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調査レポート〇一 鬼・犬・「チェーンメールの怪」


 電車の窓から豊かな田園や山々が見える。夕日の光を浴びて、遠くの緑がキラキラと輝いているようだ。

 ――どうやら眠ってしまっていたらしい。

 車窓から目を離し、辺りを見回す。しかし、人影一つ確認することができない。

 辺りはしんと静まっていて、ただ電車がレールの上を走る音だけがガタンゴトンと一定のリズムを刻んで聞こえてくるだけだ。

 僕は、その虚しい音を聞いて、思い出すように不安になった。

 ――僕は、何故電車になんか乗っているのだ。

 そもそも、いつ乗ったのだ。切符を買った記憶も、駅のホームに立った記憶も全くない。気づいたら電車の窓を眺めていたのだ。

 そうだ、僕は電車になんか乗っていない。さっきまで神社で遊んでいただけだ。こんな周りを田んぼや山に囲まれたお婆ちゃん家で、やることもなく、一人で遊んでいたんだ。学校でもそうしているように、いつものように。

 友達なんかいないし、いらない。

 人と関わったって碌なことはない。人に恨まれ、憎まれ、妬まれ、呪われるくらいだったら一人の方がはるかにマシだ。それに、自分が呪う側――魔になることだってない。

 否、今はそんなことどうだっていい。今はこの意味不明な状況をどうにかすることを考えなければ。しかし、この電車は一体どこに向かっているというのだろうか。僕が思考を整理している間にも、電車は一定のリズムを刻みながらどんどん進んでいる。

 僕は、増幅する不安に耐えかねて立ち上がると、先頭車両の方へと歩いていった。グラグラと小刻みに揺れる車内は、僕が先頭車両へ辿り着くのとほとんど同時に緩やかになった。どうやら、ようやく停車するらしい。

 アナウンスも何もなかったし、車両を移動した際にも車内には人影一つ見えなかったことを不思議に思いつつも、僕は停車した駅へと降りた。

 その駅名は、「高九奈」とホームの看板に記されていた。フリガナは字が擦れていて読めなかったが、恐らく「たかくな」とでも読むのだろう。

 駅のホームを見回しても、その周りの道にも、やっぱり人っ子一人いない。というか、建物すら見当たらない。そこで思い返してみれば、車窓の景色にも人家や店などの建造物は確認できなかった。さっきから僕の目には、無限に広がる田んぼと、遠くに聳える山々しか見えていないのだ。

 ――こんなところで降りるわけにはいかない。

 僕は、咄嗟にそう判断して、閉まりかけの扉に飛び乗る。そうして、僕が座席に腰を下ろすと同時に、また電車は走り出した。

 不安は僕の心を完全に支配しつつあった。陽が落ち切って真っ暗闇になったらお終いだ。こんな街灯もほとんどないような山奥の田舎で無事に帰れるわけがない。第一、年に一回夏休みだけ来るような場所で土地勘だってないのだ。あの退屈でどこか陰鬱なお婆ちゃんの家が、今は凄く恋しく思えた。

 僕は、そんな不安を払い落すように、再び立ち上がった。そうだ、車掌さんに聞けばいいんだ。それで、家に電話してもらって迎えに来てもらえばいいんだ。どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろう。僕の心の闇に少しだけ光が差し込んだようだった。

 そうして、先頭の車掌室の方を見ると、一人の女性が本を読みながら揺られていた。僕は、それを見てさらに安心した。今の今まで気づかなかったが、さっきの停車駅で乗り込んできたのだろう。僕は、冷静に周りを見ている風で、その実全然見えていなかったのだ。まずは、あのお姉さんに聞いてみよう。

 ――女性に声をかけると、本から目を離し、一瞬驚いたような表情で僕を見上げた。

 僕は、この電車がどこへ向かうのかを聞いた。しかし、女性は「わからない」と答えた。「ただ、あなたはまだここに来ちゃ駄目だったことはわかる」と云った。

 僕は、その女性の答えに酷く困惑した。

 そうこうしていると、電車のスピードは緩やかになり、今度は「敷草谷」という駅に着いた。例の如く、看板のフリガナは擦れていて読めないが、「しきぐさや」とでも読むのだろう。女性は、電車が完全に停車するのを待って立ち上がると、扉の方へと歩いて行った。

 僕は、その背中を慌てて追い、一緒に降りようとすると、女性は「それはダメだよ。でも、どうしても来たいならおいで?」と云った。

 その顔は、恐ろしい悪意に満ちた――そう表現するしかないような表情だった。僕は、その邪悪な顔を見て、完全に闇に支配された。もう不安なんてない、あるのは、恐怖――という感情だけだった。

 僕は、女性が降りるのを見送り、再び電車が走り出したところでようやく正気に戻った。揺れる車内を脚で踏ん張りながら、そのままの勢いで車掌室へと向かい、小窓を覗き込む。しかし、そこには――、

 誰もいなかった。

 僕は、揺れに逆らうことを止め、フラフラと倒れ込むように座席へと落ちる。

 ――それからどれくらい時間が経っただろうか。遂に終点へと到着したその駅の看板は、錆びて完全に文字が擦れていた。

 僕は、仕方なくその名前もわからない駅のホームに降りると、先程の「敷草谷駅」の方へと線路を辿って歩いた。

 辺りにはもちろん何もない。街灯や建物一つ見つけることができない。ただ、見渡す限りの田園や山々が広がっているだけである。その無限とも思われるような空間を、まるで時間が止まったかのように先程から微動だにしない夕日が照らしていた。

 ――もう一時間ほど歩いただろうか、しかし一向に駅は見えてこない。僕は、肉体的疲労、そして精神的疲労でその場に座り込んだ。

 すると、そんな僕の目に、一つの人影が映った。夕日が逆光になっていてよく見えないが、杖を突きながらこちらに歩いてきているようだ。僕は、先程の女性のことなんかすっかり忘れて、再び安心した。

 しばらくして、座り込む僕の前に辿り着いたその人影は、着物姿の老人のようだった。というのも、やはり夕日が逆光になっていて顔は確認できなかったし、疲労からか目も霞んでよく見えなかったのだ。ただ、その杖を持つ右手に深く刻まれた皺だけは、はっきりと視認できた。

 その老人は、僕に向かって――、

「ほう。――鬼か」と云った。

 老人は、持っていた杖を投げ捨てると、その右手で僕の頭を鷲掴みにした。あまりに突然のことで、僕は何も抵抗できなかった。否、正しくは、あまりの恐怖に何も抵抗することができなかった。

 老人の顔は、やはり見えなかった――が、後方に長く伸びた皺くちゃの頭だけは、見えた。

 そうして、次に僕が見た景色は、病院の真っ白い天井だった。



 見慣れない天井。目を覚ました僕の目に飛び込んできたのは、毎日見ていたそれではなかった。

 一瞬頭が混乱したが、すぐに察した。もう引っ越してきてから三日目であるが、未だに慣れない。

 僕、小野寺真榎(おのでらまなか)は、再び目をつむり、先程まで見ていた夢を反芻する。これは、見慣れた夢。否、悪夢だ。

 小学五年生くらいだっただろうか。毎年夏休みの数週間は、母方の長野県にある実家へと帰省していた。普段は静岡県に住んでいるから、もちろんそこに友達なんかはいない。だから、いつも一人で遊んでいた。といっても、地元にだって友達なんていないのだけど。

 とにかく、一人神社で遊んでいた僕は、いつの間にか見知らぬ電車に揺られていた。

 そして――あいつに出逢った。

 気を失っていた僕を発見したのは、帰りを心配したお婆ちゃんだった。これは、随分後になってから聞いたことだが、発見場所は元いた神社の境内であり、発見時間はまだ夕日が完全に沈む前だったという。

 空間も時間もまるで変っていなかったのだ。だから、あれは夢だったのだ。悪夢だったのだ。しかし、そんな呑気で楽観的な解釈は通用しなかった。そう、現実は厳しく残酷なものなのだ。

 あの日以来、僕の身体は、心は――人間ではなくなった。

 ――僕はベッドから起き上がると、カーテンを半分だけ開け、窓の方は全開にした。四月の朝風が心地いい。さっきまでの陰気な目覚めを爽やかに冷ますよう、しばらく風に当たっていた。

 軽い朝食を済ませ、身支度を始める。今日から晴れて大学生である。東京の私立大学へと進学した僕は、地元を離れて一人暮らしを始めていた。僕の家は裕福な家庭というわけではないから、奨学金を借りての進学である。高校の頃から苦学生をする覚悟はできていた。それよりも、地元を離れたかったのだ。

 とりあえず、今日の入学式を済ましたら、本格的にバイト探しを始めなければ。目下の不安は、勉学や人間関係なんかじゃなく、お金なのだ。

 そんなことを考えながら下宿先の駐輪場へと降りる。このマンションは、学寮ではないが大学側が推奨している物件で、同じ大学に通う学生も多く住んでいる。もちろん広くはないが、机や椅子、エアコンに冷蔵庫などの家具家電も備え付きである。キッチンや風呂、トイレも各部屋にあるので、一人暮らしには申し分ない物件だ。それでいて、都内の相場より格段に家賃も安い。

 僕は、高校生時代にバイトをして買ったロードバイクに乗ると、大学まで走らせた。これから通う大学は品川区にある。東京のさらに都会であるが、幸い大学内に駐輪場が設けられているので自転車通学が可能である。

 なにせ僕は――自転車以外の乗り物には乗れない。

 あの日以来、僕は電車を初め、バスや自動車、船に飛行機だって乗れないのだ。それは、トラウマというのかもしれない。しかし、当事者の僕にとっては、そんな単純に解釈されるものではないように思えてならない。

 そう、これは――呪いのようなものだ。

 もし僕の境遇をわかってくれる人がいるとすれば、それは同じように呪いを受けた者だけだろう。

 とにかく、この呪いのせいで修学旅行にだっていけなかった僕は、引っ越しの際に東京へ来る時も、地元からロードバイクを走らせてきたのだ。

 普通僕が住むマンションからは電車に乗って通学する距離であるが、まぁ定期券代も浮くし丁度いいだろう。今は、もうなるべくプラスの方へとポジティブに考えるようにしている。

 ――朝の清々しい空気が頬を撫でて気持ちがいい。見慣れない景色が次々と目に映る。コンクリートジャングルとはよく言ったもので、見たこともないような背の高いビルが木のように何本も聳えて、深い森を形成しているようだ。

 その隙間から射す朝の優しい日光が、僕の身体全体をスポットライトのように照らし出す。僕は反射的に、軽く捲っていたスーツの両袖を元に戻す。

 ――日光は、苦手だ。

 あの日、()()()()()()()()()()僕には、その優しい光ですら刺激が強かった。


 大学に着くと、既に人影が大勢見えた。スーツを着た新入生や、その親と思われる人達の姿も少なくなかった。みんな門の前などで記念写真を撮ったりしている。

 まだ入学式が始まるまで時間があったから、その人影の間を縫うようにして大学敷地内にある広場の方へと向かった。例の如く乗り物に乗れない僕は、オープンキャンパスも行かなかったから、大学に来るのはこれで、まだ二回目である。通学路を確認する際に訪れたっきりで、敷地内の構造や施設なんかも全然把握できていない。

 こんな都会の中にある大学なのに、その敷地面積は結構なものだった。地方なんかの大学に比べれば、さほど広くはないのだろうけど、その分高さがあった。また、比較的最近増改築されたらしく、まるで迷路のように建物同士が繋がっていた。それこそ、コンクリートジャングルだった。

 密林の中にぽっかりと空いた穴のような広場では、部活やサークル勧誘の準備が行われている。

 そんな僕には関係のない光景を眺めている内に、入学式の時間が来たようだった。

 ――大学でも、友達をつくる気はない。


 相変わらず退屈な式を終えて、早々に帰ろうとした。やっぱり人込みは苦手だ。こんなんで東京で暮らしていけるのかどうか、少し不安になった。

 僕は、入学式が終わり勧誘が始まった広場を横目で眺めながら、駐輪場へと足早に向かった。

 ――しかし、何故か場所がわからなかった。元来た道を辿ればいいだけだが、迷路のように入り組んでいるから容易ではなかったのだ。どうやら、この人工的な密林の中に一人迷い込んでしまったようである。

 とりあえず地図が貼られている案内板を探していると、壁一面が掲示板になっている廊下に出た。講義や図書館に関する情報などの他に、部活やサークル紹介のチラシがずらりと並んでいる。

 流石都内の私立大学ともなると、実に多様なサークルが多い。僕は、それを一通り目で追った後、地図が無いのを確認すると、再び迷路から脱出するべく歩き出した。

 正直に言うと、面白そうなサークルが多くあった。ボードゲームやアニメに漫画、史跡巡りや学食研究会なんかもあった。運動系も豊富で、フットサルやボルダリング、登山なんかの中高ではまず見ない珍しいものもたくさんあった。

 ――オカルトサークル。

 僕の脳裏に、掲示板の最終段に貼られていたチラシがよぎった。しかし、すぐに振り落とすよう頭を振った。

 僕には、関係ない。

 オカルトサークルといっても、所詮は妖怪や幽霊、UMAに宇宙人なんかを面白可笑しく仲間内でダラダラ喋っているだけだろう。否、もちろんそれが悪いことなどではないことは、僕でもわかっている。そもそも、大学のサークルとはそういうものだろう。

 だから、僕の、あの悪夢を理解してくれる人なんていない。どうせ、それこそ面白可笑しく興味を持たれるだけで、真面目に取り合ってはくれないだろう。ましてや、僕の身体に宿った怪異を取り除いてくれるなんてありえない。

