【ホラー小話】十三夜
人より怪異の方がほのぼのに。
秋の明け方のような冷え冷えとした空気を。
十三夜。
月見の夜。
冷え込むので、ぬくもりを。
人が一番こわい。
十三夜。
夕焼けに染まるひつじ雲。
十三夜の今宵に呼び寄せる。
祖父の住んでいた木造平屋の正面に広がる庭。
その中央辺りに、足のついた将棋盤だったものを置く。
上には、木蓋付きの小ぶりな硯。そして、日本酒を満たしたぽってりと丸い白い水差し。
筆は、写経用の小筆。念の為、予備にかな文字用の小筆も。
文鎮を兼ねた筆置きに、小筆2本を並べる。
日が暮れて冷え冷えとした空気の中、僕は水差しを手に取り、ぐるりと周りを囲むように日本酒を垂らす。
ぱたたっ
冷え始めた地面に吸い込まれる。
たぶん、今夜はあいつは十三夜の祭りに出かけるから、邪魔をされない。
ダウンジャケットのポケットから取り出したのは絵馬が2枚。
1枚は、裏側部分をおじいちゃんが書いたもの。
もう1枚は、未歳の未使用絵馬。
おじいちゃんの絵馬も、未歳のものだ。
僕は、ほうっと息をひそめて吐く。
「やっぱり綺麗だな」
左手におじいちゃんの絵馬を持ちながら、硯に水差しから3滴、日本酒を落とす。
そして、ダウンジャケットの内ポケットから未使用の固形墨を取り出し、覚悟を決めて墨をする。
手の中の墨が、硯の上を滑らかに動く。
おろしたての墨なのに、引っかかることもない。
やっぱり、この墨は特別なのだと、改めて思う。
まだ小学生の頃。
両親を恋しがった僕を慰めるために、おじいちゃんがくれたぬくもり。
ーーーほら、ひつじ雲から羊さんが来てくれたよ。暖かいだろう。一緒に眠るといい。
その時に書いてくれた絵馬を丁寧に模写する。
筆先のわずかな反動をひとつひとつ読み取って、運筆に気を配り、おじいちゃんに教えられたとおりに。
写経用の小筆で間に合った。
最後に筆をためて、じわりと墨を染み込ませる。
将棋盤だったものの上に絵馬を並べて置く。
「大丈夫。出来てる」
ーーー大丈夫だ。出来ている。
おじいちゃんの言葉をなぞるように呟く。
暮れかかった空を見上げて、軽く指を鳴らす。
パチン。
その音を捕まえるように、空から白い4本足が落ちてくる。
もこもこで、白い…
「……ヤギだよな」
足元に跪くのは白いもこもこのヤギ。
「おじいちゃん、やっぱりこれはヤギだと思うんだけどなぁ…」
この世にはもう居ないおじいちゃんに向けて思わず呟く。
ダウンジャケットの内ポケットを胸の上から触れる。
硬い膨らみを感じる。
「絶対、おじいちゃん、羊とヤギを間違って書いてたよなぁ」
手を差し伸べると、猫のようにヤギが頭を当ててくる。
「うん、一晩よろしく」
用意していたシュラフに半分入り、上半身は羊のようにもふもふしたヤギの胴体に預けて空を見る。
月が眩しい。
内ポケットを胸の上から触れる。
おじいちゃんは墨になった。
術師の末期として、決まっていたことだった。
墨をすって、ある特定の筆で書く。
その術の過程で消耗品になる墨。
通常は、植物の油煙と動物の膠で作られる。
ただ、僕たち術師の使う墨は原材料が全て人間で出来ている。
太平洋戦争末期に、空襲が頻発した時大量の墨が作られた。
空襲で亡くなった人間で。
当時の術師たちが、国から何を打診されていたのかは分からない。
おじいちゃんだって、その頃は生まれたばかりで何も知らない。
結局、使われる事はなく、膨大な墨だけが術師たちに残された。
おじいちゃんの死後、それを護り、使用することが、僕の役割となった。
怖かった。
何万人もの人間の塊を管理することに。
ずっと怖気づいていた。
そんな僕へと、術師としての兄から手渡されたのが、おじいちゃんの遺体で作った1本の墨。
「術師の体で作られた墨は特別なんだ」
それと一緒に渡されたおじいちゃんの『遺言』と1冊のノート。
それが僕の覚悟を決めさせた。
その決意表明。
それが十三夜のひつじ雲。
明け方になれば、この白いヤギは消える。
それでいい。
こうやって少しずつ還していく。
僕の一生では終わらないかもしれない。
それでも、ちゃんと役割をもたせて、還す。
水底にいるような月夜。
顔に数滴の雨粒が落ちる。
しばらくして、十三夜と反対の空を見たら、白黒2色の虹。
ひつじ雲のヤギは静かに涙を流す僕に頭をすり寄せて、明け方まで寄り添ってくれた。
消える寸前。
十三夜の祭りの土産を朝帰りの悪友が持って来てくれた。
土産は、栗入り赤飯のお握りだった。
そのひとつをひつじ雲のヤギに、僕は手ずから食べさせた。
ヤギは、
「うまいなぁ」
