渡し舟に乗ってあの世から舞い戻った男(後編)
僕たちは、室内の天井付近に浮遊して、現世の地獄絵図を見下ろしている。
「ナツミは、昔から利発な子でね。考え過ぎるところが玉に瑕かな。私はナツミにメロメロでしたよ。笑っている時も、怒っている時も、何から何まで可愛くてね。ナツミの前では、つい照れてしまうのです。私は、結局彼女の目を、まともに見ることが出来なかったな。
あれは、ナツミが短大生の頃。妻は、私が目を離した隙に、近所を徘徊するようになった。私は、妻を探し回る。まあ、大抵は隣の息子夫婦の家の縁側にいましてね。縁側で、孫のナツミの腕の中で泣いている。ナツミは、私の顔を見るなり『おじいちゃん、帰ってよ! もうおばあちゃんを迎えに来ないで!』と私を罵る。妻に何を吹き込まれたのか知らないが、憎悪の目で私を見るのだ。ふふふ、その怒った顔も、これがまた可愛かったなあ。
それから妻の手を引いて家に帰るとね、妻が私に「ナツミがいじめる。ナツミがいじめるよおおお」と泣き喚くのです。もちろん、ナツミに限って、あり得ないことだから、私は、妻の戯言には一切取り合わなかったがね。
今思うと、あの頃から妻の認知症は始まっていたのかなあ……」
「富田さん、ご覧の通り、お嫁さんもお孫さんもとっくに限界です。教えて下さい。あなたは、奥様の介護が辛くなかったのですか?」
「辛い? あはは、まさか。私は、孫にメロメロでしたが、その何十倍も何百倍も、妻にメロメロでしたよ。妻と出逢った時も、妻と結婚した時も、妻が認知症を患ってからも、ずっとずっと彼女にメロメロだったのです」
「あなたと奥様は、本当に仲の良いご夫婦だったのですね」
「もちろんです。周りがどう見ていたかは別としてね。ははは」
そんな会話をしていた時だ。現世では、思い詰めたナツミさんが、突如として仏壇に駆けより、正座をして、両手を合わせ、黒縁の写真の中で微笑む富田さんに、
「助けて、おじいちゃん! お願い、おばあちゃんを迎えに来て!」
天空に轟けとばかりに、そう叫けんだ。
「おいおい、ナツミときたら、迎えに来るなと言ったり、迎えに来いと言ったり、まったく困った子だよ。へへへ。でもそこがまた可愛い」
久しぶりに孫が自分を呼ぶ声を聞いた富田さんが、空中で鼻の下を伸ばしている。
その刹那、俗に「神」と呼ばれる者の「粋な計らい」が、いよいよ幕を明けた。
「……な、な、ナツミ、み、み、見て、おばあちゃんが立った」
嫁が驚きの声を上げる。
見ると、寝たきりの奥様が、介護用ベッドの上で直立をしている。嫁も孫も、気が動転し、腰が抜けて動けない。
ユラユラと不安定な仁王立ち。目はうつろ。ぼんやりと虚空を眺めている。いや、違う、どうやら部屋の天井付近の、ある一点を凝視している。
「え、え、エフさん、我々の姿は、生きている者には見えないのですよね! 何かの間違いでしょうか、妻が、明らかに私を見ている!」
「あれ、おかしいっすね。こちらは見えない筈ですけどね。富田さん、すみません、実は、私が神から指示されたのは、あなたをここに連れてくるところまで。この先の展開は、私も詳しくは聞かされていないのです」
奥様が、富田さんに吸い寄せられるように歩き出す。ベッドの柵を跨ぎ、畳の上に激しく落下をする。左足が、あらぬ方向へ曲がっている。折れた足などお構いなしで、畳の上を這いずり這いずり、富田さんに向かって前進をする。
「……わわわ、妻が来ます! どんどんこちらへ向かってきます!」
それから奥様は、部屋の中央辺りで、生まれたての子馬が立ち上がるように四つん這いになり、細くシワだらけの右手を天に高く掲げ、絞り出すように言葉を漏らした。
「……あ、な、た」
救いを求める奥様の声を聞いた途端、先程まで怯えて空中で後ずさりをしていた富田さんが、冷静さを取り戻した。何かを悟ったように、静かに畳の上に舞い降りる。そして、天高く掲げた奥様の右手を、自分の右手でしっかりと握った。
「……なるほどね。私が、ここに導かれた目的がやっと分かりましたよ。後で叱られたくないので、念の為あらかじめ聞いておきます。エフさん、私、行動を起こしますよ。本当によいのですか?」
