調査レポート〇二 鬼・獺・猫・「トイレの怪」
一
講堂の隅に、能登雫さんの姿が見えた。
まぁ講堂といっても、そんな広いというわけではなく、一般的な教室くらいの部屋なのだけど。大学というと、段々と席が広がっている大きな講堂をイメージするが、そんな大きな場所は数か所しかなく、そのほとんどは高校などと同じような教室なのだ。
とにかく、そんな教室の前から三列目に、能登さんは着席していた。中には、教授はもちろん、他の受講生もまだ誰一人来ていない。だから、教室内はしんと静まりかえっている。
この部屋は、高校までの教室の造りとは違い、黒板の左右に出入口があるタイプである。それ故、当然黒板の方を向いて座っている能登さんに気づかれ――はしなかった。
彼女は、黙々と講義のレジュメと参考図書だと思われる本を読んでいた。その真剣に机へ向き合う姿は、初対面の時に抱いた印象とは、だいぶ違って知的に見えた。否、もちろん初対面の時にお馬鹿そうな印象を持ったというわけではなく、どちらかというと、おっとりとした雰囲気を感じていたのだ。
僕は予想していなかった事態に軽く狼狽しつつ、向こうが気づいていないとはいえ、話しかけないのも変だと思って、
「の、能登さん、久しぶり……」
と、なるべく平静を装って云った。
というのも、初めて出会った入学式の日から、彼女とは一度も会っていないのだ。だから、これが約一か月ぶりの再会となる。
「あっ、お、小野寺さん……でしたっけ? お、お久しぶりです……」
向こうも予想外かつ急に話かけられたからか、戸惑っているようだった。
頭を上げた際に、綺麗な茶髪のボブカットが一瞬揺れたのが僕の目の裏に残った。能登さんは、初めて会った日と同様、丸い眼鏡の奥で僕を怪訝な目で見つめている。しかし、今回はそれもそのはずで、
「僕も、今日は民俗学の講義受けようと思って……。いわゆる、潜りってやつ?」
そう、僕はこの講義を履修登録していない。では、何故小心者の僕が潜り込むようなことをしたかというと、サークルの活動に役立つかもしれないと思ったからである。
この民俗学の講義は、いわゆる教養科目というもので、選択必修なのだ。だけど僕は、登録の際にはあえて避けた。それは、やっぱり、なるべく目を向けたくなかったから。少しでも魔の香りがするものには近づきたくなかったから。自分が鬼であることに、向き合いたくなかったから。――でも、今は違った。
「そ、そうなんですね。結構楽しいですよ、この授業。……小野寺さん、それより――」
大丈夫でしたか? と、能登さんは急に深刻そうな顔になって云った。
その言葉の真意は、もちろん例の――菊池彩音の事件だろう。人の呪いが鎖のように幾重にも縺れ合った怪異。僕と犬養部長が文字通り必死になって解決した案件。
「うん、心配してくれてありがとう。部長の助けもあって、何とか無事に熟すことができたよ」
と返答しつつ、僕は若干後悔していた。この講義を調べた際に、広い講堂でないことはわかっていたが、まさか能登さんがいるとは。小心者で人見知りの僕は、この状況に気まずさを覚えずにはいられなかった。でも、
「能登さん、もしよかったら隣いいかな」
僕は、彼女――菊池彩音から、何か大切なものを学び、受け取っていた。それが何なのかは、明確にはまだわからない。だから、こうして少しずつ、変化していくのだ。
「いいですよ。私も一人で退屈でしたので」
能登さんはそう云って、微笑んだ。小柄な体格も相まって、笑ったその顔がまるで赤ちゃんのように無邪気に見えた。
「――能登さんって、どこの出身なの? ほら、自己紹介の時に、僕達出身地とか言わなかったからさ」
講義開始までまだ時間もあったため、僕は彼女に雑談を持ちかけた。
「はい、私は、岩手県の出身です――」
能登さんはそう云うと、開いていた本を閉じて表紙を僕に見せた。
「『遠野物語』?」
そこに記された書名を口に出した僕は、どこかで聞いたことのあるような気がした。
「一度は目にしたことあると思いますよ。高校の日本史の資料集なんかにも載っていますから」
あぁ、確かに載っていたかも。しかし、日本史で大学受験したにも関わらず、そこら辺の知識がすっかり抜け落ちている自分にも気づき、少し落胆する。あんなに勉強したことが、入学してまだ二か月も経たぬ内に既にほとんど消失してしまっている気がしてならない。
しかし、その『遠野物語』がどうしたというのだろうか。
「私は、ここの出身なんです。岩手県は遠野市です」
能登さんは、何故か得意そうに云った。
その心意は計り知れなかったが、なるほど、遠野というのは岩手県の地名なのか。歴史を暗記科目だと割り切って丸暗記していた僕は、その事実を今更知ったのだった。
そんな僕のことを、彼女はまたも怪しそうな目で見ている。丸い眼鏡の奥にある、さらに丸い目が僕をじっと捉える。
「まさか、小野寺さん。ほんとに『遠野物語』知らないんですか……」
なるほど、僕の無知に対する疑いの目だったのだ。
――『遠野物語』とは、明治に柳田國男という学者が記した書物であるらしい。その内容は、岩手県遠野地方に伝わっている民話や伝承を編纂したもので、そこの出身である佐々木喜善という人物から聞き取り、書かれたという。そして、この書籍を嚆矢とし、日本の民俗学は誕生した。
そんな極めて重要な記念碑的作品の舞台というわけで、能登さんは得意げだったのだ。
僕は、彼女から受け取った『遠野物語』の頁をパラパラと適当に捲る。
外の地にては河童の顔は青しいふやうなれど、遠野の河童は面の色赭きなり。
どうやら、遠野に伝わる河童の顔は、赤いのが特徴らしい。確かに、河童と聞いて、赤ら顔のものを想像する人は多くないだろう。赤い顔と言われれば、僕は真っ先に猿なんかをイメージしてしまう。
――そこで、昼休みを終えるチャイムが鳴った。辺りを見回すと、昼食を済ましたであろう学生達が教室に集まり出していた。僕は、本を能登さんに返そうと、彼女の方を見た。
「遠野、いいところですよ」
追い出されちゃいましたけど、と云った彼女の両頬は、丸く紅をさしたように赤らんでいた。
「へぇ、こんな素敵な場所があったんですねぇ」
長い階段を上り終えた能登さんは、一息吐いて云った。
「ごめん、能登さん。付き合わせちゃって」
「だから、いいですって。私も日頃の運動不足の解消になりましたし。それに――」
こんな隠しスポットを教えてもらったんだもん、と能登さんは笑いながら云った。
民俗学の講義を終えた僕達は、例のテラスへと移動した。僕も能登さんも、これで今日の講義は終了だったので誘ってみたのだ。その際に、彼女にはエレベーターを使うよう促したのだが、僕と一緒に階段を上ってくれた。
「私、まだ大学内全然知らないなぁ。ほんと迷路みたいで、未だに教室まで迷っちゃう時あるよ」
階段を上がったことで、体温も上がっているであろう彼女の両頬は、先程より一層赤く見えた。しかし、それを落ち着かせるように春の心地いい風が彼女の両頬を撫でている。紺色のオーバーオールに、グリーンのキャップ姿が少年ぽさを演出させる。
「この場所は、部室と同じで、人の意識外にあるようです」
「え」
疲れたであろう彼女がベンチに腰を下ろしながら云った言葉を、僕は理解できなかった。
「みんなの目には確実に入っているけど、特に意識もしないし、思い出せない場所。思い出そうともしない場所。見ているけど、認識できない場所。小野寺君、そういうところ見つけるの得意そう」
能登さんは、悪意は感じられないが、からかうような目で云った。
全く、ここ最近の僕は女性にからかわれてばかりだ。しかし、なるほど。例の部室もそういった人々の意識の隅、否、外にある場所に創られているのだ。まぁ、あれは、物理的な概念を色々と無視しているから一概に同じとは言えないだろうけど。
能登さんの言う通り、人を避けるようにして生きてきた僕は、そういったみんなに無視されているような空間を見つけるのは大得意だった。
「こんなところで音楽でも聴いたら、最高だろうなぁ」
能登さんはそう云うと、背負っていた何が入っているのか不思議なくらい大きなリュックサックから、これまた大きなヘッドホンを取り出して耳に当てた。
僕達二人は、しばらくベンチに座って、高いビルが並ぶ大都会の景色を眺めていた。午後の日光は既に夏の気配を感じさせていたが、日陰に吹く風は、まだ春の爽やかな香りだった。それが僕を心地のいい微睡の中に誘い込んだ。
――原色の様な濃い森林、周りは高い山々に囲まれ、平地には美しい田園が広がっている。近代化が急速に進む中、この国の原風景とも言うべき姿が目の前に映し出される。この場所で、人々が生活を営み、周りの自然環境から豊かで様々な空想を働かせた。
一歩山へ足を踏み入れれば、生い茂る緑の中に、虫や鳥の鳴き声が響き渡る。遠くでは、熊や狼、鹿の気配を確かに感じる。川では、馬が休んでいる。――でも、何か様子が可笑しい。
――馬が引っ張られている? 川の方へ、川の方へと何者かに引かれている。馬も必死に抵抗するが、どんどんと奥へ引きずり込まれる。
僕は、馬を助けようと、慌てて河原へと降りた。
そんな僕の目に映ったのは――、
河童。
ではない。こいつは――、
猿。
遠野では、猿の「経立」といい、年齢を重ねた猿は怪物と化すのだ。その毛皮は、松脂を塗った上から砂をつけて鎧のようになっていて、鉄砲の弾も通らないという。そして、女色を好み、里の婦人を盗み去る。
そんな猿が、僕の腕を引っ張る。僕は抵抗するが、それも虚しく水中へと引きずり込まれる。
川の水が身体全体を包み込む。目や鼻、口、身体の穴一杯に夥しい量の水が流れ込む。必死にもがけばもがくほど、暗闇の奥底へと沈んでいく。
――意識が飛ぶ、瞬間に、目が覚めた。
「だ、大丈夫ですか!? 酷いうなされようでしたよ」
僕の目には、心配そうに見下ろす能登さんの顔が映った。
いつの間にか、僕は眠ってしまっていたらしい。それに気づいて顔を擦ると、何故か水分で濡れていた。
「こ、これは……?」
「小野寺君、ごめんなさい。呼びかけても揺すっても起きないので、強行手段を採らせてもらいました」
能登さんはそう云うと、ポケットからハンカチを貸してくれた。
「あ、ありがとう……」
僕は、お礼を云って顔を拭きつつ、彼女の手を見る。
そこには、およそ人間のものとは思えないほど伸びた、水かきが備わっていた。
「ばんっ。小野寺君、中々起きないから、撃っちゃった」
鉄砲のようにした彼女の人差し指の先から、勢いよく水が飛び出した。それが、また僕の顔面にかかる。
「うわっ」
僕は、反射的に間抜けな声を上げて、もう一度ハンカチで顔を拭いた。
「これが、本当の水鉄砲。なんつって」
能登さんは、僕のリアクションを見て、楽しそうに笑っている。その笑顔を見て、彼女の敬語が外れているのに気づいた。
どうやら悪戯好きだった彼女は、やっぱり子どものように無邪気で、小動物的可愛さを感じさせる。
多分、こういった女子の顔を――獺顔と言うのだろう。
二
「ようこそ、我が自慢のお城へ!」
犬養姫愛部長は、高級そうな革作りの椅子に座って、偉そうに片肘を突きながら云った。
「まぁ、城と言えば城なんですけど……」
大きなお姫様ベッドもあるし。でも、以前は隠里だとか何とか言って気がするけど。
「部長、ふざけてないで、さっさと要件を言ってくださいよ」
僕の三メートルほど離れた隣に立っている、東松摩伊先輩が呆れたように云った。
能登さんと同じように、東松先輩とも入学式ぶりの再会である。だから、この身体的距離がそのまま心理的距離である。しかし、それにしても――、
「ここは、書斎、ですか……? 夥しい量の本です……」
僕は、天井に着くぐらいの高さまである無数の本棚を舐め回すように見ながら云った。
またしても僕は、ジャングルへと迷い込んでしまったようだ。外に高いビルが聳え立つのと同じように、本棚が並んでいる。否、並んでいるだけではなく、それが仕切りとなり、迷路を形成しているのだ。棚の中にはビル窓のように、本が整理され、けれどぎっしりと嵌っている。
部長は、この迷路のゴール、最終地点の開けたところに鎮座していた。部長のお姫様ベッドが置いてある寝室の隣に、こんな大きくて広い部屋があるなんて誰が想像できようか。先程僕は、書斎と言ったが訂正しよう。ここは、もはや図書館である。下手したらこの大学のものよりも立派なんじゃないだろうか。
――やっぱり、この部室は、現実とは隔離された異空間なのだ。
「そっか、小野寺君は来るの初めてだったね。どう、驚いたかな」
