08 夜のひととき
(この大きさなら密着して寝ることはないだろうし、大丈夫!)
大人が3人は余裕で寝られそうなほどにベッドは大きい。
クラリッサはこのベッドの広さを武器に今夜は眠ることとした。
「じゃあ、明かり消すよ」
そう言って、ヴェリオが指を振ると部屋に灯っていた魔法の明かりがすべて消える。
暗くなった部屋の中、ベッドの隅っこに体を滑り込ませたクラリッサはヴェリオに背を向けるようにして、横になった。
「クラリッサ」
暗がりの中、ヴェリオが声をかけてくる。
寝間着とシーツがこすれる衣擦れの音が聞こえてきたかと思うと、クラリッサは背後から抱き締められていた。
「な、何もしないって言ったじゃないですか!」
「何もしないよ。これ以上は。男にとって、これくらい何もしてないのと同じだよ。俺の我慢を褒め称えてもらってもいいくらいだね」
冗談めかして、そう言ったヴェリオが「クラリッサ」と途端に真面目な声で耳元で囁いてくる。
ゾクッと背筋を這うような感覚は初めて覚えたものだった。
「抱き締めといてなんだけど、クラリッサが本気でイヤなら俺は、自分の部屋のカウチに毛布を持っていって寝るよ。クラリッサに嫌われたくないからね。どうしてほしい?」
「そんなの……ズルいです」
この屋敷にあるものはすべてが上等品だ。
ヴェリオの部屋に入ったことはないが、きっと彼の部屋にあるカウチも高級品なのだろう。
だが、ベッドで寝るより、カウチで寝た方が寝心地がいいなんていうのはありえない話だ。
クラリッサが今ここでヴェリオを追い出せば、ヴェリオは寝心地の悪いだろうカウチで夜を明かすことになる。
しかも、一度拒否すれば一緒に寝ることに許可を出すタイミングも難しくなるだろう。
ヴェリオはきっとそれらすべてをわかった上で、クラリッサに決定権を渡してきている。
本当にズルいことこの上ない。
「一緒に寝ましょう。カウチなんかで寝ては、風邪を引いてしまうかもしれません」
「ありがとう。クラリッサは優しいなぁ」
「……本当にズルい人ですね」
後頭部に頬ずりされているのがわかって、くすぐったい。
クラリッサが不愉快を隠さずにヴェリオに文句を言うと、ヴェリオは「ごめん、ごめん」とクラリッサの髪をなでつけた。
「クラリッサには悪いことしたと思ってるよ。いきなり求婚して、外堀り埋めて、婚約しちゃったんだから。しかも、記憶喪失でバタバタしてる間にうちで引き取る約束まで取り付けちゃったし」
「本当ですよ。しかも、寝室が一緒だなんてとんでもない話です」
むすっとしながらクラリッサが言うと、ヴェリオは再び「ごめんね」と言って、クラリッサを抱く腕の力を強めた。
ヴェリオの体温がより近くに感じられて、胸がギュッと狭くなったような感覚に襲われる。
心臓が痛いほどに速まっていることが、ヴェリオに悟られないことだけを祈った。
「でも、一刻も早くクラリッサをあの家から連れ出してあげたかったんだ。うまくいってなかったんだろ? 両親との関係も、妹との仲も」
「……どうしてわかったんですか?」
マリアの悪評が広がらないように、クラリッサは社交界でいつも微笑みの仮面を被っていた。
どんなときでもにこにこして、優秀な妹に優しくされている出来損ないの姉を演じてきたのだ。
その演技は完璧だったはず。
なぜ社交界に参加する機会が少ないヴェリオが、ハニーベル家の家庭環境の悪さを知っているのだろうか。
クラリッサの疑問にヴェリオは「簡単だよ」と答えた。
「普通は記憶喪失になった娘の見舞いにも行かず、放置しておくわけないだろう。