 あんな体験をした人なんているわけがないのだ。妖怪や怪異を本気で信じている人間なんていないのだ。

 やっぱり、僕は――孤独だ。

 ――そんなことを考えながら歩いていたから、余計にジャングルの奥へと迷い込んでしまった。階段を上がったり下りたりして、恐らく現在地は地下だと思われる。先程まで大勢いた新入生やなんかの姿は、もはや一人も見当たらない。堪忍した僕は、人に道を尋ねようとしたが、それも叶わないようだった。

 それにしても、地下にもこんなにたくさんの講堂や部屋があるとは思わなかった。東京ほどの大都市になると、上だけでなく下にも伸ばすのか。そう一人合点しながら、順番に部屋を覗いていくが、今日は入学式である、当然誰もいるはずがなかった。僕は、そんな人の気配がしない静まりかえった廊下の一番奥まで一応歩を進めた。もうその先は行き止まりで、最後の部屋を生真面目に確認しようとしたのだ。

 そんなダメ元で訪れた部屋の扉は、閉ざされていて中を覗くことができなかった。恐らく、この部屋には人がいるのだろう――しかし、小心者の僕は、終にドアノブに手をかけることができなかった。そうして、諦めて引き返そうとすると、

「うわぁ」

 僕は、小さく悲鳴を上げて軽く飛び上がった。

「な、中……入らないんですか……?」

 いつの間にか僕の背後にいたらしい女性は、驚く僕を見つめながら云った。

「あ、ああ……。す、すいません」

 僕は、謝罪して扉の前から離れた。

 この女性は、この部屋に用があるらしい。スーツを着ているところから察するに、僕と同じ新入生だろう。丸く大きな眼鏡をかけた小柄な身体が、僕を怪しそうに見上げている。茶髪のボブヘアーが綺麗で可愛らしかった。

 しかし、こんな辺鄙な場所にある部屋へ何の用があって来たのだろうか。僕みたいに迷い込んだわけでもなさそうだし……と思って、ようやく気づく。

「あ、あの、僕道に迷っちゃったみたいで、駐輪場までの行き方とか知ってたりしませんよね……」

 とにかく、人に会えたのだ。僕は、勇気を出して訪ねた。

「迷った……? あなたもこのサークルに興味があって来たんじゃないんですか」

 眼鏡の女性は、不思議そうに返した。

 なるほど、ここは部室だったのだ。それにしても、こんな人が寄りつかないようなところにあるなんて。確か部室棟は、別のところに設けられていたはずだが、部活やサークルの数が多いせいか溢れているものもあるのだろう。偶然迷い込みでもしない限り、こんな場所二度と辿り着けそうもない。

「否、僕は帰ろうと思って迷っただけなんです」

 僕は部活やサークルに入る気なんてない。人と関わる気なんて毛頭ないのだ。

 相変わらず女性は、眼鏡の奥で僕を怪しそうに見つめている。

「……じゃあ、僕はこれで」

 その視線に気まずくなって、道を聞いたのも忘れて立ち去ろうとした。こんなところに迷い込んだのが、そんなに不思議なことだろうか。それとも、僕が小心者であるゆえ滲み出る挙動不審さを敏感に感じ取られたのだろうか。

 ――やっぱり、人と関わるのは苦手だ。

 そこで、部屋の扉が勢いよく放たれた。

 突然のことに驚いて、立ち去ろうとしていた僕は、振り返ってそちらの方を見る。小柄な女性も吃驚した様子で、扉の中を見ているのが横目に入った。

「うわ~、今年は二人もいるよ! さあさあ、早く中に入って! 歓迎するよ」

 ようこそ、オカルトサークルへ、と扉を開けた女性は嬉しそうに云った。


 僕は、断ることもできず、成り行きに従って扉の中へと誘われた。

 ――入って、吃驚した。部屋の中は、外からは想像もできないほど広かったからだ。もはや部屋という表現は適切ではないほどの様相だった。まず、玄関がある。奥には、大きなダイニングテーブルにソファなどの家具、テレビや冷蔵庫、エアコンなどの家電も見える。さらにいくつか部屋もあるようで、これは、もはや――家だった。

 僕は、しばらく呆気に取られて立ち竦していた。それは、僕の後に続いて入ってきた、眼鏡の女性も同じようで、固まっていた。

「さあ、お二人さん。そんなところで止まってないで、遠慮せずに奥へどうぞ~」

 扉を開けて僕達二人を招き入れた女性は、微笑みながら云った。

 長く綺麗に整えられた髪が、電灯の光を反射して黒く輝いている。前髪も左右の束もぱっつんに切り揃えられた髪型は――姫カットと言うのだろうか――上品さと幼さを両立させていた。

「い、いえ、僕は……」と云いかけたところで、

犬養(いぬかい)部長、いきなりそんなグイグイ来られたら一年生も困っちゃいますよ」

 奥のソファで怠そうに寝転びながらスマホを弄っていた女性が、その画面から目を離さずに云った。

「あ、ごめんごめん。そうだよね、まずは……えっと、ご入学おめでとうございま~す」

「ど、どうも……」と、僕と眼鏡の女性は異口同音に云って、軽く会釈をした。

 そうして、促されるまま大きなソファへと座らされた。先程からずっとそこに横たわっている女性は、特に気にすることもなく、なおもスマホを触り続けていた。僕が座っている角度から、その短いスカートの中が見えそうになって、咄嗟に目を逸らした。

「それじゃあ早速、私から自己紹介させてもらうね」

 犬養部長と呼ばれた女性がそう云い終ると同時に、僕は云った。

「す、すいません。僕は、道に迷ってここまで来てしまっただけなんです。何しろ、まだ大学内を詳しく知らないもので……。だ、だから、入部しに来たわけじゃないんです……。言い出すのが遅くなって申し訳ありません」

 予想外の急展開に狼狽しつつも、ようやく手違いだったことを切り出すと僕は素早く立ち上がって、そのまま扉の方まで足早に向かった。

「あっ、ちょっと待ってよ!」

 犬養――さんの制止を聞かず、僕は扉の前で軽く会釈をして、ドアノブに手をかけた。

 サークルに入る気なんてない。誰かと関わる気なんてない。僕は、ずっと一人だ。地元を離れて、大学に入ったからとて、それは変わらない。今までも、この先も、僕はずっと孤独だ。

 それに、やっぱり、オカルトサークルとか何とか言っても、僕のこの身体――心の化け物を見たら逃げ出すに決まっている。そうして無駄に傷を負うくらいなら、最初から関わるべきではないのだ。一度得たものを失うぐらいなら、最初から持たない方がマシだ。僕は、サークル――人間社会から排除されるべき存在なのだ。

 だって、僕は――人間ではないから。

 ドアノブを下ろして、手前に引いた――と同時に、扉の向こうからも力が加わった。逸る気持ちで既に足を踏み出していた僕は、急に止まることもできず、開いた扉の向こうの何かにぶつかった。

「わっ! 吃驚した」

 そう声がした下の方を見ると、女性が僕の胸辺りで上目遣いになって、こちらを見上げていた。肩の辺りまで伸びた金色の髪が、光沢を持ってキラキラと光っているように見えた。シャンプーか香水の甘い匂いが、ふわりと僕の鼻腔を掠めた。

 僕は、反射的に「す、すいません」と云うと、一歩後退った。何だかさっきから謝ってばかりの自分が急に情けなくなったが、今はそんなことどうだっていい。とにかく、この場を早く立ち去らなければ。

「いいよ~。私も急に開けちゃってごめんね~、一年生君。……男の子の入部希望初めてだから、私、緊張するな~」

 金髪の女性はそう云うと、からかうような意地悪そうな目になって微笑んだ。そして、彼女の背後、僕が出て行こうとしている扉の横に――一本の尻尾が立ち塞がった。それは、彼女の髪の色と同じ、輝くような金色だった。柔らかそうな整った毛の束をヒラヒラとさせて、僕の行く手を遮っている。その滑らかな動きは、彼女の視線と同様、僕をからかっているようだった。

「ちょっと、(はな)()ちゃん。こんなところで尻尾出しちゃ駄目でしょ、早く仕舞って」

 扉の外からさらに現れた女性は、僕の顔を確認すると、一瞬嫌悪するような表情を見せた。が、すぐ笑顔になって、「新入生ですか? ご入学おめでとうございます」と云った。

 僕は、再び「ど、どうも……」と云って、会釈したが、依然金色の尻尾が通せん坊をしていた。それは、コスプレやなんかのアイテムでないことはすぐにわかった。この華陽と呼ばれた女性は、一体何なんだ。

 僕がそうして黙っているから、一瞬の間沈黙が場を支配した。

「そうだよね。やっぱり、それが一番手っ取り早いよね」

 犬養さんは、沈黙を破って、何かを諦めたような口調で云うと、両の手の平を下に向けた。

 すると、そこから――二匹の、犬が出現した。白と黒の大型犬は、お利口そうに彼女の左右で、狛犬みたくお座りした。動物に詳しくない僕は、その犬種なんかはわからなかったが、舌を出しながら「はっはっ」と短く息を切る姿を見て、可愛らしく思った。

「ほら、摩伊(まい)も」と犬養さんは云って、ソファの上でスマホを弄り続ける女性に向けて何かを促した。

 摩伊と呼ばれた女性は、面倒臭そうにして、その高いところで結んだツインテールの髪の毛を撫でた。「はいはい」と、やはりスマホから目を離さずに返事をすると、短いスカートの中から、細長くにょろりとした――尻尾が生え出てきた。その先端は二又に分かれており、さっきの犬同様、左右が白と黒に配色されていた。

「これで、わかってもらえたかな」

 犬養さんは、僕の目を見据えて云った。その顔は、さっきまでの明るい印象は抜け落ちていて、真剣な眼差しだった。そして――、

「ようこそ、オカルトサークルへ!」と、明るく元気に云った。

 ――この人達も、人間ではないようだった。


「じゃあ改めて、私から自己紹介します!」

 犬養さんは、部屋の隅にある大きなホワイトボードの前に立って云った。その左右には、やはり二匹の白黒の犬が行儀よく鎮座している。

「私は、このオカルトサークルの部長をやらしてもらってます、四年の犬養(いぬかい)(ひめ)()です! 犬神筋の生まれで、見ての通り二匹の犬を使役していま~す。この子達の名前は、こっちがシロで、こっちがクロだよ。よろしくね」

 犬養さんは、そう云いながら左右の犬を順番に指差して紹介した後、軽くお辞儀をした。

 といっても、犬神筋の生まれとは一体何なのだろうか。他の部員の様子からも察するに、この人達は恐らく何らかの――魔を宿していることは明らかだが……。

「ほら、次は三年生の二人だよ」

 犬養さんは、ダイニングチェアに座っている二人を促した。どうやら、先程僕が退出しようとした際に鉢合わせた二人が三年生らしい。

「私は、三年の宇久島深海(うくじまふかみ)です。よろしくお願いします」

 宇久島さんは、そう短く云うと、僕の横でソファに座る眼鏡の女性に目を合わせたようだった。そして、軽く頭を下げたことで、背中まで伸びたウェーブがかった髪の毛が軽く揺れた。頭を上げた後も、僕と目が合うことはなかった。微笑んで優しそうな表情をしているが、どことなく僕に対して嫌悪感を抱いていることが何となく察せられた。

「私は、三浦華陽(みうらはなよ)だよ~。見ての通り、人間と狐のハーフだよ。あと、深海が言わなかったから私が紹介するけど、この子は人魚だよ。二人ともよろしく~」

 三浦さんは、金色の尻尾を手のようにヒラヒラと振りながら云った。宇久島さんとは対照的で、僕と隣の小柄な女性を順番に見ていた。その目からは、やはり宇久島さんとは真逆で好意的な印象を受ける。言動や仕草から察するに、この人は人懐っこい性格なんだろう。だから、僕とも真逆だ。

 しかし、犬に魚に狐――僕と同じような人間がこんなにもいたとは。しかも、同じ大学内に。――否、人間ではないのだ。

 三浦さんは、人間と狐のハーフだと言っていたが、それはすなわち純粋な人間ではないということだろう。そもそも、そんな人と獣の異類婚姻なんてこの世にあり得るのか。否、この状況でそんなことを考えるのはもはや意味のないことだ。第一、僕が一番知っているじゃないか。あの日、嫌というほど思い知ったじゃないか。

 ――この世に、あり得ないことなどない、と。

「お~い、最後は摩伊だよ」

 犬養さんは、僕達の横で寝転びながら、今までずっとスマホを弄り続けている女性に向けて云った。

 摩伊と呼ばれた女性は、怠そうに身体を起こすと、ホワイトボードの前に立った。しかし、すぐに脚を閉じでしゃがみ込んだ。

東松摩伊(ひがしまつまい)。二年。猫。よろしく」

 東松さんは、簡潔にそう云うと、また気怠そうにソファへ寝転がった。先端が白と黒の二つに分かれた尻尾も力なさげにぺったりとソファに張りついている。僕は、頭のツインテールまでもが尻尾に見えて、何だか可笑しかった。

「よし、これで私達の自己紹介はお終い。じゃあ、次はお二人さん、よろしく!」

 犬養さんは、今度は僕達二人を促した。その明るい口調から、変に緊張することはないよ、という気遣いを感じる。多分、この人は凄く優しい人なのだろう。第一印象や、この短い時間の中で、それは容易にわかることだった。

 しかし、僕としては、そう気遣われて促されても気乗りはしなかった。そもそも、なし崩し的にこの場に残ってしまった僕は、一言もこのサークルに加入するとは口にしていないのだ。

 確かに、この人たちが僕と同じような境遇であることはわかった。でも、やっぱり僕は他人とは関われない。否、関わる資格がないのだ。

 だから、この場は何とか取り繕って切り抜けよう。犬養さんやみんなには悪いけど、その後は顔を出さずにフェードアウトしていけばいい。この在籍数も多く広い大学内で出会うことは、もうそうそうないだろう。