おじいちゃんの声で一声鳴くと、消えていった。
明け方の冷え冷えとした空気と薄明の中、僕は悪友と一緒にくしゃみを連発した。
少しだけ、笑った。
十三夜。
十五夜と同じ月見の祭り。
でも、神様はいない。
さあ、妄執を見せてみよ。
十三夜。
真夜中、自宅の裏庭にある七竈の前に立つ。
真っ赤になった実をひと枝、手折る。
持ってきた提灯の中央に落とす。
赫赫と光がつく。
今宵は十三夜だ。
夜の秋祭りに潜り込もう。
庭を歩き、暗闇の森手前の八手の大きな葉っぱを1枚拝借。
頭にばさりとかぶり、いざ。
八手の葉の隙間から見える情景は、異形ばかり。
十三夜の月明かりに照らされて見えるものは、異質なものばかり。
人だったものや、獣だったもの。
妖怪として名前のつけられたものが少しはいるが、ほとんどは名すらつけられていない、存在自体が怪しいものばかり。
偶に、オレのような人間もいるが…。
あれ?
同じ高校のクラスメイトの男がいる。
布製の眼帯に首や右腕にはぐるぐると包帯。
肩から下げた布鞄の中には…
「ぶふっ」
鞄の中身のものの内容が視えてしまったので、思わず吹き出す。
なんで、あいつ、ここに紛れたんだろう…ああ、眼帯のせいか。
隻眼で存在があやしいとみなされたのか。
神様が不在の神無月の祭りに、知らぬながらも飛び込み参加した勇気は認めよう。
それにもしかすると、あいつの鞄の中身のものならば、褒美が貰えるかもしれない。
それぞれが灯の入った提灯をもった有象無象の輩。
ひそひそと伝わってきたのが、今年の褒美。
「栗入りの赤飯じゃと…」
〔人の子が作った赤飯じゃ。栗も入っとる〕
「握り飯になっているぞえ」
『柏葉に包まれて…ひいふう…
ななつあるぞ』
今年は7つもらえるのか。重畳。
それにしても中途半端な。
ああ、人から貰った奴が1つ食べたのか。
仕方ない。
さて。
《はじめよ》
神だったものが、号令をかける。
それぞれが持ち寄った灯を掲げる。
『あの人のランプは眩しいですね』
〔あれは、殺した旦那の目玉だ。女の嫉妬は怖いねぇ〕
「ああ、あっちはそろそろ消えそうだ。都から騙し討ちで娶った姫さまの右手だ。綺麗な字で扇に歌を書いてくれた」
〔よくあの受領が許したな〕
『ふっふっ、そこは色々…のぅ』
各々が好き勝手にものを言う中、クラスメイトの男は動かない。
「よい十三夜ですね。何か珍しいものはありますか?」
オレは暇そうな神だったものに話しかけると、見飽きたものばかりなのか、気怠そうに答える。
《あまり目新しいものはないようじゃが、まぁ、放たれるものが偶に出るかのう。ほれ、神の居ない月じゃて。ちぃと緩むんじゃよ》
すいっと手のない袖を上に向ける。
《ほれ、こんなふうになぁ。》
誰かの提灯の炎が揺めき、上の空いた所から蝶が舞う。
炎の蝶だ。
鱗粉のように火の粉を散らして天上へと舞い上がり見えなくなった。
『千年近い束縛からよう逃れましたなぁ』
〔ほんにほんに。あの男の妄執もようやく薄れましたか〕
知る人も全て亡くなり、誰にも弔いすらされぬ魂が、ゆらりと空へ抜け出る。
神様の目を盗んで。
ここに集まるのは妄執の灯。
一番強い妄執の持ち主が、褒美を貰える。
オレはそっと、クラスメイトの男の横に立った。
「君は何の灯を持っているの?無いと、喰われるよ」
オレは八手の隙間からにっこりと笑ってみせる。
ニセモノの妄執に七竈の実を提灯で掲げるオレはさらりさらりと嘘をつく。
一通り視たところ、こいつが一番強いものを持っている。
本人は、晒されたら絶対に死にたくなるだろうけど。
「え、えと、あの、おれは、何も」
ぎゅっと布鞄を抱きしめて、目をキョドキョドと動かしている。
眼帯姿で今さら何をためらっているのか。
ほら、右手の包帯ほどけてるぞ。
「大丈夫。その鞄に入っているノートをこの提灯の中に」
オレは七竈の実を取り出し、勝手に鞄の中のノートを提灯に立てるように入れる。
「あ、それは!」
「褒美は山分けだな」
にやりとオレは笑うと提灯を高く掲げた。
そこから漏れる妄執の念。
じわりと灯りと共に漏れ出す。
流れ出る情景は、奴の妄執。
垂れ流されるのは、空想の物語。
男子高校生が異世界転生して、チート主人公になる。その周りに群がるのは、布面積の小さな装備をつけた肌の見える女の子たち。
女の子のハーレムの中心にいるのは、眼帯をして、片腕に包帯をしている少年。
「やめてくれぇー!」
クラスメイトの男は悲鳴をあげて、眼帯をしたまま顔を覆って地面にうずくまる。
『こんなものは見たことがない。なんと色鮮やかな妄執じゃ』