部長は、呆気に取られて辺りを見回す僕に向かって云った。
「そ、そりゃあ驚きましたけど……、もう慣れてきました」
半分本当、半分見栄だった。僕は、このたった一か月余りであまりにも色々なことを経験し過ぎた。それに、部長の前では冷静で動じない男を演出したい。
「で、今回の件は?」
東松先輩は、急かすように云って、怠そうにしゃがみ込んだ。
「まあまあ。ちょっとは待ってよ、摩伊。まだ全員揃ってもないんだし」
部長は、彼女を何故か一瞬憐れむような目で見ると、僕達二人を座るように促した。
背の高い本棚が四方を囲む空間に、デスクとチェアが数個設置され、その上には、立派なパソコンがそれぞれ配置されている。この空間中央の奥に部長は座っているのだが、その高級そうなデスクの上にはパソコンに加えて複数のモニターも置かれている。
部長は、ここをお城だとか言ったけど、この様相を見るに僕は、コックピットのように思えた。しかし、部長の前の壁には外を映す窓はなく、その代わり、まるで教会のような大きなステンドグラスが嵌っている。――だから、本当に異様としか言えなかった。
「す、すいません! 遅れてしまいました」
息を切らした能登さんがこの――お城、書斎、図書館、コックピット、教会――へ滑り込むように入ってきた。
多分、彼女もこの異界に訪れるのは初めてだったのだろう。ここへ辿り着くまでに、見事迷路に絡めとられてしまったみたいだ。
「いいよいいよ、特に急ぎってわけじゃないし。まぁ、摩伊は相変わらず、せっかちさんみたいだけど」
部長はそう云って、東松先輩をからかったようだが、一方の彼女はというと、
「やっほ、雫ちゃん。入口で待ってればよかったね」
怠そうにデスクへ頭を置きながらも、今まで初めて聞く嬉しそうな口調でそう云った。
「ほんとですよ、摩伊先輩。おかげで、迷っちゃいました」
能登さんは、そう文句を云いながらも、やはりこちらも嬉しそうだった。
この二人は、既にかなり親密な仲になっているらしい。僕は、勝手に相性の悪そうな二人だと思っていたけど、女子というのは本当にわからないものだ。
「よし、じゃあ全員揃ったことだし、早速今回の依頼を伝えるね」
部長がそう切り出したと同時に、東松先輩は能登さんに手招きし、隣のデスクへ座らせた。
彼女に呼び出された理由は、もちろん事前に連絡されていた。そう、怪異の噂がまた立ったのだ。果たして、今回は――といっても僕はまだ二回目の案件だが――どんな怪異譚なのだろうか。
とその前に、僕は重要なことを思い出した。
「部長、本題の前にすいません。あの、僕の報酬の件は……」
菊池彩音の依頼解決料三百万円(最初からこの額だったわけではなく、結果的に上乗せされたらしいが)は、約束通り既に支払われていた。だから、僕が聞きたいのはそのことではない。税金や何やらのことでもない――否、凄く大事なことではあるけど、今はなるべく考えたくない……。それより、
「小野寺君は心配症だなぁ。大丈夫だって、怪しいお金とかじゃないからさ。と言っても、やっぱり少しは説明しないとね」
部長は、そこで辺りの本棚を一周見回した後、話を続けた。
――依頼料として、このサークルに支払われているお金は、ある一人の女性が支払ってくれているらしい。また、この部室もその人物によって用意されたものだという。この夥しい量の書籍も、その人からの預かり物らしく、部室を提供した代わりとして管理を任されているのだ。そして、犬養部長は、独り上京した際その女性に色々助けてもらったとのこと。しかし、その人物の名前をはじめとする詳細を他言することは禁じられているという。
それについては、東松先輩も三年生の二人も例外ではなかった。
「私は、お金さえキッチリ払ってもらえればどうでもいいけどね。小野寺君も、あんまり首を突っ込まない方がいいと思うぜ」
東松先輩に急に名前を呼ばれたから吃驚したが、なるほど、ある種のタブーということか。ただでさえ、闇を専門に取り扱う世界なのだ、禁忌の一つや二つ珍しいことではないということだろう。だったら、新人の僕はこれ以上何も言うまい。
それにしても、色々ほっとした。話しの出鼻をくじいてしまったことで、せっかちな東松先輩の機嫌を損ねたらどうしようかと思ったが、特に気にしていない様子だ。
「んじゃあ、仕切り直して、今回の依頼ね」
「チェーンメールの怪」に続いて、今回は一体どんな化け物なのだろうか。部長の次の言葉を待つ刹那の間、呼吸のスピードが速くなる。僕の脳内に、あの地獄のような戦闘がフラッシュバックする。
「君達には、トイレの花子さん、に会ってきてほしいの」
――「本」というのは、人類の英知の結集であり、想像力の結晶である。
この書物に囲まれた空間で、僕は心底そう思った。
大学に入る以前は本なんてほとんど読んでこなかった僕だが、進学してからというもの、やたらと読む機会が増えた。それも当たり前の話で、学問というものは、先人たちが紡いできたのものを受け継ぐところから始まるのだ。そうした数多くの人々が積み上げてきたものの上に、今僕達は立っている。――といっても、今の僕は、その積み上げられたものの下に座っているのだけど。
とにかく、高校まではせいぜい朝読書なる時間にしか本を読んでこなかった僕は、この短い大学生活の中で、その重要性を思い知ったのである。
「それでね、みんなをここに呼んだ理由なんだけど――」
犬養部長はそう云うと、デスクの上に置いてあった書類を僕達三人に配った。
「これは、過去に採集した怪異譚じゃないですか。こんなもの見せて、どうするつもりですか」
東松先輩は、怪訝そうな顔で部長を見ながら云った。
僕達オカルトサークルは、その活動という名目の下、定期的に都内の学校(小中高大、公私などを問わず)や、街などに赴き、そこの生徒や教員、街の人々から怪異にまつわる話を集めているのだ。その全てが実際に怪異によるものとは限らないし、怪異譚とも言えないような噂の種のようなものもある。しかし、裏――真の目的である怪異事件の事前予防としては、こうした地道な活動が欠かせないのだ。
「うん、あのね……。私と小野寺君が先日遭遇した菊池彩音という怪異。彼女はね、何者かに意図的に――」
デザインされていた、と部長は東松先輩と能登さんの顔を順番に見据えながら云った。
「はぁ? デザイン? そんなふざけたことできるわけないでしょ」
「わ、私もそう思います。怪異の意図的な創造なんて聞いたこともないですし、そんな風にコントロールできないから」
怪異、なんです、と能登さんも反論した。
「もちろん、まだ確定とは言えないよ。でも、彼女に対峙した私達は、そう思うしかなかったんだ。ね、小野寺君も違和感あったでしょ」
僕は、急に話を振られたから一瞬戸惑ったが、「はい。明らかに、要素が多いように思えました」と答えた。違和感といえば違和感しかなかったし、今回の事件が初めての僕からしてみれば、実際にイレギュラーかどうかなんて判断し得ないのだけど。
「よ、要素って……。二人が退治したのは、チェーンメールの怪異なんでしょ? せいぜいおまけとしてくっ付いていたのは、メリーさんの電話くらいじゃないの」
東松先輩はそう云い終ると、脚を組み替えた。相変わらず短いスカートを履いているから、僕はあまり彼女の方を見ないようにしている。
「だから、前にもみんなに言ったでしょ。私と小野寺君は、彼女、菊池彩音に、殺されかけたって。私は一度だけだったけど、小野寺君は、何回も何回も――」
部長は僕の方を横目で見ながら云ったので、「殺されかけたというよりは、何回も殺されました。その度に、生き返ってたという感じです」と補足するように云った。
「感じって……、やっぱり鬼って凄いな。私達とは、格が違うってわけか」
東松先輩は、何故か少し嬉しそうに云った。
「小野寺君、本当に大丈夫だったの?」
一方の能登さんは、深刻そうな顔で心配してくれている。二人の性格が相反しているのが、この反応一つからでもわかる。でも、彼女達二人は仲がいいのだ、やっぱり女子のことはわからない。
「摩伊、その鬼の力でもっても苦戦したのよ。前回は、イレギュラーな相手に、イレギュラーな小野寺君がいたから何とか助けられたものの、彼がいなかったら私は今頃ここにこうして座ってはいないわ」
部長の言葉を受けて場が一瞬沈黙したが「……で、このレポートは何だって言うんですか? 見ると、別に代わり映えしないありきたりな怪異譚だけど」と、東松先輩はパラパラと配られた書類を捲りながら云った。
僕と能登さんも、レポートに目を遣る。――確かに、ざっと読む限り、よくある学校の怪談のような内容ばかりだ。
「そのリストアップした怪異には、ある共通点があるの。何かわかるかな」
部長は、書類を眺める三人に向けて云った。すると、すぐに、
「……トイレの怪異ですか?」と能登さんが云った。
「ピンポン、正解! 流石雫ちゃん、もう摩伊より優秀かもね」
「はぁ? 私だってわかってたさ。可愛い後輩に譲ってあげたんだよ」
部長と先輩の関係も、男の僕にはよくわからない。
「とにかく、ここにまとめたのは、ここ数か月におけるトイレに関する怪異なんだ。それも学校限定のね」
僕は、レポートに記された、学校のトイレに現れたという怪異の詳細を時系列順に読んでいく。
「赤手」
東京都の某小学校のトイレで、赤い手が便器から出てきて、「赤い紙おくれ、青い紙おくれ」と声を発した。
「青い紙」
東京都の某小学校の二階男子トイレに現れた。その一番奥の個室は、トイレットペーパーを何度補充しても消えて無くなってしまうという不思議な現象が起きていた。そんなことが続くある日、とある男子児童が用を足したが、やはり紙が無かった。そうして困っていると、上の方から「青い紙はいりませんか」という声が聞こえてきた。男子児童は、それに「いります」と答えたところ、何者かが飛びついてきて、全身の血を抜かれて殺された。
「赤い紙・青い紙」
東京都の某小学校のトイレに現れた。とある女子児童がそのトイレで用を足したが、紙が無かった。女子児童が困っていると、どこからか「赤い紙はいらんか、青い紙はいらんか」という声が聞こえてきた。女子児童は、恐ろしくなって咄嗟に「赤」と答えると、身体が血塗れになって殺された。青と答えても、何者かに首を絞められ、窒息死させられるという。また、他の学校では赤と青に加えて、黄色や白色のパターンも報告されている。その各種色の効果も様々なものが報告されている。
「赤いちゃんちゃんこ」
東京都の某中学校に現れた。休み時間に、とある女子生徒がトイレに入ったところ、どこからか「赤いちゃんちゃんこ着せましょうか」という少女の声が聞こえてきた。女子生徒は、その問いかけに肯定すると、血塗れになって殺された。その姿は、彼女の鮮血によって制服を赤く染め、まるで赤いちゃんちゃんこを羽織っているかのようだった。また、類例として、「赤い斑点」という怪異が報告されている。これは、ちゃんちゃんこ(半纏)と斑点をかけたものであり、殺されたその衣服には、まるで赤い斑点模様のような血が付着していた。
「花子さん」
東京都の某小学校にて、真夜中の音楽室に現れた。花子さんは、自分を目撃した人間に「寂しいの、一緒に遊んで?」と声をかける。それを否定すると、恐ろしい顔になって首を絞めてくる。
「トイレの花子さん」
東京都の某中学校にて、三階の女子トイレ、そこで手前から三番目の個室を三回ノックすると現れる。そして、「花子さん、遊びましょう」と言うと、「は~い」という少女の声が返ってくる。花子さんは、その後「何して遊ぶ?」と問いかけてくるが、これに「おままごと」と答えると包丁で突き刺され、「首絞めごっこ」と答えると首を絞められる。また、他の学校で語られていた噂では「赤いちゃんちゃんこ着せましょうか」と問うてきたり、さらに他の学校では「赤い紙が欲しいか、青い紙が欲しいか」と尋ねてくる場合が報告されている。
こうして羅列してみたところで、まだまだ素人の僕には部長の意図するところがわからなかった。しかし、同じように少しの間黙って読んでいた東松先輩は違ったようで――、
「要素……が徐々に加わっている」と呟くように云った。
僕は、顔を上げて彼女の方を見る。その表情は、少し焦っているようだった。
「そう、摩伊の言う通り、一番最初に出現した赤手以降、段々と別の怪異が加わっていってる。やっぱり、これは――」
「デザインされているとしか思えない」
そう云った東松先輩は、またも脚を組み替えたが、その一瞬の間に――ブラックの下着が無防備に晒された。