「わ、私は、能登雫(のとしずく)と言います。か、獺です。よ、よろしくお願いします……」

 小柄な眼鏡の女性――能登さんは、微かに震える声でそう自己紹介した。案の定、この子も純粋な人間ではないようだ。大人しそうな彼女は、深々と頭を下げると、丸く可愛らしい眼鏡の位置を指で直した。

 犬養さんをはじめとした先輩方が、それぞれ不揃いな拍手をした。次は、いよいよ僕の番だった。

「ぼ、僕は、小野寺真榎と申します」

 僕は――鬼です、と云った。

 これは人に初めて明かしたし、そう自分で口に出したことも初めてだった。まぁこんなこと言う機会なんて、まずあるもんじゃない。

 そうして、僕は頭を下げた。他の人と同様に、「よろしくお願いします」とは言わなかった。

 またも不揃いな拍手が起こり、この世にも奇妙な自己紹介は幕を閉じた。解散となった場を僕は、足早に出た。最後に、犬養さんから入部届を受け取って。

 さっきあれほど辿り着けなかった駐輪場には、驚くほど簡単に向かうことができた。僕は、既に夕方となった都内をロードバイクで走りながら、あの夏の日のことを思い出していた。

 高層ビルの間で妖しく光る夕日を眺めながら、もうあの部室に迷い込むことはないだろう、と思った。



 あれから二週間くらい経っただろうか。僕は、学業とアルバイト探しに追われていた。否、それだけじゃない、初めての一人暮らしである。日常生活の方も、まだまだ慣れなかった。

 しかし、あの悪夢を見る頻度は何故か減ったようだった。その代わり――あの部室に迷い込んだ時のこと、そして犬養さんの顔が夢に出るようになった。何だか彼女に呼ばれているような気がする。でも、当然あの日以来一度も顔を出していないし、入部届はリュックサックに入れっぱなしだ。そもそも、サークルなんて入っている場合ではないのだ。

 僕は、未だにアルバイトを決めかねていた。できることなら、なるべく人と関わらず、夕方以降の時間帯がよかった。そんな高望みをしているから中々見つからないのだが、今日も求人情報をスマホで眺めながら、大学の講義を受ける。

 ――昼休みになったが、食堂や広場なんかには人が多いから、僕は、講義の空きコマを利用して大学敷地内を探索した末に見つけた穴場へと向かった。そこは、ある館の最上階のテラスである。この場所はこじんまりとしていて、最上階ということもあってか、人がほとんどこないのだ。僕は、ここのベンチに横たわって昼寝をするのが習慣となっていた。この時間は、丁度ベンチが影になっており、直射日光も当たらない。昼間の春風がとても気持ちよかった。

「あれ? 小野寺君じゃん」

 ウトウト微睡んでいた僕は、その聞き覚えるのある声で目が覚めた。寝転がっている僕を見下ろしていた彼女は、隣のベンチへと腰を下ろした。

「い、犬養さん……、お、お久しぶりです……」

 僕は、平静を装って云ったつもりだったが、その声は微かに震えていた。き、気まずかった……。あの日、半ば逃げるように入部届を受け取っただけの僕は、もう会うこともないだろうと思っていた彼女に偶然にも再会してしまった。

「小野寺君、お昼食べないの? それとも、もう食べ終わった後なのかな」

 しかし、犬養さんはそんな僕の心中とは裏腹に、特に何も気にしていないようだった。

 彼女は、手に持っていたビニール袋からホットドッグを取り出した。それは、毎日昼休みになると広場に来るキッチンカーの商品だった。

「い、いえ、僕は昼食を食べないタイプなんです。お金もないですし……」

 僕は、ベンチから身体を起こすと、ホットドッグを頬張る彼女の横顔を眺めながら返答した。これは、僕の高校生からの習慣である。ただでさえ、体質的に昼間は眠いのだ、昼食を摂ってしまったら午後の講義なんてまともに受けることができない。それに、お金がない今は節約にもなるだろう。そう、やっぱり早くアルバイトを決めなければ。

「そっか、小野寺君も上京してきて一人暮らしなのか。ちなみに私も地方から来た人だよ。てか、うちのサークルはみんなそうだね。この前の自己紹介の時に、出身地も言うべきだったよ」

 犬養さんは、ホットドッグを食べる手を止めて、微笑みながら云った。彼女がこちらに向けた顔と目が合ってしまった僕は、慌てて逸らした。

「あ、そうだ。お金ないんだったら、なおのことうちに入ってよ」

 何を隠そう、稼げるバイトがあるんだけど興味ない? と、犬養さんはさっきとは打って変わって意地悪そうな目つきになって云った。

「か、稼げるバイトですか……? それは是非とも聞かせてほしいですが……」

 僕は、彼女のそんな怪しい言葉に惹かれてしまった。貧すれば鈍するとは、正にこのことだろう。経済的に困窮していた僕は、犬養さんの提案にまんまと乗ってしまった。でも、理由がそれだけじゃないことは、自分でも何となく気づいている。

 そこでタイミング悪く、昼休みを終えるチャイムが鳴った。

「小野寺君、次も授業あるの?」との質問に、僕は「はい」と答えて、リュックサックを背負いながら立ち上がった。

「ごめんね、お昼寝の邪魔しちゃって。一年生は授業たくさんあって大変だよね~。じゃ、講義が全部終わったら部室に来てよ。そこで、詳しく説明するからさ」

 僕は、それに了承すると、階段へと向かった。もちろんエレベーターはあるが、僕はそれにだって乗ることができない。ふと振り返ると、テラスのガラス越しに彼女の背中が見えた。

 それは、どこか儚げな、哀しい後ろ姿だった。


 今日の全講義を終えた僕は、昼休みにした約束通り部室へと向かっていた。正直、辿り着ける自信はなかった。この二週間で大学敷地内は調べ尽くしたはずだが、何故かあの部室の場所だけは把握できなかったのだ。さっき犬養さんに、軽くでもいいから場所を確認しておくべきだったと後悔した。でも、そんな後悔はすぐに消えて無くなった。

「着いた……ここだ」

 それは、当たり前だが初めて訪れた時と同様、地下にあった。階段を下りて、よくわからない現代アートの絵画やオブジェが飾られている長い廊下を渡った奥にあった。その先は行き止まりになっていて、辺りは静まりかえっている。陽の光が届かない地下だから、青白い電灯がこの空間を支配している。多分夜に来たら、かなり雰囲気が出るだろう。今は夕方だが、既にその片鱗が見え隠れしていた。

 僕は、ドアノブに手をかけて扉を開けた。あの時とは違い、今度は自分の意思で中へと入る。

「やっほ~、お疲れ~」

 部室に入ると、ダイニングチェアに座りながらノートパソコンを操作している犬養さんが出迎えてくれた。

「お疲れ様です。すいません、遅くなってしまって」

 僕は、そう返すと、靴を脱いで室内へと上がる。その際に、軽く辺りを見回したが、彼女の他には誰もいないようだった。僕は、それを確認して、少し安堵した。入部をすっぽかしてしまった手前、他のメンバーに会うのはやっぱり気まずかった。

「いいよいいよ。どうせ四年生は、ほとんど授業なくて暇だからさ。それより、こっち座ってよ」

 犬養さんは、出入口に突っ立っている僕に手招きをした。促されて、僕は、彼女の向かいの椅子に腰を下ろす。初めて来た時にも気づいてはいたが、この部室には、キッチンまである。だからここは、人が住める家だ――大学内にある部室なんかじゃない。いくら都内の私立大学だからといって、こんな設備は異常だ。そんなことは、つい一か月前まで高校生だった田舎者の僕でもわかる。

「ごめん、今お茶しかなかったよ」

 犬養さんは、冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップに注ぐと、僕に差し出してくれた。

「あ、ありがとうございます。お構いなく」

「どういたしまして。……じゃあ、早速だけど、これ見てよ」

 彼女は、再び席に着くと、テーブルに乗ったパソコンの画面をこちらに向けた。そこには――、

 「怪異の噂 調査します」と大きな字で記されていた。どうやら、何かのホームページらしい。下には、細かい説明文が書き連ねられている。依頼料らしき説明を目で追っている途中で、パソコンの向きを戻されてしまった。

「こ、このサイトは、何なんでしょうか」

 僕の質問に、犬養さんは得意そうに答えた。

「これが、私達オカルトサークルの活動及び仕事内容です」

 いまいち理解できていない僕の顔を見て察したのだろう彼女は、続けて説明した。

「つまり、私達のサークルは、巷に流れる妖しくて怪しい噂を調べて、検証することを活動内容にしているんだよ。それで、このサイトに来る依頼を有償で引き受けてるってわけ。もちろん、これは大学に秘密だけどね」

 犬養さんは、悪戯そうな顔で笑って云った。

 確かに、サークル活動とお金設けを両立したら、流石に大学側も黙ってはいないだろうが。しかし、これが稼げるバイトということだろうか。言っちゃあ悪いが、果たしてこんな怪しいサイトに依頼する人なんているのだろうか甚だ疑問である。僕のそんな無言の表情をまたも読み取った犬養さんは、それに答えるようさらに続けた。

「ちなみに、主な依頼主は、警察をはじめとする公的機関です」

 彼女の顔は、さっきよりも得意そうだった。

「は」

 僕は、思わず反射的に云った。

「だから、私達に依頼してくる人の多くは、警察の方々なんだよ。もちろん、警察内にもそういったことを扱う部署はあるんだけど、人手が圧倒的に足りてないんだってさ。それで、私達のような民間に委託することも少なくないんだよ」

 ――警察内に怪異の噂を扱う部署があるのか? そんなふざけたものが、この日本の、その優秀な警察組織に存在するとは驚愕である。否、そういった事実である以上、僕の感情なんてものはどうだっていいのだろう……。

 ――そう、事実なんだ。僕のこの身体に宿る――闇も。

「わ、わかりました……。しかし、具体的にはどういったことをするんですか? まさか、その、いわゆる妖怪退治なんてことをするわけではないですよね……」

「うん、私達は、そんな危険なことはしないよ。書いてあったでしょ、噂の調査って。うちらが扱うのは、あくまでも怪異の種みたいなもんだよ。学校の怪談だったり、街の都市伝説だったりね。それらの真偽を調査、検証して、報告するのが活動兼仕事内容ってわけ」

 なるほど、下調べ的な役割を担っているわけか。そして、そんな公になっていない組織の手助けをできるのは、このサークルのような、日陰者ということだろう。

「す、すいません、でも、これって果たして稼げるバイトなんでしょうか」

 僕は、さっきからずっと気になっていることを失礼にも質問した。こんな陽が当たらない仕事内容で、しかも中心的な依頼主が不景気な国家の公的機関とあっては、あまり報酬は期待できそうにもないが……。

「否、その辺は心配しなくても大丈夫だよ。詳しくはまだ言えないけど、期待してもらっていいからさ」

 犬養さんは、親指と人差し指で輪っかを作ると、再び悪戯そうな顔で笑った。

「あっ、あと基本的には、二~三人の少数で、主に夕方以降の活動になっちゃうけどいいかな? 慣れてきたら、一人の時もあるかもだけど」

 ――僕は、その条件を聞いて、安易にもサークルに入部することを決めたのだった。



「チェーンメール?」

 僕は、その聞き慣れない単語を犬養部長にオウム返しする。

 入部してから三日ほど経った日の、部室の窓からは、弱々しい夕方の光が微かに届いていた。

「そっかぁ。今の若い子は知らないか~」

 犬養部長は、わざとらしく額に手を当てながら云った。額といっても、そのおでこは綺麗に整えられた前髪で覆われているのだけど。

「若い子って、部長も僕とそんなに変わらないじゃないですか」

「いやまぁ、そうなんだけど、でも私が中学生くらいの時には一時期流行ったんだよ。そのチェーンメールが」

 僕は、高校に入ってから携帯電話を与えられたが、中学生の頃から持っている子は少なくなかった。それに、今は小学生だって持っている時代だ。しかし、今時メールというのはあまり馴染みがないだろう。もっぱら連絡用のアプリを使っている時代で、僕も例に漏れずそうだ。となると、僕が知らないだけでチェーンメールとやらは、メール機能の一種か何かなんだろうか。

「だよね、メールなんて普段はもう使わないよね。私も今はアプリだし。でも、私が中学生の頃は、丁度ガラケーからスマホの転換期前だったから、みんなメールでやり取りしていたんだよ。それで、そのチェーンメールっていうのはね……」

 犬養部長はそう云うと、スマホの画面を操作し出す。その画面をこちらに向けると、そこにはメールではなく見慣れた連絡用のアプリが開かれていた。僕がそれを見て不思議そうにしていると――、

「この送られて来てる文章読んでみて」と、彼女は画面に表示された長文を指差しながら云った。

 僕は、言われるままに、その長文を目で追う――。


 私、菊池彩音(きくちあやね)っていうの。

 あなたとお友達になりたくて、このメールを送ってるんだ。

 でもね、もう私は死んじゃったの。

 お母さんとお父さんにいじめられて、片目を潰されちゃった。

 そしたらね、クラスの男の子三人からもいじめられちゃって、残った方の目も見えなくなっちゃった。

 それでね、遂に、殺されちゃったの。

 でもね、今はこうして戻って来れたんだ。

 やっぱり、神様は見てるんだなぁって思ったよ。だってね、私何も悪い事してなかったもん。

 私は、ただ幸せになりたかっただけなのに。

 だから、神様がこうして、この世に呼び戻してくれたんだね。

 でね、今度は仲良くできるかなって思って、お母さんとお父さんと遊ぼうとしたんだ。

 私にしてくれたように、同じように目を潰してあげたら、血がたくさん出て、死んじゃった。

 凄く痛そうな声上げてたけど、私は遊べて楽しかったなぁ。

 もちろん、同じようにクラスの男の子とも遊んだよ。

 三人とも凄く痛そうにして、死んじゃった。

 私も、痛くて、辛くて、苦しかったなぁって思い出したよ。

 だからね、同じような思いさせてあげられて、嬉しかったんだぁ。

 でもね、私、まだまだ遊び足りないの。

 そこでね、みんなにお願い。

 私と、お友達になって?

