走れ! 三途の川の迷い犬(前編)
ここは、現世とあの世の境目、賽の河原。
僕は、この河原に建つ「フェリーマンカンパニー」という渡船会社に勤める三途の川の渡し守。
今日も、渡船場から沢山の死者を渡し舟に乗せ、あの世へと渡している。
僕は、エフと呼ばれている。
どうやら僕は6番目にここへ来た渡し守らしい。渡し守A、渡し守B……6番目の僕は、渡し守F。
恐らく、過去には別の名前があったと思われるのだが、まるで思い出せない。何故ここで働いているのか。いつここへ来たのか。何も憶えていないのだ。
気がついたら、ここで働いていた。まったくトホホのホだ。
ちなみに、渡し守の仕事は、実際に船に乗って死者をあの世へ渡す、いわゆる「船頭」ばかりではない。
乗船する死者の受付。死装束や三角頭巾の配布。乗船員数・出船時刻の管理。渡し舟のメンテナンス。などなど。仕事内容は様々。
僕は、数年前から最終決断補助者という仕事に就いている。
毎日現世とあの世の境目にある賽の河原で働いていると、時折、生者とも死者ともつかぬ、ワンダラーがふらりと訪れる。
ワンダラーが、三途の川を渡るか否かを決める。つまり「生きるか死ぬか」の最終決断をする。そのお手伝いをするのが、僕の仕事。
ファイナルジャッジヘルパーと言えば聞こえはいいが、まあ、事実上現場のトラブル処理係。
ほら、今日もこの賽の河原に、生者とも死者ともつかぬ悲しきワンダラーがやって来た。
賽の河原も、すっかり冬だねえ。
全開にしたオフィスの窓に肘を掛け、冬ざれた河原の景色を見る。今日も、沢山の死者が、係りの者が配布した死装束に着替え、白い三角頭巾を鉢に巻き、列になって順番に船に乗り、静かに静かにあの世へと渡って行く。
室内の空気を入れ替えると、書類疲れでぼーっとした頭がスッキリする。現世から吹きすさぶ寒風が頬に刺さる。
「ぎゃーーー! 誰かあああ、助けてざんすーー!」
おや? どこからか上司の渡し守長の声がする。声の行方を捜す。あや? 渡船場で渡し守長が一匹の犬に追いかけ回されている。あはは、なにやってんだか。よし、犬、行け、そこだ、噛め、噛みちぎるほどに。あ、やべえ。渡し守長が、窓から様子を見下げる僕に気が付いた。
「こらーーっ! エフ君ーー! 何をボーッと見ているざんすー! さっさとこの犬をどうにかするざんすー! 私、犬が大の苦手ざんすー!」
三途の川の迷い犬。人間たちの渡船場より遥か上流に、死んだ動物たちの渡船場がある。稀にこの犬のように、生涯を終えた動物が間違って人間の渡船場に迷い込むことがあるのだ。
渡し守長を渡船場の先端まで追い詰めた犬が、彼のお尻に漫画みたいにガブッと噛みついた。期待通り! おっと、訂正。不測の事態だ!
「ガブッ。ガブッ。フガガッ」
「うんぎゃーーー! 痛いーーー!」
ぼちぼちと河原に出た僕は、渡し守長のでん部に嚙みついて離れない犬に話しかける。
「はいはーい、そこの君ぃー、いったん落ち着こうかー」
賽の河原では、動物とだって普通に会話が出来る。タブレットを起動させて、犬に質問をする。
「えーっと、君、お名前は?」
犬が答える。
「ガブッ。ガブッ。フガガッ」
次の質問。
「君、歳は? おいくつ?」
犬が答える。
「ガブッ。ガブッ。フガガッ」
次の質問――
「こらー! おま、正気かー! 先ずは、私のお尻に噛みついているこれをどうにかしてから質問するざんすー!」
ちっ。面白いからこのまま質問を続けようと思ったのだが、やはり注意されてしまった。
興奮した犬に川の水を飲ませ、落ち着いたところで、再度質問を始める。
「あたしの名前は、モモ。歳は16」
「へえ~、16歳? 君の犬種にしては、長生きしたね」
「犬種?」
「そうだよ、モモちゃん。君は、フレンチブルドックという犬種のメスだよ。フレンチブルドックは平均寿命が10歳というから、大往生だったね」
ブリンドルという、光沢のある黒毛のところどころに虎模様のある毛並みが可愛らしい。
「あたしは犬じゃない! 人間よ! さっきコイツもあたしを犬扱いしたから噛みついてやった! あんたも噛んでやろうか! ガルルルルル!」
そう言ってモモちゃんは、実に犬らしい唸り声を上げた。ひいい。渡し守長が歯形のついたズボンのお尻を隠して怯える。
「違うよ。君は犬だよ。フェリーマンタブレットの情報によれば、君は藤井さんというご夫婦に飼われていたペットだ」
「ペットじゃない! 家族よ!」
よーし、よーし、分かった、分かった、いい子、いい子。僕はモモちゃんの頭を優しく撫でる。犬の習性で、反射的にコロンと寝転がってお腹を見せてしまうモモちゃん。
「か、勘違いしないでよね! あんたに気を許した訳じゃないからね! あたし、そんな安い女じゃないから!」
「しゃー、しゃー、しゃー、いい子、いい子。モモちゃんは、自分のことを人間だと信じているから、間違って人間の渡船場に来ちゃったみたいだね。これからお兄ちゃんと一緒に現世の飼い主のとこへ行って、いろいろ確かめてみよう」
僕はモモちゃんの柔らかなお腹を撫でながら言った。ブヒー、ブヒー。恍惚とした表情のモモちゃんは、短頭種特有の豚のような鼻息を漏らして頷いた。
― ― ― ― ―
僕たちは、モモちゃんの葬儀が行われている斎場に着いた。
『ペット葬』
動物霊園内の斎場には、そう書かれた大きな看板が掲げられらている。その文字の脇に自分と同じ犬種の絵が描かれているのを見て、モモちゃんが愕然としている。
「……う、嘘でしょう? あたし、ペットなの?」
中編へ続く