外伝 風車村怪談(前編)
この物語は、前作「渡し舟に乗ってあの世から舞い戻った男」のアナザーストーリーです。孫のナツミの視点で、物語は展開します。
この村の風車は、回らない。
周囲を山や丘に囲まれた濃密な盆地に佇む私の生まれ故郷は、一年を通してほぼ無風で、たまに吹く風も極めて弱い。どれほど風が弱いかと言うと、同県に大型の台風が直撃している時に、やっと微風を肌に感じ取れるぐらいだ。
私は、二十一で結婚をして都市近郊の街に嫁ぐまでの歳月を、この風なき村で過ごした。
半年ぶりに実家に帰った。自分のお腹に新しい命を授かったことを、両親に報告をする為である。
「……うわ~、相変わらず、異様な風景だわ」
盆地特有の鬱蒼とした自然の中にある無人駅を降りると、ホームや改札口に飾られた沢山の風車が、私を出迎える。
この村には、いにしえからの民族風習として、村のいたるところに風車が飾ってある。赤、青、緑、黄色、ピンク、百個、二百個、恐らく幾千の多彩な風車が、集落の家々に飾られ、路傍に突き立てられ、野山の樹々に縛り付けられているのだ。
風よ吹け。風が恋しい。風を観たい。風という何の変哲もない自然現象に飢えた村人たちの感情が、いつしか文化として形を成したのであろう。でもさあ、言いたかないけど、風車をいっぱい飾ったところで、肝心の風が吹きすさぶわけではないでしょうに。
その挙げ句、この民族風習に目をつけた村役場が、いっそ観光事業の促進に利用してやろうと、いつしかこの村を「風車村」などと名付けて、周囲にアピールするようになった。何が「風車村」よ、センスのセの字もありゃしない。幾千の回らない風車のある風景、ああ、悪趣味。
「お母さん、ナツミだよ~。今帰ったよ~」
無人駅から30分歩いて、実家に着いた。開けっ放しの玄関から、薄暗い土間を覗く。誰もいない。父は単身赴任。そして母は、今日も隣のおばあちゃんの家にいるのだろう。おじいちゃんが死んでから、母は、おじいちゃんに代わって、朝から晩まで認知症のおばあちゃんの介護をしている。
― ― ― ― ―
私は、おじいちゃんが、大嫌いだ。
だから、半年前におじいちゃんが心筋梗塞で死んだ時、溜飲が下がる思いがした。葬儀でも、火葬場でも、多くの親族の中で、私だけが涙を流さなかった。
おじいちゃんは、たった一人の孫娘の私に、幼いころから容赦なく厳しい人で、食事中の作法や冠婚葬祭での礼儀に、特にうるさい人だった。
私が中学生の時、隣のおじいちゃんの家で、お正月に親戚一同で食事をした。私は食卓に並ぶ豪華な料理を前に、どの料理から食べようかと迷い、食卓の上で箸をあちこちと動かしていた。するとおじいちゃんは、自分の箸で私の手のをピシャリと叩き、「こら、ナツミ、迷い箸!」と一言、両親や親戚の前で眉ひとつ動かさず私を叱り飛ばした。
いやいやいや、確かに私の箸の作法も悪かったかもしれないけどさ。でもおじいちゃんのその箸の使い方はどうなのよ? 箸は折檻の道具ですか? 思春期真っ只中の私は、事あるごとにおじいちゃんに噛み付いてやりたい衝動を抑えるのに必死だった。
おじいちゃんのことを振り返ると、あらためて自分とは万事につけ反りの合わない人物だったと思う。そして恐らくおじいちゃんも、私のことをそう認識していたと思う。結局私が結婚をして実家を出るまで、おじいちゃんと私との険悪な関係が変わることはなかった。
私は、おばあちゃんが、大好きだ。
だから、認知症を患う身で、おじいちゃんに先立たれたおばあちゃんが、不憫でならない。
おばあちゃんは、3年程前から認知症が急激に酷くなった。日を追って記憶障害や言語障害が進行し、やがて歩行にまで障害が出た。
おじいちゃんは、献身的におばあちゃんの介護をしていた。当然だ。若い頃から亭主関白で、家事は全ておばあちゃん任せにしてきた、その罰が当たったのだ。因果応報というやつだ。おばあちゃんに最期まで恩返しをするがいい。私は平素より、秘かにそう思っていた。
だからこそ、おばあちゃんの介護を途中で放棄し、逃げるように死んだおじいちゃんが、尚更許せなかった。
