05 引っ越し
いよいよ引っ越しの日の朝がやって来た。
クラリッサの荷物は極端に少ない。
めぼしいものは、すべてマリアが「ちょうだい!」と言って持って行ってしまったからだ。
ささやかな荷物は馬車に積むこむのにそんなに時間はかからなかった。
重たかったのは、クラリッサが愛読している恋愛小説たちくらいだろう。
あっという間に荷造りが終わり、クラリッサは侍女のユイネルと共に玄関ホールへと姿を現した。
事実上の嫁入りの日だというのに、身にまとっているのは藍色の地味なドレスである。
これ以上華やかな色のドレスをクラリッサは持っていなかった。
玄関ホールには使用人たちがパラパラと集まっているが、全員が揃っているわけではない。
あまりにもさみしい旅立ちだが、クラリッサらしいと言えばらしいだろう。
「みなさん、お世話になりました」
クラリッサは、ユイネルにしつけてもらった淑女の礼を取って、使用人達に今までの感謝を伝えて玄関の両開きのドアへと向かう。
控えていた使用人が扉を開けると、門の向こうには既に馬車が停まっていた。
クラリッサが一歩外に踏み出そうとした。
その瞬間、背後から「クラリッサ!」という鋭い声が飛んできた。
マリアである。
振り返ると、例の大階段をマリアがゆったりとした足取りで降りてきていた。
「本当にヴェリオ様のもとへ嫁ぐ気なのね?」
玄関ホールに降り立ったマリアは、クラリッサの目の前まで歩み寄ってくる。
クラリッサは微笑んで「ええ」とうなずいた。
本当は嫁ぎたくなんかなかったが、ここまで外堀を固められては嫁ぐ以外に道はないだろう。
マリアはクラリッサの返事が気に食わなかったのだろう。
クラリッサが胸に垂らしていた髪をいきなりつかみ、ぐっと力任せに引っ張った。
「痛い……!」
「どうしてあのとき死ななかったのよ! 自分が邪魔な存在だってわからないの!?」
頭皮が引っ張られる痛みの中、クラリッサは「ごめんね」とマリアに謝る。
痛みで滲んだ涙を流さなかったのは、泣けばマリアが余計に怒るとわかっているからだ。
マリアがこうなってしまったら嵐が過ぎ去るのを待つように、じっと耐えるしかない。
幼い頃からの経験則で唇を噛んで耐えていると、まだ何事かギャンギャンと文句を言っているマリアとクラリッサに影がさした。
「何をされているのですか?」
髪を引っ張られたまま、声の方を見ると、そこにはなぜかヴェリオが立っていた。
白銀の瞳には、今まで見たことのない鋭い光が宿っている。
「ヴェ、ヴェリオ様!?」
慌てた様子でクラリッサの髪を離したマリアが一歩二歩と後ずさると、その間にヴェリオが体を滑り込ませる。
クラリッサを背中に庇うように立ったヴェリオはマリアを睨み付けていた。
「私は、何をされていたのかお訊ねしているのです」
「それは……、クラリッサの髪にゴミがついていたから取ってあげていただけですわ! そうよね、クラリッサ!」
ヴェリオの体の横から顔を出し、笑顔で同意を求めてくるマリアに、クラリッサは「ええ、そうね」とうなずいた。
ここでヴェリオに泣きつくのは、あまりにもみじめだったからだ。
ヴェリオはクラリッサを振り返ってひとつため息をこぼすと、クラリッサの隣に立って肩を抱いてくる。
触れあった体のぬくもりにほっとしてしまった。
「妻になる女性を迎えに来ただけなので、これにて失礼させていただきます」
「お、お待ちください、ヴェリオ様!」
クラリッサの肩を抱き、そのまま馬車へと行こうとしていたヴェリオに、マリアがすがるような声をあげる。
ヴェリオが立ち止まって振り返ると、マリアは泣きそうな表情をしていた。
「どうして、クラリッサがいいんですの? 私ではいけませんの? クラリッサは魔力もないのですよ。しかも記憶も失っています。そんな嫁、足手まといにしか――」
「口を閉じてください。これ以上クラリッサを侮辱するのであれば、例え義妹になるマリア様とはいえ、許しません」
ヴェリオの言葉にマリアがうつむく。
そんなマリアに対してトドメを刺すようにヴェリオはバッサリと言い捨てた。
「私はクラリッサ以外と結婚する気はありません。マリア様と結婚することはありえませんので」
「それでは失礼いたします」と再度別れを告げたヴェリオに連れられて、クラリッサは馬車の前までやってくる。
玄関の方を見やると、使用人が両開きの扉を閉める向こう側で、マリアが泣いているのが見えた。
ヴェリオはやや不機嫌な様子ではあったが、馬車に乗るクラリッサをエスコートする手は優しい。
馬車に乗り込むと、やはりヴェリオはクラリッサの前ではなく隣に腰掛けた。
「嘘つき姉妹め」
馬車が出発すると共に、ヴェリオがこちらをじとりと睨んで言ってくる。
一瞬、記憶喪失の嘘がバレたのかと思ったが、ヴェリオが言っているのは「髪の毛にゴミがついていた」というくだりだろう。
クラリッサが苦笑をこぼすと、ヴェリオはクラリッサの頭を優しく撫でた。
「大丈夫だった? 痛かったでしょう?」
ヴェリオの大きな手で撫でられると、じりじりとした痛みが和らいでいくのを感じる。
馬車の心地よい揺れもあり、眠たくなってしまいそうだったクラリッサは「大丈夫です」と言って、ヴェリオから身を離した。
「ヴェリオ様はどうしてこちらに? 屋敷で待っていてくださるものかと思っておりました」
「待ちきれなくてね。休暇もとってヒマだったし、サプライズで迎えに行こうと思って」
あからさまに話題を変えたのだが、ヴェリオは乗ってくれた。
にこやかに話すヴェリオには、もう不機嫌さは見られない。
そのことにほっと安堵する。
「お迎えがなくとも、私はひとりで屋敷に行けましたよ。馬車に乗るだけのことですから」
「クラリッサは冷たいなぁ。もっと喜んでくれてもいいんだよ? 俺は1分1秒でも長く、クラリッサと一緒にいたくて動いてるんだから」
さらりと照れるようなことを言ってくるヴェリオに、クラリッサは「そうですか」とあえて冷たく回答する。
クラリッサは男性に言い寄られた経験など、人生で一度もない。
いきなりこんな美形に真正面から好意を向けられて、平気でいられるはずがないのだ。
照れて真っ赤になっておどおどするという醜態を晒さないためにも、あえて淡々と答えた。
そんな答えにもヴェリオは満足している様子で、楽しそうに「やっぱり冷たいなぁ」と笑っている。
マリアの話はしたくない。
だが、言わなければならないことがあるだろう。
クラリッサは視線を窓の外に投げて、ぽつんと言った。
「先程は、ありがとうございました」
ヴェリオの表情は見られなかった。
哀れまれるような顔をされていたら嫌だったからだ。
ぶっきらぼうなクラリッサのお礼に、ヴェリオは予想外にもクツクツと喉を鳴らして笑った。
「どういたしまして」
それだけ言ったヴェリオは、クラリッサの胸中を察してくれたのだろう。
それ以上何も追及してはこなかった。