そんな短くて防御力の低いスカートを身に付ける女子の気持ちが、やっぱり僕にはわからなかった。
三
僕と能登さんは、犬養部長の指示により、過去のレポートや本を読んで勉強することになった。前例や先行研究を把握するのに、ここより打ってつけの場所はないだろう。
それにしても、本当に夥しい量の書籍がある。能登さんは、読書が趣味ならしく、静かにだが確実にテンションが上がっている様子だ。
「私も、ここには初めて訪れたよ。これなら、もう大学の図書館は用済みかも」
「うん。まぁ、僕は元々図書館をそんなに利用してなかったけど」
この大学の図書館も、もちろん立派なものだ。それこそ、最初訪れた時にはかなり圧倒された。やっぱり大都会にある建造物らしく上へ伸びた館は、十階以上あり、各階にジャンルごと書物が置かれていた。さらに地下まであり、そこには貴重な本が収蔵されているらしい。それ故に利用者は多く、例の如く僕は避けている場所だった。
ちなみに、今この異境には僕達二人だけである。部長はというと、食品や日用品などの買い出しへ、東松先輩はというと、
「他にもバイトやってるなんて、凄いよなぁ」
「何でも、摩伊先輩は、他に三つも掛け持ちしてるらしいよ」
このサークルの活動も入れれば、合計四つということになるのか。全く僕には考えられないことだ。これは、先程のように先輩が女子だからというわけではなく、本当にその気持ちがわからない。
「摩伊先輩が言うには、お金じゃないらしいよ。小さい頃から憧れてたんだって、色んな職業に」
なるほど、確かにそういう人もいるか。僕なんかは人を避けてきたし、なるべく働きたくないと思ってきたから、やっぱりその気持ち自体は理解できないのだけど。
「能登さんは、他に掛け持ちはしてないの?」
僕は、レポート読みの休憩がてら、再び彼女に雑談を持ちかけてみた。
「私は先輩と違ってそんな器用じゃないし、それに――」
人付き合いも得意じゃないから、と能登さんもレポートから目を離して云った。その表情や口調は、どこか哀愁を帯びていた。
彼女も、僕と同じくコミュニケーションが得意というわけではないらしい。彼女からしてみれば、僕なんかと同類にされるのは不本意かもしれないが。僕は、そんな能登さんのどこか寂しそうな表情を見て、先日の言葉を思い出した。
「能登さん、前に言ってた、遠野から追い出されたって……」
僕の質問を受けて、彼女は無理に微笑んだ後、ぽつりぽつりと語り始めてくれた。
能登雫――彼女は、岩手県は遠野市の生まれであった。彼女とその家族が故郷を追われた理由、それは「母親が猿と交わった」からであった。つまり、その結果できた子どもが、能登雫――ということになる。
「ほら、前の民俗学の講義でも言ってたでしょ。遠野の猿は、女性をさらうって」
彼女は、強い女性だ。僕なんて、少しでも自分の過去と、自分と向き合いたくなくて常に逃げてきたのに、能登さんは立ち向かっていたんだ。
そんな彼女の両親は、生まれてきた能登さんを周りの人から隠した。しかし、現代の日本において、生まれてきた子どもをいつまでも隠し続けることなんてできない。戸籍には登録されている以上、小学校には通わなければならないのだ。
「私、それまではずっと家の中で過ごしてきたから、学校は凄く新鮮で楽しかったんだ。でも――」
事件は、まだ少し肌寒い頃のプールの授業で起こった。
――彼女の泳ぎは、およそ人間の行える芸当ではなかったのだ。そして、スクール水着から窺える腕や脚などの表皮は、ヌルヌルと湿って、粘り気のある雫がドロドロと垂れ落ちていた。
「お化けだ、妖怪だ、河童だ――なんて言われて、いじめられるようになっちゃった」
――そう、彼女の母親が交わったのは猿ではなく、河童だったのだ。
「その時の嫌な記憶で、河童じゃなくて、獺なんて自己紹介で嘘言っちゃった。だって、そっちの方が可愛いでしょ」
終いには、教員達大人も気味悪がるようになり、彼女が学校に行くことはなくなった。
そんな彼女の噂話は、クラスの子ども達からその親へ、親から地域の人へと拡大していった。また、近所では別の噂が広がった。それは、能登家には、座敷童子が住んでいるというものだった。彼女の家が裕福だったこと、彼女が小学校に上がるまで家の中で隠されていたことが原因だと思われる。
――そうして、能登一家は遠野を出て行くことになる。
「だから、追い出されたというのは語弊があったね。正確には、私達家族が自ら引っ越したんだ」
能登さんは笑いながら云ったが、僕はそれを受けて、笑い返すことも、何か気の利いたことを言うこともできなかった。
その後、家族は遠い親戚を頼りに、石川県へと渡った。しかし、そんな新天地でも悲劇は起こった。
まだ引っ越して間もない頃、些細なことで両親と喧嘩をし、彼女は家出をした。これが普通の家庭の、普通の子どもによる家出だったら、よくあることで済んだだろう。が、河童に憑かれた能登家では――。
「両親も、私も、色々限界だったんだと思う。別に今となっては、もう親のことを恨んだり、憎んだりしてない。だって、それをしたら――」
心まで化け物になっちゃうから。
幼い彼女が家出から戻ると、一家の小さい貸住宅は、既に取り返しのつかないほど火炎が赤く燃え上がり、焼けていた。――遠野の伝承によれば、座敷童子が出て行った家は、急速に傾くという。
そうして、焼身自殺により両親を失った彼女は、孤児院での生活を送ることになった。
「水に棲む河童に人生を狂わされた家が、火に燃やされるなんて皮肉ですよね」
能登さんはそう云って、やっぱり笑ったが、その丸い眼鏡の奥の瞳は真っ赤だった。
――僕もやっぱり、笑い返すことも、気の利いたことを言うこともできなかった。
四
「やっほ~! ただいま~……って、あれ、何この空気」
買い物から帰って来た犬養部長は、沈黙している僕達二人を見て云った。
「あ、す、すいません……。ちょっと休憩してたところで……」
能登さんは、眼鏡を外して、両目を軽く擦りながら云った。
「お、お帰りなさい部長……」
能登さんと僕の言葉や様子を受けて、彼女は全てを了解したらしく、
「よし、じゃあ今日はこのくらいにしとこうか。もう夜も遅いしね」と明るい口調で云った。
流石の部長は、能登さんの過去についてもう既に知っていたらしい。
「わ、わかりました。じゃあ、そろそろ帰りますね……」
僕はそう云うと、リュックサックの中にレポートを仕舞って、椅子から立ち上がった。しかし、そんな僕を部長は呼び止めた。
「ちょっと、小野寺君。食べてくでしょ」
夕ご飯、と彼女は得意そうに云った。
「え? でも、そんな、悪いですよ」
「何にも悪くないよ~。後輩の癖に変に遠慮してんじゃないって。それとも何? この後、誰かと予定でもあんの?」
部長は、いつものようにからかうような目つきで云った。
「な、何言ってるんですか。あ、ありませんよ……」
と自身で云いつつ、そんな自分が虚しくなる。既に大学へ入学してから一か月以上経ったが、僕の交友関係はこのサークル以外には皆無である。それに――、
「何でそんな動揺してるのよ? 誰も女の子と予定あるかなんて聞いてないじゃない」
部長は、さらにからかうような目になって、笑いながら云った。
そう、犬養部長に友達がいないと思われるのは別にどうだっていい。事実、彼女はそんな交友関係の多さや有無で人を判断したりしない。だけど、他に親しい女性との関係があるとは思われたくない。ましてや、交際関係を結んでいるなんて。
「小野寺君、カッコいいから彼女の一人や二人いても可笑しくないと思ったけどね」
「否、二人いたら可笑しいですよ」
と、からかい続ける部長にツッコミを入れつつ、彼女の言葉を脳内が勝手に反芻する。
いちいち、そんなことで動揺してしまう自分が情けないぜ。第一、それだって部長の得意な冗談かもしれないってのに。と思いつつ、ふと能登さんの方を見る。
――彼女は、クスクスと小さく笑っていた。
そうか、犬養部長は最初からこのために。僕は、今度は部長の方を反射的に見る。
彼女は、僕の視線に気づくと舌を短く出した後、アイコンタクトをした。――あぁ、やっぱり僕は、彼女の忠実な犬だった。
「じゃあ、二人とも、リビングの方に戻ろっか」
僕と能登さんは、各々返事をして、この書斎――異空間から脱出した。
――ダイニングテーブルの上には、家庭用の、だけれど大きなホットプレートが既に準備してあった。
「流石に二人へ手料理を振舞うのは自信がないから、今日は焼肉パーティーを開催したいと思います!」
部長は楽しそうに云うと、僕達を席に座らせた。
僕は、ちょっと残念と思いつつもテンションが上がっていた。それは、能登さんも一緒のようで、
「うわぁ。ありがとうございます、部長。私、久しぶりです。こんな風に食卓囲むの」
彼女は嬉しそうに云ったが、その言葉の真意を考えると、いたたまれない気持ちになる。僕もこんな風に複数人で食事を摂るのは久しぶりだ。でも、それは能登さんも僕と同じように一人暮らし中だから、という理由だけではない。しかし、僕は彼女に対して、いたたまれないなどという同情の気持ちを抱く資格すらない。
「私も何か手伝います。……そうだ、飲み物入れますね」
能登さんは、すっと立ち上がって冷蔵庫に向かった。
「雫ちゃん、座ってていいのに~。ほんとできた後輩をもって先輩は嬉しいわ~」
キッチンで食材やらの準備を進めている部長はそう云って、僕の方を見た。
「小野寺君みたいに、黙って座ってればいいのに」
部長は、またもからかうような目つきと口調で云った。
「ぼ、僕も手伝います。否、手伝わせていただきます」
僕も立ち上がって、犬養部長の隣に立つ。それにしてもやっぱり部長は、気遣いというか周りを見ているというか、本当に優しい人なんだな。
「それじゃあ、いただきま~す!」
犬養部長の楽しそうな掛け声と共に、三人の焼肉パーティーは開催された。
「あ、そうだそうだ」と、部長は食べ始める前に冷蔵庫へ向かうと、何かを取り出した。
「どうしたんですか?」という能登さんの質問を背中に受けた彼女は、振り返ると、今までに見たことないくらいの笑顔で――、
「今日は、お酒を飲みま~す!」と云った。
その両手には、何故か三本のビール缶を持っている。案の定、その二缶を僕と能登さんの前に置いた。
「乾杯しよ、乾杯」と云って、勢いよくタブを開ける部長。この間ずっと笑顔である。
中々言い出せないでいる僕を横に、能登さんが「す、すいません部長……。私達、まだ未成年です……」と申し訳なさそうに云った。
その言葉を聞いた彼女は、さっきまでの満面の笑みが一瞬で消え失せ「そうだった……、じゃあ独りで頂きます……」と云って、缶の中身を寂しそうにグラスへ注いだ。
お酒を飲んだことのない僕はわからないけど、そんなに誰かと飲むというのが大事なのだろうかと疑問に思いつつ、隣の能登さんに顔を向ける。
「言ってくれて、ありがと」と僕は小声で云って、小さく両手を合わせる。彼女は微笑んで、親指を上に突き上げて返答してくれた。
「お肉焦げちゃうから、好きなのじゃんじゃん取ってって~」
部長は気を取り直したみたいで、そう云って僕達を促した。
肉や野菜が焼ける音と、果たして大学内のどこに繋がっているのか謎である、換気扇の回る音が耳から入ってくる。僕は、その雑音を聞きつつ、思い出す。人と囲む食事がこんなにも美味しかったことを。それは部長や能登さんも同じだということが、二人の談笑する顔からも伺える。
僕は心の中で、彼女達二人と、食材に感謝した。しかし、そんなことをぼーっと考えているから、
「うっ、ん、んっ……」
僕は、口に含んだ肉を喉に詰まらせてしまった。
「あっ! 小野寺君が死んじゃう」
と、本気なのか冗談なのかわからない口調で云った部長は、僕にグラスを差し出してくれた。咄嗟にそれを口に流し込む。
「部長! それ……」
能登さんが何故か焦った様子で、グラスを飲み干す僕を見つめている。
「あっ」と部長が云ったのと同時に、僕も察する。
彼女のお酒を飲んでしまった僕は、そう気づいた途端に視界と脳内がグルグルと回り出す。――そうして、部長や能登さんが何か言っているのを横に、僕の意識はブラックアウトした。
――この世には、お酒に弱い鬼もいるらしい。
五
――なんだ、この感触は。
懐かしいような、身に覚えのある感覚。
僕は、それを頭に残しつつ、薄っすらと目を開ける。
――お母さん?
両目を瞬かせて、ぼやけた視界をクリアにする。その美しくも優しい顔が、僕を見下ろしている。
――否、違う。
「あら、お目覚めになったのね。――童子様」
――童子様?
