ミミズを救いし者(後編)
「お兄ちゃん。僕ね。次に生まれ変わったら、パパとママの親に生まれたい。
僕のパパとママは、優しい子になれなかった、とても悲しい人間なんだ。
だから僕はパパとママの親に生まれ変わりたい。そして二人を、優しい子に育てたい」
僕は、ハル君を抱きしめた。
やさしく抱きしめてあげる、そんなことぐらいしか、僕には出来なかった。
可哀そうに。この子は、人を恨むという感情すら知らずに死んで行くのだ。いっそ両親を心の底から恨むことが出来れば、少しは報われただろうに。こんな哀れな一生があってはならない。絶対にあってはならない。
「お兄ちゃん。不思議だね。お兄ちゃんに抱きしめられたら、僕、ポカポカしてきた。生きている時は、とても寒くて。でも死んだら、暑さも寒さも何も感じなくなっていたのにね。えへへ。変だね。急に体がポカポカしてきたよ」
僕は、ハル君を死装束に着替えさせてあげる。三角頭巾もまだ一人では上手に縛れないので、僕が縛ってあげる。
「ハル君、よくお聞き。もし君があの世で道に迷ったり、閻魔大王に意地悪をされたりしたら、その時は――」
「その時は?」
「その時は、もう一度この三途の川を渡って、お兄ちゃんのところへ来い! お兄ちゃんと一緒に暮らそう! お兄ちゃんの弟になれ!」
「……お兄ちゃん」
「うん?」
「……ありがとうね」
「うん、うん」
ハル君が、渡し舟に乗る。
そして、船上でくるりと僕の方を振り返ったハル君が、満面の笑みで僕に告げた。
「お兄ちゃん。僕の、ソ、ン、ザ、イ、イ、ギ、思い出したよ。僕、昨日の夜、ミミズを一匹助けた」
「ミミズ?」
「昨日の夜。お外に放り出され出された時にね。冷たいコンクリートの上に、一匹のミミズが寒さで動けなくなっているのを見つけたよ。僕、可哀そうだったから、そのミミズを摘まんで、花壇の土に戻してあげた。ミミズは、元気を取り戻して、土の中に潜って行ったよ」
「偉い! 偉いぞ、ハル君!」
「お兄ちゃん、そんなに褒めないでよ。ミミズを一匹助けただけだよ」
「違うよ。君は、とても偉大なことをした。確かに、ミミズを一匹助けただけかもしれない。でも、君が助けた一匹のミミズは、きっとこれから多くの子孫を残す。そして、その子孫たちが生き物にとって大切な土壌を作る。その土壌から、たくさんの樹々や農作物が育ち、それを、多くの生き物たちが食料にする。更には、その生き物たちが、新しい生命を未来に残す。分かるかい。君の行いは、実は、この地球を救ったと同等なのさ」
「そ、そっか!」
「君は、きっと、そのミミズを救うために、この世に生まれてきたんだ。素晴らしいことだよ。ハル君、凄くかっこいいよ。いいかい、あの世へ行って、神様や仏様に『あなたは何者ですか?』と聞かれたら、堂々とこう答えるんだ。『僕は、ミミズを救いし者だ!』とね」
「ミミズヲスクイシモノ???」
「そう、君は偉大なる『ミミズを救いし者』だ」
「僕は、ミミズを救いし者」
「そうだ。もっと大きな声で」
「僕は、ミミズを救いし者だ!」
「いいぞ。その調子」
「僕は、ミミズを救いし者だ!」
最後の、最後の、最後に見つけた、小さな、小さな、小さな救いを胸に抱き、ハル君は、歯を食いしばって微笑んだ。
現世から追い風が吹き、三途の川の水面を漂う巨大な霞が、まるでひとつの生命体のように蠢く。
渡船場の渡し守長が目で合図を送ると、船頭が無言で渡し舟を川岸から離す。
こうして海野ハル、5歳は、他の多くの死者と共に、三途の川の霞に溶け入るように消えて行った。
フェリーマンカンパニーは、社則にて、職場での祈願・祈祷を禁じている。職業柄、宗教が混在すると、業務に支障をきたすからであろう。でも、僕はこの時、三途の川の向こう岸に、こっそりと祈りを捧げた。
この川の向こうにおわす、お歴々よ。あの子を、託しましたよ。どうか、来世では、あの子が幸せになりますように。どうか、来世では、クリスマスツリーの光輝く暖かな部屋で、あの子が家族と楽しく過ごせますように。
凍てつく風に乗り、不気味に蠢き続ける霞の向こうに、いつまでも、いつまでも、祈り続けた。
おしまい。