02.
旧王朝時代の大陸戦記に、感情の無い冷徹な強戦士達の記録がある。
彼らは帝国軍の特別な訓練を受けた戦士達で、戦闘に不必要な感情を排除することで、真の強さを手に入れられると刷り込まれている。
もちろん今はそんな訓練法自体が禁じられており、実際にその戦士達をこの目で見たわけではない。だが何故だが、イリクは突如目の前に現れたその男を見た時、全身に怖気が走るような感覚に襲われ、書面上でしか知らないそんな旧国の戦士達の事を思い出していた。
男は一枚岩のように屈強な身体つきと、ナイフのように鋭く釣り上がった目をしていて、背丈はイリクよりも軽く頭二つ分は大きかった。
そして腰に長剣を二本と軍服のようなものを着ていたが、見張り番の衛兵達とは明らかに風格が違う。薄暗闇の中から突如現れ、どこも見ていないようなその淡白な瞳には、一点の光も灯されていなかった。
「この塔に幽閉されている第三皇子というのは、お前か」
「……え?」
男は無表情のまま、キョロキョロと辺りを見回した。
「ここで何をしている」
それはこちらの台詞だと思ったが、おそらく塔の大扉を開けた犯人はこの男であり、軍人なのだとしたら、イリクにとって今の状況はそれなりに都合が悪かった。
「ええと……衛兵さんの具合が悪そうだったから、今外に人を呼びに行くところだったんです。でももう、戻って大丈夫ですね」
イリクはもはや続きなどどうでも良くなった本を背中に隠すと、我ながら白々しいと思う空言を並べ、その場を去ろうとした。どうかこのまま、何事もなく部屋へ帰して欲しかった。
ところが男は当然のように目の前に立ち塞がると、突如腰の剣を抜き、その切先をイリクの喉元に突きつけ言った。
「選べ、我が主ユジン様に忠誠を誓うか、ここで死ぬか」
イリクの頬を、生温い汗が伝う。
男が何を言っているのかは分からなかったが、ただ一つ確かな事は、この男は自分の意思ではなく、誰かの命令でここへやって来たのだということ。そしてその命令を下した人間こそ、イリクの実の兄であり、ここクルシュナ帝国王家の正統な継承者たる男だという事だった。
齢十二を超えた王族同士の接触は、帝国議会によって固く禁じられている。それを承知で兄がこんな行動にでたのか、それとも外の世界で、何か大きな異変のような事が起こっているのか。何にせよ、三年もの間ここ石の塔で隔離され暮らしていたイリクには、それを知る術は何も無かった。
「答えないなら、殺していいか」
「……!?」
男は考える暇を与えてくれるどころか、自ら答えを出し抜き身の剣を持ち直した。その切っ先は男の目付きのように鋭く、薄暗闇の中でも鈍い光を放っている。
そうしていると、おそらくはこの異常事態にやっと気が付いたのか、階段を駆け下りてくる衛兵達の足音が聞こえてきた。
「誰だ……!?」
「お前そこで何をしている!」
部屋がもぬけの殻で相当に焦ったのか、衛兵達の顔からは血の気が引き汗が玉のように吹き出していた。
そして一階フロアに辿り着いた彼らは、脱走したイリクを見つけ安堵する間もなく、そこに居るはずのない怪しい男の存在に驚き身構えた。もちろん構えると言っても、一般兵に配られる飾りのようなただの細剣である。たとえ二人がかりでもこの屈強な男には歯が立たないだろうと、イリクは思った。
男は現れた衛兵達に軽く一瞥をくれると、やはり無表情のまま、剣を手に向かってくる二人をあっという間に蹴散らしてしまった。
一人は階段から地下へ落ちそのまま伸びてしまったが、もう一人は壁に叩きつけられ、圧倒的実力差を前に戦意を失い、その場にうずくまっている。その震える背中を見下ろし、男は剣を持ち上げたかと思うと、そのまま衛兵に向かって躊躇いなく振り下ろした。
しかし間一髪のところで、男の振り下ろした剣は横に逸れ、衛兵の肩口を少しえぐっただけで空を切った。咄嗟にイリクが、持っていた本を男の横腹に向かって投げつけたからである。自分でも、何故そんな事が出来たのかは分からなかった。
「早く逃げて! 外で人を呼んできて!」
イリクは叫んだが、衛兵はすっかり恐怖に呑まれてしまっていて、その場を動こうとしなかった。
そしてそれをきっかけに、巨体の男は標的を再びイリクへと移し、一度外した剣の振りを確認すると、こちらに向けて今度は確実に振り下ろしてきた。
とてもじゃないが躱せない。と、イリクは瞬時に死を意識した。しかし男の剣先はこちらの頭を真っ二つに引き裂く寸前でぴたりと止まり、男は少し驚いたような様子で、剣を止めたまま口を開いた。
「なぜ、抵抗しない」
「え……?」
「理不尽な死に抗いもせず、自らの手で戦おうともしないのか」
イリクは何故自分が責められているのかも分からず、ただただ男を見上げ固まっていた。
「お前、本当にあの方の弟か……?」
呆れるようにそう呟くと、男はまた表情を塗り固め、剣を振りかぶった。今度は寸前で止めたりしないだろうと、イリクは思った。今度こそあの重たい剣に切られ、死んでしまう。
咄嗟に隣を見ると、さっきまで地面に蹲り震えていた、衛兵の姿がない。きっと逃げたのだ。そして自分はここで死ぬ。呆気なく、正体すら分からない男に好き勝手罵られたあげく、無様に死んでしまうのだ。
地面についたままのイリクの手が、ぴくりと動いた。その瞬間、イリクは目の前に立つ男の背後に、何者かの影を見た。
僅かにしか開いていなかった大扉の半分が勢いよく開け放たれ、そこから侵入した何者かが、男の巨体に襲い掛かった。