23 望む人生
知人と再会して話し込んでいたところ、買い物が遅れたことを謝罪しても、女将が怒ることはなかった。
「クラリスはいつもひとりぼっちみたいな顔してたからねぇ。知り合いがいてよかったよ」とまで言ってくれた女将は、本当にいい人である。
ヴェリオの元に帰るために、酒場の仕事は辞めて、宿も出ようと思っている話をしようと想っていたのだが、クラリッサが買い物を終えた時刻はもう既に夜の開店時間に向けての仕込みを開始しなければいけない時間だった。
クラリッサは、終業後か明日に改めて腰を据えて女将には事情を説明しようと考え、今日の所は酒場での仕事をこなすことに決めた。
今夜の酒場も大盛況だ。
常連たちの相手をしながら、クラリッサは酒場の看板娘であるクラリスとしての時を過ごした。
クラリッサとしては、いつも通りの接客を心掛けていたつもりだ。
だが、どこか上の空なところがあったのだろう。
常連のひとりから「クラリスちゃん、なんか今日元気ないねぇ」と声をかけられたクラリッサは、思わず「へ?」と素っ頓狂な声をあげてしまった。
「そうだよ、クラリスちゃん。なんだか無理してないか?」
「もしかして、好きな男でもできたのか~?」
にやにやしながらたずねてくる常連客にクラリッサは笑顔で対応する。
「そんなわけないじゃないですか。私はいつも通りですよ。それよりお酒飲みすぎです。この間帰れなくなっていましたよね。もうお酒は飲ませませんよ」
「そんな~。クラリスちゃん、そう言わずに!」
懲りずに酒を注文してくる常連客に、酒の提供を拒否して、クラリッサはあるテーブルへと料理を運ぶ。
そこに居たのはカインだった。
昼間のこともあったため、若干の気まずさはあったが、クラリッサは営業スマイルで「どうぞ」と言いながら料理の皿をカインの前に置いた。
「ありがとう、クラリス。昼間はゆっくり話せなかったから、あとで時間をとって話を聞いてほしいんだ」
「カインさん……」
ここは客の目が多くある。
大声で拒絶するわけにもいかず、クラリッサはカインにだけ聞こえるように答えた。
「何度言われても答えは同じです。私には忘れられない人がいます。カインさんのお気持ちには答えられません」
カインの表情が恐ろしいものに歪む。
クラリッサはゾクリとしたが、その次の瞬間には他の客に「クラリスちゃん注文!」と呼ばれて、クラリッサはカインの傍を離れた。
カインのことは気になったが、接客で忙しくしているうちに、カインが座っていた席はいつの間にか空席になっていた。
諦めて帰ってくれたのだろう。
これで常連をひとり失うことになるかもしれないが、カインの行動には身の危険を感じていた。
女将には悪いが、これでよかったのだとクラリッサは思うことにする。
ピークタイムも過ぎ、店の片付けをしながら、酔っ払って眠っている客を起こし、家へと帰す。
最後の客が帰った後、店のドアにかけた札を閉店の表示にひっくり返したクラリッサは、女将と共に片付け作業を開始した。
「クラリス。ゴミを集めて捨ててきてくれるかい?」
「はーい」
洗い物をしている女将に返事をして、クラリッサは言われたとおりゴミを集めて、酒場の裏口から細い路地へと出た。
ゴミ捨て場は街道沿いにあるため、ゴミの回収日になるまでは、店の裏手に設置した大きなゴミ箱にゴミを集めておくのだ。
クラリッサはもう慣れたものだが、この路地裏は街灯がなく、かなり暗い。
手早くゴミ箱にゴミ袋を詰め込んだクラリッサが店に帰ろうと振り返ったとき。
何者かにぶつかって、クラリッサは「きゃっ」と悲鳴をもらした。
「ご、ごめんなさい」
咄嗟にぶつかったことを謝ってしまったが、こんな路地裏に誰が何の用があるのだろうか。
ハッとして顔をあげると、そこにはカインがいた。
「カインさ……、え?」
おどろきでクラリッサが身を硬直させていると、カインがクラリッサを抱き締めてくる。
ヴェリオと同じ人間の体温だ。
なのに、それがどうしようもなく気持ち悪く感じられた。
クラリッサはヴェリオの体温を忘れてしまいそうな気がして、カインの胸を押して離れようとしたのだが、カインはクラリッサの細腕の力ではびくとも動かない。
むしろ抱き締める力を強くしてくるカインに、クラリッサは恐怖で声も出なかった。
「クラリス……。本当にきみのことを愛しているんだ。ずっとクラリスのことを見てきた。クラリスがカフェで誰かと話しているのもずっとずっと見てたんだよ。今日は元気がなかったね。疲れてたんじゃないか? もう仕事なんて辞めてしまえばいい。クラリスのために部屋を用意したんだ。そこで一緒に暮らそう。クラリスはなにもしなくていいんだよ。ずっと俺のことだけを想ってくれていれば、それでいい。好きな人のことなんか忘れるくらい、毎日愛してやるからさ」