睡眠から覚醒したばかりであろう朦朧とした脳で、その聞き慣れない単語を反芻した。どうやら、僕のことを指しているらしい。
それにしても、この女性は誰なのだろうか。寝ぼけていたとは言え、一瞬母親に見間違えただけに、その面影はどこか似ているようだった。
そこで、ようやくこの女性に膝枕されていることに気づいた僕は、慌てて起き上がろうとする――が、身体が言うことを聞かなかった。その代わり、
「ああ、よく眠れたよ」
と、僕は云った。
――否、僕じゃない。僕は、そんな台詞発していない。しかし、その言葉は、僕の喉と口を通して外に出されたのも事実だった。
これは、明晰夢か何かか? 先程、覚醒していたと思っていたのは錯覚で、まだ夢の中だというのか。否、明晰夢だとしたら、自分の身体を自由に動かせるはずだ。僕の身体は、指一つ言うことを聞かない。さっきの目の運動は、偶然僕の思考と身体がリンクしただけだ。
――じゃあ、この身体の持ち主は誰だ。
そんなことを考えている内に、僕のものであって、僕のものでない身体は、悠然と立ち上がった。
視界の高さからして、僕と同じくらいの身長だろうか。「童子」と呼ばれていたから、もっと幼い身体を想像していたが。
「飯の準備はできてるか」
と、僕――童子は云った。その声をよく聴いてみると、どこか威厳がありつつ、高くも低くもない美しい声色だった。
「はい。ですが……」
膝枕をしていた女性は、申し訳なさそうに云った。
「また都の周りの結界か。腹立たしい陰陽師め」
童子が苛立ちながら云うと、二人の子ども? が襖を開けて入ってきた。性別は、その見た目からは男女かどうか判断できない。と、同時に僕は気づく。今この身体の視界に入っている範囲でも、この屋敷が相当豪華なことに。足の裏に当たる畳の感触も心地がいい。
「童子様――」
入ってきた一人が口を開くと、童子は、苛立ちながら急かすように「なんだ」と問うた。
すると、もう一人の方が、「御客様でごさいます。何でも、修験道の修行中に山道で迷った山伏とかで、一晩の宿を乞うてきております」と云った。
「そんなもん、追い返せ」
童子は、さらに苛立ちを露わにしながら云ったが、その声色はやはり綺麗だった。
「しかし――」
「なんだ」
もう童子のイライラは最高潮に達しそうである。
「世にも珍しい――美酒を持っているとかで」
童子は、その言葉を聞いた瞬間、口角を上げて――、
「通せ」と云った。
目の前では、酒宴が催されようとしている。
広い畳の会場を大勢の者が慌ただしく出入りし、食事などの準備をしているようだ。一方の童子は、畳の上に寝そべっており、その両脇には先程の子どものような二人がくつろぐように座っている。態度や口振り、状況から察するに、この童子は童子などと言いつつ、この屋敷におけるトップであるらしい。
そんなことを考えつつ、僕はある違和感に気づく。否、違和感というのならその全てが可笑しいのだけれど、そうではなく、今この両目に映る光景の――、
「うわぁ」と僕は、大きな声を出して驚いた――つもりであったが、今の僕は童子の身体を介しているので、事実声など荒げていない。しかし、そんなことはわかっていても、驚愕せずにはいられなかったのだ。先程から童子の、僕の目に映っていた慌ただしく出入りする者は、人、ではなかった。
――鬼。
人間とは異なる、異形の化け物、だった。
そいつらが恰も人間のような振りをして、衣服を身に付け、料理に勤しんでいるのだ。
ということは、この童子も――。
僕は、そこで吐き気を覚えた。今度は、それに気づいても大きな声など出せなかった。それは、驚愕というより、嫌悪と恐怖だった。
鬼が料理をしているのは、人、であった。
大きなまな板の上に載せられているのは、人間の片脚である。それが右脚なのか左脚なのか、男性か女性か、大きさや筋肉の付き方からして成人の男性だろうか。なんてことをほとんど無意識で考えている途中に、再び吐き気を催したため中断した。
とにかく、その肉塊をまるで刺身でも作るように、大きな包丁で切り分けている。そのすぐ隣に目を移せば、大きな鍋で何かを煮込んでいる。ここからでは中身まで視認できないが、恐らく想像もしたくないものだろう。そして、それら調理をしているのは、醜い怪物――鬼共である。ようやく、わかった。
――ここは、地獄だ。
「お招きいただきありがとうございます、童子様」
目の前に座る一人の、人間の男がそう云って、頭を下げた。
この男を中心として、六人の男達が座に着いている。格好は和装――これが山伏という者の姿なのか――で、横にはそれぞれ大きな木箱――現代で言うリュックサックみたいなものだろうか――荷物を置いている。
この者達は人間なのであろうが、周りの悲惨な調理状況を見ても全く動じていないのが僕には不思議でたまらなかった。
「構わん。それより、酒を呑め」
童子は嬉しそうに云うと、手下の鬼へ自分と男達に酒を注ぐよう指示した。それぞれ男達にも大きな杯の中に酒が並々と注がれると、いよいよ宴が開催された。
僕は、目を逸らしたかったが、自分の意思では身体を自由にすることができないため、六人が酒の肴に焼かれた人肉を喰らうところを見ているしかなかった。が、この者達は、食べたように見せかけて吐き出しているようである。その事実に、童子も回りの鬼共も気づいていない。
そんな凄惨な酒宴も盛り上がってきたところで、「童子様。今晩のお礼に、これをどうぞ」と中心に座る男が云った。
この男、顔では微笑を湛えているし、童子を立てている素振りを見せているが、その眼光だけは刺さるように鋭かった。また、他の五人に比べても、さらに威厳のある雰囲気を持っていた――これが山伏というものなのだろうか。
だいぶ酒も進んだ童子は、機嫌をさらに良くし、それを部下に受け取らせた。酔いによって、僕の意識の方はぼやけていないが、童子の目の方は霞んできている。
「僕は、酒を愛していてね。それ故、家来達からは、酒吞童子と呼ばれているよ」
童子は、大酒を喰らい、酔いが回っているとはいえ相変わらずの美声で云った。そして、遂に、この身体の持ち主の名が明らかになった。
――「酒吞童子」。
――時代は中世の頃、京都は大江山に棲む鬼の首領が人々を脅かしていた。都の内外、近国遠国で、その貴賤や男女を問わず、誘拐し殺害を繰り返した。そんな中、藤原道長の子息が行方不明となる事件が起きる。
そこで登場したのが、陰陽師安倍晴明であった。晴明は、事件の犯人が大江山の鬼共であると占い、京の都に結界を張った。
そして、退治を任されたのが、源頼光、藤原保昌両武将と配下の四天王と呼ばれる武士であった――。
「実に心地いい」
童子の周りには、美しい女性が綺麗な装束を纏って侍っている。どうやら、あの武士達に勧められた酒を呑んだ後、寝室らしき場所に移動し、いつの間にか微睡んでいたらしい。この童子の意識がシャットダウンすれば、その身体を通している僕の意識も暗転するのだ。
――まだ宴会の方は続いているのだろう、屋敷の中は騒々しい。外の景色は、まだ昼にも関わらず、空を黒雲が覆っており闇夜のように暗くなっていた。それだけでなく、激しい雷鳴まで轟いてくる。
すると、騒がしく響いていた宴の音が、突然不自然に止まった。それ故、耳には降りしきる雨と轟く雷の音しか聞こえなくなった、と思った瞬間――、
雷鳴と同調したような激しい足音が近づいてきた。それに釣られて身体を起こそうとした時には、既に遅かった。
僕の身体は、甲冑を身に付けた四人の武士によって固く取り押さえられていた。甲冑に反射した自分の姿を確認すると――頭と身は赤、右手は黄、右足は白、左手は青、左足は黒――の五色であった。
僕は、首だけを持ち上げ、「こいつらに騙されて、こんな様だ。者どもこの敵を討て」と叫んだ。
――だが、誰も来なかった。
血が付いた二人の武将の刀が、同時に僕の首を切り落とした。
宙に舞った僕の目には、兜に反射する首だけの鬼の姿が映った。眼は十五もあり、頭には角が五本も生えている、物凄い形相の鬼が。
僕は、自身の耳がつん裂けそうなほど、言葉にならない叫び声を上げながら、武将頼光の兜に噛みついた。
しかし、首だけの僕が敵うはずもなかった。否、最初から結末は決まっていたのだ。
――酒呑童子は、頼光によってその全ての眼をくり抜かれて、ようやっと絶命した。
六
「――君、――でら君、おのでら君、小野寺君!」
はぁ、はぁ、はぁ。
僕は、死んだ。首を切られ、眼をくり抜かれて、死んだ。死んだ。死んだ。死んだ――。
では、この意識はなんだ。ここは、どこだ、地獄か。否、さっきまでいた場所が地獄だった。ということは、ここは天国か。否、鬼が極楽浄土なんかに逝けるはずがない。では、ここは、どこだ――、
ぴしゃ。
という音と共に、僕の顔面が濡れた。それを反射的に手で拭う。そうして開けた両目に映ったのは、
「小野寺君、大丈夫? 凄いうなされようだったけど……」と云って、心配そうに僕を見下ろす能登さんだった。
僕は、そこでようやく正気に戻ると同時に、その彼女の顔に酷く安心した。
「あぁ……ごめん、能登さん。僕……いつの間にか寝ちゃってたみたいで」
「寝ちゃってたというか、気絶しちゃってたというか……」
「き、気絶だって?」
その言葉で僕の記憶が蘇る。そうだ、僕は食事中に喉を詰まらせて、それで水と間違えて部長が差し出したお酒を飲んでしまったのだ。
「私達、慌てて救急車呼ぼうと思ったんだけど、飲んだお酒の量があまりにも少量だったことと、その――」
彼女は、そこで言葉を詰まらせた。その理由は、もちろん僕が普通の人間ではない半人半妖の――鬼、だから。
「能登さん、迷惑かけちゃったみたいでほんとにごめん。……それで、部長は?」
僕の質問に彼女は、苦笑を浮かべて指差した。僕は、それに釣られて横になったままの首を向ける。そこには、ダイニングテーブルの上に突っ伏し、気持ちよさそうに寝ている犬養部長の姿があった。
「二人で小野寺君をソファに寝かした後、部長はそのままお酒を飲み続けて……」
あぁ、確かに、鬼と並んで天狗も酒好きというのは常識か。僕は、彼女の知らない一面を知れて少し嬉しかったと同時に、その幸せそうな寝顔を見て、能登さんの顔を見た時同様酷く安心した。
――ん? 能登さんの顔? 僕は、それを思い出すと同時に、首を元に戻す。そこには、先程同様、僕を見下ろしている能登さんの顔があった。
「ご、ごめんっ! ほんとにごめん! き、気づかなくて……」
今の今まで気づかなかったのは、悪夢の動揺を引きずっていたのと、覚醒直後で意識が朦朧としていたからだ。決して、能登さんの膝枕が柔らかく、心地よかったからではない、決して。
僕は、上半身を素早く起こし、座りながら彼女と少し距離を取ると、右手で顔を拭った。能登さんの僕を悪夢から引き戻してくれた水分が、まだ乾き切っていなかったのだ。そこでもう一度、彼女に心配と迷惑をかけてしまったことを再認識し、僕は猛省する。
「あっ」
そんな僕の姿を見て、能登さんも何かに気づいたように声を発した。その表情や態度は平静で、動揺し慌てる僕とは正反対だった。これじゃあ、まるで僕一人が変に意識していただけだし、それを察せられてしまうじゃないか……。
「す、すいません……。それ……私の身体から出た、分泌液なんです……」
「え」
僕は、その聞き慣れない単語を聞いて反射的に云った。
「いや、その……た、体液といいますか……。あっ、体液は変ですよね……えっと……」
能登さんは、先程とは打って変わって動揺しているようだった。その自分の発する言葉によって。そうして、みるみる内に顔が赤らんでいった。
彼女は、以前にもうなされていた僕を起こしてくれたが、その時の水とは何か違うというのだろうか。確かに、あの時より少し粘り気があるような気もするが……。
何かを否定するように顔の前で振る右手の平からは、その運動に伴って水滴が飛んでいた。ぼたっ、べちゃっ、と音を立て、粘り気のある水分がフローリングの床へと落ちる。
彼女も僕と同じ――半人半妖の存在。
僕は、その赤い顔と動揺する態度を見て、酷く安心した。
「あっ」
と云ったのは、僕と――東松先輩だった。
「こ、こんばんは……」
と挨拶したのは僕一人だけで、先輩は驚いた表情で僕の顔をじっと見つめているだけだった。
犬養部長と能登さんとの会食を終えた僕は、自宅マンションの部屋の前で、彼女と本日二度目の邂逅を果たした。さっきオートロックのエントランス扉を開ける際に、エレベーターに乗る人影が見えた。例の如くエレベーターに乗れない僕は、階段を上っていったのだが、まさかあの人影が先輩だったとは。
「へぇ、小野寺君もこのマンションだったんだ。奇遇だね」
