否、あるじゃないか。私の身体能力が向上する場所が。

「華陽ちゃん! こっち」

 私は、彼女の右手を引っ張って走り出した。

「え!? 深海どこ行くっていうの」

 その質問に答えている暇はない。口裂け女にとって、距離は距離ではないのだ。

 私は、廊下の最奥――小野寺君が突き破った壁まで走ると、華陽ちゃんを抱き上げた。大丈夫、鬼には到底及ばないけど、私も普通の人間よりは腕力がある。それに、華陽ちゃんは小柄で軽いのだ。

「ね、ねぇ!? ほんとにどこ行くの」

 彼女は、珍しく動揺しているらしいが、それにも対応している暇はない。

 私は、壁に空いた巨大な穴から飛び降りた。高さは、校舎三階だから十メートル以上はあるだろう。もちろん、コンクリートの地面に着陸した裸の両足は折れた――が、すぐに再生した。

 私は、回復したその両足で、またも走り出す。腕には華陽ちゃんを抱き抱えたまま。

 さっき波に乗った高さから、この小学校の敷地内をある程度確認できてよかった。この入り組んだ場所では、口裂け女の自慢のスピードも活かしにくいはずだ。廊下のような直進ばかりだと思うなよ。

 しかし、依然速いことに変わりはない。私は、急いでプールへと向かう。――カツカツ、とハイヒールがコンクリートに接地する音が背後から聞こえる。私は、できるだけ曲がり角を利用して目的地へとひた走る。

「ふ、深海、も、もう降ろしてくれても大丈夫だよ……」

 耳元で、揺れているからだろう微かに震える声で華陽ちゃんが云った。どうやら、私がプールに移動しているのを察したらしい。

「も、もう着くからいいよ。そ、それに、華陽ちゃん裸足だから」

 私は、息を切らしながら、ようやく彼女に対応する。

 ――カツカツ。

 背後で、不穏な音が鳴り響く。

「深海! もうすぐそばまで来てる!」

 抱かれている格好の彼女には、背後に迫る口裂け女の姿が見えているのだろう。その焦り故か、彼女の胸の鼓動が高鳴るのを直に感じる。密着しているからその体温も直接伝わってくるし、走っているから私の体温もどんどん上がっていて、凄く熱い。梅雨のまとわりつくような気持ち悪い暑さも相まって、お互い汗をかなりかいている。

 私は、その汗を振り払うように、さらにスピードを上げて走る。

 カツカツ――と、深夜の学校に鳴る怪音のテンポも釣られて速くなっているようだ。

 だいぶ迂回した果てに、プールの入口まで残り数十メートルとなったその道は――真っ直ぐ伸びていた。

「しまっ――」

 と、私が気づいて声を上げた時には既に遅かった。相手を誘導しているつもりで、自ら袋小路に嵌った愚かな私の目の前に、真っ赤なトレンチコートが立ち塞がった。瞬間移動に等しいその動きを、やはり目視できない。でも、見えなくても関係ない――、

「お、おりゃああああああ」

 私は、口裂け女の頭上を越えるようにして、華陽ちゃんをプールの中へ投げ飛ばした。――どぶん、と音がしたから、無事に着水できたらしい。今度は、私が彼女を守ると決めたのだ。

「憎い……」

「は」

 口裂け女は、例のお決まりの台詞ではなく「憎い」と確かに発音した。

「恨めしい……」

 頬の終わりまで大きく裂けた口で、今度はそう云った。

「ズルい……」

 大きく裂けた口とは裏腹に、小さくブツブツと呪文のように呟き始めた。

 ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい。ズルい――。

「あぁもう、うるさいな! それはもう聞き飽きたって」

 何度も吐き捨てられた台詞をまたも聞かされた私は、とうに我慢の限界に達していた。

「だから! 私の何がズルいって言うんだよ」

 そう叫ぶと、高い身長を誇る彼女の股下を滑るようにして潜った。プールの水で濡れているのに加えて、汗もダラダラ流していた私は、陸に打ち上げられた魚が海に帰るように水中へとダイブした。

