04 大嘘つき
もう二度と目覚めることはないかもしれない。
そんな深い眠りから目覚めたクラリッサは、ゆっくりと瞬きをする。
すると、そこには絶世の美青年の顔があった。
「やっと起きた。大丈夫? 気分悪いとかない?」
「は、はい」
あまりにも綺麗な顔過ぎて、一瞬誰だかわからなかったが、彼が婚約者となったヴェリオだということを思い出す。
見渡すと、ここはクラリッサの部屋で間違いない。
なぜヴェリオがここにいるのかわからず、クラリッサがぼんやりとしていると、ヴェリオが疑問に答えてくれた。
「ハニーベル邸を出てすぐに、クラリッサが階段から落ちたっていう連絡が来てね。とんぼ返りしてきたんだよ。クラリッサは一晩寝込んでたんだよ。どこかおかしいところはない?」
クラリッサの髪を耳にかけながら、ヴェリオが心配そうに顔を覗き込んでくる。
その指先をくすぐったく思いながらも、クラリッサは困惑していた。
(ということは、ヴェリオ様は私に一晩付き添ってたってこと? 婚約者とはいえ、結婚前の相手にそこまでする?)
何がどうしてそうなったのかはわからないが、ヴェリオのクラリッサへの執着は相当なものらしい。
心の底から心配してくれているらしいヴェリオに、クラリッサは焦った。
(こんなに執着されていたんじゃ、私は平民になれない……!)
死ぬかもしれないと思ったとき、クラリッサはやはり「恋がしてみたかった」と願った。
誰かと愛し愛される穏やかな関係を築きたいと思ったのだ。
だが、それは魔力なしのクラリッサにとって、貴族である以上難しい。
もうすぐ訪れる18歳の誕生日に家を抜け出すことを誓うほどに、平民になることに憧れていたクラリッサは、咄嗟にある案を思い付いた。
(マリアは私に『消えろ』と言った。消える方法は、何も死ぬことだけじゃないはずだわ)
演じきれるか不安はあった。
だが、クラリッサは今まで笑顔の仮面を被り続けてきたのだ。
そんな自分ならきっとやりきれる。
そう信じて、クラリッサは思いきって戸惑った演技をしながら部屋を見渡し、ヴェリオを見た。
「こ、ここはどこなんでしょう? 私の名前は……」
クラリッサが決意したのは、記憶喪失を演じることだった。
魔力なしな上に記憶喪失の女なんて、嫁にもらってもなんらいいことはない。
これでヴェリオも諦めるだろう。
そう思ってのことだったのだが、ヴェリオの反応は予想外のものだった。
「クラリッサ、もしかして記憶が……」
「くらりっさ……? それが私の名前なのですか?」
困惑しきった様子を見せるクラリッサに、ヴェリオは銀色の目を丸くする。
そして、なんとヴェリオはベッドに身を乗り出して、クラリッサを強く抱き締めたのだ。
「へ?」
「君の名前はクラリッサ・ハニーベル。俺のお嫁さんになる人だよ」
ヴェリオはクラリッサを安心させるように背中を撫でてくれる。
クラリッサは、記憶喪失作戦の失敗により、事態がよりややこしくなってしまったことを理解したのだった。
***
クラリッサの記憶喪失という嘘は、医者をも騙すことに成功した。
頭を強く打ったことによる記憶喪失だろうと診断され、数日間の安静を命じられたのだ。
クラリッサは言われたとおり、大人しく自室のベッドで寝て過ごしていたのだが、その間にも婚約の話は両親とヴェリオの間でどんどん進んでいたようだ。
クラリッサの療養期間が終わったら、すぐにでもヴェリオの住む屋敷にクラリッサは引っ越す手はずとなってしまった。
それを聞いたマリアは大激怒。
クラリッサの部屋に乗り込んできて、ベッドで寝ているクラリッサの顔に水をかけた。
「あんたなんか階段から落ちて死ねばよかったのよ! そうすれば、私がヴェリオ様の婚約者になれていたのに!」
「ごめんね」
ベッドまでびしょ濡れになってしまい、侍女に迷惑をかけることになったが、クラリッサは笑顔を崩さなかった。
正確に言えば崩すことができなかった。
染みついた癖というのだろうか。
記憶喪失という設定があるにもかかわらず、マリアの前ではどうしても笑顔の仮面を被っていないと恐ろしかった。
そんな自分の弱さが、クラリッサは嫌いだ。
クラリッサはヴェリオには、記憶喪失をきっかけに本来の姿を見せることにした。
いつも笑顔でいるわけではない本当の姿をだ。
今日はクラリッサがヴェリオの屋敷に行く予定の前日。
クラリッサは5日間の安静を命じられていたのだが、毎日ヴェリオは訪れていた。
コンコンとドアが鳴って、時計を見たクラリッサはヴェリオが来たのだろうと思いつつ濡れた髪を拭く。
「はい。ヴェリオ様ですよね」
「よくわかったね」
ドアを開けて入ってきたのは、予想通りヴェリオだった。
「毎日同じ時間に来られるのだから、わかります」
「今日も迷惑そうだね。俺なんかしたっけ? 俺のこと嫌い?」
「いえ、私はこの結婚に反対なだけです」
笑顔の仮面を取っ払い、淡々と本音で話す。