〔ほほう、この妄執は存外に強いぞ〕
「すごいぞ、すごいぞ。この小童の情念がここまでとは」
さざめく異形のものたち。
オレは八手の下で、こっそりと笑みを浮かべる。
神だったものが、意見を取りまとめ、裁可を下す。
《うむ、かつてない妄執。見事だ。褒美はお前にやろう》
地面に伏したままの奴の代わりに、オレはしずしずと進み出て、柏葉に包まれた赤飯のお握りを受け取る。
「ありがとうございます。受け取りました。あとはよしなに」
鞄に握り飯を4つ入れてやる。
クラスメイトの男はまだうずくまっている。
《さあ、祝いだ祝いだ。そこのくずおれた男を燃やせ》
放たれた炎は鬼火。
クラスメイトの体に燃え移るのを見てから、オレは祭りからそっと離れた。
祭りの空には、膨らみ足りない月と白黒2色の虹。
逃げた炎の蝶と鬼火が、雨を呼んだのだろう。
秋の祭りは静かに続く。
十三夜の月明かりと、虫たちの音色に覆われて。
オレは栗入りの赤飯を3つ握りしめて、悪友の元へ向かった。
きっと、夜通し泣いて、腹を空かせているだろうから。
明け方近くの冷え冷えとした空気の中、暗闇の森を出たオレは、八手の葉っぱを近くの川へと投げ捨てて走り出した。
十三夜。
秋の実りに感謝する。
小豆は手間がかかる。
十三夜の前に、洗わねば。
十三夜。
女心と秋の空。
今日は機嫌がいいから、空も晴れている。
すっかりウエストが行方不明の腰に手をあてて、軽く空を眺める。
花柄の農作業用フードをかぶり、いざ畑へ。
10月は忙しい。
今日は晴れたので、朝のうちに畑から小豆を根っこから引っこ抜いて、まとめて束にする。
それを家に持ち帰り、天日にあてて乾燥させると、ぱちぱちと赤い小粒の実が弾き出る。布団叩きで刺激を与えれば、どんどん出てくる。
そこからまた手間をかけて、なんやかんやで小豆が5升の竹ざるいっぱいになった。
「これを全部洗うのかぁ…」
洗った後はまた天日に干さなければならない。天気よみが面倒くさい。
伯母から貰った農作業土間付きの家は、無駄に広い。座敷に干しっぱなしでも構わないが。
「あ。…伯母さんが言ってたわね。小豆を洗う日は教えてもらえるから大丈夫って。なんだろう」
秋の収穫に満ちた毎日の労働のご褒美に、囲炉裏端で日本酒を煽る。
めでたく熟年離婚をして早2年。
すっかり田舎暮らしも板についた。別れた夫のことは、正直全く思い出す暇もない。
手や体を動かすことでいっぱいいっぱいだ。
「やっぱり60前に別れて正解だったわー」
独り言は増えたが、気にしない。体が動けるうちに、日々の暮らしのリズムを体に叩き込む。出来るだけ1人で生活して、介護施設も何も利用せずに大往生で死にたい。
「ふぁ〜。さて、歯を磨いて寝るか」
月を眺めて歯を磨く。
やけに冴え冴えと見える。
カレンダーを見れば、明日は十三夜。
1人だけの寝室で、悠々と布団に入って目を閉じれば夢の中。
それを妨げるのは、しゃかしゃかと甲高い音。
ーーー小豆は西側のあの川で洗うといいから。
今は亡き伯母が夢の中で話す。
ーーーほら、アズキアライが教えてくれるから。お礼に小豆入りの赤飯を川べりの祠にあげなさい。重箱に入れちゃダメよ。返ってこないから。
遠くから川音よりも耳に響く、しゃかしゃかという音。
ああ、あれは《アズキアライ》か。明日、洗うか…。
半覚醒のまま、翌日のスケジュールを頭に刻み込んだ。
起きれば快晴。
テレビで天気予報を見れば、向こう1週間は晴れ。
「すごいわぁ…」
驚きと呆れが半々のまま、川の近くまで手押しの一輪車に竹ざるを乗せて運ぶ。
竹ざるを水のそばまで抱えて運び、洗い用の浅めのプラスチックのざるに小分けに入れては小豆を洗う。
しゃかしゃかしゃか
まるで自分が妖怪になったような気分だ。
川の水は冷たいが、耐えきれないほどでもない。小さな砂を全て洗い落として綺麗な小豆に仕上げてみせよう。
しゃかしゃかしゃか
川音に混じり、遠くから似たような音が違うリズムで流れてくる。
時々音が鳥の声や木々のざわめきと重なる。
手を止めてもどこかで小豆同士が当たる音が鳴っている。
これはもしや。
だんだん楽しくなってきたので、小豆洗いをしながら、
「アズキアライさんは、小豆の入ったお赤飯は好きかしら?」
と、大きな声で独り言をしてみる。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
それに応えて、音が激しくなる。
どうやら好きらしい。
ふふふっと笑うと、浅瀬の対岸の木立から人の足音が聞こえてきた。
ええ?森から誰か来た?