 あ、もちろん、無理にとは言わないよ。

 悲しいけど、もしお友達になりたくなかったら、このメールを三日以内に、三人以上へ送ってくれればいいよ。

 こうすれば、たくさんお友達になれそうな子見つけられるんだぁ。

 だからね。

 もし、三日以内に誰にも送らなかったら、あなたとお友達になりに行くよ。

 あ、逃げたって無駄だからね。PAmwーB38っていう機械で、あなたのスマホから、居場所がわかっちゃうんだから。

 両目を潰して、両腕も両脚ももぎ取って、た~くさん、遊ぼうね。

 あなたは、私を幸せにしてくれるよね?


「随分と物騒なことが書いてありますね」

 僕は、文章を読み終えると、画面から目を離して云った。

「それに、奇怪で悪趣味な悪戯ですよ」

 そう付け足した僕の言葉を受けて、部長は同意するように頷いた。

 しかしなるほど、チェーンメールというのは、こういった悪質な悪戯メールのことを指すのだ。人の恐怖心や不安感を煽り、それを拡散させていく。

 彼女が言うには、一時期流行っていたということだが、この現代にもこうして復古し、また流行り出しているのだろうか。確かに、流行というのはループすると聞く。だったら、このチェーンメールというものも、正に鎖のように連なり反復しているのかもしれない。

 送られてきていた文章には、加えて「菊池彩音」と思われる少女の顔写真も貼られていた。その顔や文章の内容から察するに、彼女は小学校低中学年くらいと思われる。しかし、顔や髪型などの特徴はなく、今見たばかりなのにもう既に忘れかけてしまっている自分に気づく。

「ご丁寧に顔写真まで貼っちゃってさ。ちょっと前までとは違って、もう今はこういうのに厳しい世の中だっていうのに」

 犬養部長は、スマホの電源を切ると、呆れたように頬杖を突きながら云った。

 部長の言う通りで、今はこういったインターネットに関する法整備が進んできていて、実際に逮捕される者が少なくない時代である。この文章だって脅迫ともとれるし、何等かの法律に抵触しているのではないか。しかも、より悪質な点は、顔写真まで添付されているところである。立派な肖像権の侵害だろうことは、法律なんかに全然詳しくない僕でもわかる。それともなんだ、あの写真は今流行のAIで生成された精巧なものだとでもいうのだろうか。だからとて、悪趣味な悪戯であることは変わりないのだが。

「そう、今回の私達に依頼された仕事は、このメールが悪趣味な人間による悪戯かどうかの真偽を確かめることなんだよ」

「え」

 僕は、彼女がテーブルに頬杖を突いたまま、さらっと流すように云ったことを聞き返さずにはいられなかった。

「悪戯かどうかって……こんなの悪趣味な人間によるもの以外の何ものでもないでしょう」

「……じゃあ、もし、人間の仕業ではないとしたら、どうする? 君は既に知っているはずだよね」

 この世のものではない存在を、と部長は頬杖をそっと外しながら云った。

 その僕の顔を静かに見据える目は、初めて合った日にも見た真剣な眼差しだった。


 ――犬養部長が語った事の子細は、以下の通りである。

 まず、今回の依頼主というのは、常連客の警察らしい。以前にも説明された通り、警察機構にもこういった案件を取り扱う部署が存在するらしいが、そこは常に人手不足で民間に調査依頼をすることは珍しくないという。特に今回のケースのような詳細がわからず、実害が出ていないものに関しては、このサークルのような然るべき民間組織にその下調べを任せているらしい。国の重要機関である警察にそんなことを専門に扱う部署が存在することも驚きだったが、民間にもそれなりに存在していたとは……。

 妖怪なんていう意味のわからないふざけたものから国民を守るのも、治安維持を任されている警察の仕事というわけか。

 とにかく、そんな忙しい公僕は、全部の事件を担当しているわけにもいかないのだろう。部長が言うには、実際に怪異が原因であるケースは多くないらしく、そのほとんどが見間違いや勘違い、自然現象などの何か別のものが正体であるとのこと。それならば、そんなことの一つ一つに人手不足の警察は付き合っていられないだろう。

 ただし、万が一本物だった場合――。

 その時は、然るべき対処をしなければ実害の出る可能性がある。否、もう出てしまっている場合だってあるだろう。その事の真偽――噂――怪の種とも言うべきもの――を確かめるのが僕達の仕事というわけだ。

 今回の仕事内容は、「チェーンメールの怪」における真偽を確かめること。これは、某都内の高校が()()()()()()()()()()()を、サークルへ下請けしたものである。何でも、学校内で例のチェーンメールが流行り出してからというもの、生徒の間でトラブルが多発しているらしい。

 確かに、あんな内容をクラスメイトや部活のメンバーで送り合っていたら、人間関係がこじれるのも無理はない。冗談が言い合えるほどの友達同士でも角が立ちそうなことを、そこまで親しくないクラスメイトや他クラスの同級生、先輩後輩を含む部員同士でやり合っていては、関係が崩壊するのは想像に難くない。ただでさえ、思春期の男女が学校という狭い空間で毎日生活しているのだ、そんなギリギリのバランスで保っているものは、少しの衝撃で簡単に崩れ去るだろう。

 そう、実際に、その高校は崩壊したのだ。

 人間関係が鎖によって、複雑に拗れに拗れ縺れに縺れ、がんじがらめに絡まり、身動きできなくなったのだ。

 そんな事態を収拾できなくなった教師陣は、外部機関である警察へ依頼するに至ったのだろう。崩壊の原因である、チェーンメールの解決を。

 教員方大人は、同じ内部にいる人間からはもうどうすることもできないと察したのだ。だったら、毎日生徒と接している教師として、そうなる前に何か手を打つ機会はいくらでもあっただろうに――と、思いかけて僕は気づく。それは、先生達に対して酷なことだと。学校の教員というのは、激務なのだ、人手不足なのだ。

 僕は、小学校から高校まであんなに嫌悪していた大人――先生に対して、ある種の同情のようなものが芽生えているのに静かに驚いていた。それだけでなく、当時は僕も同じように青春の悩みを持っていたのに、いつの間にかそれが遠い過去のようになり、その高校の生徒達を俯瞰的に見られるようになっている。高校を卒業したのはつい最近のことだっていうのに、当時の僕と今の僕とでは、酷く断絶しているように思えてならない。

 これは、大学という今までとは異なる環境に身を置くようになったせいかもしれない。大学生というのは、幼稚園等を含んで高校までの延長線上のように思っていたが、どうやら違っていたようだ。大学には、色々な種類の人間がいる。それは、年齢だったり、人種だったり、考え方だったり――。何より、狭い空間の中に囚われていない。風通しが良いのだ。

 僕は、善良な国民として警察の、今までお世話になったお礼として先生の、かつて自分がそうだったよう思春期に悩む高校生の――役に立ちたいと思った。

 ――話が脱線してしまったので元に戻そう。

 犬養部長は、調査方法及び解決策を提示した。彼女は、もう何件も似たような依頼を熟しているようで、ノウハウを習得しているようだった。どうやら、妖怪変化にもパターンというものがあるらしい。

 今回は、依頼のあった高校へと実際に赴き、生徒達に聞き取り調査をする。その地道なフィールドワークを通して、件のメールが流行る起点となった人物を見つけ出すというのだ。確かに、本家大本のインターネット上のそれを辿ることに比べればはるかにマシだが、それでも不安だった。それに、複数の生徒がほとんど同時多発的に流し始めた可能性も、全くもって否定できないだろう。でも、素人の僕に口を出す権利はない。研修期間中の僕は、部長の言うこと、やることに従うまでだ。

 そうして、その高校においてチェーンメールを流した、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を確認する。そして、その生徒を起点にし、同じようにチェーンメールを流す――あのメールの内容は、嘘であったと。

 僕は、その説明を彼女から聞かされた時、思わず顔をしかめてしまった。だって、あまりにも荒唐無稽ではないか。崩壊したバランスが果たしてそんなことで解決するとは到底思えなかった。すると部長は、

「じゃあ、崩壊することもなかったんじゃない?」と意地悪そうな微笑みを見せながら云うのだった。

 その言葉に一応納得しつつも、何だか馬鹿げた話だと思ったが、言葉には出さなかった。

 とりあえず、それが調査方法及び解決策ということらしい。しかし、それは学校の秩序を回復するためのものであり、あくまでも依頼内容は事の真偽の判明である。

「まぁ、それは警察が私達に求めることだよね。第二第三の被害を抑制するために。でも、学校側――先生達にしてみれば、秩序が元に戻ってくれさえすれば、チェーンメールがどうとかなんてどうでもいいんだよ」

 第一、教師になるような立派な大人が、妖怪なんてそんなふざけた存在信じてるわけないじゃん、とのこと。

 犬養部長は、その重要な、「怪」の真偽を確かめる方法の詳細については何も説明してくれなかった。それは、その時が来たら自ずとわかるということらしいが、今の僕にはまるで見当がつかない。

 僕は、エレベーターを使わず長い階段を上り終わり、静かで誰もいない、日陰になっているテラスのベンチへと腰を下ろした。

 およそ十階ほどの高さを二段飛ばしで上り切ったにも関わらず、息の方は一つも切れていない。

 僕も大概ふざけた存在であることを思い出して、自分自身を嘲笑した。



 高校へ調査に赴く前日、僕は部室へと向かっていた。

 明日の集合時間や持ち物、服装などを確認しておきたかったのだ。そんなものは、連絡用のアプリ――ラインで聞けばいいことだし、時間などはもちろん事前に知らされているのだ。しかし、僕の性格上、直接確認しておかないと気が済まなかった。

 ――多分、緊張しているのだろう。

 大学生になったとしても、僕が小心者であることは変わりなかったし、そこら辺は何一つ成長していないようだった。

 僕は、部室の扉の前であることに気づく。

 ――しまった。中に部長がいるとは限らないのだ。というか、それこそ事前にラインでアポをとっておけよ僕。やっぱりつくづく自分は駄目な人間であることを自覚させられる。

 左腕に巻いた腕時計を見ると、十時を少し過ぎたところだった。部長は四年生だから、こんな早くに講義がある可能性はかなり低い。したがって、まだ大学には来ていないと思われる。否、それどころか今日大学に来るかどうかも怪しい。

 僕は、自分の不甲斐なさを噛み締めつつ、一応部室の中を確認した。

 鍵はかかっていなかったが(というか、施錠という概念がこの部屋にあるのかも伺わしい)、電気は点いていなくて暗かった。朝だといえども、地下にある関係で窓からは陽の光がほとんど入ってきていない。夜目が利く僕は、部屋の電気を点けないまま中を見回す。

 人の気配がないことを確認すると、落胆と安堵が同時に襲ってきた。部長がいなかったこと、他の部員がいなかったこと、で。

 僕は、まだ部長以外の部員と話したことがないのだ。ずっと友達のいなかった僕は、どう接していいのかわからない。しかしそうなると、部長との関係もそこまで築けていないのかもしれない。もちろん、出会って日が浅いのはあるが、彼女がただ優しくて面倒見のいいだけで、僕は自分からは積極的に関わろうとはしていないのだ。だから、たまにその優しさが辛い時がある。そして、そんな風に感じてしまう自分が嫌いだった。

 僕があの日偶然、この地下へと迷い込まなかったら部長とも出会っていなかった。彼女は、何で僕なんかをサークルに誘ってくれたのだろうか。それは、僕が同じ境遇であることを見抜いたから、か――。じゃあ、部長が僕を気にかけてくれる理由は、ただ同情しているから――。そう思うと、急に自分が惨めな気持ちになった。こんな感情は、独りでいた時には覚えなかった。こんな気持ちになってしまう自分も、また嫌いだった。

 部室から立ち去ろうした僕の目に、突然光が灯った。僕は吃驚して、電気が点いた部屋の中を確認する。

「わっ!? お、小野寺君、何でいるの」

 いないと思っていた犬養部長が、いないと思っていた僕に向かって云った。

 その身体はバスタオルで巻かれており、髪は濡れていた。その濡れ髪が電灯の光に照らされて、艶やかに輝いていた。

 僕は、そこでようやっと今目の前で起きたことを把握し、慌てて目を逸らす。

「す、すいません! そ、その、わざとじゃないんです」

 僕は、微かに震える声でそう弁明すると、急いで部室の外へ出た。

 どうやら、この部室にはバスルームもあるようで、全く、ふざけて造られたとしか思えない空間だった。


 ――犬養部長からの連絡を受けて、僕はしぶしぶ部室へと引き返した。

「さっきはごめん! 吃驚して大きな声出しちゃった……。小野寺君、何か用があったんだよね」

 部室に入ると、Tシャツに短パン姿の彼女が手を合わせて、僕に謝った。まだ髪の毛は乾いていないらしく、長い髪をヘアクリップで纏めて、タオルを巻いている。それに、部長はコンタクトだったらしく、今は眼鏡をかけていた。

「僕の方こそ、すいませんでした。アポも取らず急にお邪魔してしまい……」

 と僕は云い終って、その台詞が可笑しいことに気づく。否、もちろん部長のお風呂上りを見てしまったのは、それは謝罪しなければいけないことなのだが……、今それは一旦置いておくとして。そう、ここは部室なんだ。別に事前にアポなんか取らなくても、部員である僕が急に訪れてもいいはずだ。

