07.
灯りのともった薄暗い階段を、黒髪の少女が駆け降りていく。
肩口に垂らした臙脂のローブを揺らし、襟元正しく着込まれた軍服にはシワ一つ見受けられない。腰には使い込まれた細剣が刺さっており、口端をきりと結んだ少女の顔つきは、どこか険しく物々しい雰囲気を放っていた。
やがて突き当たりに半開きの扉が見えてくると、少女は勢いよく部屋の中へと駆け込んだ。
「失礼します」
カビ臭い半地下の空間に、凛とした声が響き渡る。部屋の中は書類やガラス瓶、何かの実験道具のようなもので埋め尽くされており、少女は床に散らばったそれらのガラクタを踏み分けながら、部屋のさらに奥へと足を進めた。そしてもはや物置きと化した広い書卓の物陰に、誰かの姿を見つけ立ち止まった。
「やあリファ、そろそろ来る頃だと思っていたよ」
両脇に背丈よりも高い紙の山をこさえ、猫背で筆を走らせる年若い男が一人。顔の横に長い髪を垂らし、クマのできた切れ長の目を細め笑みを浮かべていた。
リファはその男の身なりと辺り一帯を大きく見回すと、肩を落とし溜息をついた。
「……何日目ですか?」
男は笑顔のまま答える。
「三日……かな?」
「お食事は?」
「摂っていない」
「お召し替えは?」
「……かろうじて」
それを聞いて、リファは二度目の溜息をついた。その数字は男が眠らずに働き続けている日数を示しており、今も話しながらさりげなくペンを走らせるこの男こそが、クルシュナ王家の血を引く第二王子リュウン本人であった。
ここは皇宮内の地下にある旧第二書庫と呼ばれる場所で、今は誰も立ち入ることのない鼠の穴蔵となっている。そんな場所に徹夜で入り浸り彼がやっていた事と言えば、大抵は新薬の開発か報告書の整理などであった。
「全く……少しはご自分の身体も気遣ってください、大体貴方はですね、」
「まあまあ、お説教は置いといて、まずは話を聞こうか」
そう言うと、リュウンは書き終わった書類を後ろへと投げ置き、代わりに書卓の引き出しから西洋軍棋の盤を取り出し広げた。そしてその駒のひとつひとつを丁寧に並べ始める。話を聞く時の手遊びは、彼の癖のようなものであった。
リファはしばらくその様子を眺めていたものの、やぎて痺れを切らし懐から一枚の紙きれを取り出すと、それを男の眼前に突きつけた。
「これは一体、どういうことですか」
「ん……?」
リュウンはその紙をちらと見やっただけで、また駒を並べる作業に戻ってしまった。どうやら白を切るつもりのようだった。
「今度の東方遠征部隊の人選リストです、ちなみにここに私の名前はありません。今回の教練大会で一位を取れば、私を遠征隊に加えてくださると約束しましたよね?」
掲示板から無理やり引っ剥がされたそのリストは、四隅の紙が破れ歪な形をしていた。その中には三十名程の軍人の名が記載されており、その全員が王政派の人間、第二王子である彼に付き従う者達であった。
「いやあ……遠征隊の人選は、全てルスタム部隊長にお任せしていたもんだから」
リストの一番上に名が載った人物である。今回の遠征隊の指揮統率を任されていた。
「とぼけないでください、私は隊に志願していたのですから、あなたが裏で手を加えない限り、ここに名前が載ったはずです」
根拠は無かったが、リファには自信があった。
エルドラ奥地の散策を名目にこれまで計三回の東方遠征が行われ、そのいずれもが未成果のまま終わっている現状において、満を辞して計画された今回の第四回遠征。指揮官のルスタムを中心に王政派の精鋭が集められ、若手の中では一、二を争う剣の腕を持つリファは、経験こそ浅いが当然選ばれるべきだと自負していた。
それがいざ隊の人選が終わってみると、どこにも自分の名は無く、代わりに教練大会の初戦でリファに肩の関節を外された同じ若手の名を見つけた時には、掲示板の前で呆然と立ち尽くすしかなかった。
「どういう事か、説明してください」
リファが咎めるような鋭い視線を向けると、リュウンは観念するように両手を上げ、かぶりを振った。
「実は少し事情が変わってね、君に頼みたい事ができたんだ」
「……え?」
リュウンは長い前髪を掻き分けると、棋盤の隅に立てた小さな駒を指で押さえ言った。
「弟を助けに行ってほしいんだ、西郊外の外れにある監獄塔に、もう長いこと幽閉されている。今年でもう十五歳になるかな」
帝都の外れに人知れずひっそりと隔離された、クルシュナ王家の隠し子。その存在自体は、リファも小耳に挟み知るところではあった。しかしーー。
「助けるというのは、一体どういう事ですか?」
「言葉の通り、塔から逃してやって欲しいんだ。このままだと議会の連中に殺されてしまうからね」
リファは驚き、思わず目を見張った。
「今までは彼の母親の懇意でなんとか生かされていたけれど、その母親が亡くなってもう三月になるからね……本来はユジン兄さんの跡取りが生まれた時点で、とっくに処分されていてもおかしくはなかった」
王家の血を引く人間は、いつの時代も議会の定めた以上の数になることは許されなかった。しかし彼に限っては、特例中の特例。元は国外より招かれた優秀な学者である母親の功績を理由に、今日まで生かされてきたのだった。
「惜しい人を亡くしたものだ……あの母親はそれは美しく、それでいて聡明で探究心もある素晴らしい女性だった。父上が目移りしてしまったのも、頷けるよ」
本題からは外れている上、今は亡き奥方の事をうっとりと語るリュウンに、リファは軽く嫉妬心を抱き顔をしかめた。
「あれ、何怒ってるの?」
「……いえ、それで私の仕事は、その幽閉されている弟君を、処刑の日までに連れ出せばいいんですね?」
それだけであればただの一日仕事に過ぎず、これでは遠征隊に加わる事を阻止した理由にはならなかった。ともすれば、 鼻歌混じりに駒を並べ悦にいるこの男には、何か他の思惑があるということだった。
その思惑を探るようにリファが視線を送ると、リュウンは口端を持ち上げ不敵な笑みを浮かべ、その真意をゆっくりと語り始めた。