クラリッサは物腰柔らかい、いつも微笑みを浮かべている少女なんかではない。
腹の中では黒いことをたくさん考えている性悪なのだと自分を評価している。
この性悪な部分をヴェリオに見せつけていけば、ヴェリオもクラリッサのことを嫌うと考えて、あえてクラリッサはヴェリオに冷たく接していた。
「何度もお伝えしていることですが、私は記憶喪失な上に魔力なしだとうかがいました。こんな私と結婚して、ヴェリオ様になんの得があるのでしょう?」
「それは、クラリッサの『夫』になれるって得だけど? これ以上の得はないんじゃないかな」
また訳のわからないことを言っているヴェリオに、クラリッサは嘆息する。
まだ濡れている髪を布で拭っていると、ヴェリオが「どうしたの? なんで濡れてるの?」と当然の疑問を投げかけてきた。
ここで「マリアに水を浴びせられました」なんて惨めで言いたくなかった。
「ベッドで寝たまま水を飲もうとして失敗したんです」
「……へえ。クラリッサってズボラなとこあるんだね」
「幻滅しましたか?」
「いや、全然」
軽く首を横に振るヴェリオは、クラリッサが何をしても許してしまいそうな雰囲気がある。
(これは逃げ切るのは難しそうだわ……)
内心で頭を抱えるクラリッサのことなど気にせず、ヴェリオは笑顔でクラリッサの座っているベッドに腰掛けてきた。
「明日は引っ越しの日だね。式を挙げる日はまだ先だけど、夫婦みたいに暮らせると思うと楽しみだよ」
「私は緊張で内蔵がまろびでそうです」
「大丈夫だよ。屋敷には俺以外は使用人達しかいないし、みんな気のいい奴らだよ。うちの使用人は少数精鋭でさ。ガヤガヤしてないから、落ち着いて暮らせると思うよ。そういえば、クラリッサは侍女を連れてくるの?」
「はい。ひとりだけ。ユイネルという侍女が付いてきてくれることになっています」
ユイネルは、クラリッサが幼い頃から傍にいてくれた10歳年上の侍女だ。
幼い頃から世話役として接してくれていたユイネルは、このハニーベル邸でクラリッサの唯一の味方と言ってもいい。
家庭教師をつけてもらえなかったクラリッサは、ユイネルから文字の読み方や簡単な計算を教えてもらった。
そんなユイネルは現在、びしょ濡れになってしまったクラリッサのシーツを交換して洗い直してくれているところである。
「そう。クラリッサに味方がいてよかった」
「え?」
「クラリッサは覚えてないだろうけど、君は社交界で孤立してるって噂だったんだよ。俺がもっと早く迎えに行ければよかったんだけど、遅れてごめんね」
「い、いえ」
ヴェリオは社交界にあまり顔を出さないと聞いていたため、クラリッサが魔力なしとバカにされていることを知らないのかもしれないと思っていたが、どうやらしっかりと知っていたようだ。
その上で嫁にもらおうだなんて、本当に酔狂な男である。
「今日は家族はお見舞いに来てくれた?」
「マリアが来てくれましたよ」
罵声と水をお見舞いしに来てくれたわけだが、見舞いに来てくれたことに変わりはない。
ここでマリアを推しておこうと微笑むと、ヴェリオはむすりと表情を歪めた。
「それにしてもクラリッサのご両親はひどいね。娘が階段から落ちて記憶喪失になったっていうのに、見舞いにも来ないだなんて。同じ屋敷に住んでるんだから、顔を見ようと思えばすぐに見られるだろうに」
両親は魔力なしのクラリッサに興味など欠片もないのだ。
毎日見舞いに来るヴェリオに、バカ正直に「家族がお見舞いに来てくれたか」を聞かれて答えていた結果、両親からないがしろにされていることが露呈してしまった。
それがなんともまあ、惨めで恥ずかしい。
クラリッサがうつむいて「はは」と乾いた笑いをこぼすと、ヴェリオはクラリッサの肩を抱いた。
ヴェリオが着けている爽やかな香水の香りが鼻腔をくすぐる。
心地のいい香りに思わず、ヴェリオに身をゆだねてしまった。
「この家ではさみしい思いをしてきたかもしれないけど、明日からは俺がいるから大丈夫だよ。子どもが生まれればもっと賑やかになるしね」
「こ、子どもですか……」
既にそんな先のことまで見越しているヴェリオに、クラリッサが驚愕しているのも構わず、ヴェリオはクラリッサの耳に囁いた。
「大丈夫だよ、死ぬまで愛してあげるから」
ゾクッとするような囁きに、クラリッサは思わずヴェリオにくっついていた身を避ける。
ヴェリオはクスクスと楽しそうに笑って、クラリッサの濡れた髪を撫でた。
そのついでとばかりに炎魔法と風魔法を応用した、心地のいい温風でクラリッサの髪を乾かしてくれた。
「引っ越し前に風邪でも引かれたら困るからね。明日は楽しみにしてるよ」
そう言って、ヴェリオはまたクラリッサの手の甲に唇を落として、颯爽と去って行く。
「また明日ね」と笑顔で出て行ったヴェリオがドアを閉めたのと同時に、クラリッサは深い息を吐くのだった。
(本当に、嵐のような人だわ)