「い、犬養部長、前々からずっと気になっていたんですが、この部屋は何なんですか……」

 大学敷地内に、こんな場所があっていいはずがない。だって、これじゃあまるで彼女の家みたいじゃないか。目の前に立っているそのラフな姿を見ても、そう思わざるを得ない。

「何なんですか、と言われても私達オカルトサークルの部室としか言えないんだけど、君が聞きたいのは、そういうことじゃないもんね」

 犬養部長は、からかうような目で云うと、出入り口に突っ立ったままの僕をソファに座るよう促した。その目は、眼鏡をかけているにも関わらず、いつもと変わらない大きな丸く、くっきりとした瞳だった。

 僕は、促されたまま大きなソファに浅く座る。

 部長はというと、素足でフローリングの床の上をペタペタと音を鳴らしながら歩いて行き、ある扉の前で止まった。いつもと違う格好と、その気の抜けた足音も相まって、彼女が何だか凄く幼い少女のように思えた。普段は、気高さを感じるほどの美しさを発している部長だが、今は随分と可愛らしい印象を抱かせる。

「じゃ~ん! この部屋は、私の寝室だよ~」

 犬養部長はそう云って、扉を勢いよく開け放った。その中は、彼女が言った通りで、大きなベッドが置かれていた。しかも、ただのベッドじゃない――、

「お、お姫様ベッドですか……」

 色々とツッコミたいことはたくさんあったが、とりあえず目の前に飛び込んできた光景を見て、僕は云った。

「そうだよ、可愛いでしょ。結構高かったんだけど、奮発して買ったお気に入りなんだ」

 犬養部長は、まるでおもちゃを買ってもらった子どものように、満足そうに笑った。またその表情が幼く見えて、可愛らしかった。

「じゃ、次はこっちの部屋ね」

 彼女は、またしても間抜けな足音を鳴らしながら、ある扉の前に立った。そこは、キッチンの近くにある扉で、この大きな部屋の一番奥に当たる場所だった。まぁそもそも、部室の中にさらに別の部屋があるのが珍しいのだけど。

「ここは、バスルームだよ。小野寺君も自由に使っていいからね」

 子どものような彼女は、またしてもからかうような目で、ソファに座る僕へ向かって云った。丈の短いパンツから伸びる、透き通った長い脚が、その表情とは裏腹に大人びて見える。

 遠目からその中を見るに、脱衣所には、洗面台や立派なドラム式洗濯機もあった。

「……」

 もう何も言うまい。僕は、彼女の視線を受けつつも黙っていた。

「あれ、もっと驚くと思ったのに。小野寺君、リアクションいいからさ」

 僕としては、どんなことがあっても冷静沈着な頼れる男を目指していたのだけれど、部長の評価は真逆のようである。

「十分驚いてますって。もう驚きすぎて、逆にノーリアクションになっていたところです」

 僕の言葉を受けて、彼女は嬉しそうにひとしきり笑うと、

「小野寺君の予想通り、ここがオカルトサークルの部室兼、私のマイホームです!」

 と、両手を大きく広げて、自慢げに云った。

 その得意になっている顔がまた可愛らしいが、その台詞は全く可愛くない。――この部屋が犬養部長の自宅だって? またも黙っている僕を無視して、彼女はさらに続ける。

「改めて、私達の隠里へ、ようこそ」

 眼鏡の奥の目が妖しく光ったように見えた。その瞳は、さっきまでの子どもっぽさは完全に消え去り、いつもの気高く、美しいものだった。

 ――どうやら、僕は、人生二度目の神隠しにあったようだ。



 フィールドワークに赴く高校は、大学からそこまで離れていなかった。

 例の如く、電車などの乗り物に乗れない僕としては有難かった。犬養部長には一応事情を説明しておいたが、特にそれについては言及されなかった。ただ、「話してくれて、ありがとね」と微笑んで云ってくれた。僕は、その表情に既に何度も救われていることに気づいている。

 だから、部長と軽い運動がてら一緒に歩いて行くことになった。いくら大学から近いといっても、電車やバスに乗った方が楽だし早いのだが、彼女も付き合ってくれるらしい。やっぱり、彼女は底抜けに優しいのだ。僕なんかのことを気にかけてくれている。他人の気持ちを第一に考えられる人なんだ。

 でも、そう思う度に、僕の心の奥底にある暗部がザワザワと音を立てる。部長はどうして僕なんかを――。あの日、部長に出会っていなければ――部長に呼び止められていなければ――。

 僕は、ずっと独りのままだった。ずっと、独りでいられた。

 土曜日の朝、大学の正門に降り注ぐ日光を睨めつけながら、僕は日陰に立っていた。

 腕時計を確認すると、部長との集合時間まで、まだ十五分ばかりあった。やっぱり、緊張しているのだろう。

 高校への連絡などは全て部長が済ましてくれた。それによると、今日土曜日の部活動に登校している生徒から聞き込み調査をするらしい。流石に平日には行えないということだろう。でもそれは、僕達にとっても好都合だ。学校という限られた範囲で調査するといっても、全校生徒に一人ずつ聞いていくわけにはいかない。だったら、休日に部活動へ参加しているという、ランダムに絞られた範囲から聞き取るのは丁度いいだろう。それに、調査といえども部外者である僕が、平日の見知らぬ高校に行くのは少々気が引ける。多分、母校に行くのだって躊躇するだろう。とにかく、卒業してしまった今は、学校というのはある種の立ち寄りがたい空間なのだ。

「やっほ~。お待たせ、小野寺君」

 つらつらとくだらないことを考え込んでいる僕に向かって、現れた犬養部長は挨拶した。

「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」

 僕は、大学の敷地内から正門の方へと出てきた部長に挨拶を返す。普通は逆なのだが、大学内に住んでいる彼女にとってはこれが普通である。

「うん、よろしくね。でも、そんな緊張しなくても大丈夫だよ。ほら、肩の力抜いてリラックス、リラックス」

 部長はそう云うと、軽く背伸びをして僕の両肩を揉むように触った。

「あ、ありがとうございます……」

 予想外に身体を触られた僕は、リラックスするどころか余計に力が入ってしまった。

「うわ、小野寺君、細身に見えて意外に筋肉あるね~。もしかして、結構筋トレとかしてるタイプ?」

 彼女は笑いながら、僕の肩から順番に腕の方を触っていった。

「いえ、特に何もしていないです。……それより、早く出発しましょう」

 僕は、わざとらしく腕時計を確認して、静かに云った。

 部長は、そんな僕の表情を軽く見上げると、一瞬哀しそうな表情を見せた。しかし、すぐに、

「そうだね。じゃ、高校までウォーキング大会といこうか~」と明るい口調で云って、歩き始めた。

 僕は、気を遣わせてしまったことの罪悪感と情けなさを強く覚えながら、その小さな背中を少しの間眺めていた。


 休日の東京は、普段よりも人通りが少なくていい。まだ朝早いということもあるだろうが、平日に比べるとその差は歴然だ。だから、何だか不思議な感覚になる。こんな高いビルが所狭しとひしめき合う下、今歩道を闊歩しているのは僕と部長の二人だけだ。大きな車道にも、ほとんど往来はない。まるで、この世界に二人だけが取り残されたような錯覚に陥る。多分こういった感覚は、自然豊かなジャングルのような環境よりも、都会の人工物だらけの空間の方がはるかに感じられる気がする。

 僕の一歩先を歩く部長は、気分よさげに鼻歌混じりで街を眺めている。その足元はいつもと違い、歩きやすいスニーカーを履いている。もう五月になる季節だから、朝といえども、だいぶ暖かく心地いい気温だ。彼女の着ているロングワンピースまでもが、気持ちよさそうに風に煽られている。

 僕は、それを見て、またもざわついた。これは、さっき感じたものとは少し違うことに気づいている。と同時に、こんなことでいちいち動揺する自分が酷く情けなくもなる。

「久しぶりに歩くのも気持ちいいね。小野寺君のおかげで気づけたよ」

 ありがと、と犬養部長は振り返りながら云うと、微笑んだ。

 彼女の身体は、日光に当たっていない。高い建物の影になっている。僕達は意図的に、否、無意識的に歩道の隅の日陰を歩いている。僕は、それに気づくと、何だか部長の後姿が哀しく見えた。

「部長は、なんで僕なんかをサークルに誘ってくれたんですか」

 聞こえるか聞こえないかの呟くような声で云ったにも関わらず、彼女は耳聡く聞き取ったようだった。

「僕なんかって何よ~。あんまり自分のこと卑下するのよくないよ、小野寺君。言った本人はもちろん、私まで暗い気持ちになっちゃうんだから」

 僕の発言を咎めつつも、その口調は柔らかかった。そして、犬養部長は振り返って、立ち止まった。その際に、ロングスカートの裾がふわりと踊るように翻った。

「私、ズルしちゃったんだ、小野寺君に。ううん、君だけじゃなく、能登ちゃんにも、他のみんなにも」

 独りぼっちが嫌だったから、と云って寂しそうに笑った。

 僕も立ち止まって、部長の続く言葉に耳を傾ける。辺りは、都会の真ん中とは思えないほどの静寂だった。

「入学式の日、小野寺君は偶然私達の部室に迷い込んだと思っているかもしれないけど、実は違うの。あれは、私が細工をして必然的に訪れさせたの。……能登ちゃんはそれに気づいた上で、やって来たらしいけど」

 なるほど、だからか。あの日初めて能登さんに出会った時、僕を怪しい目で見ていたのは、僕も同じように万事を知って訪れていると思っていたからだったのだ。僕の挙動不審さを怪しまれていたわけではないことに今更安堵しつつも、部長の言ったことはよくわからない。偶然ではなく、必然――。

「そう。君は最初から私達のサークル勧誘のチラシを見ることになっていた。そもそも、あれは私達のような存在にしか認知できないもの。そして、チラシを見た君は、私によって――隠された」

 僕は、偶然ではなく、彼女自身の力によって必然的に出逢ったのだ。必然的に、二度目の神隠しへとあったのだ。

「犬養部長は自己紹介で、犬神筋の家系だとおっしゃってましたよね。犬神というのは、そんなこともできるんですか」

 僕は、犬神筋が一体どういったものなのかを全く知らない。それだけじゃなく、自己紹介で教えてもらった他のみんなのことだって全然詳しくは知らない。調べようともしない。だって、それが何だか、その人の秘密を勝手に覗き見るみたいで気が引けたから。

「ううん。この力はね、犬神のものではないの。私はね――」

 天狗なんだ、と犬養部長は云った。その表情は、笑みを浮かべてはいるものの、やっぱりどこか寂しそうだった。

「だから、神隠しじゃなくて、天狗さらい、だね」

 彼女は、片足を軸にして、くるりとゆっくり回った。そうして、再び歩き出した。

 僕は、慌てて後を追う。その瞬間、時間も空間も止まっていたように静かだった街が動き出したようだった。


 ――犬養部長は、歩きながら僕に説明してくれた。彼女の生い立ちなどの過去や家のこと、そして犬神と天狗について。

 僕は、それを黙って聞いていた。否、聞いていることしかできなかった。何か一言でも気の利いたことを言ってあげることができたなら、どんなによかったことだろう。でも、もしそんなことができたとしても、救われるのは彼女ではなく、僕だけ――ただのエゴなのだ。

 彼女の語る口調や仕草、表情、その全てを取っても悲哀に満ち溢れていた。もちろん、彼女のことだから、それを感じさせないよう努めて明るく元気にしようとしているのだが、それが反って余計に哀しさを増幅させていた。

 犬養部長は、四国は愛媛県の出身だそうだ。その地には、代々犬神筋と呼ばれる家系が住んでおり、人々に恐れられ、忌み嫌われていたという。もちろん、部長も犬神筋のとある家系で、その歴史は古いらしい。

 では、何故犬神筋が恐怖され、忌避されていたか。

 それは――祟るからである。

 四国だけではなく、中国や九州にも伝わる犬神というものは、人に憑依する犬の霊であるらしい。その霊を神として祭祀し、それを意のままに使役することができる家のことを犬神筋というのだ。

 こうした犬神を自由に操る者は、敵と判断した人間へ、その飼い養っている犬に命令し憑依させる。その結果、憑かれた者に病気や死などの災厄が降り注ぐ。つまり、憎しみや恨みを晴らすために、他人へ憑きものを送りつける呪詛なのだ。

 そのような家が恐れられ、疎まれるのは当然だろう。それ故に、犬神筋の家は地域から差別され、迫害されることも珍しくなかったという。犬養部長の家もまた――。

 しかし、犬養家はそれにより、一層の力を欲するようになる。人を呪えば、人に呪われ、さらに呪うことになる――。

 そうして、犬養家は――天狗に祈った。

 否、もっと具体的に、もっと確実にその力を得ようとした。

 その方法とは、天狗と婚姻関係を結ぶことだった。

「『仙境異聞(せんきょういぶん)』って知ってる? ……う~ん、まぁ現代風に言うなら、異世界転生みたいなもんかな」

 江戸時代に国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)によって記されたというその文献は、寅吉(とらきち)という少年が語る山の中の異世界――仙境について書かれたものらしい。その寅吉は、仙境に住む天狗へ弟子入りして修行した後、人間界に戻ってきたとのことである。

 ――そして、そこで彼は、天狗と交わった、という。

 明治の初め頃、寅吉と共に人間界へ戻ったその子ども――子孫の血がまだ絶えていないことを知った、当時の犬養家の当主は、自分の息子と寅吉の子孫とを強引に結ばせた。その結果生まれたのが、「犬神を使役する天狗」であった。

 しかし、呪いというものは、自分に返ってくるのだ。

 天狗とは、天を流れる星――狗である。そんな狗と犬が喧嘩をしたのだろうか。とにかく犬養家は、その代償、祟り、呪いとして――短命となった。その後、寅吉の方の血はすぐに絶えたという。

