01.
分厚い石壁の向こうで、虫の鳴く音が聞こえる。
夏の訪れを告げるその涼やかな音色は、高窓に張られた鉄格子の間をすり抜け、青い月明かりと共に部屋の中にまで届いていた。
四方を巨大な溶岩石の壁に囲まれ、市街地の外れにぽつんと建てられた石の塔。高さは見上げる程ではないが、かつて罪人の収監場所となっていたこの場所には、今は使われていない小部屋が沢山設けられている。
そしてその最上部に、薄ぼんやりと橙色の光を灯す部屋が一つ。中は簡素な寝床と書卓があるだけのシンプルなものだったが、蝋燭の灯されたその書卓には食べ終わった食器がそのまま放置され、埃を被った古書が絶妙なバランスを保ち山と積まれていた。
そしてそのうちの一冊を膝に抱きかかえ、椅子に座って熱心に読み耽る胡桃色の髪の少年――イリクは、不意に紙をめくっていた手を止め、顔をしかめた。
「また検閲か……」
開かれたページの間部分は不自然に十枚ほどが破り捨てられており、そこに記された内容を知ることは出来ない。ここに置いてある読み物の大抵が、そうして一度は誰かの手によって精査され、何らかの理由で情報を一部規制された物ばかりであった。
(こんなに古い手書きの文献まで、ご苦労なこった)
心の中で顔も知らない検閲官に皮肉を垂れると、イリクは宙を仰ぎ深い溜息をついた。
普段は別に、こんな事でいちいち凹んだりはしない。十歳の時にこの塔へ連れて来られてからというもの、何をするにも自由を虐げられてばかりである。だから慣れていると言えばそうだった。
しかし、何故か今日に限っては、イリクは無性にその本の続きが読みたかった。
塔の地下に作られた囚人用の古い書庫。普段は見張られ決まった棚からしか本を持って来れないが、もしもこっそり忍び込む事が出来れば、どこかにある切り取られた本の一部を見つけられるかもしれない。
イリクはさっそく入り口の扉に張り付き、息を潜め小窓から外の様子を窺った。
(今日の見張り番は、確か……)
扉のすぐそばに、形だけの甲冑と剣をぶら下げた見張りの衛兵が一人、壁にもたれかかり豪快にいびきを掻いていた。そして反対側の通路を見ると、階段のすぐ脇にもう一人、酒瓶を転がしこちらは泥酔した様子で、やはり居眠りをしていた。
この塔の見張りは十六人程の衛兵の中から規則的に二人が選抜され、半日交代で巡回するようになっている。幽閉された当初はもう少し人数がいたが、無抵抗で大人しい子供を見張るのには余りあったのか、次第にその数は減っていった。そして中には不真面目な勤務態度の者も混じっており、その二人の見張り役がちょうど今夜重なった事も、運が味方していると言わざるを得ない。
イリクは読みかけの本を脇に抱え、静かに部屋を抜け出した。扉には錠のようなものも一応備え付けられてはいたが、それもかなり年季が入っていて、小窓から棒か何かを伸ばせば簡単に外れる仕様になっている。
そして泥酔した衛兵の懐から地下書庫の鍵を盗み取ると、そのまま地下へ向かって階段を駆け降りた。急いで本の続きを見つけて部屋に戻れば、どうという事はなかった。
ただ、地下へと降りる道すがら、塔の一階フロアに降り立ったイリクは、そこにある信じ難い光景を目にして、思わず足を止めた。
石の塔の入り口である大扉が、半分開いているのだった。それも、見える限りは無人の状態で。外から吹き込む冷たい風が、立ち止まったイリクの髪を吹き上げ、そのまま塔の上へと吸い込まれていく。
こんな事はあり得なかった。塔内の警護はいくら手薄でも、この大扉だけはいつも、外からの鍵で厳重に閉ざされていたからである。
「誰か、いるの……?」
ただならぬ雰囲気に、イリクは思わず辺りを見回した。周りには人の気配はなく、ひょっとすると、外の衛兵が今日は扉を閉め忘れたのかもしれない。いやそれよりも、今この足で塔を出てしまえば、容易く自由を手に入れられるのだ。もちろん見つかれば死刑は免れられないだろうが、夜のうちに市街地に紛れ込んでしまえば、何とかなるのかもしれない。
そんな考えが一瞬で頭の中を駆け巡り、イリクは気がつけば、一歩、また一歩と扉に向かって歩き出していた。そしていよいよ塔の外に出ようとしたその瞬間、背後に何者かの気配を感じ、振り返った。
そこに居たのは、青白い薄暗闇の中に佇む一人の男だった。