不審に思って目を細めて注視すると、ふらふらとした足取りで近付いてくるのは、リュックを背負った別れた夫。
「……あ、あ、ようやく、人に会え…た。あの、助けてください。道に迷って7日何も食べてなくて…」
ばしゃばしゃと膝まで水に濡れるのも気にせず、元夫が近づいて来る。
ホラーだ。
「……何してるの?」
「え、おまえ、ここに、なんで」
ようやく私を認識した元夫が、焦点の合わない目で見つめてきた。
「住んでるから、ここに。で、何で道に迷ったの?」
濡れた手についた小豆を丁寧にざるへ落とすと、私は元夫に向かって立ち上がった。見上げる体勢になっていることにイラッとしたからだ。
元夫は、私をじいっと見つめると、掠れた声で答えた。
「…栗拾いで道に迷った」
「栗?森で迷ってここまできたの?」
「そしたら、明け方からしゃかしゃか音が聞こえていたから、それを頼りに歩いてきた。
…はぁ、7日ぶりに人に会った…」
川から上がり、私の近くにしゃがみこむ元夫。
ごそごそとリュックを下ろして開けると、中にはたくさんの山栗。
「…これ、あげるよ。栗ご飯と…渋皮煮を作ろうと…思ったけど、俺…渋皮煮…作れない。あれさ、……全部作ってもらってたんだって、迷っている間に思い出した」
還暦も過ぎた男がひとり跪いて、私に捧げる両手いっぱいの山栗。
思わず眉間に深い皺が寄る。
関わりたくないなー。でも7日間食べてないってことは、病院行った方がいいだろうから、救急車呼ばないとなー。その手間賃かなぁ。あーでもなんか嫌ー。
でも、無料奉仕も、もう嫌だしなぁー。
大きなため息をひとつ。
そして、私は腰に手をあてて、大声で叫んだ。
「アズキアライさーん!栗の入ったお赤飯食べたいー?」
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
今までで一番早くて力の入った音が聞こえた。
「何を?」
不思議そうな顔の元夫。
「仕方ないわねぇ…。山栗と交換で、白湯と電話を用意してあげるわ」
一旦、小豆洗いは諦めよう。
明け方から小豆を洗う音が聞こえたのなら、それは私じゃない。アズキアライさんが呼んだのだ。
そういえば、救急車はここまで来るのに1時間かしら。自分の時のために検証としていいのかもしれない。
私は洗い用のざるにリュックの中全ての山栗を入れて抱えると、ふらふらと後ろを付いてくる元夫と一緒に家へと戻った。
その夜。
洗い終わった小豆から2合ほど選別して、水に浸した。バケツには餅米を浸し、山栗の皮は剥いてから寝た。
翌日、川べりの祠の前に、栗入り赤飯のお握りを置いた。重箱は返されないらしいので、お握りは庭の柏葉で包んでおいた。
8個全て日暮れ前にはなくなっていた。
アズキアライさんは、人命救助ではなく、栗目当てで元夫を呼んだようだ。
やれやれ。
あれから、1か月。
小豆は見事に乾き、虫食いや粗悪な豆の選別も終わった。
選別作業で凝り固まった肩をのばしていると、固定電話のベルが鳴る。
久しぶりの友人からだった。
『最近どう?』
「女心と秋の空。
最近は、毎週末どしゃ降りの大雨気分よ。実際は曇り空だったり、晴れてたりするから、畑へ行ってるけど」
『何よそれ。何かあったの?』
「毎週末、離婚した元夫が復縁を求めて家に来るようになった」
『それはホラーだわ』
「でしょ?」
やれやれ、だ。
【 十三夜 】