「だからね、私も、もうすぐ死ぬんだ」

 犬養家の方は、その後も血を継いでいった。しかし、身体の中に二つの闇を交わらせる、そんな混沌とした存在をお天道様は許すはずがなかった。短命となった犬養家は、みな三十台を迎えずに死ぬという。だから、部長の父親はもう既に他界しており、交わった母親の方も呪いを貰い受け、亡くなった。一人娘であった部長は、もうそんな呪いを繰り返さないために、独り家を出て上京してきたのだ。

 そうして、彼女は天涯孤独の身となった。唯一残された莫大な遺産と共に。

「私はね、生きてる内にできるだけ色んな人と出会いたいんだ。それでね、自分の手が届く範囲の人を掬い上げたい。小野寺君も、その内の一人だよ。……なんて、おこがましいかな」

 こうした考えの元、部長はサークルを立ち上げた。その短い生命の中で、できるだけ多くの人を助けるため。

 ――僕は、既に犬養部長の小さいけど小さくない両手によって、暗い底から掬い上げられていた。



「あいつが送ってきた」

 僕達が聞き取り調査をした生徒全員が口を揃えて、そう云った。

 部外者である僕達から見ても、その崩壊様は一目瞭然だった。みな疑心暗鬼になっていて、隣の人間を誰も信用していないようだった。

 だから、捜査は難航するかと思われたが、案外すんなりと見つけることができた。この学校を崩壊へと導いた人物。チェーンメールの起点となった生徒。

 それは、一年生のとある女子生徒だった。ほとんど偶然に近い形で行き着くことができた彼女は、陸上部に所属していた。

「お姉さん達、何者なんですか」

 その女子生徒は、怪訝そうな目で僕達二人を見て云った。

「ごめんね、練習中に呼び出しちゃって。私達、ここの先生方に頼まれて、ある調べものをしてるんだ。あなたにも、ちょっと聞きたいことがあって、いいかな」

 先程から部長は、慣れている様子で生徒達に聞き込み調査をしていた。ここでも、まず相手の緊張を解くような優しい口調である。しかし、女子生徒の方はというと、まだ警戒心を解いてはいないようだった。どうやら、この子は今までの生徒と比べても、人を疑いやすい性格のように思えた。

 僕も、先程からそうしているようにメモ帳を取り出して、証言を書き記す。

 ――部長の巧みな誘導によって、彼女がチェーンメールを最初に流した人物であると特定することができたのだった。

「私、中学の時いじめられてて不登校だったんです。だから、家から離れた高校に入学して、人生やり直そうと思ったんです。こうして運動部にも入って、友達もいっぱいつくって……。でも――無理だった」

 彼女が泣きながら絞り出すように話す様子を、部長は黙って頷きながら聞いていた。その眼差しは、優しく慈愛に満ちているように見えた。

「そんな時、アプリである動画が回ってきたんです」

 最初彼女の元に送られてきたのは、メールのような文章の形ではなく動画であったらしい。彼女の言ったアプリというのは、最近若い子の間で流行っている、ショート動画を閲覧投稿できるものだった。流行りなんかに疎い僕は、そのアプリを使用したことはなかったが、存在くらいは知っていた。一方の部長は詳しいようで、その動画の詳細について質問する。

「その動画って、今もすぐ見れるかな? ブックマークかなんかしてればいいんだけど」

 女子生徒は、部室にスマホを取りに行き、その映像を見せてくれた。そこでは――、

 女子高生と思われる人物が、例のチェーンメールの文章を読み上げ、拡散するように促している。顔は画面外に出ているため確認できないが、制服姿とその声色から察するに、この女子生徒と同じ歳くらいの子と思われる。画面の横隅に表示された数字から察するに、まだそこまで閲覧されている動画のようではなかった。

「これは――」

 犬養部長はそう云って、僕の顔を見る。

 僕も彼女の顔を見て、頷く。

 これは――怪異の仕業だ。

 根拠なんてものはない。けれど、この感じ、この雰囲気は、あの夏の時と同じだ。第一、怪異に根拠も理屈もありはしない。これは、()()()()()()なんだ。

「ご、ごめんなさい……。私、まさかこんな大事になるなんて思ってなくて……。最初は、みんな不幸になっちゃえって思ってた。でも、今は後悔してる。だって、これじゃあ――」

 友達できないよ、と女子生徒はまた泣きながら震える声で云った。

「大丈夫、お姉さん達に任せて。この学校を必ず元通りにするから。そしたら、あなたもきっと友達ができるわ」

 部長はそう云って、彼女を慰めると、自分のスマホを取り出して何やら説明しているようだった。

 しばらくして、僕の方に振り向き直った犬養部長は――、

「よし、それじゃあ、妖怪退治と行こうか」と云った。

 陽は既に傾いており、グランドには真っ赤な夕日が射し込んでいた。


 ――学校側に許可を取って、待つことになった。

 「チェーンメールの怪」こと、菊池彩音を。

 犬養部長に既に送られてきていたメールの期限は、丁度今日であった。即ち、今晩、彼女はやってくる。友達を求めて、遊び相手を求めて――。

「あの、僕はどうすればいいんでしょうか。彼女、菊池彩音が現れてから……」

 と質問しつつ、僕はまだ半信半疑だった。本当に彼女が出現するのかどうかまだ疑わしければ、当初聞いていた話とは違う、妖怪退治を行うようだし……。確かに、あの動画の()()()()()()だったのに加えて、チェーンメールに書かれていた約束の期日は今日で過ぎてしまう。だから、条件は整っているのだが……。

「うん、とりあえず見ててくれればいいよ。本当は、何件か依頼を熟した後の方がよかったんだけど、いきなり本物に出逢っちゃったね」

 以前部長が言っていたには、依頼の原因が実際に怪異によるものは多くないらしい。いわば、今回のような場合の方がレアケースなのだ。だから、本当に菊池彩音が現れるのだろうか、まだやっぱり信じ難い。

「出るよ。怪異は人間と違って、嘘をつかない。条件やルールには忠実なんだ。がんじがらめに縛られて身動きが取れないほどにね」

 彼女はそう云って、さっきコンビニで買ってきたホットドッグにかぶりついた。

 僕も、おにぎりを頬張る。朝早く聞き込みを開始し、昼食も食べる暇なく夕方になっていた。なるほど、夕方以降の仕事と言っていたが、それは怪異に出逢った際ということか。それに、今日の聞き取り調査を見るに、コミュニケーション能力も非常に重要な仕事だ。果たして、これから僕に務まるだろうか既に不安だった。

 今の時刻は、二十二時を少し過ぎた頃である。部活動をしていた生徒はおろか教員も誰も残っていない(教員の方は、僕達が何とか理由を作って強引にハケさせたのだが)。

「夜の校舎は、流石に雰囲気ありますね」

 一階の教室を借りて、夕食を摂っている僕達が出す物音の他には何も聞こえない。すぐ隣にある廊下の電気だって灯っていないから、ここだけが周りから取り残された異様な空間になっている。この教室から一歩でも踏み出せば、何が潜んでいるかわからない闇の中だ。「そうだね~。やっぱり学校ってのは、お化けの出やすい場所なんだよ。こんな狭くてつまらない場所に、多感な時期の子どもを毎日閉じ込めてるんだもん、そりゃあ怪異譚の一つや二つ生み出さないとやってらんないよね」

 辺りを静寂と闇が支配する中、部長はいつもの明るい調子で云った。場数を踏んでいるであろう彼女にとっては、慣れっこなのだろうか。それとも、部長はいつも大学内に住んでいるから、このシチュエーションに別に何とも感じていないのかもしれない。

「まぁ、私が大学内に潜む、お化けみたいなもんだしね。似た者同士、菊池彩音ちゃんとも是非友達になりたいよ」

 彼女は笑っていたが、その目はやはりどこか哀しそうだった。

「それにしても、こんな大都会の真ん中にもお化けが出るんですね」

 僕は、残ったおにぎりを口に含みながら云った。

「小野寺君、それは違うよ。むしろ都会だからだよ。そもそも人がいなければ、怪異だって生まれないんだ。だから、過疎化が進む田舎や地方なんかよりも、人口が集中する都市にこそ妖しいものは出現する。そして、ここは――」

 大都市、東京だよ、と犬養部長は云った。

「さらに、その中でも怪異譚が発生しやすい場所、その噂話が好きな人達の多く集まる場所こそが、ここ学校というわけ」

 ――主に、子どもや若い女性を中心として語られるという怪異譚。だったら、学校という場所は、化け物にとってこの上ない環境だ。

 ホットドッグを食べ終わった彼女は、カフェオレを一口飲んだ。

 僕もそれを見て、エナジードリンクを口にする。これから夜の長期戦に向けて、二人ともカフェインを注入したのだ。でも、夜が更けるにつれて疲労感が抜けていき、目も冴え、身体に力が漲るのを感じている。これは、部長も同じことだろう。もちろん、カフェインや糖分のせいではない。

 そう、僕達も化け物なのだ。

 ――やっぱり、もうこの学校に人間はいなかった。



「部長、すいません。ちょっと、トイレに行ってきます」

 不肖にも、カフェインを取り過ぎてしまったようだ。

「ん、行っトイレ」

 犬養部長は、退屈そうにスマホを弄りながら返事をした。

 どうでもいいことだが、僕と彼女は特に会話らしい会話をすることもなく時間が過ぎるのを待っていた。その間、お互いスマホを特に何か見るでもなく、眺めていた。

 菊池彩音の脅迫メールに書かれていた「PAmwーB38」とかいう機械――否、怪異は、その内容にある種の現実味を帯びさせるための装置だろうと思っていたが、なるほど現代人にとってその効果は絶大であろう。

 特に若者――僕も部長もスマホを手で弄んでなければ、落ち着かないのだ。だから、スマホから位置情報を特定するという怪異は、より恐ろしい存在へと成り得る。

 教室から廊下に出ると、やはり辺りは真っ暗闇だった。僕はその体質上、夜目が効くのだが、それでもこの暗さは神経をざわつかせる。夜の学校は、まるで異世界のようだった。昼間は人々が賑やかに生活している場とは思えないほどの不気味な空間だ。

 トイレは僕達がいる教室から真反対の方にあるから、長い廊下を渡り切らないと辿り着くことができない。僕は、目の前にぽっかりと空いている異界への入り口に足を踏み出した。

 闇と静寂が支配する空間で、僕のスリッパの足音だけが虚しく響き渡る。自然と次の足を踏み出すのが遅くなる。

 ――僕は、またもあの夏の日を思い出していた。

 やっとトイレに辿り着いた僕は、素早く用を済ます。電灯を点けたといっても、廊下より増してトイレも中々に雰囲気がある。

 なるほど、部長が言った通り、学校というのは妖怪変化が生まれる絶好のシチュエーションだ。学校の怪談に、学校の七不思議。光が世の中を支配した現代において、闇がなお残る数少ない空間。心の中に闇を抱える、思春期の人間が数多く暮らす空間。

 そう、昼間の女子生徒も心に大きな闇を抱えていた。あの子が他の生徒と比べて特別だったわけではない。あのくらいの年頃の人間は、特に闇を生みやすいのだ。今回に限っては偶然、彼女がきっかけとなっただけなのだ。

 ――だから、彼女でなければならない必然性はない。あるのは、()()()()()()()()()()()()()()()()なのだ。

 僕は手を洗い、電気を消し、廊下へと出る。――その瞬間、

 キーンコーン、カーンコーン。

 何故か、学校のチャイムが鳴り響いた。場違いではないが、時間違いではある怪音に、胸が跳ねる。つい最近まで聞き慣れていたその音が、いやに不気味に聞こえた。辺りが無音な分、空間全体に響き渡っているようだ。僕は、反射的に腕時計を確認する。

 時刻は、丁度零時を示していた。

 そうして、顔を上げた僕の目の前に、

「だ、大丈夫ですか!? 部長」

 犬養部長が教室から吹き飛ばされるような形で、廊下の壁に激突した。幸い、シロとクロが彼女をサンドする形で緩衝材となっている。

「痛ったあ……」

 しかし、その衝撃は強かったようで、立ち上がれずにいる。一体何が起きたというのだ。僕は、急いで彼女の元に駆け寄る。

「小野寺君! 来ちゃダメ」

 部長の制止によって、僕は反射的に立ち止まる。それとほとんど同時に、教室から漏れ出ていた唯一の光が途絶える。異空間は、完全な真っ暗闇となった。廊下の窓からは、月の光すら射し込んでいない。

 その窓は開いていないから、風だって吹き込んでこない――なのに、生暖かい風が吹いた。

 そして、僕は、彼女――菊池彩音と出逢った。

 両親から虐待を受け、クラスメイトからいじめられた末、殺された少女。

 死して恨みを晴らすため、あの世から舞い戻った幽霊は、両親といじめていた男子を殺害した後、友達を求めて彷徨っている。

 生前通っていたであろう制服を身に付けた彼女の顔は、やはり添付画像で見た時と同じように特徴がない。何とも形容し難い、というか、上手く認識できない。

「お姉ちゃん、遊んでくれないの? お友達になってくれないの?」

 菊池彩音はそう云いながら、ゆっくり部長へと近づく。その腕には――人形らしきものを抱いている。

「やっぱり、私の友達は、メリーさんだけ……」

 菊池彩音はそう呟くと、手に持っていた幼女の髪を優しく撫でた。すると、「メリーさん」と呼ばれた人形の金髪が、みるみると伸びていく。

 その勢いのまま、威嚇するシロとクロを鎖のように拘束した。菊池彩音は、無防備になった部長へと襲い掛かる。

「きゃっ」

 彼女の短い悲鳴と共に、僕は走り出す。いくら部長の命令といっても、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 僕の、()()()は、菊池彩音の強襲するスピードより速かった。