 先程私が水を巻き上げたせいで随分と嵩は減っていたが、それでも十分過ぎる量である。顔だけ出して、こちらを伺っていた様子の華陽ちゃんと合流して、二人は深く潜水した。

 汗と湿気からも解放されて、随分と心地よかった。下から見上げる水面には、真っ赤な満月が妖しげに、しかし美しく反射していた。

「んっ、んっ」

 目をつむった華陽ちゃんが口から小さな泡を出しつつ、私に合図する。そうだそうだ、忘れていた。いくら九尾の狐でも、水の中では息が続かないのだ。

 私は、怖くて水中で目を開けられない彼女の口と自分の口を合わせて、その中に直接空気を流し込む。これで、一時間以上は保つはずだ。

「どう? 息ちゃんとできる?」

 私は、念のため彼女に確認する。人魚の体内に流れている気体をしっかり送り込めていれば会話もできるはずであるが……、水によって化粧が濡れ落ちていても可愛い華陽ちゃんは、何故か少し俯き加減に何度も頷くだけだった。こんな彼女の態度を見るのは、これまた初めてだったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 私は、小野寺君が貸してくれていたパーカーをプールサイドへと脱ぎ捨てる。後で洗濯して返そうなどと、その後のことまで考える余裕が出てきている。

 どぶん。

 と、美しい、しかし重々しい着水音が聞こえた。その直後、水中が大きく鳴動するような錯覚を感じた。私は、華陽ちゃんを再び抱いて、泳ぎ始める。

 ――このフィールドなら、人魚の方に分がある。ここで私が退治してやる。

 そう思って、背後を確認すると――目の前に、大きく裂けた口があった。

 なんで?

 そんな疑問を声に出す暇もなく、二人に追いついた彼女は、私ではなく華陽ちゃんに手を出した。

 水中だというのに、相変わらずの怪力で私の手から華陽ちゃんを強引に奪い去った彼女は、物凄い速度で離れていった。

 くそ、口裂け女は、水泳のスピードも備わっているのか。人魚の泳力をも超越しているなんて、全くの予想外だった。――否、所詮私は、造られた紛い物の人魚なのだ。

 ダメだ違う、今はそんな自虐に溺れている暇はないんだ。奪われた。私が守ると決めた華陽ちゃんを。

 魔の手から彼女を取り戻すべく、私は全力で後を追い泳ぎ、勢いそのまま陸へと上がる。

「い、嫌だっ! だ、出してっ出してっ、怖いよ、暗いよ」

 そう泣き叫ぶ、華陽ちゃんの声が聞こえた。こんな弱気な台詞も口調も、やはり初めて耳にする。

 そんな籠った音は、口裂け女が右手で持ち上げている――匣? のようなものから発せられているらしかった。

 闇夜と同化するように真っ黒なその四角形は、赤い月の姿を不気味に映し出している。そんなブラックボックスから、華陽ちゃんの助けを求める声と、ドンドンと中を叩く音が聞こえてくる。その悲痛な音は、僅かな時間経過の内に、より激しくなっていった。

「ふ、深海! いるんでしょ!? は、早くここから出して! わ、私……もうどうかなっちゃうからっ」

 華陽ちゃんの泣き叫ぶ声が、私を求めている。

「う、うん、ここにいるよ! 大丈夫、すぐ出してあげるからね! だ、だから、安心して!」

 私は彼女を慰めるように云ったが、果たして外の声が石櫃内に届いているのかは不明だった。事実、彼女は私の声に反応することなく、叫び声を上げながら中を叩き続けている。華陽ちゃんらしからぬ、無策な行いを繰り返している。

 ――呪い。

 これが、彼女にかけられている忌まわしい罰なのだろう。彼女から直接聞いたことはないが、九尾の狐の伝説からも推測するに、閉所がトリガーとなるのだと思う。

 ――殺生石。

 彼女の先祖である玉藻前が変化したという妖石の名称。華陽ちゃんの遺伝子には、その時の恐怖が未だ色濃く反映されているのだ。

 ――だったら、なおの事早く助け出さねば。

「憎い」

 ぽつりと、しかしはっきりと声に出した口裂け女が、私の前に立ち塞がる。当然、そう簡単に華陽ちゃんを取り戻させてはくれないようだ。

 どすん、と音を立てて、口裂け女は華陽ちゃんが閉じ込められている黒い匣をプールサイドに落とした。

()()()()