東松先輩は、一瞬の沈黙の後状況を把握したようで、僕に向かって笑みを浮かべながら云った。
各部屋の扉が並ぶ長い廊下で、彼女の声だけが静かに響く。それもそのはずで、もう日付が変わろうという時刻である。
僕は、ごく少量のお酒で酩酊した後、能登さんにソファで介抱され、自宅へと帰ってきたわけだが――ちなみに、能登さんは夜遅いということもあって部室に泊っていくことになった――東松先輩はこんな時間まで何をしていたのだろうか。まぁ、もちろん何をしていようが彼女の自由だし、他人のプライバシーをあれこれ詮索するのは気が引けるから、僕は黙っていた。でも、そんな僕の表情から察したようで、
「私は、今バイトの帰り。小野寺君は? もしかして、意外と夜遊びするタイプだったり?」と云った彼女の少し吊り上がった目が、僕をからかうように見ている。
ツインテールの黒髪が、廊下の青白い電灯を受けて、艶やかに輝いている。相変わらず短いブラックのスカートと、これまたブラックのトップスを上手く着こなしている。それ故に、人工の光があるといっても、彼女がこの薄暗い闇と同化するような錯覚を覚えた。しかし、ホワイトのソックスとスニーカーがファッションのアクセントになっていると同時に、僕を現実に引き戻す。
「い、いえ……あの後、部長に誘われて能登さんと食事を……」
「あっ、そうだったんだ。でも、女の子二人と小野寺君とで、こんな夜遅くまで? ふ~ん……」
東松先輩は、再度僕をからかうような意地悪な目で見た。そんな彼女が、僕の目には、何故かカッコよく見えた。ガーリーとボーイッシュとが混在しているような先輩の――その瞳に睨まれて身動きが取れなくなってしまった。
「ちょっと! 否定しないと変な感じになっちゃうじゃん」
「は、はいっ! も、もちろん、何も如何わしいことはしてません」
と僕は慌てて否定しつつ、さっきまでの状況がフラッシュバックする。それは、能登さんの膝の上で寝ている僕、能登さんの心配する顔が見下ろしている光景。そして、能登さんの真っ赤な顔。
うん。僕は、決して如何わしいことはしていないな。うん。
「なんか強く否定するとこが逆に怪しいけど……。まぁ、いいや」
「先輩こそ、こんな夜遅くまでバイトだったんですね」
バイトに行くとは言っていたが、こんな時間までとは大変だ。しかも、先輩は三つも掛け持ちしているというから凄い。
「うん、メイド喫茶のバイト。今日は遅番のシフトだったんだけど、バイトの友達と喋ってたらこんな時間になっちゃってた」
彼女は、楽しそうに笑いながら云った。あのサークルの仕事をしている限り、お金に困るようなことはないだろうから、本当に楽しんでやっているのだろう。その表情や口振りからは、それが容易に読み取れる。
僕は、先輩の仄かに赤くなっている頬に気づいた。その顔を見て、体内にアルコールの含んでいることを察する。
「私も、もう子どもじゃないもんね。お酒を飲めるようになった、立派な大人の女性だよ~」
東松先輩も僕が察したことを察したようで、上機嫌に云った。
それにしても、東松先輩のメイド姿か――、
「最高ですね」
僕は、思わず声に出していた。
「最高だよ! 可愛い服着ながら仕事できるんだもん。バイト先の人とも仲良くなれたし、もう趣味を楽しみに出勤してるって感じ」
よかった、僕の真意には気づかれていないようだ。
「まだ他にも掛け持ちしているんですよね――」
先輩は、僕の言葉が終わる前に答えだした。
「うん。メイド喫茶の他にはね、制服が可愛いアイスクリーム屋さんに、巫女さんに。あっ、たまにモデルもやってるよ」
「す、凄いですね……。どれも、僕には想像がつかない世界です」
「小野寺君も、今度遊びに来てよ。まぁ、奢ることはできないけどね~」
彼女は、再三からかうように云うと、
「じゃ、おやすみ~」と続けて、鍵を開け部屋の中へ入っていった。
僕も「おやすみなさい」と返して見送ると、自室の鍵を開ける。
僕の部屋は、三階の手前から一つ目の部屋である。
東松先輩の部屋は、隣一つ空いて、三階の三つ目の部屋だった。
七
面積の半分ほどガラス張りになっている珍しい校舎は、そのクリアな見た目とは裏腹に妙な圧迫間を覚えた。牢獄――僕は、直感的にそう思った。
そして、現場に到着した僕達三人は、哀しい事実を知らされた。
「婦警さんが……こ、殺された……」
驚愕する僕は、小声で教員の言葉をそのまま反芻した。
今回の依頼先である、トイレの花子さんが出るという都内の中学校に訪れた僕達は、着くやいなやそう聞かされたのだった。
「で、でも……、私達が解決する予定だったのに、何で……」
能登さんが困惑の色を隠せない様子で云った。
彼女の言う通りで、この学校から相談を受けた警察の怪異対策課は、僕達に委託依頼したのだ。専門外の警察官が来ることはないはずである。
「警察機構内で、連絡が行き届いていなかったみたいだね」
東松先輩は、残念そうに云った。
怪異対策課はその存在が一般へ公にされていない上に、警察内でもそれは例外ではないらしい。今回の悲惨な事件は、それ故に起こってしまったことなのだ。しかし、まだ気になることがある――、
「あの、もう一度お尋ねしますが、その亡くなられた婦警さんというのは、いつ来たのですか」
「は、はい、ですから、それが……私達にもよくわからないんです」
と教員は、先程と同じように歯切れ悪く答えた。
婦警が学校へ調査に訪れた日時や、名前や年齢、その他一切の詳細な情報がわからないという。ただわかっているのは、噂のトイレで、血塗れになって殺されていたということだけ――。
「わ、私も同僚に聞いただけなもんですから……」
僕達を出迎えてくれたこの女性教員は、そう繰り返すだけで本当に何も知らないようだった。
――だとしても、いくらなんでも可笑しいだろう。自分が勤めている学校で人が一人死んでいるんだぞ、異様なほどに無関心じゃないか。それに、この学校に着いてからというもの、教師陣が僕達に目すら合わせようとしない。唯一取り合ってくれたこの方も、自分がこの件に関する責任者だから必要最低限のことを仕方がなく、といった感じだ。
「そ、そうだ。ここから近い、その婦警が所属していたと思われる警察署に連絡すれば――」
と僕の言葉が云い終わる前に、東松先輩は口を挟んだ。
「十中八九、怪異の仕業だろ。……てか、その態度から察するに、部長から何も聞いてなさそうだな」
本当は犬養部長も現場に来る予定だったが、急に用事が入ったみたいで来られなくなったのだ。何でも、とある探偵事務所に呼ばれたとかで――ていうのは今よくて、何も聞かされていないとはどういうことだろうか。
「はぁ~、やっぱりか。あの人、しっかりしてるようで意外と抜けてるとこあるからなぁ」
東松先輩は、僕の疑問を浮かべる表情を見て、ため息を吐きながら云った。そして、その怖ろしい事実を語ってくれた――。
怪異――その意味不明で理不尽な存在及び現象。それが起こす数々の不思議な事件。それらは、噂となり、不特定多数の人々へと瞬く間に広がっていく。例えば、そう――ある中学校で婦警さんがトイレの花子さんの噂を調査しに行ったところ、血塗れになって死んでいた――なんてことがまことしやかに語り継がれる。その過程で尾ひれが付いたり、別の怪異と混同されたりすることによって、より一層混沌とした存在へとなっていくことも珍しくない。
しかし、幾多も語られる怪異譚であるが、その怪異による被害者や、実際に怪異を目撃したという人は少ない。これだけ多種多様な、または似たり寄ったりした怪異が語られる中で、その怪談通りに人が襲われていれば、日本中は大混乱に陥っていても可笑しくはないのだ。つまり、誰も、被害者を知らないのである。
「どこそこの学校の三階の女子トイレで、そこに通う女子生徒が、手前から三番目の個室で赤いちゃんちゃんこに出逢って、殺された。」――この手の多くの怪異譚で登場する人物は、亡くなっているにも関わらず、詳細な情報は排除され、匿名化されるのである。
もちろん、その怪談のほとんどが噂の域を出ないもので、言ってしまえば「虚怪」である。しかし、僕達は「実怪」も知っている。だから、警察内に専門部署なるものがあるし、僕達もこうして活動をしているのだ。
そう、今回は実怪なのだ。だから、実際に婦警さんは、怪異に殺された――のだろう。
匿名化――確実に存在した個人は、怪異譚の中に吸収され、その詳細な情報も生きた証も全て抹消される。
また、その際に起きた建物の損壊なども、太陽の光を受けると同時に何事もなかったよう元通りに戻るという。例え、鬼の腕力で殴ってボロボロに破壊した校舎でも。
――僕達三人は、未然に防げなかったことを後悔するばかりだった。
例の如く学校で夕食を済ました僕達は、トイレの花子さんが出現するという時刻を待っていた。まだ肌寒さを残した深夜の体育館は、これまた不気味な雰囲気を漂わせている。普段夜に訪れることのない学校の、さらに訪れることのない体育館。明かりこそ点いているものの、異様な静寂と、だだっ広い空間に僕達三人しかいないという異様な状況に不安感は強く煽られる。
「でも、トイレの花子さんっていうと校舎の三階だったりに現れるイメージがありますが、今回は体育館なんですね。少し珍しい気がします」
能登さんは、コンビニで夕食と共に買った、動物の絵柄がプリントされているビスケットを頬張りながら云った。
キャップを被り、オーバーオールを履いている両脚を伸ばしながら座っている様は、お菓子を美味しそうに食べている態度から見ても、小さい子どものようにしか見えなかった。否、子どもというより、小動物だ。横には、相変わらず何が入っているのかわからないほど大きなリュックサックが置いてある。――僕とは正反対で緊張感の欠片もなかった……というより多分、肝が据わっているのだろう。
しかし、そんなリスのように頬を一杯にして動物ビスケットを共食いする彼女の言うことは、確かにその通りであった。僕もトイレの花子さんといえば、校舎の三階の三番目の女子トイレに出現する怪異、と相場が決まっているように思う。
「否、別にそんな決まりはないぜ。怪異には、ルールも縛りもあるけど、トイレの花子さんほどになると実に多種多様なのがいるもんだよ。それに、今回は――」
体育館ってのが重要なんだ、と東松先輩は云った。
彼女は広い体育館の真ん中で、壁を背もたれに座る僕達に対して云ったのだが、この距離でも声が反響して会話が成り立つのである。そこで、僕の鬼の目には、反射する床に映る、彼女の相変わらず丈の短いスカートの中が見えた。その視線に気づいたのかどうかはわからないが、東松先輩はいつもの怠そうな様子で、その場に脚を閉じてしゃがみ込んだ。これは、ミニスカートを履いているにも関わらず無防備な先輩が悪い上に、不自然なほど几帳面にピカピカに磨かれた床が悪いのである。
そんな僕の心の中の弁解なぞつゆ知らず、彼女は続けた。よかった、僕の目線に気づいてしゃがんだわけではないようだ。
「まだ時間もあるし、整理しとこうよ。今回の依頼内容について」
――今回僕達に任されたトイレの花子さんは、「髪を切られた花子さん」と呼称される。その怪異譚及び詳細は、以下の通り。
彼女は、校則違反を理由に体育館トイレの個室で、美しい黒色のストレートロングの髪を女性教師によってハサミで無理やりに切られた。その切られた髪はというと、無情にもトイレへ流された。それを苦に、髪を切られ流されたのと同じ個室で自殺した女子生徒――花子さんが、怪異と化したという。
それ以来、その女子トイレの手前から三番目の個室へ入った際に、「赤い紙、青い紙、白い紙、どれが欲しい?」と花子さんの声が聞こえるようになったという。
そして、その質問に――、
赤と答えると、ハサミで殺され、その鮮血によってまるで赤いちゃんちゃんこを羽織ったようにされる。
「殺された婦警さんは、花子さんの問いに赤と答えたんだろうね」と、東松先輩は抑揚なく云った。
青と答えると、全身の血を搾り取られ、真っ青になって殺される。
白と答えると、トイレから手が出てきて、お尻を撫でられる。
「これは、唯一殺されない方法だけど、私だったら死んだ方がマシだね。――そういえば、河童も人間のお尻が好きだったよね?」
東松先輩は、例のからかうような目で能登さんに云った。
河童が人間の想像上の内臓である「尻子玉」を抜くという話は、流石の僕でも聞いたことがあった。
「私は、そんなお下品なことはしません。それに、私のことは河童じゃなくて、獺と言ってください」
能登さんは怒っているような表情で云ったが、小動物の威嚇みたいなもので全く迫力はなかった。