「あ、ありがと、小野寺君」

 お姫様抱っこの形で部長を抱えながら、僕は下駄箱の方へとひた走る。

「いえ、今はお礼なんていいです。それより、あの少女は」

「うん。彼女がチェーンメールに書かれていた菊池彩音、ご本人だよ。でも――」

 思ったより、色んなものが巻きついていた、と犬養部長は微かに震える声で云った。

「色んなもの? ……ですか」

 しかし、僕の疑問は答えられることなく、その代わり――壁が突き破られる衝撃音が鳴り響いた。

「嘘だろ!? なんて馬鹿力だよ」

 菊池彩音は、昇降口へ向かうため廊下を走っていた僕達に先回りする形で、強引にショートカットしてきたのだ。

 目の前に立ち塞がる理不尽な存在に、自然と僕の脚が震える。

「小野寺君、私を降ろして」

「で、でも……」

「大丈夫、私に考えがあるから」

 ここは、場数を踏んできたであろう先輩の言うことに従うしかない。僕は、彼女をゆっくりと降ろす。

 しかし、菊池彩音の方は、悠長に待ってはくれない。先程の人形が――よく見ると、どこかで見覚えのある青い目をした西洋人形だった――再び金髪の髪を伸ばして襲ってくる。

「シロ、クロ」

 犬養部長が短く云うと、両手から二匹の大型犬が飛び出した。勢いそのまま、襲い掛かる髪の毛を嚙み千切ると、僕達をそれぞれ背中に乗せて走り出す。

 近くの二階へと続く階段を駆け上がり、最上階へと向かった。その間、僕は振り落とされないよう必死にしがみついていた。

「とりあえず、体勢を立て直しましょ」

 犬養部長はそう云って、再度両手をかざした。その中に、ここまで運んでくれたシロとクロがまるで水のように吸い込まれていく。

 どうやら、二匹の犬は彼女の体内で飼われているらしく、出し入れ自在なのだろう。それ故、先程の髪の毛による拘束も抜け出せたのだ。

「小野寺君は、大丈夫だった? 怪我とかしてない?」

 部長はいつもと同じ調子で、明るく云った。こんな時にも他人の心配を優先するのだ、この人は。最初に襲われ、吹き飛ばされたのは自分だというのに。

「僕は、大丈夫です。それより、自身の安全を優先してください」

 そう、僕は大丈夫なのだ。僕の肉体は、多少の怪我など瞬時に回復する。

「うん、ありがとね。私も大丈夫だよ」

 努めて元気そうに振舞った彼女だが、明らかに顔色も悪く、さっきから声も微かに震えている。

 見たところ外部の方に目立った傷はないが、あれだけ強く吹き飛ばされたのだ、どこか内部に怪我を負っているのかもしれない。

「ごめんね、初めての仕事がこんな大掛かりで……。私、先輩として情けないな」

「そ、そんなことないです。それより、今はこの状況を打破することを考えましょう」

 しかし、部長がここまでの誤算をするとは考えにくい。聡明で経験もある彼女が、見るからに予想外の事態であることを示し、疲弊している。

 ――僕は、さっき聞いた台詞がずっと気になっていた。「色んなものが巻きついていた」とは、どういうことだろうか。

「……う、うん、それなんだけどね。私としたことが見くびっちゃってたよ、彼女の――闇の深さを」

「闇、ですか」

「彼女、菊池彩音は、私の予想以上に多くの怪異が巻きついた存在だった。菊池彩音という怪異を主軸に、()()()()()()()()()の怪異までも絡まっている。あのチェーンメールの文章からは、せいぜいPAmwーB38くらいしか把握できなかったけど……」

 もしかしたら、まだ怪異が絡みついている可能性も、と犬養部長はやはり振動する声で云った。

 なるほど、それこそ彼女の誤算だったのだ。より多くの怪異が複雑に絡まった存在。ただでさえ、理不尽で意味不明な怪異が、より混沌とした存在へとなっていたのだ。

 部長の口振りから察するに、やはりこれもレアケースであると考えられる。僕の初仕事は、とんでもない外れくじを引かされたようだ。

 ――ぼたっ、べちゃっ、と鈍い音が聞こえた。

「ぶ、部長?」

 音のした方に目を遣ると、彼女が嘔吐していた。

「えへへ……さっきせっかく食べたのに、吐いちゃった……」

 なおも明るく努めようとする彼女に、僕は哀しくなると同時に、怒りも覚えた。

「シロとクロを無理に遣い過ぎちゃったみたい……」

 そう云って無理に微笑む彼女の目は、涙を堪えて赤く充血していた。

 多分、これが彼女に課せられた――もう一つの呪いなのだろう。

 何で部長みたいないい人が、こんな仕打ちを受けなければいけないんだ。僕は、激しい憤りをその身へ静かに感じ堪えていた。

「ママー、ママー」

 射すような視線、泣きながらそう呼ぶ声、廊下をペタペタと歩く小さな足音――が同時に襲ってきた。

 僕は、座り込む部長の前に立ち、声のした背後の暗闇を見る。

 そこには、「青い目の西洋人形」が立っていた。

「私、メリー。今、あなたの後ろにいるの」

 菊池彩音の元から離れ、独りでに暗闇から現れた不気味な人形は、その青い目から赤い涙を流している。再び「ママー、ママー」と繰り返しながら、こちらに小さな歩幅で、しかし確実に近づいてくる。

 僕は、その異様な姿の人形をどこで見たのか思い出した。あれは、僕が通っていた小学校にもあった西洋人形だ。確か、戦前アメリカから友好の品として日本の全国の学校に配られたという。その名前は、メリーさん、だった。

 メリーさんは、僕達目がけて髪の毛を伸ばす。僕は、部長を抱き抱えると、反対側の暗闇へと走り出す――が、そこには、菊池彩音が立っていた。

 ――くそ、挟まれた。どうする、どうする、どうする。

「ご、ごめんね……小野寺君の服に付いちゃった……汚いよね、ごめんね、ごめんね……」

 僕の怒りは、爆発した。

「犬養部長! 今そんなこと言ってる場合じゃないです! いい加減、僕を頼ってください。自分が辛い時に、素直に人に助けを求めてください。だって、僕は、あなたの――」

 友達じゃないですか、とは言えなかった。

 ――素直に人に助けを求めて、か。それは、僕が自分自身に言っている言葉でもあった。

 廊下や僕の服に付着した吐瀉物が蒸発するように、跡形もなく消えていく。彼女の体内を経由した物体は、もうこの世のものではないのだ。それがまた哀しさを覚えさせる。

「お兄ちゃんは、私のお友達になってくれるの?」

 そう云いながら近づいてくる菊池彩音を、突如窓からスポットライトのような光が照らした。

 僕は、その光を見て閃く。ここは、四階だ。でも、僕は、人間ではない。

 飛び上がり、自身の背中を廊下の窓へと勢いよく突っ込ませる。ガラスの弾ける音が響き渡り、部長を抱き抱えた僕は、天空を舞う。

 ――闇夜には、妖艶に輝く真っ青な満月が浮かんでいた。


 広いグランドへと降り立った僕は、部長を隅にある水道へと運ぶ。

「小野寺君、ごめ……ありがとね」

 そう云って犬養部長は、蛇口をひねり、水で口をゆすいだ。

 月光に照らし出された彼女の顔は、青白かった。その様子だけで、もう彼女が限界に近いことを確信させる。

 ――僕が、やるしかない。

 僕は、部長をその場に座らせると、ビルに囲まれた都内の学校らしく、高いフェンスで囲まれたグランドの真ん中へと歩いていった。

「小野寺君、どうするの……」

 彼女の心配そうな声が背後から聞こえたが、それに答えることはしなかった。

 校庭の中央から、僕が飛び降りた校舎の窓を見上げる。そこには同じように、僕を見下ろす菊池彩音が立っていた。

 彼女は、校舎の壁ごと破壊して、瓦礫と共に僕の目の前へと降ってくる。

「お兄ちゃんは、遊んでくれるの? お友達になってくれるの?」

「ごめん、彩音ちゃん。それは――できない」

 僕は、きっぱりと断った。

 だって、僕は――友達なんかいらない。

「え??? なんでなんでなんで。あなたも私をいじめるの??? なんでなんでなんで。私悪い事なんて何もしてないのに??? ただお友達が欲しかっただけなのに」


なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで


 そう大声で無限に繰り返す彼女。親から虐待された彼女。クラスメイトからいじめられた彼女。そうして、殺された彼女。なのに、人を求める、人と繋がろうとする、人と友達になろうとする。

 僕には、その気持ちが心底――、

「気持ち悪いんだよ! お前は」

 そう叫んだ僕の四肢は、グランドに虚しく転がっていた。

「は」

 何が起こったか、わからなかった。人形のように地面へ仰向けに倒れ込んだ僕の視界に、青白く光る月が見えた。その瞬間、

「ぎゃああああああ」

 あまりの激痛に、耳障りな断末魔を上げる僕。

 砂の上には、僕のものと思われる大量の血液が散らばっている。その上に、僕はプカプカと浮いていたのだ。

 僕の両目に、月ではなく、菊池彩音の、人差し指と中指が映った。反射的に、目をつむる。反射的に、()()を振り上げ、彼女の胴体を蹴飛ばす。

 その勢いで立ち上がると、距離を取るため、()()を振って走り出す。

 ――痛みも、四肢も、血液も、全て元通りになっていた。

 僕は、鬼は鬼でも――、

 「天邪鬼(あまのじゃく)」だ。

 青い目をした西洋人形の金髪が無数に枝分かれして、僕を捕えようと追いかけ回す。広大な校庭を縦横無尽に走りながら、それを避ける。

 ――ボール?

 夥しい毛束から逃げる僕の目に、一つの丸い球が映った。咄嗟に避けたが、肩口に当たり、そのまま貫通する。そうして、痛みで怯んだ僕の目の前には――、

 髪の毛同様、無数のボールが映った。

 それに被弾した僕の身体は、穴だらけになる。否、目も貫通しているから、それを視認することはできない。

 運よく残った片耳が、近づいてくる菊池彩音の足音を知らせる。部長の危惧通り、彼女は()()()()()()()を絡みつかせているようだった。

「お兄ちゃん、もうお終い??? もっと遊んでよ??? 遊んで遊んで遊んで」


遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで遊んで


 徐々に回復しつつある僕の身体に、人形の髪の毛が絡みつく。

 そうして持ち上げられた僕を、拘束するように縛り上げる。

 鎖のように縛られた僕を搾り取るように、強く巻きつける。

 僕の身体は、雑巾のように捻り上げられ、ぐちゃぐちゃになる。

 その度に、ぼたっ、べちゃっ、と血が地面に落ちる鈍い音が聞こえる。

 喉を潰されている僕は、先程のように断末魔を上げることすらできない。

 再生しては縛り上げられ、再生しては縛り上げられ、再生しては縛り上げられ、再生しては縛り上げられ、再生しては縛り上げられ――、

 もう、再生しないでくれ。

 もう――殺してくれ。

 しかし、そんな僕の心とは裏腹に、体は律儀に回復し、その度に破壊される。

 もちろん、痛覚も回復される。

 僕は、何とか回復した霞む目で、菊池彩音を見る。

 彼女は――笑っていた。

 楽しんでいるのだ。

 僕は、恐怖した。あの夏の日と同じように。

 僕は、忘れていたのだ。

 これが、怪異。

 この理不尽で意味不明な存在こそが、怪異。

 そう思い出してからは早かった。僕の精神を、恐怖、というただ一つの感情が支配するのは。

 義務だとか恩返しだとか、今やそんなことはどうだっていい。

 僕は、後悔と絶望した。

 軽い気持ちで関わった僕を、僕は強く呪った。

 ――混濁する意識に、一つの文字だけが鮮明に浮かぶ。

 

 死。

 

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 楽し気な笑い声が、長く連なるように夜の学校へ響く。

 縛り上げる速度が、再生速度を上回る。

 もう恐怖すら感じなくなっていた。

 いよいよ、この地獄のような円環から抜け出せるのだ。

 そうして、意識が途絶えようとした時、僕の残った身体が立つように地面へと落ちた。

 回復した両目には、犬養部長の姿が見えた。

 その背中には、白と黒の翼が生えていた。空高く飛び上がったその羽が、月明かりに照らされて透けるように輝いていた。

 ――美しい。ただ、純粋に、そう思った。

 その胸には、菊池彩音を抱き抱えている。

 また背後に視線を感じ、振り向くと、シロとクロがボロボロになりながら、青い目の西洋人形をボロボロに噛み千切っていた。

 ――じゃあ、この視線は、誰だ?