 その台詞が聞こえた時には、私と口裂け女も再びプールの中にいた。やっぱり、陸上では速過ぎて対応できない。でも、今度は彼女自ら、まだ人魚にも分がある水中へと誘ってくれた。

「ズルい」

 大きく裂けた口から、夥しい量の泡を吹き出しながら彼女は云う。その両手には、いつの間にかハサミとカマが握られている。

 ――嫉妬。

 そうだ。彼女――カシマレイコは、女子大生をはじめとする若者の醜形恐怖という不安から生まれた哀しい被害者じゃないか。それが、小学生の無邪気な好奇心、恐怖心と相まって、より凶暴で混沌としたものへと変えられていったのだ。

 ――敵なんかじゃないんだ。私も彼女も同じなんだ。

「さぁ、喰え! 私の美しさに嫉妬してるんだったら、いくらでもくれてやるよ」

 私は、魚の下半身を彼女に差し出す格好になって云った。

 カシマレイコは、私の身体をハサミとカマで切りつけ、その捕れたての魚肉を口にもっていった。水中では、大量の血液が月光を受けて赤黒く輝いている。

 彼女が遂に、その肉を大きく裂けた口で喰らおうとした瞬間――物凄いスピードで陸へと引っ張り上げられた。

 ハサミとカマに突き刺していた魚肉が水面に浮かぶのと同時に、私も顔を出す。

「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ――」

 カシマレイコが、プールサイドに何度も叩きつけられては、短い断末魔を上げていた。

 その黒く濡れた乱れ髪の頭を乱暴に鷲掴みにしているのは、華陽ちゃん――ではなく、九尾の狐玉藻前だった。その姿は、伝承で語られている絶世の美女とは程遠く、獣そのものであった。

 ブラックボックスを粉々に砕くよう破壊し脱出した華陽ちゃんは、呪いの効果によるものだろう、尻尾が九つに分かれた巨大な狐と化していた。もちろん、こんな彼女の姿は初めて見る。

 カシマレイコも必死に抵抗しようとしているようだが、まるで歯が立っていなかった。玉藻前は、あれほどまでに強大だった彼女をまるで玩具のように弄び、フェンスの外へと放り投げた。

 校庭に落下したカシマレイコを玉藻前が追いかけるのと同時に、雨がぽつりぽつりと降り出した。再び厚い雲が夜空を覆ったようだったが、そこだけは避けるように、丸く大きな月だけは依然美しく光っていた。

 私もグランドへと急いだが――その中心では、カシマレイコが再び真っ二つに分断されていた。妖狐の雨で濡れた金色の獣毛が、月光を受けて艶やかに輝いている。

「ズルい……」

 玉藻前の右手に握られたカシマレイコの上半身は、首だけを私の方に向けると、羨望に満ちたような眼差しでそう呟いた。そして、体育館の横に設置されたトイレ――化粧室へと投げ飛ばされた。そんな彼女の無残な姿を見た刹那、()()()()()()()()()()()()()()。それは、ごく短いものだったが、鮮明にはっきりと知覚した。

「悪魔……」

 その脳裏に映った異形の存在を、私は無意識にそう表現して呟いた。

 化粧室にたかっていた数匹のハエと共に、瓦礫の音をガラガラと立てながら這うように出てきたカシマレイコ――の上半身は、もう別のものへと化していた。否、堕ちていた。私がたった今見た、悪魔へと。

 いつの間にか乾き整っている漆黒の長髪からは、山羊のような、内側に丸く曲がった角が二本生え出ている。さらに真紅のロングコートを纏った背中からは、二枚の黒い翼が突き破るように生え出ていた――私が欲しくて欲しくて堪らなかった、翼が。

