06.
クルシュナ帝国領東南端の町リッカより、東へ馬を走らせること十日。広大な岩盤地帯を抜け、大陸の裂け目と呼ばれる深い谷を越えた先にあるのが、エルドラの地であった。
そこはかつて精霊神アリアによって創られた、人ならざる者たちの世界。深層生物たちの巣窟であり、さらにその奥地へと進んで行くと、生態系の頂点に君臨する飛竜たちの楽園があると言われている。
そこへ辿り着いた事のある人間は、一人の冒険家を除いて他にはいない。彼の書き上げた見聞録は、国境を越え多くの人々の好奇心を駆り立て、彼らを谷の向こうにあるエルドラの地へと導いた。
しかし、未だその先にある楽園を見つけた者は一人としていないまま、百年が過ぎようとしていた。
赤茶けて切り立った岩山を登り切ると、眼下には大陸を二分する底の見えない真っ黒な亀裂があり、見渡す限りその裂け目はどこまでも続いている。そして亀裂の向こう側には、大きな翼を持った飛竜たちが、何頭かの群れをなし自由に飛び回っているのが見えた。
そのうちに群れから外れた一頭が、尾をうねらせ羽ばたきながらこちらへ近づいてきた。遠くに見えると思っていたその影はみるみるうちに迫ってきて、一度視界から消えたと思った次の瞬間、紺碧の瞳に鋭い爪と牙、銀色の鱗を持った飛竜の巨体が、足元から凄まじい風と共に現れた。
「…………イリク様?」
青白い視界が弾け飛び、イリクは瞬く間に塔の中へと意識を引き戻された。
「どうかされました?」
「い、いや……大丈夫、ごめん」
リファは訝しそうな目でこちらを覗き込んでいた。
イリクは額に浮いた汗を拭いながら、話を元に戻した。
「それで……本当に兄さん達は探しにいくの? その新天地を」
「捜索自体は、すでに半年前から始まっています。王政派の人間の中から遠征隊が三十ほど組まれ、聖地リッカを拠点に東大陸の奥地を調査中です……が、」
リファは表情を曇らせ言った。
「正直、まだその足掛かりさえ掴めていない状況です。なのに隊は半数以上がすでに行方不明になっており、深層生物との遭遇や、他の派閥連中との交戦が日に日に激化しているようです」
「そんな……」
ただでさえ攻略困難な地に挑もうというのに、仲間同士で争っていては元も子もないとイリクは思った。それではいずれ兵が尽き、力が弱まったところを議会につけ込まれかねない。むしろそれこそが議会連中の真の狙いでは無いかと、イリクは睨んでいた。
「じゃあリファ……君も兄さんの為に、行くの?」
「ええ、もちろん、あの方をこの国の王にする為なら、私の命など少しも惜しくはありません」
リファの目には迷いなど微塵もなかった。自分とそう歳の変わらないだろう少女に、そこまでの決意をさせる兄の存在が、イリクは誇らしくもあり同時に恐ろしくもあった。そしてその言葉を聞いてひとつ、イリク自身も決心できた事がある。
「ところで、僕を王に立ててくれる派閥っていうのは、無いよね」
「無いと思います、本来正室の子でないあなたは、議会にとっても我々にとっても異例の存在ですから」
分かりきっていた事だが、こうもあっさり言われると少々傷つく。
イリクはちょうど東側に設けられた壁面の窓から外を見つめ、決して落胆ではないため息を落とし言った。
「じゃあもう、自分で行くしかないよね」
「え……?」
「僕も行くよ、その新天地を探しに」
どうせこの塔を出ても、行く当てなどどこにも無いのだ。もちろん助けてくれた兄の元へ逃げたいという気持ちも少なからずあったが、それでは結局、従う相手が議会ではなく兄に代わるだけのこと。それよりは、二人の兄達と同じ目的を追い、自分も対等でいたいというのがイリクの本音だった。
それを聞いたリファは、驚いているのか怪しんでいるのか、眉を顰めたまま黙り込んでいた。
そうしているうちに、塔の下から人の話し声が聞こえてきて、二人は顔を見合わせ階段の上から一階を覗き込んだ。交代の衛兵達である。塔の入り口が空いている事に驚いたのか、何やら騒ぎ立てている様子だった。
「とにかく、今はここを出ましょう」
リファに腕を引かれ、イリクは半ば落ちるようにして階段を降りた。
「あの、それと」
「なんですか?」
「助けてくれてありがとう、リファ」
例え兄の命令だったとしても、実際に命を賭して助けてくれたのは彼女である。二人一緒に斬り伏せられた時には、身を挺して自分を守ってくれた。
イリクはそのお礼をまだ言っていなかった事を思い出し咄嗟に口にしたが、リファは少し困ったような笑みを浮かべるだけで、何も言わずそっぽを向いてしまった。
幸い、まだ脱走した事には気付かれていなかったのか、二人は空いた牢屋に少しの間身を潜め、隙を見て大扉をくぐり外へと抜け出すことができた。
外は嘘のように澄んだ空気が満ち満ちており、腰丈までの草が生い茂る、朝靄のかかった静かな草原だった。
「冷たい……」
イリクにとっては六年ぶりに味わう、新鮮な朝の空気である。そしてここへきてようやく、自由を手に入れられる喜びを少しずつ実感できるようになった。
「さあ、行きましょう」
そう言って身をかがめ、草を分けながら進んでいくリファの後を、見失わないよう追いかけた。
そしてイリクはふと後ろを振り返り、霧がかったその鈍色の塔を目に焼き付けると、二度と戻ることはないだろうと思い、再び前を向いた。