早口にまくし立てるカインがポケットをまさぐる。
カインが手にしていたのは、液体の入った小さな瓶だった。
「なん、ですか、それ……」
かろうじて震えた声でたずねると、カインはにんまりと口角をあげた。
「睡眠薬だよ。ちょっと眠っててほしいんだ。その間に、俺とクラリスの家に招待するから」
カインは片手で小瓶のフタを開けると、クラリッサを壁に押しつけて、顎を無理矢理持ち上げる。
「やめて……!」
今にも、睡眠薬を飲まされるというそのとき、ゴウッという音がして、左から右へとカインの後ろを巨大な水の塊が飛んでいった。
その塊は路地の壁にぶちあたると、バシャン!と大きな破裂音を立てて爆発する。
間違いなく魔法だ。
クラリッサが視線を水の塊が飛んできた方へと動かすと、そこには街灯の明かりを背に受けたヴェリオの姿があった。
「ヴェリオ様……」
久しぶりに見たヴェリオは、その表情を見たこともないほどの怒りに染めていた。
コツ、コツと歩み寄ってくるヴェリオは尋常ではない殺気を放っている。
カインもその殺気におどろいたのか、「ひっ」と言いながらクラリッサから手を離した。
「俺の世界一大事な子になにしてくれちゃってんの? 身分上人殺しなんてまずいからね。魔法も当てないであげたし、水の魔法を使ってあげたけど、俺の本当に得意な魔法は炎の魔法なんだ」
そう言ったヴェリオは人差し指を立てる。
その人差し指の先に小さな火球を創りだしたヴェリオは、震えるカインを睨んだ。
「次はこの火球をさっきの水球くらい巨大化させて、おまえに当ててやってもいい。今後、この子に近付くようなことがあれば、俺は身分を捨ててでもおまえをこの世から抹消する。わかったら、消えろ」
「ひ、ひいいいい!」
ヴェリオの圧に気圧されたカインは、転びながらも路地裏から逃げていった。
その背中を呆然と見送ったクラリッサは、ハッとしてヴェリオを見る。
ヴェリオは怒った表情でクラリッサを見ており、クラリッサは当然だと感じた。
いきなりいなくなって、散々探させてしまっていたのだ。
怒らないはずがない。
クラリッサが「ごめんなさい」と小さく呟くと、ヴェリオはクラリッサの前に立ち、そのままゆっくりとクラリッサを抱き締めた。
カインのぬくもりを上書きするような心地よいぬくもりが懐かしい。
キツく、だが優しくクラリッサを抱き締めたヴェリオは、クラリッサの耳元で言った。
「愛してるよ」
ヴェリオのかすれた声にクラリッサは涙が出そうだった。
この言葉を、どうして自分は信じられなかったのだろう。
マリアの言葉に惑わされて、真実を確かめる勇気もなく逃げ出してしまった自分が情けない。
ヴェリオはクラリッサの頭に頬をすりつけるようにして、クラリッサを抱き込んだ。
「クラリッサがいなくなって、胸が引き裂けるんじゃないかってくらい心配した。やっと見つけたと思ったら、酒場で看板娘として働いてたなんて聞いて腹が立った。自分から出て行ったってことでしょう? なんでだよってムカついた。でも、それでも、どうしようもなく、クラリッサのことが好きなんだ」
「私も、私もヴェリオ様のことがずっと好きで……、どうしようもなく好きで、だから逃げ出してしまったんです。ごめんなさい、ごめんなさい、ヴェリオ様」
クラリッサの琥珀色の瞳からボロボロと涙がこぼれる。
クラリッサはヴェリオの体を掻き抱くようにして、ヴェリオの体温を全身で感じた。
もうヴェリオと離れない。
ずっと一緒にいたい。
クラリッサがそう願い、泣いていると、酒場の裏口のドアが開いた。
「あんた! なにやってんだい! この変質者がぁ!」
フライパンを振りかざして現れた女将は、どうやらクラリッサの泣き声を聞いて、飛んできたらしい。
ヴェリオを変質者認定して殴りかかろうとする女将に、クラリッサは「違うんです! 違うんですよ、女将さん!」と懸命に説明をし、自らの素性を明かした。
女将は心底おどろいている様子だったが、明るい場所で見たヴェリオの気品あふれる顔つきを見て、クラリッサの話を信じてくれたようだ。
「こんな色男の婚約者がいるってのに逃げ出してきちゃダメじゃないかい。今夜はゆっくり今後について話し合うといいよ」
そう言ってくれた女将の言葉に甘えて、クラリッサはヴェリオを自室へと招待したのだった。