「ズルい……」

 今度は私が、彼女に向かって呪詛を唱えた。

 私の少し離れたところにいる華陽ちゃん――とはもう言えない、暗闇の中で金色に光る巨大な狐は、九つに分かれた尻尾を悪魔に変身した彼女に向けている。睨めつける獣の目は、人間の知性を感じさせない欲望に囚われたもので、ギラギラと妖しく輝いている。

 崩れた化粧室の下から怨めしそうな上目遣いで、両肘を掻くようにして這い出てきた悪魔のもう半分も、獣のものだった。先程切断された下半身はいつの間にか跡形もなく消滅しており、本体には馬のような半身がくっ付いていた。だからまさに、その容姿はカオスとしか言えなかった。

 完全に姿を現したケンタウロスは、漆黒の翼を羽ばたかせて空高く舞い飛んだ。蝙蝠のような羽が闇夜の天空と同化して、刹那見えなくなったが、すぐに月明かりが照らし出してくれた。

 いよいよ本降りとなり出した奇妙な空模様の下、睨み合う二匹の殺し合いが開始されようとすると――私の脳内に、再びビジョンがよぎった。

 しかしそれは、すぐに現実のものとなったから、真実予知かどうかはわからない。――私は、校庭の隅にあった玉当て壁に、逆さ磔になっていた。反射的に危険を察知した野性部分の脳は、身体を半分魚のものに変化させるよう命令していた。

 どうやら、悪魔に弓矢で射抜かれるよう突き飛ばされて、その矢であった暗黒の釘で十字に手足を固定されたらしい。下半身は二本足ではなく魚の尻尾だから、本当にクロスの形をとっている。雑魚の癖に不死身な邪魔者は、先に無力化しておくのがいいのだろう。しかしもう一方の彼女も、

「は、華陽ちゃんがっ……」

 血が上った頭に、再び予知が届いたが、これもすぐに、

「ぎゃっ」

 雨露で濡れた狐も、継ぎ接ぎの醜い怪物(フランケンシュタイン)が放った釘によって、その九つの尾を固定されてしまった。

 ――そう、だから、意味がないのだ。せっかく知らされた未来も、言葉にして伝えなければ無意味である。予言を届けたくとも、起こる直前に知覚したところで、もう遅い。

 所詮私は、神聖な予言獣でも何でもない。罪深い人間との、欲に塗れた男との、合いの子。

「あはっ」

 継ぎ接ぎの醜い怪物は、私の方じゃないか。人によって意図的に、人工的に造られたキメラが、全知全能の神みたいな未来予知ができるものか。――私は、自虐の海に溺れて、自身を嘲笑った。

 ――目の前に悪魔はいるのに、神はいない。

 頭に山羊の角を生やした女の悪魔(ケンタウロス)は、巨大な弓で身動きできない野性の狐を射殺しようとした。間一髪で、九つの尾を杭から強引に解放した妖狐は、放たれた矢を回避する。しかし、降りしきる釘の追撃は止まない。馬の下半身に乗った人間の上半身が、広大な校庭を犬のように逃げる獲物を追い回す。

「ぐぁぅ……」

 私は、右手首に思っい切り力を込めて、打ち付けられた杭から無理やり引き抜いた。腱に刺さっていたから、大量の血が激痛と共に滴る、が、降りしきる雨がそれを流れ落とすよう直ぐに元へ戻る。自由になった右手で釘も壁から引き抜くと、未だ囚われた尻尾の方にもっていき、勢いよく切り裂いた。

「おい、悪魔! 私の肉を喰らうんじゃなかったのか」

 私は、切り落とした鱗が付いたままの魚肉を地面に投げつけて云った。

 山羊は、一瞬狐を追うのを止めて魚の方を見たが、すぐに攻撃を再開した。

「み、醜い怪物! てめぇの不細工な見た目を、私が救ってやろうとしてんだよ」

 私は、下品な言葉を叫ぶように悪魔へぶつけた。事実中途半端で偽物な私の肉体に、そんな効能が備わっているかはわからないが、嘘でも何でも奴の気を引かなければ……でも、今度は見向きもされなかった。