「――小野寺君と雫ちゃんは、どうだった? 学校で、頭髪服装検査とかなかった?」
「う~ん……中高とあった気がするけど、あんまり覚えてないです」
僕も能登さんと同じだった。通っていた中高両方とも校則が緩めだったこともあって、特に記憶には残ってない。
「私の通ってた学校はね、校則すっごく厳しかったんだ。しかも中高両方とも。定期的に体育館に集められてさ、前髪の長さがどうとか、スカートの長さがどうとか、化粧はしていないかとか――その他諸々細かい規定だらけだったよ」
先輩はそう云うと、ゆっくり立ち上がって僕達の方に歩きながら続けた。
「しかもさ、ありえないのが下着の色まで決まってたんだよ。女子は、上下とも白の下着だって。それ、いちいちチェックされるのほんと気持ち悪かった! 流石に女の教師だったけどさ、今だったらブラック校則だってネットに上げられて炎上もんだよ」
と云って、怒りながら歩いてくる彼女の黒い下着が反射して僕の目に入ってきたから、さっきよりも何だか酷い罪悪感に駆られて慌てて逸らした。
「そうゆう意味ではさ、インターネットも必要悪だよね」
微妙に言葉の使い方が間違っているように感じるが、まぁ確かに言いたいことはわかった。
いわゆるブラック校則といわれ、問題視されるようになったのは、ここ最近の出来事である。それも、ネットやスマホの普及により、生徒側もしくは疑問に感じていた大人が意見を発信できるようになったからだろう。しかし、教師の側からすれば、そうした拘束の強い校則はそれこそ必要悪といえるのかもしれない。もちろん、下着の色まで規定するのはやりすぎとしか言えないが、それでもある程度のルールを設けなければ学校という空間の秩序は中々維持できないようにも思う(僕は、またも学校側、大人の肩を持っていることに気づいてはいる)。
座っている僕達の前に到着した先輩は、またしゃがみ込んで、スマホを弄り出した。僕は、そんな彼女を見てあることに気づく。ミニスカートではなく、ウエストを幾重にも折って短くしていたことに。そう思うと、彼女の今日のファッションは、
「摩伊先輩! 今日は憧れのギャルJKですね!」
能登さんはそう云って、彼女にスマホのカメラを向けた。先輩は、しゃがんだままそれに応えて指でポーズをとる。若い女性の間で流行りの姿勢らしいが、もちろん僕はそんなもの知らなかった。
「雫ちゃん、私のインスタ見て! 今日のファッション上げてるから」
「――めっちゃ可愛いです! 特に、頭の赤いリボンカチューシャと首に巻いた鈴の付いたチョーカーと……それから、ニットベストも超似合ってます!」
「え~ありがとう~! ってか、もうそれほとんど全部じゃ~ん」
二人の若くてファッショナブルな女性は、しばらくスマホの画面を見せ合いながら、きゃあきゃあ楽しそうに話していた。
僕は、今回の依頼において、蚊帳の外かもしれない。それは、僕が――女性ではないから。
「小野寺君は、蚊じゃなくて鬼だから正しくは、鬼は外だよね」
東松先輩はそう云うと、能登さんと顔を見合わせて、また楽しそうに笑っていた。
やっぱり僕は女性ではないから、その笑い合う二人の気持ちがわからなかった。
八
髪を切られた花子さんに逢うためには、ある儀式のようなものをしなければならないらしい。それは、というと――、
「あっ、十二時になったね」
東松先輩はそう云って、すっと立ち上がり、僕達二人にも起立するよう促した。
「ふぅ~。いよいよですね……」
能登さんは、軽く深呼吸をして気合を入れ直したようだった。その顔からは、流石に緊張の色が滲み出ている。それは、僕も変わらない。ただ、東松先輩だけは、
「じゃあ、儀式を行おうか。トイレの花子さんを呼び出すための」と、談笑していた先程とさほど変わらないような態度で云った。
「あっ。でも、その儀式って――」
僕のそんな今更の疑問に先輩は、例のからかうような視線を向けて答えてくれた。
「それには心配及ばないよ。私に、いい考えがあるんだ。だから、早速」
小野寺君には女の子になってもらいます、と東松先輩は意地悪な目で楽しそうに云った。
「は」
と、僕は言わざるを得なかった。
花子さんを呼び出すためには、手順があった。否、正確には、加わったのだ。最初に聞かされていた依頼内容の中では、そんなある種の儀式めいた方法は語られていなかった。――そう、婦警さんが犠牲になる前までは。全く、まるで水のように変化する怪異である。
僕達は、現場の中学校に着いて例の女性教師から婦警が被害にあったことを聞かされた後、まだ部活動で学校に残っていた生徒に聞き込み調査を行った。そこで、新たに付け加えられるように語られた怪異譚は――、
「真ん中の怪」
体育館の女子トイレに入り、三つある手洗い場の鏡に、それぞれ三人が並ぶ。すると、その鏡には真ん中の女子だけが映らず、その人物が三番目の個室に入った際にのみ、花子さんが出現するという。だから他の二人が入っても何も起きないらしく、それを行って彼女を呼び出せるのは、夜中の零時半限定とのことである。
やはりこの時間指定も、最初の依頼内容には記されていなかった。明らか不自然かつリアルタイムに、要素が尾ひれの付くよう後から後から加わっているのだ。
また東松先輩曰く、やたらと三という数字に囚われているのは、怪異とは「そういうもの」という不条理さともう一つ、時間や空間という「境界」を表しているからとのことである。
怪異は、微妙に変化こそするが、菊池彩音の時もそうだったように、多くのルールに縛られてがんじがらめである。
「真ん中には、僕が立ちます」
カッコつけて威勢よく云ったつもりだったが、二人の女子の反応は求めていたものと違った。といっても、今の僕も、
「小野寺君……否、真榎ちゃんかな! めっちゃ可愛いじゃん」
東松先輩はテンションが上がった様子で云って、楽しそうにはしゃいだ。
「あ、天邪鬼って、こんなこともできるんだ……」
と云った能登さんは、天邪鬼の能力に驚いているようだが、その目はどこかワクワクしているように見えた。
まぁ、驚いているのは僕自身も同じで、流石に女体化したことはなかったから、成功してしまって困惑している。身体の筋肉が落ち、身長も縮んだせいか、着ていた衣服がダボっとしていてどうにも落ち着かない。
「なんかオーバーサイズのボーイッシュファッションって感じで、めっちゃ似合ってるよ。髪も元々長めだったから、そんなに違和感ないかも」
やたらと褒めてもらっているが、僕としては身体の上半身や下半身の一部に違和感を覚えまくっているので、一刻も早く儀式を済まして元に戻りたいところである。
「小野寺君、もうずっとこのままでもいいんじゃない?」
と、能登さんもからかうような上目遣いで僕を見上げている。身長が縮んだといっても、彼女の方がまだ背は低い。
「まあまあ、お二人とも、おふざけはこのくらいにしておいて――」
一番ふざけていたのは先輩のような気もするが――第一僕はふざけていない――急に真面目な口調で云った。
「真ん中には、私が立つよ」
「いや、でも……」
彼女は、猫だ。先輩に対して失礼なことを言ってしまえば、心配なのである。だったら、万が一のことも考えて不死身の鬼である僕が――。それに、ここは男として――。
「おいおい、時代にそぐわないぜ、男としてなんて台詞。第一、君は今女じゃないか、真榎ちゃん」
そう云う先輩を僕は少し見上げながら、カッコいいと思った。いつもより先輩が大きく見えたのは、身長が逆転しているからだけではない。でも、その手の指先が少し震えているのも、見えた。鬼の、いやらしいほど強い視力によって。
僕は、それを見て見ぬ振りし、歩きづらい慣れない身体を動かして、女子トイレへと向かう東松先輩の背中を追った。
――本当に、映らなかった。
それを確認した僕と能登さんは、わかっていたとはいえ、そのあり得ない光景に絶句した。否、あり得ない光景などと大げさなことを言っているが、そこにはただ後ろの壁が映し出されているだけなのだ。だから、別に何も異様なものは見えていない。そう、何も見えていないのだ。その綺麗に磨かれた鏡の、真正面に映るはずの――先輩の顔が。
「……ひっ」
真ん中の鏡を視認してから数秒の沈黙の後、能登さんはそこで声にもならないような短い悲鳴を上げた。それは、事実悲鳴ともつかないものだったが、やけにこの空間へ響いたような感じがした上に、耳へ強く残った。この真夜中の体育館の女子トイレが、異様な静寂と雰囲気に包まれていることも相まってのことであろう。
普段訪れることのない、闇が支配する時刻の学校。さらに、訪れることのないトイレ。さらに、訪れることのない体育館のトイレ。さらに、訪れることのない女子トイレ。
夜中に見る鏡は、例えそれが見慣れた自分の顔面であろうと、どことなく怖さを感じる。何か見てはいけないものが映ってしまってはいないか、その不安に駆られ、思わず目を背けたくなる。古くから、鏡は、異界を映し出すものとして夢想された。だから、鏡の妖怪は実に多くのものが語られている。それは、現代でも同じである――ということは、鏡の神秘性及び魔性を感じる心性は、人間に備わった普遍的なものであるのだろう。
僕は、我に返るように、何も映っていない真ん中の鏡から目を離す。そうして、自身の真正面の鏡を見てみる。――なるほど、女子のお洒落をしたり、写真を撮りたい気持ちが少しはわかったような気がする。と思うと同時に、あれ? 僕ってこんな目だっけ? 否、女体化しているから、いつもの顔とはもちろん変化している。でも、僕の鼻ってこんなだっけ? まずい、一つ気になると、連鎖するように全てのパーツが気に食わなくなってくるぞ……。
「真榎ちゃん、今度化粧とか教えてあげようか。私、中学生の頃から厳しい校則のギリギリの穴を突くようなスクールメイクやってたから、薄いやつも得意だよ」
そう云った先輩の、少し吊り上がった大きな一重の瞳が、僕の両目には確かに映った。
鏡は、容姿だけでなく、心も映し出すのだ――僕は、女性の気持ちが、ようやっとわかった。
――この空間を舐め回すように見る。青い電灯の光が、やけに薄暗く見えるのは気のせいだろうか。それとも、暖色であった体育館の照明が目にこびりついて、寒色の光が仄暗く見えるだけだろうか。否、違う。僕の鬼の目は、そんなものは気にも留めない。だから、これは、僕の感情が及ぼす錯覚なのだろう。その感情――恐怖、というものの。
「せ、先輩……」
「うん、噂通りだったということで。……一、二、三」
と東松先輩は、指を差しながら数えると、一列に六つ並ぶ(一番奥は掃除用具入れなので、実質五つである)手前から三番目の個室の前に立った。その扉は、「使用禁止」の紙が貼られており、バツ印を作るよう真っ赤な養生テープで封鎖されていた。
そんな光景を見ても特に躊躇することなく、彼女は閉ざされた扉を素早く三回ノックし「花子さん、遊びましょう」と、いつもと声色を変えずに云った。が、鬼の地獄耳は、その微かに震えている調子を聞き取ってしまった。
せっかちな彼女は、花子さんの返答を待たずに養生テープを猫の爪で器用に引き裂き、閉まっている扉を勢いよく開けた。
「げっ! 和式かよ」
東松先輩は、心底嫌そうな顔と態度を最大限表している。校舎の方は、比較的最近建て替えられたのか洋式であったが、体育館はかなり古いままのようだった。こういった人間の恐怖心や不安感を煽るような場所と雰囲気が、怪異の発生源となっているのだろう。この場にいる僕は、それを嫌というほど感じているわけだが、ある違和感も同時に覚える。
「でも、やけに綺麗ですよね……」
体育館の外見や、このトイレ内の壁や床からも確かに年代を経ているのは伝わってくる。それ故に、不自然なのだ。先程、体育館の床を見た時にも覚えた違和感と同じだ。――やたら、几帳面に清掃が施されている。
「そう言われてみれば、確かに……」と能登さんは、僕の言葉を受けて辺りを見回した。
「ふんっ。どうせ教師が生徒を奴隷のように、こき使ってるんだろうさ。反吐が出るねっ」
先輩は、鼻をわざとらしく鳴らした後、これまたわざとらしく悪態をついた。しかし、その台詞を発した当の本人は、ツインテールに制服風ファッションだから何だかアンバランスで、カッコいいというか可愛いというか……、
「摩伊先輩、今のギャップ萌えを感じました」
僕もそれを言いたかったのだが、萌えという表現を能登さんが知っているとは……というより、もうその表現は古いのかもしれない。
「じゃあ、雫ちゃん。ギャップ萌えついでに、雫ちゃんがやってよ」
と彼女は、両膝に両手をついて上目遣いに、笑いながら云った。
やる? やるとは、何のことだろうか?