 二匹は、人形を不味そうに吐き捨てると、飛んでいる天使の両手へと吸い込まれていった。

「やっぱり、お姉ちゃんが遊んでくれるの?」

 菊池彩音の無邪気で嬉しそうな声が、天空から聞こえる。

 その瞬間、大量の真っ赤な血が、まるで原色の絵具を撒き散らしたかのように大地へと落ちた。

 これまた月光に照らし出されて、鮮やかに輝いていた。

 僕は、夜空を見上げる。

 左脚をもぎり取られた天使は、勢いよく菊池彩音を校舎の方へと投げ飛ばした。

 そして、力尽きたように、僕の目の前へと――堕天した。

「ぶ、部長……!」

「い、言ったでしょ、私は、天狗だって……」

 その顔は、さっきとは比べ物にならないくらい青白かった。もぎり取られた左脚からは、まだ血がドクドクと流れ出ていた。

「そ、そんなことより……い、今は……」

 犬養部長の身体は、僕と違って、全く再生していなかった。

 こんな大量の血を流してしまったら、部長は部長は部長は――、

「お、小野寺君……私ね、さっきの言葉すっごく嬉しかった……今まであんなこと言われたことなかったから……だから、あの子――彩音ちゃんも、同じように救ってあげて……私にしてくれたように、優しい言葉をかけてあげて……」

 それじゃ、よろしくね、と犬養部長は云って、僕の頭を右手で撫でた。

 それは、いつもシロとクロにしているような、優しく慈愛に満ちた手つきだった。

 ――彼女は、その場に、倒れた。

「うわああああああ」

 叫び声を上げる僕の身体は、彼女とは反対に、何事もなかったように、元通りだった。



 彼女は、犬養部長は、こんなところで死んでいい人じゃなかった。

 お前みたいな、意味不明な存在に殺されていい人じゃなかった。

 彼女は、自らの短い生命を受け入れ、その中で多くの人を救おうとしていた。

 僕も、その内の一人だった。

 彼女こそ、一番に救済されるべき人だった。

 なのに、なのに、なのに――。

 お前を殺してやる。

 お前さえいなければ。

 違う。

 僕だ。

 僕を殺してやる。

 僕さえいなければ。

 僕が、部長と友達になってしまったばっかりに。

 僕は、人と関わるべきではなかったんだ。

 一人でいるべきだったんだ。

 くそ。くそ。くそ。

 僕の精神は、怒りというただ一つの感情によって支配されていた。

 その矛先は――。

 僕は、校舎に埋まる菊池彩音を殴り続ける。

 校舎の壁が、ガラガラと音を立てながら崩壊していく。

「お兄ちゃん、楽しいね。やっと、お友達になってくれるんだ」

 菊池彩音が、僕をグランドへと殴り飛ばす。

 殴られた箇所の骨が粉砕するほどの威力だったが、痛みを感じる間もなく、再生する。

 またも無数のボールが僕に襲い掛かる。しかし、もう僕はそれを避けようとはしない。

 当たったそばから回復していく身体を目一杯動かして、菊池彩音に向かう。

 今度は、彼女自身の真っ黒な髪が夥しい長さになって迫りくる。

 僕は、それを両手で引きち千切りながら進む。

「お兄ちゃん、もっと遊ぼ、もっと遊ぼ、もっと遊ぼ――」

 菊池彩音は、楽しそうに笑いながら僕の方へと近づいてくる。

 お互い歩み寄り、相対した僕達は殴り合う。

 彼女は、いつの間にか手に持っていたナイフで僕の手首を切り落とす。僕は切り落とされた腕で――まだ再生もしないまま――殴る。

 鬼の手で、鬼の腕力で、少女を殴る。

 少女も負けじと、僕の両脚をもぎり取る。両目を指で突いて、潰す。楽しそうに、笑う。

 そうした何の意味もない、無駄で虚しいやり取りが永遠の如く続いた。

 僕達二人は、この輪廻から抜け出せないのかもしれない。

 ――彩音ちゃんも、同じように救ってあげて。

 僕は、鬼の手で殴っている少女の顔を見た。

 その目からは、透明な涙を流していた。

 黒々とした、艶のある綺麗な目だった。

 初めて、彼女の顔の特徴を認識できた。

 彼女は、両親とクラスメイトによって、その目を潰されたという。

「お兄ちゃん、遊んで。お友達になって」

 さっきから壊れたロボットのように、ただそう繰り返している。

 ――犬養部長が言っていた。怪異というのは、人々の闇の感情による集合体のようなものだと。だから、菊池彩音という少女が実在して、それが怪異と化したわけではない。現実に生きている人間の、負の感情が寄り集まって生まれた存在。今回の場合は、虐待された人間、いじめられた人間の憎しみや恨みが募ったものであると――。

 だったら――。

「君は、敵なんかじゃない、じゃないか」

 じゃあ、この世の敵ってなんだ。悪ってなんだ。

 僕には、わからない。

 僕に、できることは――。

「僕、小野寺真榎は、君、菊池彩音と友達になる。いくらでも、遊ぼう。気が済むまで遊ぼう。だから――」

 もう、泣かないでくれ。

 僕は、彩音ちゃんを抱きしめた。人の両腕で。

 そう、この子は、誰かに抱きしめてほしかったんだ。

 僕と、同じように――。

「真榎お兄ちゃん、ありがと」

 少女はそう云って、可愛らしい顔で微笑んだ。

 そして、僕の胸の中で、闇夜に溶けてなくなった。



 見慣れた天井。目を覚ました僕の目に飛び込んできたのは、毎日見ていたそれだった。

 しかし、耳から聞こえてくる音や鼻から入ってくる匂いは、慣れないものだった。

 「ジュー、ジュー」と、フライパンで何かを焼く音だろうか。香ばしい好い匂いが、部屋の中に充満している。

 そこで、僕はようやく気づく。目は開いていたが、意識の方はまだ朦朧としていたのだ。ただ聴覚と嗅覚だけが働いていただけなのだ。――誰かいる。

 寝ている間に、僕一人暮らしの部屋に誰かが侵入して、さらに料理までしているようだ。

 この異常事態に起きたばかりの脳は混乱し、恐怖という感情が襲ってくる。

 僕は、恐る恐る上半身を起こし、キッチンの方を確認する。その視覚には――、

「やっほ~、小野寺君。ごめんね、起こしちゃったか」

 犬養部長の姿が映った。

「お、おはようございます……。もう身体の方は、大丈夫なんですか……」

 やっと覚醒した僕は、思い出すように振り返る。

 あの後――菊池彩音が消えてなくなった後、僕は部長の元へと向かった。

 見たくない現実を見るため、起きてしまったことを受け止めるため――死んでしまった彼女を連れ帰るため。

 しかし、彼女のもぎり取られたはずの左脚は、何事もなかったように、きれいさっぱり元通りになっていた。校庭に飛び散った大量の血液も蒸発したように、跡形もなく消えていた。一瞬だけ意識も回復した部長は、

「そんな簡単に死ねたら、苦労しないよ」

 と云って、また気を失った。

「ごめんね~、勝手に冷蔵庫の材料使っちゃった。この分は、後で今回のお給料に上乗せしとくね」

 犬養部長はそう云って、テーブルにお皿を乗せた。

 そこには、ケチャップがたっぷりかかった、ソーセージとレタスの挟まるホットドッグが二つ乗っていた。

 僕は、ソファから身体を起こす。スマホを確認すると、もうお昼前だった。目覚ましもかけず寝てしまっていたのだが、今日は日曜日なので特に問題はない。

「よいしょっと。さっ、食べよ食べよ」

 部長は、僕の隣に座った。

 ギリギリ二人座れるくらいの小さなソファだから、かなり狭い。彼女の右腕と僕の左腕が当たるくらいには。

 部長は、髪の毛をポニーテールに結んでいた。その長い髪からは、嗅ぎ慣れた匂いが静かに香ってくる。服装は、昨日と同じ長いワンピースを着ている。

「いただきま~す……」と云って、ホットドッグを咥えようとする彼女の横顔を僕は、無意識に眺めていた。

 部長は、その視線に気がつくと、

「てか、小野寺君。私起きた時、ワンピースはともかく、下着までズレてたんだけど。……こうやって、部屋にまで連れ込んじゃってさ」

 何かしてないよね? と意地悪そうなからかう目で云った。

 そんな黒くて艶のある目と至近距離で合ってしまった僕は、咄嗟に顔を背ける。

 気を失った部長をどうしようかと迷った僕は、自宅へ連れ帰ったのだ。真夜中だから、他の部員に連絡することも、大学内に入ることも許されなかったから仕方がなかった、と思う。

 その際に、彼女を僕の天邪鬼の能力によって、少し年齢を下げた。もちろん体力や筋力的には何の問題もないのだが、女性とはいえ、大人一人を抱えては歩きづらいと思ったのだ。とにかく、そんな理由で真夜中に少女を抱き抱えて歩く僕は、警察に補導もしくは通報されないよう祈るばかりだった。

 そうして部長を無事運び終えた僕は、年齢を元に戻すと、軽く髪や服に付着した砂を払い落して、ベッドへと寝かした。

 だから多分、その年齢操作の際に衣服がズレてしまったのだ。

「い、いえ、もちろん何もしてません! す、すいません、勝手に家へ連れてきたりしてしまい……」

 僕は、顔を背けたまま、挙動不審に云った。

「嘘だよっ! 冗談冗談」

 犬養部長は、楽しそうに笑いながら云った。続けて、

「色々ありがとね。本当に助かったよ」

 紳士な小野寺君、と云った。

 その言葉を受けて僕は、ようやく彼女の方に向き直る。部長は、美味しそうに口一杯ホットドッグを頬張っていた。僕もそれを見て、頂くことにした。

「てか、謝るのは、私の方だよね。ごめんなさい、小野寺君」

 犬養部長は、さっきまでとは打って変わって深刻そうに云った。

「いえ、部長が無事で本当によかったです」

 それは、当然心の底から出た本音だった。でも――。

「もう、辞めたくなっちゃったよね。初めての依頼でこんなに迷惑かけちゃって、怖い思いまでさせちゃって。小野寺君がいなかったら、それこそ私――」

 死んじゃってたよ、と部長は静かに呟くよう云った。

 そう、彼女の言う通りで、僕はこの活動及び仕事を続ける自信を完全に失っていた。

 しかし、今回のケースが異例だったであろうことは、十分に承知している。経験豊富な彼女にとっても、予想外の不測な事態が起きたのだ。僕は、そのことがずっと気になっていた。

「うん。前にも言ったけど、私達は、あくまで怪異の噂の真偽を調査するだけで、その対処は基本的にはしないの。でも、その境界も今や曖昧で、対処する場合も少なくなくなってきてた。だから、今回も大丈夫だと高を括ってた、油断してた。それに――」

 丁度期限切れだったのだ。部長に送られてきていたチェーンメールの発動は、学校で聞き取り調査を行った次の日に予定されていた。そして、ルール通り、菊池彩音は日付が変わると同時に出現した。

「彼女は、複数の別の怪異が絡みついた存在だったんですよね? だから、あんな出鱈目な能力を……」

「そうだね、そこが私の読み違いだった。チェーンメールの文章からも他の怪異と混ざり合ってるのは、わかっていた。それに、それ自体は特別珍しいことではないの。同じような怪異が混同され、いつの間にか同じものとされていたり、人々の間で噂される過程で尾ひれがどんどん付いて複雑化していったり、そこからまた別の怪異が生まれたり。でも、今回の菊池彩音は――」

 ()()()()()()()()、されていたように思う、と部長はお皿の上へ食べかけのホットドッグを置きながら云った。

「それはつまり、誰かが明確な意思を持って、怪異を創造したってことですか」

 そんなことがあり得るのか? というか可能なのか? 今部長も言ったように、妖怪変化というものは、色々な人々の無意識によって無秩序に創り上げられていくものではなかったのか。

「もちろん、本当にそんなことが可能かどうかも、誰が何のためにやっているかもわからないけど、また今回と同じようなことが起きないとは限らない。だから、小野寺君……」

 部長は、言葉を詰まらせた。当然、続く言葉はわかっている。鈍い僕でも、それくらいのことはわかる。

 ――僕は、黙っていた。

 しばらく、二人の間に沈黙が続いた。

 半分だけ開かれたカーテンから、昼下がりの陽光が呑気に射し込んでいる。

「や、やっぱり、嫌だよね。ごめんね、無理言って……。今回の分は、しっかり振り込んでおくからさ……」

 犬養部長は、毎度のよう無理に明るく努めた口調で云った。

「月末には入金できると思うから、今回の報酬、三百万円」

「は」

 さ、三百万だって? ぼ、僕の聞き間違いか? 確かに、稼げるバイトがあるということで誘われたわけだが、あまりにも破格過ぎないか。否、下手したら死んでいた仕事だ。だから、別に高くはないのか、否むしろ安いのかもしれない。しかし、だからって……。

 部長は僕の疑問には反応せず、残ったホットドッグを食べ終わると、玄関の方へと歩いていった。

「それじゃあ、またいつか大学で」

 そう云って笑った彼女の顔は、哀しそうだった。

「やります」

「……え」

「僕は、このサークルを辞める気はありません」

 それは、報酬額を聞いたから――ではない。最初から決まっていたのだ。犬養部長の想いを聞かされた時から。

 僕は、彼女の願いを叶える一助となりたい。

 

「これからよろしくね、小野寺君」

 お邪魔しました、と犬養部長は笑顔で手を振って出ていった。

 それにしても、高校生まで孤独を貫き通してきた僕が、誰かの役に立ちたいと思う日が来るなんて。少し前までは想像もつかなかったことだ。僕は、部長と友達に――。

 僕は、彼女に頭を撫でられた時のことを思い出す。あの後から、自身の意思で幾分か()()()()()()()ようになっていた。

 「よろしく」か。

 そこでようやく理解して、笑った。

 僕は、犬養姫愛の友達ではなく――犬だった。

 スマホの着信音が鳴った。

 送り主はもちろん、御主人様である。


 このメールを受け取った人には、幸せが訪れます。

 二十四時間以内に、他の人へ送れば、その人にも幸せが訪れます。

 

「これは、()()()()()って言ってね、チェーンメールの始祖だって言われてるんだ。だからね、本来チェーンメールっていうのは、他人の幸福を願い、それを広めるものだったんだよ」

 

 なるほど、あの起点となった女子生徒に教えていたのは、これだったのか。よかった、もうあの高校は、あの子は、きっと大丈夫だろう。

 また着信音が鳴る。

 今度は、写真のようだ。

 そこには――、

 僕のTシャツと短パンを履いて、僕のベッドにぺたんと座る部長の姿が映っていた。

 スマホで自撮りをしているであろうその角度からは、顔は見えなかったが、黒くて艶のある濡れ髪が確認できた。露出している細い腕や脚は、青い血管が透き通っていて、美しかった。

「勝手にシャワー借りて、ごめんね。これは、諸々のお礼だよ」

 ――幸福の手紙の効果は、絶大のようだった。

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