「おい、コラ! 紛い物のブス! 美しい人魚姫の肉をくれてやろうっていうんだよ、聞こえないのか」

 立て続けに怒鳴るよう悪口を言い放った私の目に――魚の図像が映った。その半身の部分には、「ΙΧΘΥΣ」と記されていた。無知で無学な私には、その発音も意味もわからなかったが――気づくことはできた。目から鱗が落ちたように。

「くそっ! もう痛いのも辛いのも苦しいのも、懲り懲りなのに」

 これが、半分畜生道に堕ちている私、私達への罰なのだろう。否、元から私は、敬虔な信仰など持ち合わせていないのだ。私が祈る対象は、ずっと彼女しかいない。

「お、おりゃああああああ」

 私は、自分を鼓舞する叫び声を上げながら、悪魔の釘で自分の下半身全てを切り落とした。

 ――魚肉は、ぼたっ、べちゃっ、と鈍い音を立てて折れ込むように泥と化した校庭に落ちた。左手首しか留められていない私の本体も、重力に逆らえず同じような音を立ててグランドに落下する。

「ほら、喰え! 私の肉体を分けてやる」

 両肘を掻くようにして何とかうつ伏せになった、上半身だけの私が首だけを持ち上げて叫ぶ。

 首を百八十度回転させてこちらに振り向いた悪魔は、馬の尻尾を振り回しながら赤黒い血の付いた肉の元へと駆けつけ、貪り喰い始めた。その大きく裂けた口からは、緑色のスライムみたいなものを撒き散らしている。

 彼女、カシマレイコは、降りしきる梅雨と共に、獣の半身から消えかかった。水泡のように。

「あはははははは」

 その上から、聞き慣れない甲高い女の笑い声を伴って、一匹の野獣が降ってきた。その妖艶な人間の声とは裏腹に身体は汚泥塗れの獣は、自身の巨大な体躯に見合った重量で、既に半分となっていたカシマレイコを圧死させるよう完全に消滅させた。

 私は、まだ元に戻り切っていない尾ひれを引きずり、肘を使って這うように泥水の中を泳いで、金色の九尾――溺愛する華陽ちゃんの元に向かう。

「は、華陽ちゃん……? も、もう終わったから、戻っていいよ? わ、私も大丈夫だから、ね」

 獣となった彼女に、狐の両耳に私の声は届いていないようだったが、一瞬こちらを見下ろすと、彼女は苦しみはじめた。

「だ、大丈夫……? も、元に戻れそ……?」

 私の震える声に、やはり応答はしてくれない。

 彼女は、今度は巨大な獣の肉体の中でもがき苦しんでいるようだった。黄金の四肢で身体中を掻き毟り、何かと闘っているようである。その激しい運動故に、身体中からは真っ赤な血が流れ出てきている。

 苦痛のためか、その獣身を地面に転がるように擦りつけている。金色に輝く毛は、いつの間にか赤と茶の汚い斑模様のようになっている。

「ぐぅ、ぐぅ、ぐぅ……」

 と、校庭の真ん中で苦悶の吐息を漏らす彼女の身体は、徐々に小さくなっていった。

 しかし、まだ中では激しく闘っているようで、身体の方は元に戻りつつあるのに苦痛の方は増しているように見える――、

「は、華陽ちゃん!」

 私は、見ていられなくなり、彼女の暴れる身体へと抱き着いた。

 自傷行為は止まない。獣から人の姿にほとんど戻ったというのに。――まさか、玉藻前に乗っ取られようとしているのか?