「私は、オーバーオールなので、和式のおトイレはしづらいです」
これまた能登さんも、笑いながら云った。
ああ、やるとは用を足すことだったのか。それにしても、二人はこの期に及んで仲良く冗談を言い合っているようだ。否、この状況だからなのだろう。真ん中の鏡に映らなかった先輩にしか花子さんは呼び出せない。要するに、二人は不安なのだ。もちろん、それは僕だって――、
「あの、先輩。やっぱりやり直して、僕が――」
「ごめんごめん、おふざけは終わりだね」
彼女は、両膝から両手を離したが上半身は猫背のまま、遂に三番目の個室へと入っていった。その様子は、見慣れた倦怠感を纏ったものだったが、どこか急いでいる風でもあった。
「私はここで様子を見てるから、小野寺君は外を見張っててよ」
「え、でも――」
「いいから、いいから」と能登さんは、戸惑う僕を無理やり女子トイレから出した。
再び体育館のだだっ広い空間に出された僕は、自分がいかに浅はかだったか、ようやく気づく。いくら僕の身体が女だとしても、僕は――男なのだ。
左腕に巻いた腕時計の針は、零時半を示していた。
僕は、いやらしいほど聴力の強い鬼の耳を塞いで、床に反射する見慣れない自分の顔を眺めていた。
九
「きゃーっ! お尻触られた!」
と、間抜けな台詞の悲鳴が聞こえてきたが、その声色は緊迫しているようだった。
「だ、大丈夫ですか」
僕は、その悲鳴を聞くやいなや急いでトイレに駆けつけた。能登さんは、既に三番目の個室を開いて中を確認していた。僕も一緒に覗くと、便器の中から、青白い片手がにゅ~と伸び出ていた。その横には、個室の壁にもたれかかって尻もちをついている先輩の姿が見える。
「せ、先輩! 何してるんですか!? 当初の予定通り、一旦出ましょう」
花子さんを無事呼び出した後は、広い体育館まで誘き出し、そこで退治しようという作戦だったのだ。
「ご、ごめん、小野寺君……。わ、私、立てない……」
「は」
東松先輩は、珍しく弱気な口調で泣きそうな表情を浮かべて返答した。
そうこうしている間に、青白い手はもう片方も現し、肩の辺りまで出かかっている。便器の中から人間の両腕が飛び出ている異様な光景に、僕も東松先輩も固まってしまった。
「小野寺君は、摩伊先輩を連れて体育館の方に逃げて」
能登さんの、これまた珍しい強気な口調で我に返った僕は、無防備な格好で床に座り込む先輩を抱き抱える。――よかった、下着はしっかり履き終えている。
僕はトイレから出る瞬間、反射的に後ろを振り返る。もう、そこには、完全に個室から這い出てきた――トイレの花子さんの姿があった。能登さんは、それに向かって、両手の指を合わせ鉄砲のようにして構えている。その指の間には、大きな水かきが見えた。
「能登さん、ごめん! 気をつけて」
僕はそう云って、先輩を抱き抱えながら女子トイレを脱出した。
「小野寺君、私先輩なのに、ごめんねごめんね……」
「え」
東松先輩は、僕の左肩に顔を当てながら泣いているようだった。そんな彼女の姿を見て、酷く困惑した。先程までの毅然とした態度の彼女の姿は、今はどこにも見当たらなかった。
「ど、どうしたんですか、先輩。そんな……らしくないですよ」
一体どうしてしまったというのだろうか。今まで数々の依頼を熟してきたであろう先輩が、まさか恐怖でこうなってしまったとは考え難い。というより、性格そのものが変わっていないか? いつものツンとした彼女はどこにいったのだ。
「小野寺君と雫ちゃんの前で、先輩として堂々しようと頑張ってたんだけど、やっぱり緊張しちゃって……。それで、それで」
呪いの効果が出ちゃった、と彼女は声を上擦らせながら云った。
そうして、僕の背中を強く抱きしめながら「わあわあ」と泣いた。もはやここまでくると、大泣きと言って差し支えない。
「私、緊張すると気持ち悪くなっちゃって、立っていられなくなっちゃうの。だから、定期的に座らないとダメなんだけど……ごめんね……ごめんね」
そう云って繰り返し謝る先輩を抱き抱えながら、僕は彼女と初めて会った時からの記憶を思い出す。――なるほど、彼女にかけられた呪いの正体は、これだったのか。
東松先輩がいつも怠そうにしていたこと、その後必ず座り込んでいたこと。彼女の普段の態度は、緊張をしないよう――否、自分自身で気づかないようにするためのものだったのだ(多分、それはバイトを始めた時も同じだったのであろう)。でも、遂にそれが限界を迎えてしまった、この最悪の状況で。
犬養部長もそうだけど、何でみんな我慢して言ってくれないんだ――怒りというか落胆というか、何だか曖昧な感情が湧き上がったが、すぐに沈んだ。だってそれは、僕も彼女達と同じだったから。他人が怖くて、信用ならないのだ。例えそれが、同じ境遇の仲間だったとしても、そう簡単には打ち明けられない。それは、彼女たちが迫害されてきた過去や環境ももちろん起因してのことだろう。生まれてきた時から、呪われた半人半妖の中途半端でどちらともない存在。
――でも、僕は生まれてきた時は人間だった。後から、あの日、電車に乗って――否、今はそんなことどうだっていい。今はとにかく、この状況を打破することだけを考えろ。
「東松先輩。そういうことなら、一度降ろしますね――」
僕が、彼女を鏡のような床に座らせようとすると、
「ダメ! このままでいて」と彼女は云って、より強く僕の背中を両腕で締め上げ、両脚を僕の腰に巻きつけた。
僕は、非常に困った。さっきから男に戻ろうとしても戻らないのだ。だから、自分より少しだが背の高い先輩を抱えている状態は、凄く動きにくい。また、心なしか、この女体化した状態では力がいつもより出せていない気がする。――全く、僕の身体はつくづく天邪鬼だ。
どかん。
と、鈍いが轟くような爆音が背後から聞こえた、反射的に振り返る。
「能登さん!」
彼女がトイレの壁を突き破り、吹き飛ばされていた。幸い背負っている大きなリュックサックが緩衝材となって、大事には至ってないようだが――被っていた緑色の帽子がヒラヒラと舞って、鏡面の床に落ちる。
どうやら、トイレの花子さんも菊池彩音に負けず劣らずの怪力の持ち主らしい。
自身でぶち破った壁から、彼女は生暖かい風と共にゆっくりと現れた。その姿は、不自然なほどにキッチリ着られた制服に、髪を切られたことによって、短く揃えられた黒髪――おかっぱ頭――だった。そして、左手首からは血がダラダラと生々しく滴っており、真っ白いブラウスをまるで斑点模様のように汚している。それと呼応するように、首元の赤いリボンと赤黒のギンガムチェックスカートが際立っている。
「そこのお姉さん、カミをください。カミをください。カミをください――」
花子さんは、そう呪文のように繰り返しながら僕達の元に歩み寄ってくる。――聞いていた話と違うじゃないか。噂によれば、彼女は赤・青・白の紙を選ばせ、与えてくる怪異だったはずだ。それが今は逆転し、僕達に紙を求めている。
花子さんは、うわ言のようにぶつぶつ繰り返しながら、じりじりと確実に前進してくる。僕も、そんな彼女から目を離さず、じりじりと後進する。
「先輩、花子さんは三色の紙を選ばせてくるんですよね? 問われた結果、さっき先輩は白色を選んだからお尻を触られただけで済んで……」
「――にゃん」
「え」
僕の肩口辺りで、確かにそう聞こえた。反射的に花子さんから目を離し、声のした方に顔を向ける。
もふん。
と、僕の鼻先を柔らかく、フワフワとしたものが触れた。それとほとんど同時に、膝の辺りにも何やらくすぐったい感触がした。
「そうにゃん。多分元々は、カミくれ系統の怪異だったにゃん」
そう云った東松先輩の頭には耳が、お尻の辺りには尻尾が、それぞれ左右を黒と白に分かれて生え出ていた。――遂に、化け猫がその姿を現したらしい。
――「カミくれ系統の怪」とは、紙などの色を選ばせ与える系統の怪とは逆で、こちらに要求してくるタイプのことを言う。多種多様な怪異をこうして分類するのも活動の一環であるのだ――。
彼女は、また「にゃんにゃん」鳴き出した。
「人為的に噂が付加された彼女は、いつの間にかその装飾によって原型が隠されたようになっていたにゃん。いわば、核となるカミくれ系怪異の周りを覆うように、他の要素がくっ付いていたにゃん」
急に流れるよう喋り出した先輩は、後輩の僕に何やら難しいことを考察及び説明してくれているようだが、その間の抜けた語尾によってまるで内容が入ってこない。尾を生やすのは、せめてお尻だけにしてほしかった。
「つまり、やっぱり彼女も、何者かにデザインされた怪異だったってことにゃん」
と云って、先輩は僕の身体から完全に離れて着地した。否、地面にその両脚は着いていない。代わりに、二又に裂けたモノクロの尻尾で器用に起立していた。
僕は、呆気にとられつつ彼女の顔を見上げながら、「も、もう大丈夫なんですか?」と聞いた。ちなみに、見上げているのは尻尾の分さらに彼女が高い位置へいるためでもあるが、それ故に相変わらず短いスカートの中身が、相変わらず鏡のように反射する床に恐らく映っているためである。
「大丈夫にゃん」と、いつものツンとした調子で云った彼女の大きな目は、僕の顔から逸らすようにして花子さんを見据えていた。
呪いの効果が落ち着いたせいか、元の先輩に戻っていたが、猫化した身体と語尾の方はそのままだった。だから、彼女のキャラに全く合っていない。僕は、そう思いつつ刹那の間その顔を見つめていたが、それに気づいた彼女は、
「イジったら、殺す……にゃん」と、照れたように顔を赤らめながら僕を睨めつけた。
前言撤回だ。これはこれで、キャラに合っていると気づいて――僕は、己が浅はかだったことを深く反省した。
――怪異髪を切られた花子さんは、執拗に東松先輩しか狙わなかった。
まだ呪いから立ち上がったばかりの彼女が心配だったが、僕はそれを利用して床に倒れ込む能登さんの元に駆けつけた。恐らく花子さんの攻撃を両腕で防いだのであろう、そこだけ青黒く変色している。否、違う、これは打撃による痣ではなく――硬い獣毛が発する色だ。僕は、気絶する能登さんを彼女が僕にしてくれたように起こそうとするが――、
ダメだ。もちろん息はしているし、リュックサックのおかげで頭は打っていないようだが、相当ダメージが大きいようで目を覚まそうとしない。僕は、彼女のズレた丸い眼鏡をかけ直してあげて、仕方なく大きなリュックごと抱え上げ――本日二度目の女性を抱き抱える状況である――東松先輩と花子さんの方に向き直る。
そこには、無数の――、
猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。
猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。猫。
と、それぞれを狙うボール。
広大な面積の体育館を白と黒の猫、体育用のボールとが埋め尽くしている。猫を使役しているのは化け猫のボス東松先輩、ボールを使役しているのは体育館のボス花子さん。――なんてことを呑気に考えている暇はないのだ。僕は、僕達を狙うボールから逃げると同時に、
「またボールかよぉ!」と、情けない声で叫ぶ。床や壁に反射するように響いたそれは、男の野太いものではなく、女の裂くようなものだった。
球が猫を追尾するように狙う。猫は、脚や尻尾を器用に使い、それをまるでバレボール選手の如く打ち返す。それが床や壁に当たり、この異様な空間に破裂するような爆音が轟く。
僕も逃げているだけでなく、玉を打ち返そうとするが――スカった。否、違う、この弾は僕達を狙っていない。やっぱり標的は、東松先輩だけなのだ。
「う、うるさいです……」
「あっ、能登さん。よかった」
流石にこの騒音の中、いつまでも気絶してはいられなかったのだろう、彼女は眼鏡の中の丸い目をゆっくりと開いた。しかし一方、両手で両耳を閉じるように強く押さえた。
「うるさい、うるさい、うるさい――」
能登さんは、先程の花子さんのように同じ言葉を繰り返す。それと同時に、僕の身体にドクドクと鼓動が反響し、熱も伝わってくる。彼女の心臓の音がどんどん早くなり、それに釣られるように体温が上昇し発汗している。にも関わらず、その顔は血の抜けたように青ざめていく。
嫌な予感がした。多分、これが能登さんにかけられた――、
「お、小野寺君……、わ、私のリュックからヘッドホン出して……」
彼女の震える声に応じて、大きなリュックサックから求められた物を取り出す。能登さんは、それを微かに振動する手で受け取り、耳に押し付けるよう強く当てた。
僕は、なるべく音が響かない器具庫に彼女を避難させようとした――が、それは叶いそうもなかった。
「せ、先輩!」
無数のボールが、東松先輩目がけて飛んでいった。無数にいた猫の方は、もう彼女を除いて一匹もいない。僕は、反射的に刹那の間目をつむってしまった。
――猫は、液体とはよく言ったものだ。
東松先輩は、身体をしなやかに動かし、襲い来る弾丸を全て避け切っていた。人間がそんな角度に曲がるだろうかという滑らかな動きと共に、飛んだり跳ねたりして球体の間を流れる水のように通り抜けていた。
避けられたボールは、力を失ったように床へ落ちた――ことで、この広い空間に再びの静寂が訪れた。ボールが天井にも被弾したせいであろう、照明が何個か潰れて場の光度はかなり落ちている。
「花子ちゃん、ドッジボール大会は終わりにゃん」
東松先輩は、息こそ切れているものの余裕そうな表情で云った。
僕は、その言葉を聞いて、夕方に生徒から採集した噂の内容を思い出す。「さっき聞いた話なんだけど、体育館で花子さんを呼び出した後、ボールが飛んできてドッジボールで遊ばされることもあるんだって。それで、もしそのボールに当たっちゃったら死んじゃうらしいよ。」この話を無意識的に優先度が低いと思って忘却していた、そんな愚か者な僕とは違い、先輩はそれをしっかり覚えていたのだ。となると、猫が消滅しているのは、そのドッジボールのルールに則ったが故であると思われる。