思えば、いつも笑顔で、いつも優しいおばあちゃんは、日頃から高圧的なおじいちゃんとの生活に苦しんでいた。認知症が発症する少し前、私が短大生の頃、おばあちゃんは隣の私たちの家に逃げて来ることが頻繁にあった。「おじいちゃんがいじめる。おじいちゃんがいじめるよおおお」と孫の私の胸で泣くのだ。
それから、小一時間すると、おじいちゃんは、黙っておばあちゃんを迎えに来る。
「おじいちゃん、帰ってよ! もうおばあちゃんを迎えに来ないで!」
私は、感情的になり、おじいちゃんを罵る。
でもおじいちゃんは、私のことなど眼中にない。私の腕の中でシクシクと泣き続けるおばあちゃんに、無言で手を差し伸べるだけ。
おばあちゃんは、やがて諦めたようにおじいちゃんの手を握り、脱皮するかのように、私の腕の中から、おじいちゃんに引き抜かれる。
そして、二人は、手を繋いで家に帰って行くのだった。
― ― ― ― ―
お隣のおばあちゃんの家を訪問する。
古い日本家屋。縁側の襖は相変わらず開けっ放し。八畳の寝室には、柱、鴨居、天井、箪笥、化粧鏡、そしておじいちゃんの写真が置かれた仏壇の端々にいたるまで、無数の風車が所狭しと飾られている。
そして、低い軒下には、鉄製の錆びた風鈴がひとつ、これ見よがしにぶら下がっている。
これらは、すべて村役場に務めていたおじいちゃんのセンス。まったく、風の乞い方が露骨で、品性の欠片もない。私は、思わず吐き気がした。
そこに、おばあちゃんと母はいた。
修羅場だった。
「はいはい、おばあちゃん、すぐに済みますよ。お願いですから、お尻を拭かせてくださいな」
母が、額に汗して黙々とおばあちゃんの排泄の世話をしている。
「やめろおお、鬼嫁! 手を離せ、鬼嫁! 私に触れるな汚らわしい!」
介護用ベッドに横たわりオムツを替えられているおばあちゃんは、いったい何が気に入らないのか、母の手を叩いたり、引っ掻いたりして、作業の邪魔をする。
「……あら、ナツミじゃない。いつ帰ったの? 今日はどうしたの?」
「……別にいいじゃん。何となく立ち寄っただけ。悪い?」
オムツを取り替え終わった母が、ずっと横にいた私の存在に、やっと気が付く。
半年ぶりに見た母は、介護疲れで十年ほどいっぺんに歳を取ったかのようだ。体はやつれ果て、顔には精気が無い。
近況を聞く。おばあちゃんの認知症は、坂を転げ落ちるように酷くなっているそうだ。そして、それに付き添う母も、幾度も心身に支障を来しかけたそうだ。
「でもね、お母さん、腹を括ったよ。おばあちゃんが天寿を全うするまで、とことん付き合う覚悟さ」
痛々しいカラ元気。参ったな、とても妊娠の報告など出来る空気ではない。
チーーーン。 チーーーン。
その時、かん高い鉄風鈴の音が二つ、室内に響いた。
……風?
不意の出来事で、私は状況を掴みかねる。その音は、確かに軒下の鉄風鈴の音色であった。しかし、部屋中の風車は、どれもピクリとも回転をしていない。無風の空間で、風鈴が二度鳴ったのだ。
「……ねえ、お母さん、今の聴こえた?」
「うん、風鈴が鳴ったわね。風なんてこれっぽっちも吹いていないのに、不思議ね」
薄気味悪さを拭えぬまま、それでも私は母の前で気を取り直すふりをした。そして、介護用ベッドの柵から顔を覗かせ、オムツを替えてスッキリした表情のおばあちゃんに話しかけてみる。
「おばあちゃ~ん、元気~。私だよ~。ナツミだよ~」
するとおばあちゃんは、俄かに怪訝な顔に豹変し、私の顔をジロジロと眺めてこう言った。
「……おたく、どちら様ですか? 私に気安く話しかけないでちょうだい。警察を呼びますよ」
耳を疑った。私は自分の顔を指差しながら、おばあちゃんに、やや声を荒げて問いただす。
「う、嘘でしょう、おばあちゃん。ほら、私のこと忘れたの? ナツミ! 孫のナツミだよ!」
「ナツミ? ……あ、思い出した。そんな駄目な孫がいたっけ。あれは、本当に馬鹿で、グズで、手の施しようのない愚物だった」
……死ねばいいのに。
後編へ続く。