 そんな私の邪推は、邪推となり得なかったようで、

「い、嫌っ! こ、来ないでっ!」

 華陽ちゃんは、何かを拒否するように身体をよじらせている。その表情は苦痛の故か歪み、頬は真っ赤に染まっている。高いところで結んだポニーテールも解け、背中まで伸びた美しい金髪が放射線状に広がっている。着ている浴衣はほとんど脱ぎかかっているにも関わらず、プールと雨に濡れたせいで身体に密着し、中の下着がくっきりと透けている。――私は、こんな汚れた姿の華陽ちゃんを見て何故か、ただ純粋に――美しいと思った。

 私は、彼女をさらに強く抱きしめる。

「は、華陽ちゃん、わ、私はここにいるからね……」

 彼女の必死に抵抗する怪力が、密着する私の身体諸共破壊していく。でも、大丈夫。私はあなたと一緒で、人じゃない存在――人魚姫だから。

 本降りとなった激しく打ちつける雨の下、私達二人は、泥だらけになりながら縺れ合った。――そうだ、私が華陽ちゃんを守らなければならなかったのだ。そう決めていたのに。私のせいだ。私が足手まといにしかならないから。

「華陽ちゃん……ごめんね……ごめんね……」

 私は、繰り返し謝罪しながら、狐の耳と尻尾が生えたままの彼女の身体を抱く。

 華陽ちゃんの暴走による暴力は、私の人の上半身も、ようやく完全回復したばかりの魚の下半身も傷つけていく。その度に、水で濡れた私の身体は、すぐに何事もなかったように再生を繰り返す。彼女のためだったら、痛みも苦しみも感じなかった。

「ふ、深海……深海……」

 私の名前を繰り返す華陽ちゃん。ケモ耳も尻尾も可愛いね。早く二人だけの巣に帰ろうね。

「なあに? 私はここにいるよ――」

 華陽ちゃん、月が綺麗だね。

 お互い不幸な者同士――ずっと、ずっと、ずっと一緒にいようね、華陽ちゃん。



 地獄絵図だった。

 口裂け女……()()()()()は、落下してきた四足歩行の獣――九尾の狐によって退治された。否、見るも無残に、醜く殺された。

 その後、這ってきた人魚と抱き合いながら相手も自身も傷だらけにしていく光景は、とても直視できる代物ではなかった。

 天空には輝く月が見えているというのに激しく打ちつける降雨によって、魚の方は全身を破壊されながらもすぐに回復しているようだった。しかし、その際に溢れ出た夥しい量の血液は、身体中を這うようにして泥となったグランドへ流れ出している。ここからでも、血の、鉄のむせ返るような臭いを錯覚する。

 狐の方は、人魚の腕も尾ひれももぎ取りながら、自身の四肢をも引き裂いている。その度に、それを押さえ込もうと抱き着く魚は、その体内から溢れ出る血液を狐の口へと流し込む。

 そうして両方再生しても、すぐに破壊が始まるから、そのやり取りが無意味に繰り返されるだけである。

 肉体とは違って元に戻らない衣服――魚のスク水も狐の浴衣もほとんど破れ切っていて、お互い裸同然である――だから、とても見ていられない。

 血の赤と泥の茶を洗い流すように降る梅雨の下、何度も再生する魚の肉体は、狐の凄まじい速度の破壊に対応しようとするあまりか、その部品が欠損したり過剰になっている。

 額からは、二本のコブみたいなものが生えてきて、角のようになった。加えて、何故か肩甲骨の辺りから生えてきた第二第三の両腕は、肘が逆方向に折れ曲がり――翼のようになった。

