21 平民
クラリッサがヴェリオの元から飛び出してから数ヶ月の時が流れた。
「クラリスちゃん! 13番テーブルにこれ持ってって!」
「はーい!」
クラリッサは、とある酒場で『クラリス』という名で働いていた。
ドレスを売ったお金はかなりの高額であったが、これから平民として一生生きていけるほどのものではなかった。
クラリッサは手持ちのお金で小さな部屋を借りて、どこかで適当に働くつもりだったのだが、転がり込んだ宿屋の女将にスカウトされて、住み込みで働くことになったのだ。
この宿屋は1階が酒場になっており、2階が宿屋という造りになっている。
酒場はいつも大盛況で、常連たちからクラリッサは気に入られていた。
「クラリスちゃん、今日もかわいいね。一緒に飲まないかい?」
「ごめんなさい。女将さんに怒られちゃうので」
たくさんのビールジョッキを手にしたクラリッサは、客の扱いも既に手慣れたものだった。
笑顔の仮面を顔面に貼り付けるのは、クラリッサの得意技である。
にこにこと営業スマイルを振りまけば、客の男たちは喜んでくれた。
ピークタイムも終わり、酒場の片付けも終わったところで、女将から「今日はもう休んでいいよ」と声をかけられる。
「お疲れ様です。今日もありがとうございました」とあいさつをしてから、クラリッサは2階へと上がる。
くくっていた髪をおろして、鏡の前でふーと息を履いたクラリッサは耳についたピアスを撫でた。
(ヴェリオ様。お元気にされているかしら)
クラリッサがヴェリオを忘れた日は一日だってなかった。
どんなに酒場の仕事が忙しい日でも、クラリッサはヴェリオのことを想った。
ひとりで眠るシングルベッドが最初はさみしくて仕方がなく、枕を涙で濡らしたほどだ。
それでもクラリッサは、ヴェリオの元へ帰ることはできないと考えていた。
(ヴェリオ様が本当に愛しているのはベルーナ様なんだもの。邪魔者の私が消えれば、ヴェリオ様とベルーナ様は結ばれることができるかもしれないわ)
城のテラスの陰で抱き合っていたふたりを思い出して、クラリッサは胸の痛みに目を閉じる。
あの光景を思い出す度にクラリッサの胸はチクチクと痛んで仕方がないのだ。
だが、過去ばかり見ていても仕方がない。
クラリッサは自分を鼓舞するために両頬をぺちぺちとたたく。
(しっかりしなさい、私! これから平民として生き抜いていくのよ)
クラリッサの当初の夢は『平民になって恋をすること』だった。
だが、今は恋をしたいとは欠片も思えない。
ヴェリオのことで頭がいっぱいで、他の男性のことなんてとてもじゃないが、考えられなかったのだ。
だからクラリッサは、ひとりで生きていけるための経済力を身につけたいと思っていた。
そのためにも酒場での仕事を明日もがんばらなければならない。
過去の失恋にくよくよしているヒマはないのだ。
「よし、がんばるわよ!」
ヴェリオとの思い出に痛む胸をさすって、クラリッサは明日のために寝る支度をはじめたのだった。
***
翌日。
クラリッサは女将に頼まれて、買い物に出ていた。
平民街も数ヶ月住めば慣れてくるものである。
クラリッサがひとりで買い物のために歩いていると、「よお」と前方から歩いてきていた男に声をかけられた。
「カインさん、こんにちは」
気さくに声をかけてきたこの男は酒場の常連客であり、名はカインという。
クラリッサは、カインに得意の笑顔を向けたが、内心では緊張していた。
なぜなら、カインは先日クラリッサに告白をしてきたからである。
酒場の看板娘となったクラリッサに告白をしてきた男性は、カインだけではなかった。
だが、カインはクラリッサに最も真剣に告白してきた人物だったのだ。
酒場で告白をしてくる男性は、みんな酒を飲んだ勢いそのままにクラリッサに告白をしてくる。
クラリッサはお酒の席の冗談として、その告白を処理することができていたのだが、カインだけは違った。
カインは酒場に来たにもかかわらず、食事だけをして、営業終了時間まで待ってからクラリッサを外に呼び出し、真剣に告白してきたのだ。
「クラリスのことが好きなんだ。クラリスは俺が出会ってきた女の中で一番輝いて見える。俺にはクラリスしかいないんだ。俺と付き合ってほしい」
クラリッサはその返事にたいへん困った。
ここまで真剣に告白されたら、断る方も真剣に断らなければならないと思ったのだ。
「私には好きな人がいるんです。カインさんのお気持ちは嬉しいですけど、その方のことが忘れられない限り、誰かとお付き合いするつもりはありません。ごめんなさい」
「……その男は、そのピアスをくれた男か?」
「えっ」
クラリッサはカインに指摘されたことにおどろいた。
なぜわかったのだろう。
思わずピアスに触れてしまったクラリッサに、カインは「そうなんだな」と確信を得た様子だった。
「クラリスが仕事中によくピアスに触ってるから、なにか特別なもんなのかと思ってたんだ。それ、宝石だろ? クラリスの好きな人は、ずいぶん金持ちみたいだな」
カインは本当にクラリッサのことをよく観察しているらしい。
そこまで見られていたことに、若干の恐怖を覚えたもののクラリッサは笑顔でその恐怖を隠して「秘密です」と答えた。
カインはまだクラリッサになにか追及したい様子だったが、そのタイミングでちょうど女将が酒場から出てきて「クラリス、後片付け手伝ってくれるかい?」と言ってくれたので、クラリッサはカインから逃れることができたのだ。
この告白が、つい先日のことだった。
そのためカインと話すのは少々気まずい思いがしたのだ。
カインはクラリッサにそのまま歩み寄ってくると、「買い物か?」と声をかけてくる。
クラリッサは「はい」とうなずいた。
「カインさんもお買い物ですか?」
「ああ、そうだ。クラリスに会えてよかった。この間の話の続きがしたいと思ってたとこなんだよ」
カインがクラリッサの手を不意につかむ。
クラリッサがおどろいていると、カインはクラリッサの手を引いて歩き出そうとした。
「カ、カインさん? どこに行くんですか?」
「カフェにでも入ってゆっくり話をしよう。この間も言ったけど、俺にはクラリスしかいないんだよ。おまえみたいな、いい女には初めて出会ったんだ。俺の気持ちをしっかり知ってくれたら、クラリスの気持ちも変わると思う。だから、俺と一度しっかり話をしよう」
「私は好きな方がいるんです……! 以前お答えしたとおり、カインさんのお気持ちには答えられません!」
「そう言うなよ。なあ、クラリス。俺は本当にクラリスのこと愛してるんだ。な? 話だけでも聞いてくれよ」
ぐいぐいと手を引っ張ってくるカインに、クラリッサは恐怖を覚えた。
カインは本当にクラリッサをカフェに連れて行くつもりなのだろうか。
もしかしたら路地裏に引きずり込もうとしている可能性だって考えられる。
クラリッサが大きな声をあげようと、恐怖でヒクつく喉を震わせようとしたそのときだった。
背後からトントンと肩をたたかれたのである。
「お久しぶりね。お元気だったかしら?」
「へ?」
澄んだ女性の声に振り返ると、そこには真っ直ぐなプラチナブロンドの髪を揺らした美人が立っている。
この緊迫した場にそぐわない上品な微笑みを浮かべたその人は、平民の服に身を包んだベルーナであった。