僕は、抱き抱える能登さんの様子を確認する。よかった、騒音が止んだことでだいぶ落ち着いてきている。その流れで、僕は自分の身体を見て、気づく。未だ女性のままであるのだが、それが元に戻らない理由に。
――ルール。
怪異は、ルールに忠実なんだ。花子さんは、女性にしか呼び出せない。だから、このフィールドにいる限り、鬼の力をもってしても僕は男性に戻ることはできない。特に、この髪を切られた花子さんは、その出生からして――。
彼女の足元に反射する床には、白色の下着が映っている。制服の襟は正され、ボタンは最上部まで留められ、首元のリボンは少しも歪んでいない。真っ白なブラウスには皺ひとつなく、それはスカートも同じで、その丈は膝下までキッチリと伸びている。その下のホワイトソックスも脛まで伸び切っており、底辺には新品のようなこれまた白い体育館シューズを履いている。そして、彼女の頭頂は、真っ黒で、不自然なまでに切り揃えられている。
まるで、昔の白黒写真なんかで見るようなおかっぱ頭の少女を想起させる。およそプロの美容師による手とは思えない、母親かなんかに切られたであろう髪型。幼くて可愛らしく見えるそれは、幼児や小学校低学年くらいまでは許されるであろう。しかし、今僕の目に映る彼女は、中学生なのだ。
思春期の多感で複雑な少女時代。異性を意識して容姿を気にしたり、そうでなくても自分の見た目に気を遣い始める時期である。急激に変化する体と心に戸惑いを覚える時期である。
髪を切られた花子さん――彼女はこの生真面目な学校の、否、理不尽なほど厳しい校則に縛られ抑圧された現代に生きる生徒達の、怨念なのだ。学校、教師、社会、大人……それらに対する怒り、恨み、妬み、憎しみ……の集合体。
世界が科学の光に支配されたこの時代においても、人間の心の闇は未だに広がっている。特に、多感な中学生となれば、猶更――。
彼女の右手には、刃幅二十センチはあろう大型のカッターナイフが握られていた。それによって左手首を切り裂き、噴き出した鮮血が真っ白なブラウスを真っ赤に染めている。否、薄暗い照明の中では、真っ黒に、斑点模様を垂らしたように見える。
「カミをください。カミをください。カミをください――」
抑揚のない丁寧な口調で繰り返しながら、対峙する――崩した制服風ファッションと長いツインテールの先輩に近づいていく花子さん。対照的な二人の間は徐々に縮まっていき、
「花子ちゃん、カミならあげるにゃん。だって、最初からそのために、私は来たんだにゃん」
と東松先輩が云い終るやいなや、花子さんはカッターナイフで切り掛かった。
先輩がそれを先程同様猫のしなやかさで、バク転するように躱すと、スカートのポケットから何かが落ちた。この際下着が丸見えになったことは言うまでもないし、この状況でそんなことを言っている暇はないが、捲れた上半身の真ん中辺りに、銀色に光るピアスが見えたことは言っておきたい。
花子さんも何かに気がついたのか、その俊敏な動きを止めた。視線は、落ちた物体に向かっている。僕も、それを鬼の目で確認する――が、ただのポケットティッシュだった。
「そのカミじゃない!」
さっきまでの抑揚ない丁寧な口振りとは打って変わって、激昂するようにそう叫んだ花子さんは、再び先輩に襲い掛かった。
「そのカミじゃない、このカミだ!」
彼女は、静寂な空間が鳴動するくらいの大声で叫び上げると、夥しい量の血が滴る左手で先輩の長いツインテールを掴もうとする。右手に握られた大きなカッターナイフで牽制しつつ、必死にもがくようその真っ黒な尻尾を追っている。
――紙と髪。鈍くて愚かな僕は、そこでようやく、その言葉遊びのような事実に気づいた。花子さんが求めていたカミとは、ペーパーではなく、ヘアーの方だったのだ。
校則という大義名分を理由に無理やり切り落とされ、無情にもトイレへ流された自慢のロングヘアーを取り返すように、花子さんは先輩の髪を掴もうとしている。
「わかってるにゃん! 花子ちゃん、あなたが欲しいのは私の髪の毛だって――」
東松先輩は云いつつ、四足歩行動物のような格好で彼女のカッターナイフから逃れている。
「カミをくれ。カミをくれ。カミをくれ――」
花子さんは、彼女の返答に耳を貸さず、踊るように尻尾のような二本の毛束を追い求める。
――綺麗に磨かれ過ぎた床のせいか、花子さんは足元を滑らせた。その一瞬の隙をついて、先輩はカッターナイフを奪い取る。
「だから! あげるって言ってるにゃん」
東松先輩は、長く伸びるツインテールの右片方を高く持ち上げると、奪ったカッターナイフで根本から強引に切り落とした。
今まで激しく動いていたせいも相まってか、その衝撃によって、彼女の頭に付けられていた赤いリボンカチューシャの結び目がほどける。
――猫又。
僕は、そんな先輩の姿を見て、あの迷路のような書斎で読んだ、とある本に描かれた画を思い出していた。江戸時代の絵師鳥山石燕が著した妖怪図鑑とも言える書物――『画図百鬼夜行』――そこに描かれていた「猫又」の画を。
東松摩伊――彼女は、猫に取り憑かれた家の末裔だという。
時代は明治、場所は尾張国でのこと。ある男による行いが、猫の祟りを受ける契機となる。
ある日、この男が酒の肴を探していると、隣家に飼われている古い大猫が目に留まった。かねてから猫の肉が美味いと聞いていた男は、大猫を殺害すると、早速調理し始めた。
その後、絶好の肴ができたとして村の者を呼び集め酒宴を催したが、男が殺したこの古猫は、村の犬さえも恐れる存在である。それを食べるとなっては、祟りを恐れ他の者は手を出さなかった。しかし、この男だけは、
「なに、祟りなら俺が一人で引き受ける」
と云って、猫の肉を肴に酒を飲み干した。
異変は、その数日後に起こった。男の家の台所から鼠が突然降ってくると、男は細長いい目を見開いてこの獣を捕え、尻尾まで残さず食べ尽くした。
その姿及び様子は猫そのもので、村の人々は口々に「猫に憑かれた、猫の祟りだ」と云って恐れ、最終的に男は村八分にされたという。
――この男の血を引くのが、愛知県は名古屋市出身の彼女である。
「私は、欲望に忠実に、我儘に生きる――にゃん」
東松先輩はそう云うと、僕が抱き抱える能登さんの方を見た。
その視線に気づいた彼女は、頷きながら目線を返すと、僕の身体からぴょんと離れた。大きなリュックサックを僕から受け取ると、その中からこれまた大きな――水鉄砲を取り出した。
タンクには既に水分がたっぷり入っているようで、ちゃぷちゃぷと音がしている。能登さんは、小柄な身体でその一メートル以上はあろうかという武器を構えた。
「の、能登さん? そ、それって……」
「はい。弾は、私の体液です」
否、僕が聞きたかったのは、そういうことじゃないのだけど。彼女は、それで僕を悪夢から目覚めさしてくれた時同様、赤面していた。だが、今回に限っては、それは集中しているためであるらしい。彼女は、感情が文字通り顔に出やすいのだ。
「ばいばい、花子ちゃん。ショートカットも似合ってたぜ」
東松先輩は、哀れみとも喜びともとれるような複雑な笑顔で、ツインテールの片割れを投げた。その方向は――花子さんとはズレていた、が、決して彼女がノーコンなわけではないようだった。
僕は、それを眺めているだけだったが、能登さんはいつの間にか移動しており、しゃがみ込んで水鉄砲を両手で構えている。その方向は、突き破られ、剝き出しになった――三番目のトイレ。
髪を切られた花子さんは必死に、ヘアゴムで纏められたまま投げられたポニーテールを掴もうと走り出す。教師によって無理やりに切られた、自慢のロングヘアーを取り返すように。
白と黒と赤――それらが、鏡のように反射する床へ斑模様を描いている。
花子さんが、その黒い尻尾を取り返した瞬間、水鉄砲の弾が放たれた。その激流は、彼女を勢いよく押し流し、三番目の個室へと導く。彼女が自害した個室へと。――理屈なんてものはわからないが、彼女から分泌されるその液体は、どうやら妖怪変化に有効であるらしい。
花子さんは、和式トイレの中へ、一本の尻尾をお土産に流されていった。その刹那に垣間見えた、菊池彩音の時のように、ずっと上手く認識できなかった彼女の顔は、僕の顔にそっくりだった――先程鏡へ反射していた僕の顔に。
だだっ広い空間には、再三静寂が訪れるのと同時に、大きな窓ガラスから漏れ出る弱い光線が、僕の筋肉を刺激した。
十
「白黒つけない。まさに、斑でいいんだってことね~」
「はぁ」
僕の報告レポートを読みながら、犬養部長は笑いながら云った。その言葉の真意は、僕にはわからない。
「いや、いいのいいの。それより、急に行けなくなってごめんね。大変だったでしょ」
二人にも聞いたけど小野寺君、女の子になったらしいじゃん? と部長は例の意地悪そうな表情で云った。
「花子さんは、女性にしか呼び出せなかったので仕方なくですね……。彼女の怪異としてのルールによって、中々元に戻れなくて大変でしたよ」
頭髪服装検査担当の女性教師によって髪を切られたこと、自殺した場所が女子トイレだったこと、髪が長いのは女性であること――による縛りなのだろう。
「でも、今時髪が長いのは女性だけじゃないけどね。その価値観で言ったら、小野寺君も男子にしてはだいぶ髪長いよ? ボブの能登さんと同じくらいなんじゃない」
つまり、それが僕達二人の狙われなかった理由だろう。僕と能登さんの毛量では、花子さんの条件を満たせていなかったのだ。
「まぁ、学校側も大変だよねぇ。こんな水流のように高速で変わる価値観の中で、生徒達を指導しなきゃいけないんだもん。集団生活を円滑に行う以上、一定のルールはどうしても必要になるよ」
「その校則の厳し過ぎた結果生まれた怪異が、今回の髪を切られた花子さんだったわけですよね。でも――」
僕と犬養部長は、そこで一瞬沈黙した。
「今回も予想通り、何者かの手が加わってたね」
――その何者が誰なのか、目的が何なのかも一切わからない。ただ漠然とした恐怖と不安が掻き立てられるだけだった。
「そっちの方は、私の知り合いと協力して調べてるところだから、あんまり心配しないで」
そんな僕を見て察したのか、彼女はそう付け足してくれた。
――僕のスマホの通知音が鳴った。部長に失礼して、確認すると、
「東松先輩が僕を呼んでます……何だろ……」
今回の案件に関して、僕があまりにも役に立たなかったことへのお説教でも頂戴するのだろうか……。それ故、引け目を感じていた僕は、率先して今回のレポート作成を名乗り出たのだが……。
「あぁ、多分例の中学校へ一緒に行ってほしいんだと思うよ。小野寺君はレポート任されてたみたいだから、摩伊と雫ちゃんに頼んでたんだけど……。提案したのは、雫ちゃんなんだけどね」
「オシラサマって知ってる?」
再び例の中学校に着くやいなや能登さんは質問したが、当然僕のような無学な人間は知らなかった。
「遠野の伝承なんだけどね。お家の神様で、複数パターンがあるんだけど基本的に二体一対で祀るんだ。御神体は、桑の木なんかで作った棒に男女などの顔を掘って、布を幾重にも着せるの。――オシラサマとはまた違うけど、それで思いついたんだ」
――厠神。
このトイレの神様を祀る際に、白と赤、または青と赤の紙で作った男女の人形を供えていた。これは、厠に出現する腕のみの妖怪「カイナデ」に出逢わないようするためであるという。また、その際の呪文として「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」と唱え、これらをあげるから現れないでくださいと願った。
「これで何か変わるわけじゃないけど、こういうの大事にしていきたいんだ、私」
能登さんは、自作した男女の御神体を、手前から三番目の個室内に設けられた荷物用の棚に安置すると、頭を下げて手を合わせた。
僕もそれに合わせる。すると、彼女は深く頭を下げ過ぎたのか、被っていた帽子がトイレの中へと落ちそうになった。僕は、すかさずそれをキャッチする。
「ありがと、小野寺君。神様にお願いする時は、帽子外さなきゃだね」
笑った能登さんの茶色のボブヘアーが、窓ガラスから入ってくる夕日に照らされて登頂の辺りが丸く光って見えた。
再び手を合わせ直した彼女を残して、僕は一足先にトイレを出た。
「おい、男子が女子トイレ入ってんじゃねぇよ」
どうやら、東松先輩は外で見張ってくれていたらしい。耳にいくつも付いた銀色のピアスとガラスのようなネイルが、赤い夕日の光を反射している。しかし、今日は部活動が休みなのか、人影は一つも見えなかった。相変わらず静寂な空間に、相変わらずピカピカに磨かれた床が光っている。
「先輩。僕、今回何の役にも立てず、申し訳なかったです」
僕は、ずっと謝ろうとしていたのだ。今回の依頼に関しては、東松先輩と能登さんが全て解決してくれたようなものだ。レポートも、ある種傍観者のようなものだったから、上手く整理して書けたのだろう。
「何言ってんだよ。小野寺君には、私も雫ちゃんも助けてもらったじゃん。だから」
ありがと――にゃん、と東松先輩は云った。
彼女の身体には、猫の耳も尻尾も生えていない。唯一、頭にサイドテールが一本伸びているだけである。
怪異――という存在は、実は弱いものだと思う。先輩は、その弱い過去の自分を抱きしめ、慰めたかったのかもしれない。
「先輩、もう一回お願いします」
「はぁ!? やだよ、バーカ」
彼女はそう云うと、舌をぺろっと出した。その真ん中には、丸い珠のようなピアスが銀色に光っていた。
猫は、ツンデレとはよく言ったものだ。
――やっぱり、僕には女子の気持ちがわからなかった。