それに、婚約をお願いしに行ったときのクラリッサの両親の態度は酷かったしね。
あと、『髪の毛にゴミがついてた』なんてド下手な嘘ついてクラリッサの髪の毛を引っ張ってるマリアを見たときに、手もあげられてたんだと確信したよ。
ハニーベル家からクラリッサを早く連れ出せてよかった」
あまりにも惨めで知られたくなかった事実だが、ヴェリオにはどうやら筒抜けらしい。
そしてヴェリオは、クラリッサが劣悪な環境にいることを察して救いだしてくれたのだ。
胸の奥がぽかぽかとあたたかい。
なぜか無意味に泣きそうになって、クラリッサは目もとを拭ってごまかした。
「つらかったでしょう? この家にはクラリッサをいじめる人も無視する人も誰もいない。安心して伸び伸びと生活していけばいいんだからね」
ヴェリオは優しくささやきながら、クラリッサの髪を指先で梳いてくれる。
その言葉が、指先が、すべてが心地よくて、クラリッサは瞼が重くなるのを感じた。
「ありがとうございます、ヴェリオ様」
「今日は引っ越したばかりでいろいろ疲れたでしょう? もう寝ていいんだよ。おやすみ、クラリッサ」
「おやすみなさい、ヴェリオ様」
こんなに密着していて寝られるものかと最初は思っていたクラリッサだったが、人のぬくもりとはこんなにも眠気を誘うものなのか。
髪を梳かれている内に、だんだんと体の緊張はほどけ、クラリッサは気が付けば眠ってしまっていた。
***
翌朝。
目覚めたクラリッサは、一瞬目の前の光景にギョッとしてしまった。
目の前にヴェリオの寝顔があったからだ。
長いまつげは頬に影を落とし、そのまつげ1本1も銀色なのだなとしげしげと観察してしまう。
顔のすべてのパーツが完璧な形をしており、整然と並べられているような、そんな美しい顔を見て、クラリッサは「綺麗だなぁ」とぼんやりと考える。
そして寝ぼけた頭が覚醒したところで、あまりの顔の距離の近さに気が付き、彼の腕からするりと抜けて、ベッドから出た。
「ん? ん~?」
クラリッサが抜け出したからだろうか。
ヴェリオがもぞもぞと手を動かして何かを探している。
クラリッサがその手に枕を抱かせてやると、ヴェリオは「違う」と呟いて、薄く目を開けた。
「おはようございます、ヴェリオ様」
「おはよう。まだ早いよ。もうちょっとゆっくり寝ようよ。俺、今日まで休みもらってるから、一緒にゴロゴロしよう」
クラリッサを捕まえようと伸びてくる長い腕をかわして、クラリッサは「ゴロゴロしません」とその誘いを拒否した。
「私は起きますが、ヴェリオ様が寝ていたいなら、どうぞごゆっくり寝ていてください。私は本が読みたいので、早起きさせていただきます!」
「あー、そう。じゃあ俺はひとりさみしくゴロゴロするよ」
眠たげな返事が返ってきて、ヴェリオは枕を抱き締めて目を閉じた。
クラリッサはそんなヴェリオを寝室に置いて、自室のドアを開ける。
持ってきていた荷物の中で一番多かったのは、恋愛小説だ。
両親はクラリッサを放置してはいたが、放置するなりに金は渡してくれていた。
マリアのように望めばなんでも与えられるということはなかったが、クラリッサが恋愛小説をたしなむには十分な金額のお金だ。
そのお金を使って購入した本を嬉々として読むこと数十分。
コンコン、と寝室側のドアが鳴った。
ヴェリオだろう。
「はい、どうされました?」
しおりを挟んだ本を机に置いて、立ち上がってヴェリオを出迎える。
ヴェリオは寝癖がついた頭をぽりぽり掻きながら、とんでもないことを言い出した。
「今日はいい天気だから、デートにでも行こうよ。クラリッサに似合うドレスを買いたいんだ」