 そんな異形の化け物達の醜い戯れを、僕は()()()()ことしかできなかった。

「おい、貴様。鬼子のくせに、ただぼーっと見ているだけか」

 全く、情けないな、と誰かが云った。

 僕は、突然そう声が聞こえた方向を探す。それは、どうやら僕の斜め上から発せられたようだった。

「いやいや、元はといえば、旦那のボクシングの練習が長引いて遅刻したせいで、こうなってしまったわけでしょう」

 いつの間にか、僕のすぐ隣、校庭に建っていた()()からそう声が聞こえた。

 その場違いに高く聳える柱の頂上から、一人の男が飛び降りた。手には傘を持っており、それを利用してパラシュート降下するかのような運動だった。

 葬儀屋のような闇夜と同化する真っ黒いスーツ姿とは相反して、両手には真っ白な手袋を嵌めている。その白地には、これまた黒い――五芒星の文様が染められていた。

(てん)。人間にはな、日々の心地いい運動は、肉体的にも精神的にも大事なことなんだよ。それに、僕は、君のようなガサツな性格と違って、丁寧で几帳面なんだ」

 水捌けの悪いグランドに降り立った男は、その後ろに建つ電柱に向かって云った。

 年齢は、二十代後半くらいだろうか。その台詞を裏付けるかの如く、神経質そうな男は、肩に当たる雨粒や脚元の泥跳ねを気にしているようだった。

「だからって、毎回スーツを着る度に何度も着直されちゃあ、仕事になりませんよ」

 校庭に突如現れた一本の電柱は云うと、無数の獣になった。その一匹一匹がまるで肩車でもするように連なり、一つの柱と化していたようである。

 豪雨であるにも関わらず、月明かりが射していることを利用してその姿をよく見てみる。鼬のように見えるが、動物の知識に乏しい僕には正確なことはわからない。強いて特徴を上げるとするならば、その毛は黒黄色で月明かりによって光沢が出ていた。

「ふん、もう過ぎてしまったことをグチグチ言うな。僕は、過去を振り返らない人間なのだ」

 潔癖そうな男は、キッチリ糊が付いたジャケットの襟を正しながら云った。その際に、手の甲の五芒星が赤い月光によって妖しく輝いたように、僕には見えた。

「だったら、今目の前の状況を何とかして、早くお二人を助けてあげてくださいよ。あんなことになってるのは、やっぱり旦那が遅刻したせいなんですから」

 テン――と呼ばれた獣の一番頂上にいる個体が喋っていたが、下で支えていた個体群は僕が瞬きした一間に消失した。一匹となり落下してきた頂上の個体は、男子の、中学生くらいの人間の姿に変化した。

「まぁどのみち、僕は、悪魔(エクソ)祓い(シスト)なぞではないからな。今回の怪異は、こいつらが退治する物語だったのだ。僕が遅刻するのも必然だったというわけさ」

 スーツの男は、黒いネクタイの位置を神経質そうに正しながら、魚と狐の元へとゆっくり歩いていった。

「しかし、あれが僕の先祖が退治に一役買ったという、三度も国を傾けようやくこの国で封印された妖怪か。いくら女王(クイーン)口裂け女といっても、現代怪異とは格が違ったわけだ。――否、死霊(デーモン)か。否それも違う、複雑怪奇な悪魔(デビル)、か」

 闇のような男は、歩きながら、何故か嬉しそうに云った。

「小野寺さん、入ってください」

 先程まで電柱だったり獣だったりした少年は、僕の名を知っていたようで、差していた傘の中に入れてくれた。

「あ、ありがと……うございます……」

 真っ黒な男は、履いている革靴を気にしつつ、相変わらず惨たらしい行いを繰り返す二匹の元に辿り着いた。

「はっはー! 見ろ、貂。狐が鳥肉を貪っているぞ」

 後ろを振り向いた男は、少年に向かって笑いながら楽しそうに云った。全く、不謹慎な台詞と態度だった。

「鳥肉? 強いて言うなら、魚肉でしょうよ」と、それを受けた少年は誰に言うでもなく呟いた。

「そういえば、貂。貴様の主人も狐の母親から生まれたらしいな」

 そんなことを続けて云った男は、距離が距離だから、当然二人の悲惨な乱闘に巻き込まれそうになる。

「あ、危な――」

 僕がほとんど無意識に叫び声を上げ切る前に、

 不謹慎な男は、二匹に向かって、デコピンをした。その目にも留まらぬ素早い動きを、僕の鬼の目は見逃さなかった。

 男の人差し指によって、おでこを強く弾かれた二匹の獣は、意識を失いその場に倒れ込んだ。

 すると、みるみるうちに元の、人間の姿に戻っていった。まるで、何事もなかったかのように。

「今回の仕事内容は、狐下げの法だ。貂、犬の娘にキッチリと依頼料を伝えておけ。それと――」

 鬼子。お前ら二人で娘達を僕の霊柩車(マイカー)に運んでやれ、と五芒星の手袋を嵌めた男は云った。

 地獄は終わりを迎えたようだが、やはり僕はこの突然の出来事を――ただ見ていることしかできなかった。

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