「はい。富田さんの思うままに。あなたが、これから行う事、それこそが、神の意思です」
富田さんは、笑顔でコクリと頷き、
「寂しい思いをさせてゴメンね。迎えに来たよ」
そう奥様に囁き、それから、握った右手を力いっぱい手前に引いた。
奇跡が、起きた。
奥様の体から、魂が、すーーっと引き抜かれる。僕にはそれが、肉体という殻を破って、魂が脱皮しているように見えた。
「あなた、会いたかったわ!」
肉体を捨てた奥様が、富田さんに激しく抱きつく。老婆が老爺の頬に熱烈キッスを連発している。認知症は肉体に置いてきたようだ。
「こらこら~、エフさんが見ている~、場をわきまえないか~」
「ははは、お気になさらず。奥様、突然の出来事で、あなたの魂は、僕のフェリーマンタブレットの死亡者リストにアップされていません。奥様、ファイナルジャッジです。あなたは、三途の川を渡りますか?」
「もちろん、渡るわ! もう二度と、愛する人から離れたくはない!」
奥様が富田さんの腕に手をまわして、腰をクネクネさせてのろけた。その瞬間、奥様の名前が死亡者リストに上がった。
それでは、三途の川に向かいましょう。そう後方の二人に話しかけながら、室内から縁側へ出る。その時、また軒下の鉄風鈴に頭をぶつけてしまった。
案の定、イチャイチャしながら歩く老夫婦も「あ、そこ風鈴! 今度こそ気を付けて!」という僕の注意も虚しく、揃って風鈴に頭をぶつけてしまう。
チーーーン。 チーーーン。 チーーーン。
風鈴の音が三つ鳴った。
風車は回らなかった。
― ― ― ― ―
時空のトンネルを戻って、賽の河原に到着をする。後ろから付いて来る二人を振り返り、僕は驚いた。なんと二人の外見が、二十代前半ぐらいの青年と女子に若返っている。よくよく考えたら、もう魂だけなのだから、いつまでも老いた肉体の残像を保つ必要もない。若返りも自由だ。「うふふ。ペアルックね」奥様が死装束に着替え、白い三角頭巾を鉢に巻く。
渡船場に並ぶ死者の列の最後尾に、二人を案内する。
「エフさん、この度もまた、大変お世話になりました。今日からこの最愛の妻と、あの世でまた新婚からやり直します」
「それは御馳走さまです。せっかくなので新婚祝いを贈りましょう。しがない渡し守なので、物品は無理ですが、僕に出来る事であれば、何かさせて下さい」
「それなら、私と妻が生きたあの村に、風を吹かせて欲しい。あの村は、もう何十年も無風なのです」
「了解しました。風神様に、手続きを取ります。徹夜をして申請書類を作成すれば、恐らく奥様の葬儀が終わる頃には、許可が下り、風神様が風を吹かせてくれるでしょう。村を取り囲む山々の山頂から、豪快な風を吹かせ、村じゅうの風車を一斉に回して御覧に入れますよ」
「まあ、素敵! エフさん、ありがとう! ちゅ」
若返った奥様が、僕の頬にいきなりキスをした。欧米スタイルの奥様の振舞に、僕は、照れた。
「こらこら~、旦那の私が見ているぞ~、場をわきまえないか~」
「あら、嫌だ、妬いているの?」
二人が、キャピキャピと雑談をしながら渡し舟に乗る。
「きゃ~、お舟に乗るのなんて何十年ぶりかしら~、楽しみ~」
「向こう岸に着くまでに、絶景ポイントが数カ所あるのだ。私が案内するから任せなさい。何たって私は、三途の川の渡し舟に乗るのは、これで三度目なのだ」
「きゃ~、富蔵さん、かっこいい~」
うわあ、もう僕のことなど眼中にない。すっかり二人だけの世界に浸りきっている。恐るべき愛の魔力。
現世において、最愛の伴侶に先立たれた者が、まるで後を追うように生涯を終える事例が往々にしてある。それらは全て、今回のような「あの世の粋な計らい」が裏にあるのだ。
現世の者たちが「神」と呼ぶ三途の川の向こう岸の者たちが、なぜ時折このような粋な計らいをするのか、それは、僕にもよく分からない。
どうせ、ただの気まぐれだろう。僕は秘かにそう睨んでいる。神だって、計らい事のひとつやふたつ、気まぐれに施したくなるのだ。うん、きっとそうだ。
渡船場から渡し舟が出る。富田さんと奥様が、仲睦まじくあの世へと渡って行く。
賽の河原は、晴天なり。
おしまい。




