03.
一体どのくらい時間が経ったのか、イリクは静まり返った牢屋の隅にうずくまったまま、ぼんやりとグレンが消えた天井の扉を見つめていた。
そしてふとこの場所から見える光景が、昨晩夢に見た少女の状況となんとなく似ている気がした。彼女は一体、どんな気持ちであそこに座っていたのだろう。考えても、想像の及ぶものでもない。ひとつ確かな事は、たとえ状況は似ていても、今いるここから少女のいる場所までは、あまりにも遠すぎるという事だった。
(さて……これからどうしたものか)
とりあえずは起き上がり、イリクは辺りの状況を確認した。
牢屋の鍵は外からかけられており、憲兵の姿も今のところは見当たらない。幸い前部分は壁ではなく全面格子の牢屋だったおかげで、突破口さえ見つかれば何とか脱出できそうでもある。石の塔で散々知恵を絞った経験が、まさかこんなところで生きてくるとは思わなかった。
牢を開けるためには鍵が必要になる訳だが、その鍵はグレンが適当に投げ捨てたせいで、少し離れた場所に落ちていた。とても手を伸ばしても届きそうはなく、イリクは自分の着ていた服や剣を使ってなんとか手繰り寄せようとしたが、結局は徒労に終わった。
そして座り込み次の策を思案していると、ふと、ある事に気がついた。懐を探り、ローブのポケットも隈なく調べる。するといつから潜り込んでいたのか、音もなく黒い塊が床の上に滑り落ちてきた。
「よかった、ついてきてたんだな」
今この時ほど、ホロの存在をありがたいと思った事はない。眠っていたのか目は三つのうち二つしか開いていなかったが、それでも十分だった。
イリクは早速ホロに鍵を取ってもらおうとしたが、ここである問題に気が付いた。精霊獣であるホロには言語が通じず、思えばこれまで、何か意図を持ってこいつを動かそうなどと試みた事はなかった。いつも知らないうちに服の中などに隠れており、最近では気まぐれでリファの所にいることも多かった。
しかし船を降りここまで一緒に行動しているという事は、ホロにも何か意思のようなものがあるという事だった。意思があるのならば、そこに働きかけることさえ出来れば、こちらの意を伝えることも理論上は不可能ではないと思った。
問題は、その方法である。
イリクは腰にさしていた霊剣を握りしめ、母の記憶を辿った。イリクの母シーラは、精霊と心を通わせるのが上手かった。それは意思を持たない光や火を司る微精霊を相手にしたものだったが、それならば、物質としての肉体を持つ精霊獣とて同じことが出来るはずだった。
イリクはしゃがみ込み、試しに床の上にいたホロに向かって頭の中で念じてみた。昔の母がやっていた見様見真似ではあったが、意識を集中させ、ホロの波長に自分の波長を重ね合わせるようイメージした。
すると次の瞬間、イリクの入っていた檻の鍵部分が、突如何の前触れもなく小さく爆散した。壊れた鍵の破片が床に飛び散り、扉は弾みでぎいと音を立て勝手に開いた。
イリクは思わず胸を突かれたかのように後ろへと飛び退いた。
最初は火薬か何かが爆発したのかと思ったが、どうやら違うらしい。急いで扉に駆け寄ってみると、鍵部分とその周りが不自然に黒ずんでおり、手を触れるとまるで炭屑のように朽ち落ちた。
「ホロ、これ……お前がやったのか」
もちろん返事はなく、ホロは肩の上で頭を傾げていた。
彼ら精霊について、イリクはもっと知る必要があるのではないかとその時思ったが、ゆっくり考えている暇はなかった。今の音を聞きつけ、憲兵達が様子を見に降りてくるかもしれないのだ。
イリクはグレンの出て行った天井の扉に手を掛け、そのまま地下通路へと潜り込んだ。
中は思っていたよりも狭く、ずっと屈んだままの姿勢で縦横に伸びる通路を闇雲に歩いた。グレンが一体どの道を通り、どこへ向かったのかは分からなかったが、イリクはとにかく地上に出て帰りたかった。今頃リファが探してくれているとしたら、それはもう今までで一番怒らせる事になるだろうと覚悟した。
そして地下通路をしばらく歩き回り、ようやく出られそうな場所を発見した。ただそこは地上に繋がっている風ではなく、ここまで進んできた感覚では、むしろもっと地下深くに潜っている可能性もあった。
しかしそれでもとりあえずはと思い、イリクは通路の突き当たりにある格子から外の様子を窺った。見る限り、人の気配は無い。基本的に地下にはあまり憲兵たちはうろついていないようで、イリクは格子をこじ開け外に出た。
そしてすぐに、そこがどういう場所なのかが分かった。乾燥した空気と古い紙の匂い。地下書庫であった。それも随分と広い。部屋の中央には柔らかい臙脂の敷物が一直線に引かれ、その左右には背丈よりも高い本棚が軽く三十は並んでいた。
「……すごいな」
一瞬自分の置かれた状況を忘れ、イリクは感心し周りを見渡した。
個人の所有物としてこの広さと本の量は尋常ではなく、見えるだけでも石の塔にあった書庫の数倍はあった。
しかし領主エルドーが読書家であるという話は聞いておらず、よく見るとどの本棚も埃を被りあちこちに蜘蛛の巣を張った状態で、どうも頻繁に利用している様子ではなかった。
イリクはしばらく本棚の間を縫うようにして歩いていたが、やがて書庫内に自分以外の誰かの気配を感じ、足を止めた。
最初はまさかとは思ったが、二つか三つ本棚を跨いだ先に、確実に誰かの息遣いを感じた。
(……まずい)
イリクは身を屈め、慌てて自分の気配を殺した。すると向こうもこちらに気がついていたのか、気配を窺うように立ち止まった。その場に軽い衣擦れの音だけが残り、武装した憲兵などではないような気がした。
だとすれば掃除を任されている使用人か、あるいは領主自身という可能性もある。
いつもはこういう時頼りになるリファが、今はいないのだ。自分の力で切り抜けるしかなかった。
そしてどうにかして先ほどの地下通路まで戻れないかと考えていると、痺れを切らしてか、先にあちらが動きだしたようだった。しかも、心なしかじりじりとこっちに近づいてきている。
イリクは腰の剣に手を当て、身構えた。緊張でどうにかなりそうである。もしもの時は、戦う事も覚悟した。
そしていよいよ本棚のすぐ向こう側まで相手が近づいてきたとき、一体何を思ってか、肩に乗っていたホロが突然床に滑り降り、イリクが止める間もなく本棚の向こう側へと飛び出した。
咄嗟に手を伸ばしたが、もう手遅れだった。
本棚の向こうにいた何者かはホロに遭遇し驚いたのか、足を止め小さく悲鳴を上げた。
「きゃあ……!」
イリクは耳を疑った。
その細い悲鳴は紛れもなく、少女のものであった。




